宇治拾遺物語 10-1 伴大納言、応天門(おうてんもん)を焼く事

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

今は昔、水の尾の御門(みかど)の御時に応天門(おうてんもん)焼けぬ。人のつけたるになんありける。それを伴善男といふ大納言、「これは信(まこと)の大臣(おとど)のしわざなり」とおほやけに申しければ、その大臣を罪(つみ)せんとせさせ給うけるに、忠仁公、世の政(まつりごと)は御弟の西三条の右大臣に譲りて、白川に籠(こも)り居給へる時にて、この事を聞き驚き給ひて、御烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)ながら移しの馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、御前に参り給ひて、「この事、申す人の讒言(ざんげん)にも侍らん。大事になさせ給ふ事、いと異様(ことやう)の事なり。かかる事は返す返すよく糺(ただ)して、まこと、空事顕(そらごとあらは)して、行はせ給うべきなり」と奏し給ひければ、「まことにも」と思(おぼ)し召して糺させ給ふに、一定(いちぢやう)もなき事なれば、「許し給ふ由仰(よしおほ)せよ」とある宣旨(せんじ)承りてぞ大臣(おとど)は帰り給ひける。

左の大臣はすぐしたる事もなきに、かかる横ざまの罪に当るを思し嘆(なげ)きて、日の装束(さうぞく)して庭に荒薦(あらごも)を敷きて出でて、天道に訴(うた)へ申し給ひけるに、許し給ふ御使(つかひ)に頭中将(とうのちゆうぢやう)馬に乗りながら馳(は)せまうでければ、急ぎ罪せらるる使ぞと心得て、ひと家泣くののしるに、許し給ふ由(よし)仰(おほ)せかけて帰りぬれば、また悦(よろこ)び泣きおびたたしかりけり。許され給ひにけれど、「おほやけにつかうまつりては、横ざまの罪出(い)で来(き)ぬべかりけり」といひて、殊(こと)にもとのやうに宮仕(みやづか)へもし給はざりけり。

この事は、過ぎにし秋の比(ころ)、右兵衛の舎人(とねり)なる者、東の七条に住みけるが、司(つかさ)に参りて夜更(ふ)けて家に帰るとて、応天門の前を通りけるに、人のけはひしてささめく。廊(らう)の脇(わき)に隠れ立ちて見れば、柱よりかかぐりおるる者あり。あやしくて見れば、伴大納言なり。次に子なる人おる。また次に雑色(ざふしき)とよ清といふ者おる。「何わざしておるるにかあらん」と露心も得で見るに、この三人おり果つるままに走りて限りなし。南の朱雀門ざまに走りて往ぬれば、この舎人も家ざまに行く程に、二条堀川の程行くに、「大内の方(かた)に火あり」とて大路ののしる。見返りて見れば、内裏(だいり)の方と見ゆ。走り帰りたれば、応天門の半(なか)らばかり燃えたるなりけり。「このありつる人どもは、この火つくるとて登りたるなりけり」と心得てありけれども、人のきはめたる大事なれば、敢へて口より外(ほか)に出(いだ)さず。その後(のち)、「左の大臣のし給へる事」とて、「罪蒙(かうふ)り給ふべし」といひののしる。「あはれ、したる人のあるものを、いみじき事かな」と思へど、言ひ出すべき事ならねば、いとほしと思ひありくに、「大臣許されぬ」と聞けば、罪なき事は遂(つひ)に逃るるものなりけんとなん思ひける。

かくて九月ばかりになりぬ。かかる程に、伴大納言の出納(しゆつなふ)の家の幼き子と舎人が小童(こわらは)といさかひをして、出納ののしれば、出でて取りさへんとするに、この出納同じく出でて、見るに、寄りて引き放ちて、我が子をば家に入れて、この舎人が子の髪を取りて打ち伏せて死ぬばかり踏む。舎人思ふやう、「我が子も人の子も共に童部(わらはべ)いさかひなり。たださてはあらで、我が子をしもかく情なく踏むは、いと悪(あ)しき事なり」と腹立たしうて、「まうとは、いかで情なく幼き者をかくはするぞ」といへば、出納(しゆつなふ)いふやう、「おれは何事いふぞ。舎人(とねり)だつるおればかりのおほやけ人を我が打ちたらんに、何事のあるべきぞ。我が君大納言殿のおはしませば、いみじき過(あやま)ちをしたりとも、何事の出で来(く)べきぞ。痴事(しれごと)いふ乞児(かたゐ)かな」といふに、舎人大(おほ)きに腹立ちて、「おれは何事いふぞ。我が主(しゆう)の大納言を高家(かうけ)に思ふか。おのが主は、我が口によりて人にてもおはするは知らぬか。我が口あけては、おのが主は人にてはありなんや」といひければ、出納は腹立ちさして家に這ひ入りにけり。

