宇治拾遺物語 10-5 播磨守佐大夫(はりまのかみさたいふ)が事
【無料配信中】足利義満
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル
今は昔、播磨守公行(はりまのかみきんゆき)が子に佐大夫(さたいふ)とて五条わたりにありし者は、この比(ころ)ある顕宗(あきむね)といふ者の父なり。その佐大夫は阿波守(あはのかみ)さとなりが供に阿波へ下(くだ)りけるに、道にて死にけり。その佐大夫は河内前司といひし人の類(るい)にてぞありける。その河内前司がもとに飴斑(あめまだら)なる牛ありけり。その牛を人の借りて、車掛けて淀(よど)へやりけるに、樋爪(ひづめ)の橋にて、牛飼悪しくやりて片輪を橋より落したりけるに、引かれて車の橋より下に落ちけるを、車の落つると心得て、牛の踏み広ごりて立てりければ、鞅(むながい)切れて車は落ちて砕けにけり。牛は一つ、橋の上にとどまりてぞありける。人も乗らぬ車なりければ、そこなはるる人もなかりけり。「えせ牛ならましかば、引かれて落ちて、牛もそこなはれまし。いみじき牛の力かな」とて、その辺りの人いひほめる。
かくて、この牛をいたはり飼ふ程に、この牛、いかにして失せたるといふ事なくて失せにけり。「こはいかなる事ぞ」と、求め騒げどなし。「離れて出でたるか」と、近くより遠くまで尋ね求めさすれどもなければ、「いみじかりつる牛を失ひつる」と嘆く程に、河内前司が夢に見るやう、この佐大夫が来たりければ、これは海に落ち入りて死にけると聞く人は、いかに来たるにかと、思ひ思ひ出であひたりければ、佐大夫がいふやう、「我はこの丑寅の隅にあり。それより日に一度、樋爪の橋のもとにまかりて苦を受け侍るなり。それに、おのれが罪の深くて、身のきはめて重く侍れば、乗物の耐へずして、徒(かち)よりまかるが苦しきに、この飴斑(あめまだら)の御車牛の力の強くて乗りて侍るに、いみじく求めさせ給へば、今五日ありて、六日と申さん巳の時ばかりには返し奉らん。いたくな求め給ひそ」と見て、覚めにけり。「かかる夢をこそ見つれ」といひて過ぎぬ。
その夢見つる日より六日といふ巳の時ばかりに、そぞろにこの牛歩み入りたりけるが、いみじく大事したりげにて、苦しげに舌垂れ、汗水にてぞ入りたりける。「この樋爪の橋にて車落ち入り、牛はとまりたりける折(をり)なんどに行き合ひて、力強き牛かなと見て、借りて乗りてありきけるにやありけんと思ひけるも、恐ろしかりける」と、河内前司語りしなり。
現代語訳
今は昔、播磨守公行の子で、佐大夫といって五条辺りに住んでいた者は、今の世の顕宗(あきむね)という者の父である。その佐大夫は阿波守さとなりの供をして阿波へ下ったが、途中で死んでしまった。この佐大夫は河内前司(かわちのぜんじ)という人の一族であった。この河内前司のところに飴色の斑(ぶち)のある牛がいた。その牛をある人が借りて、車を引かせて淀へ向ったところ、樋爪の橋で、牛飼いが扱いをしくじって、片方の車輪が橋から落ち、それに引かれて車が橋から落ちたとき、車は落ちたのがわかって、牛が四足を広げて踏ん張って立っていたので、鞅(むながい)が切れ、車は落下して壊れてしまった。しかし、牛だけが橋の上に留まった。人が乗っていない車だったので、怪我をしたり死んだりした者はいなかった。「役にも立たない駄牛だったら、引かれて落ちて、牛も死んでしまったことだろう。なんと力の強い立派な牛であることよ」と言って、その辺りの住民は言い、誉めそやした。
