宇治拾遺物語 11-2 保輔(やすすけ)盗人たる事

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原文

今は昔、丹後守保昌(たんごのかみやすまさ)の弟に、兵衛尉(ひやうゑのじよう)にて冠賜(かうぶりたまは)りて、保輔(やすすけ)といふ者ありけり。盗人の長(をさ)にてぞありける。家は姉が小路の南、高倉の東にゐたりけり。家の奥に蔵を造りて、下を深う井のやうに掘りて、太刀(たち)、鞍(くら)、鎧(よろひ)、兜(かぶと)、絹、布など、万(よろず)の売る者を呼び入れて、いふままに買いて、「値を取らせよ」といひて、「奥の蔵の方(かた)へ具(ぐ)して行(ゆ)け」といひければ、「値(あたひ)賜らん」とて行きたるを、蔵の中へ呼び入れつつ、掘りたる穴へ突き入れ突き入れして、持て来たる物をば取りけり。この保輔がり物持て入りたる者の、帰り行くなし。この事を物売り(ものうり)あやしう思へども、埋(うづ)み殺しぬれば、この事をいふ者なかりけり。

これならず、京中押しありきて盗みをして過ぎけり。この事おろおろ聞えたりけれども、いかなりけるにか、捕へからめらるる事もなくてぞ過ぎにける。
                              

現代語訳

今は昔、摂津守保昌の弟で、兵衛尉を務め、五位に叙せられた保輔という者がいたが、一方では、盗人の頭でもあった。家は姉小路の南、高倉の東に構えて住んでいた。奥に蔵を造り、その下を井戸のように掘って、太刀・鞍・鎧・兜・絹・布などのすべての物売りを呼び入れ、言われるままの値段で買い入れ、「代金を与えよ」と言って、「奥の蔵の方へ連れて行け」と言ったので、「代金をいただきましょう」とついて行ったのを、蔵の中に呼び入れながら掘った穴の中へ突き入れて、持って来た物を奪い取った。この保輔の元へ物を持って入った者が再び帰って行く事はなかった。この事を物売は不思議に思ったが、皆、埋め殺されていたので、この事に言及する者はいなかった。

これ以外にも、京中をのし歩いて盗みをして暮した。この事はうすうす噂にはなっていたが、どういうわけか捕縛される事もなく過ぎていった。

語句  

■丹後守保昌-諸本、「摂津守」とする。藤原保昌(958~1036)は、大和・摂津・丹後・肥前などの国守を歴任している。■兵衛尉(ひやうゑのじよう)にて冠賜りて-兵衛府の三等官で。兵衛府は、宮門の守備、行幸の警固、左右両京の巡検などを司った役所。「兵衛府」は従六位に当たる。■冠賜りて-五位に叙せられて。■保輔-保昌の弟(一説には兄)、父は致忠。『尊卑分脈』に「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙る事十五度、後禁獄、自害ス」とあり、『日本紀略』永延二年(988)六月十七条に自害の傷により死去したと見える。後に袴垂保輔と称されるが、盗賊の袴垂(巻第二ノ十話)とは別人。■姉が小路-東三条内裏の近く、現在の中京区の一画。■値賜らん-代金を頂戴しよう。■保輔がり-保輔のもと(家)へ。

■おろおろ聞へたりけれども-うすうす噂にはなったけれも。■捕へからめらるる事もなくてぞ過ぎにける-最終的には捕らえられて獄死している。■保輔がり-保輔の元へ。「がり」は、「かあり(所在)」からきたもので、その人のいる所をいう。

備考・補足

■兄の保昌が、武略無双の勇者として、藤原摂関家の家司となり、地方行政官を歴任して公人として社会の表街道を歩き続けたのと対照的に、藤原北家との政争に敗れ、死後怨霊と化したといわれる祖父元方の系譜に連なる闇の世界に生きた、貴族と強盗という二つの顔を持つ、不気味な世のすね者的存在であったと見ることができよう。

朗読・解説:左大臣光永