宇治拾遺物語 10-8 蔵人頓死(くらうどとんし)の事

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今は昔、円融院(ゑんゆうゐん)の御時、内裏(だいり)焼けにければ、後院(こうゐん)になんおはしましける。殿上(てんじやう)の台盤(だいばん)に人々あまた着きて、物食ひけるに、蔵人貞高(くらうどさだたか)台盤に額(ひたひ)を当ててねぶり入りて、いびきをするなめりと思ふに、ややしばしになれば、あやしと思ふ程に、台盤に額を当てて喉(のど)をくつくつと、くつめくやうに鳴らせば、小野宮大臣殿、いまだ頭中将(とうのちゆうじやう)にておはしけるが、主殿司(とのもりづかさ)に、「その式部丞(しきぶのじよう)の寝様(ねざま)こそ心得ね。それ起せ」とのたまひければ、主殿司寄りて起すに、すくみたるやうにて動かず。あやしさにかい探りて、「はや死に給ひにたり。いみじきわざかな」といふを聞きて、ありとある殿上人(てんじやうびと)、蔵人(くらうど)、物も覚えず、物恐ろしかりければ、やがて向きたる方(かた)ざまにみな走り散る。

頭中将、「さりとてあるべき事ならず。これ、諸司の(しよし)の下部(しもべ)召してかき出でよ」と行ひ給ふ。「いづ方(かた)の陣(ぢん)よりか出(いだ)すべき」と申せば、「東の陣より出すべきなり」とのたまふを聞きて、内の人ある限り、東の陣に、「かく出で行くを見ん」とてつどひ集りたる程に、違(たが)へて、西の陣より殿上の畳ながらかき出でて出でぬれば、人々もみずなりぬ。陣の口かき出(いづ)る程に、父の三位来て、迎へ取りて去りぬ。「かしこく、人々に見あはずなりぬるものかな」となん人々いひける。

さて廿日ばかりありて、頭中将の夢に、ありしやうにて、いみじう泣きて寄りて物をいふ。聞けば、「いとうれしく、おのれが死の恥を隠させ給ひたる事は世々に忘れ申すまじ。はかりごちて西より出(いだ)させ給はざまらしかば、多くの人に面(おもて)をこそは見えて、死の恥にて候(さぶら)はましか」とて、泣く泣く手を摺(す)りて悦(よろこ)ぶとなん夢に見えたりける。
 

現代語訳

今は昔、円融天皇の御代、内裏が焼けたので、帝は譲位後にお住まいになるはずの御所に移られた。清涼殿の殿上の間の食卓にたくさんの人たちが着席し、食事をしていたとき、蔵人の藤原貞孝が食卓に頭を当てて、眠り込み、いびきをかいているように見えたが、かなり長く続くので、変だと思っていると、食卓に額を当て喉をくつくつと鳴らすので、小宮大臣殿がまだ頭中将でおられたが、殿杜司に「その式部丞の寝方は合点がゆかぬ。起してみよ」とおっしゃったので、殿杜司が寄って起そうとするのだが、固く縮んだようになって動かない。いぶかしく思って探ってみて、「もはや、死なれております。これはえらい事です」と言うのを聞いて、その場に居合わせた殿上人、蔵人たちはみな呆然としてしまい、汚れを嫌って、そのまま各自思い思いの方向に走り散った。

頭中将は、「だからといって、このままにしておくわけにもまいらぬ。これを役所の下部たちをを呼び集めて担ぎ出せ」とお命じになった。諸司が、「どちらの陣から担ぎ出せばよいでしょうか」と申し上げると、「東の陣から出すべきであろう」とおっしゃるのを聞いて、宮中にいた人が残らず、東の陣に、「担ぎだされて行くのを見よう」と集まっている時に、反対の西の陣から殿上に敷かれたござごと担ぎ出して出て行ったので、人々はみな、出て行く所を見る事はできないで終わった。陣の入口を担いで出て行く時に、父親の三位が来て、遺体を受け取って立ち去った。「うまいこと、他人の目にさらさずにすませたものだ」と人々は言い合った。

それから二十日ほど経って、頭中将の夢に貞孝が現れ、生きていた時の姿でたいそう泣いて近寄って来て何か言う。聞くと、「まことにうれしく、私の死の恥を他人の目からお隠しくださったことは、いついつまでも、お忘れいたしますまい。謀(はかりごと)をめぐらして、西から出していただかなかったらば、多くの人に顔を見られて、死に恥をかいたことでしょうに」と言って、泣く泣く手を摺って喜ぶのが夢に見えたのであった。

語句  

■頓死-にわかに死ぬこと。突然死。急死。■円融院-第六十四代円融天皇(959~991)。安和二年(969)~永観二年(984)在位。■内裏(だいり)焼け-天元三年(980)十一月二十二日の火災。■後院-退位後に住む御所。■貞高-藤原貞孝。■殿上(てんじやう)の台盤(だいばん)-殿上の間の食卓。■ねぶり入りて-眠り込んで。■いびきをするなめりと思ふに-いびきをしているように見えたが。■ややしばらくになれば-かなり長く続くので。■あやしと思ふ程に-変だと思っていると。■くつめく-のどがくっくっと鳴る。 ■小野宮大臣-藤原実資(957~1046)。天元四年には二十五歳。頭中将で右近少将であった。■主殿司-殿内の清掃、光熱を管轄する主殿寮(とのもりりょう)の職員。■心得ね-合点がゆかぬ。■すくみたるやうにて-縮んだようになって。■あやしさにかひ探りて-いぶかしく思って探ってみて。■はや-もはや。■いみじきわざかな-これはえらいことです。■ありとある-いるかぎりの。■やがて向きたる方ざまにみな走り散る-貞孝が死んでいるらしいとわかると、たちまちに各自思い思いの方向に走り散った。けがれに触れる禁忌を恐れての行動。■さりとて-そうかといって。■あるべきことんらず-このままにしておくわけにはいかない、■諸司(しょし)-役所の下働きの者たち。■下部-身分の低い者。下層階級の人。■かき出でよ-担ぎ出せ。■行ひ給ふ-お命じになった。指図をした。■いづ方(かた)の-どちらの。■陣-宮中を警護する衛士の詰所。■出すべき-出したらよいでしょうか。■東の陣-内裏の東面中央にある宣陽門。■内の人あるかぎり-宮中の人は残らず。■西の陣-内裏の西面中央にある陰明門。その西方に宣秋門がある。■畳ながら-殿上の間に敷いてあった敷物ごと。「畳」は現在の薄緑、ござ。■口かき出づる程に-口から担いで出るときに。■父の三位-貞孝の父親の実光は従五位下でこの記事とは合わない。■かしこく-うまく。上手に。まんまと。■見あはずなりぬるものかな-他人の目にさらさずにすませたものだ。■ありしやうにて-生きていた時の姿で。■隠させ給ひたる-お隠しくださった。■世々に-いついつまでも。■死の恥にて-他人に自分の死体を見られることを「みっともない姿をした姿を人目にさらす恥」とする慣習的観念があったものと思われる。

朗読・解説:左大臣光永

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