こうして、河内前司(かわちのぜんじ)は、この牛を大事にして飼っていたが、ある時、この牛がどうしていなくなったかのかともわからないうちに行方不明になってしまった。「これはどうした事か」と捜し回って大騒ぎしたが見当たらない。「綱を離れて出て行ったかな」と、近くから遠くの方まで尋ね捜させたが見つからないので、「素晴らしい牛を失くしてしまった」と嘆いていると、ある時、河内前司がこんな夢を見た。死んだはずの佐大夫がやって来たので、この人は海に落ちて死んだと聴いていたので、薄気味悪く思いながらも、出て合うと、佐大夫が言うには、「私はこの東北方の隅にいます。そこから日に一度、樋爪の橋の所へ行って苦しみを受けているのです。それなのに、自分の罪は深くて、私の身体がたいそう重いので、乗物がこの重さに耐えきれず、仕方なく歩いて通っておりましたが、それが難儀でなりませんので、この斑牛が力が強いのでそれを借りて乗っています。貴方が懸命に捜していらっしゃるので、後五日、六日目の朝の十時ごろにはお返ししましょう。そんなにあわててお捜しなさいますな」と話すのを見て眼が覚めた。そして「こんな夢を見たわい」と言って過していた。
その夢を見た日から六日目の午前十時ごろ、どこからともなく牛が歩いては入って来たが、えらい大仕事をしてきたような様子で、苦しそうに舌を垂れ、汗だくだくで入って来た。「この樋爪の橋で車が落ち込み、牛だけが留まった時などにきっと出合って、力の強い牛と見て、借りて乗り歩いていたのだろうと思うにつけても、恐ろしかった」と、河内前司は話したのであった。
語句
■播磨守公行-佐伯氏、遠江守、大外記、伊予守などを歴任。長元六年(1033)没。■佐大夫(さたいふ)-伝未詳。底本「さたいふ」。『今昔』の表記による。■顕宗(あきむね)-伝未詳。底本「あきむね」。『今昔』の表記による。■阿波守さとなり-『今昔』巻二七-ニ六話は、藤原定成(河内守、斎院長官、越前守、薩摩守などを歴任)とする。「阿波」は徳島県。■河内前司-『今昔』は「河内禅師」とする。「河内」は大阪府の東部。伝未詳。■飴斑なる牛-毛色が暗黄色(飴色)で白か黒のまだら模様のある牛。■樋爪-京都市伏見区にある交通の要衝地。桂川、賀茂川、宇治川、木津川の合流点付近にあたり、京都の外港として栄えていた。■樋爪の橋-きょうとし右京区淀樋爪町(桂川西岸の地)にあった橋。■踏み広ごりて-足を広げて踏んばって。■鞅(むながい)-「むなかき」の音便形。牛、馬の胸から鞍橋(くらぼね)(鞍の骨格部)にかけ渡す厚太の組み紐。■そこなはるる人-けがをしたり死んだりした人。死傷者。■えせ牛-見せかけだけで、まるで力のない駄牛。
■離れて-綱が緩んで解けて。綱がほどけて、はずれて。■海に落ち入りて死にけると聞く人-船から海に墜落して死んだと聞いている人。新大系は、父親の公行が伊予からの帰途、「えせなる男親」を海に突き落としたという『枕草紙』「衛門衛なりける者」の段中の記事を引いて、因縁めいている点に注意。ここで言う、「聞く人」とは河内前司を指している。■丑寅の隅-東北方の隅。■樋爪の橋のもとにまかりて苦を受け侍るなり-死者の霊がこの人間界のある場所を、次元が異なるがゆえに生者と共用しているという世界観。■それに-それなのに。■乗物の耐えずして-私が乗ると、その重さを馬や牛がこらえきれずに、動けなくなってしまうので。■徒よりまかるが苦しきに-歩いて通っておりましたが、それが難儀でなりませんので。■いみじく求めさせ給へば-あなたが懸命に捜していらっしゃるので。■今五日ありて-後五日過ぎて。■巳の時ばかりには-午前十時ごろには。■いたくな求め給ひそ-そういう事情ですからむきになってお捜しなさいますな。■いみじく大事したりげにて-えらい大仕事をしてきたような様子で。