このいさかひを見るとて、里隣(さとどなり)の人市(いち)をなして聞きければ、いかにいふ事にかあらんと思ひて、あるは妻子(めこ)の語り、あるは次々語り散らして言ひ騒ぎければ、世に広ごりておほやけまで聞し召して、舎人を召して問はれければ、初めはあらがひけれども、我が罪蒙りぬべくとはれければ、ありの件(くだり)の事を申してけり。その後(のち)大納言も問はれなどして、事顕(あらは)れての後なん流されける。

応天門を焼きて信(まこと)の大臣(おとど)の負(お)ほせて、かの大臣を罪せさせて、一の大納言なれば大臣にならんと構へける事の、かへりて我が身罪(つみ)せられけん、いかにくやしかりけん。

現代語訳

今は昔、水の尾の帝の御代に応天門が焼失した。放火であった。それを伴善男という大納言が、「これは源信(みなもとのまこと)の大臣の仕業です」と朝廷に申し上げたので、帝はその大臣を処罰されようとした。その時、仲仁公良房は、政治の事は弟の西三条の右大臣に譲り、白川に籠って隠居なさっていたが、これを聞いて驚き、烏帽子、直垂装束という平服のまま、乗換の馬に乗って、そのまま北の陣までおいでになり、帝の御前に参られて奏上された。「この事は、申す者の讒言でもございましょう。大臣を罰するような大事になされることは、まことに異常な事です。このような事は、返す返すよく糾して、真実と嘘をよく見極め、御処置なさるべきでございましょう」と申し上げる。そこで帝も、もっともな事だと思われ、良く調べさせられると、大臣の嫌疑は確かな事でもなかったので、「信の大臣を許す旨、命令せよ」と書かれた宣旨を承って、お帰りになった。

一方、左の大臣(源信)は、過ちをしたのでもないのに、このように無実の罪を受けるのをお嘆きになり、束帯姿になって、庭に荒薦を敷いて、出て、天地を支配する神に自分の無実を訴え申し上げておられた時に、許しの使いとして頭中将が馬に乗って駈けつけたので、すぐに罪のお咎めを為す使いであろうと思い、家じゅう泣き騒いだが、使者が、「そなたは許される」という事を仰せになり、帰って行かれたので、一転して嬉し泣きで大騒ぎとなった。左大臣は許されはしたが、「朝廷にお仕え申していると、思いもよらない罪に遭うことにもなるのだ」と言って、以前のようには宮仕えも精勤なさらなかった。

このことについては、昨年の秋の頃、右兵衛の舎人なる者が、東の七条に住んでいたが、役所に出て、夜更けに、家に帰ろうと応天門の前を通ったが、人の気配がして、ひそひそと囁く声を聞いた。廻廊の脇に隠れ立って見ると、柱に取りついてしがみつきながら降りてくる者がいる。怪しんで見ると、伴大納言であった。次にその子の伴中庸(ばんのなかつね)が降りる。続いて、雑色のとよ清が降りて来る。「何をして降りるのか」と訳がわからず見ていると、この三人は降り終わるや否や一目散に走り去った。南の朱雀門の方向に走り去ったので、この舎人も家の方角に戻って行き、二条堀川の交差点あたりにさしかかると「皇居の方に火が上がっているぞ」と、大路を通る人が騒ぐ。振り返って見ると、それは内裏の方角のようである。走って帰ると、応天門の半分ほどが燃えていた。「さてはさっきの人たちは、この火をつけようとして登ったのだな」ということがわかったが、一身上の重大な秘密でもあるので、決して、このことは口外せずにいた。その後、「左大臣がなさった事だ」と言って、「罪を蒙られるだろう」ともっぱら評判になった。「ああ可哀想に、別に犯人がいるのにひどい事だなと」と思うが、言うべき事でもないので気の毒に思って過ごすうちに、「大臣は許された」という事を聞いたので、「罪が無い事は最後には免れるもだな」と思った。

こうして九月近くになった。ある時、伴大納言の出納をつかさどる役人の家の幼い子と、舎人の子供とが喧嘩をして、出納係りの子が泣きわめくので、舎人が出て行ってなだめようとしたところ、この出納役も同じように出て来て、見ると、子供等に近寄って二人を引き放し、我が子を家に入れて、この舎人の子の髪の毛を掴んで、 引き倒し、死ぬかと思うほど踏みつけた。舎人は、「我が子も人の子もともに子供であり、これは子ども同士の他愛のない喧嘩ではないか、それをただそのままにしておかずに、我が子がいとしいとはいえ自分の子だけをこんなに情け容赦なく踏みつけるのはまったくひどい事だ」と腹を立てて、「おまえは、どうして情け容赦もなく幼い子供に何という事をするのか」と言うと、出納係りは、「てめえは何を言っているのだ。舎人ふぜいの(吹けば飛ぶような)おまえのような下っ端の役人を俺が打ったからと言ってどうという事も無いのだ。俺の主君の大納言様がいらっしゃるからには、どんな過ちを犯したとしても、お咎めはないのだ。馬鹿なことを言う野郎め」と言うので、舎人も大いに腹を立てて、「お前は何という事をいうのか。自分の主の大納言を偉いとでもいうのか。おまえの主人は、おれが口を閉じているおかげで人並みにしていられるのを知らぬか。わしが口を開けてしゃべったら、お前の主人はただではすむまいものを」と言ったので、出納係は腹立ちかけたままやめて家の中に入ってしまった。

この喧嘩を見ようと、近隣の人々が群がって聞いていたので、「何のことを言ったのだろうか」と、ある人は妻子に話し、またある人は次々に語り継いで騒ぎ立てたので、巷間にも 広がってしまった。これをお聞きになった天皇は、舎人を召し出して尋問された。舎人は、初めの内は何も知らないと否認していたけれども、自分にも罪が被さると言われたので、ありのまま全てを申しあげてしまった。その後、大臣も問い詰められ、事件の真相が発覚するに及んで、その後、配流された。

応天門を焼いて、その罪を信の大臣に被せて罪に落とし、主席の大納言である自分が大臣になろうと計画したのであったが、我が身が罪を蒙ってしまったのはどんなに悔しかったことであろうか。

語句

■伴大納言(伴善男)-伴国道の子。正三位大納言まで昇進するが、応天門放火の罪により、貞観八年九月、伊豆に配流、同地に没した。■水の尾の御門-第五十六代清和天皇(850~880)。文徳天皇の皇子。母は藤原明子(摂政良房の娘)天安二年(858)~貞観十八年(876)在位。山城国葛野郡水尾(京都市右京区嵯峨永尾)に葬られたので、かく称する。■応天門-平安京、大内裏八省院の南面の正門。朱雀門と対する。貞観八年(866)閏三月十日、放火により、その棲風(せいふう)・翔鸞(しやうらん)の両楼が焼失した。その事件の経緯は『三代実録』同年八月三日、四日、九月二十二日条に見える。■信(まこと)の大臣(おとど)-源信(810~868)。嵯峨天皇の七男。源性を賜って臣籍に降下、天安元年(857)左大臣となる。北辺大臣と号し、琴笛、草隷の書、絵をよくした。■罪(つみ)せんとせさせ給うける-「罪す」は、罪をとがめて、刑罰を行う事。「させ給う」は、尊敬の助動詞「さす」の連用形に、尊敬の補助動詞「給ふ」が続いたもので、尊敬語を二つ重ねた最高敬語。「給う」はウ音便。■忠仁公-藤原良房(804~872)。冬嗣の子。天安元年二月、太政大臣に昇り、右大臣を弟の良相に譲るが、貞観八年八月、摂政を兼ねる。■西三条-藤原良相(よしみ)(813~867)。天安元年より終生右大臣であった。■白川-良房の私邸のあった場所。京都の東北部。■直垂(ひたたれ)-公家の略装、私服。良房が自宅から急遽参内したことを物語る。■北の陣-内裏の朔平門(さくへいもん)。兵衛府の詰所がある。■一定(いちぢやう)もなき事-確実でない事。「一定」は確実・確定の意。

■すぐしたる事-過失を犯した事。■横ざまの罪-濡れ衣を着せられる事。無実の罪をかぶせられる事。■日の装束-公事の際の昼間の正装。束帯(そくたい)姿。■荒薦-荒く編んだ薦。■頭中将-蔵人頭兼近衛中将。この時は、良房らの弟の良世か。ただし、『三代実録』によれば、この時の使者は右大臣大江音人、左中弁藤原家宗ら。■おほやけにつかうまつりては-朝廷に出仕していては。■過ぎにし秋の比-過ぎ去った秋のころ。これでは事件は秋に起ったようにとれるが、実際は閏三月。事件の真相の判明したとされるのが八月であったために、それに引かれたか。■右兵衛の舎人-右兵衛の下級の役人。『三代実録』によれば、備中権史生大宅首鷹。■司(つかさ)-役所、すなわち右兵衛府。■ささめく-ささやく。小声でひそひそとささやく。■かかぐりおるる-取り着いて、しがみつきながら降りてくる。■子なる人-善男の子。中庸(なかつね)。この時は右衛門さであった。のち隠岐国へ配流。■とよ清-『伴大納言絵詞』(以下『絵詞』と略称)は「ときよ」。しかし『三代実録』には共謀者として紀豊城の名が見えるので、「とよき」の誤伝か。■朱雀門-大内裏南面中央の正門。内側は応天門に対し、外側は朱雀大路の起点となる。■二条堀川-横路の二条大路と縦路の堀川小路の交差地点。朱雀門から東方へ一キロメートル弱の距離。■大路ののしる-朱雀大路の方が騒がしい。■ありつる人ども-さっき応天門から降りて来た人々。伴善男たちを指す。■きはめたる大事なれば-一身上の重大な秘密であるので。■いみじき事かな-ひどい事だなあ。無実の人が嫌疑をかけられていることへの憤慨。■いとほしと-気の毒な話だと。■思ひありく-思って過ごす。「ありく」は、他の動詞について「~して過ごす」の意。

■出納-伴大納言家で諸物の出し入れに管理に当たっている人物。■出納ののしれば-出納の子が泣わめいたので。■とりさふ-争いの間に入って、とりしずめる。仲裁する。■死ぬばかり踏む-『三代実録』によれば、「是の日(貞観八年八月二十九日)、大宅鷹取ノ女子ヲ殺シシ者生江恒山ヲ拷訊シキ」とある。舎人の女子は、善男の下僕(生江恒山と占部田主)によって殴り殺されたのであった。■童部いさかひなり-子ども同士のけんかである。■たださてはあらで-ただそのままにさせておかずに。親は手出しをせずに、黙って見ていればよいものを。「たださではあらで」と読み、「いさかいのわけを問いただしてみもせずに」の意とも解し得る。■をし-いとおしい。■いと悪しき事なり-間違っている。書陵部本は「いとあらき事なり」(ずいぶん乱暴な話だ)、『絵詞』は「いとあやしきことなり」(まったく解せない話だ)とする。■まうと-「真人(まひと)」の音便。敬称を込めた元来の意味から転じて、荒々しい呼びかけ。おまえは。きさまは。■おれ-相手を卑しめていう対称代名詞。きさま。てめえ。■舎人だつるおればかりのおほやけ人-舎人ふぜいの(吹けば飛ぶような)おまえのような下っ端の役人。「だつ」はほかの語について、その状態を表す。■我が君大納言殿-この時、伴善男は次席の大納言。後に、「一の大納言なれば」と出るが、筆頭の大納言は平高棟。上官には、右大臣藤原良相、左大臣源信、太政大臣良房の三人がいた。善男は左大臣の失脚を画策し、首尾よくいけば、右大臣のポストが転がり込んでくることを夢見たか。■痴-たわけた事。ばかな事。「乞児」は乞食。相手を卑しめののしって言う言葉。■高家-権力があり、頼りになる者。■我が口によりて人にてもおはするは知らぬか-おれが口を閉じているおかげで人並みにしていられるのを知らぬか。■我が口あけては、おのが主は人にてはありなんや-お前の主人は今のままでいられるはずがないんだぞ。たちまち失脚するってことよ。

■いかにいふ事にかあらん-何のことを言ったのだろうか。■おほやけ-ここは天皇を指す。■あらがひけれども-何も知らないと否認していたけれども。■とはれければ-厳しく糾問されたので。■その後-貞観八年(866)八月七日のこと(三代実録)。

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル