宇治拾遺物語 11-5 白川法皇北面、受領(ずりやう)の下(くだ)りのまねの事

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これも今は昔、白川法皇、鳥羽殿におはしましける時、北面の者どもに、受領(ずりやう)の国へ下るまねさせて御覧あるべしとて、玄蕃頭久孝(げんばのかみひさたか)といふ者をなして、衣冠(いくわん)に衣出(きぬいだ)して、その外(ほか)の五位どもをば前駆せさせ、衛府(ゑふ)どもをば胡簗(やなぐい)負ひにして御覧あるべしとて、おのおの錦(にしき)、唐綾(からあや)を着て、劣らじとしけるに、左衛門尉(さゑもんのじよう)源行遠、心殊(こと)に出(い)で立(た)ちて、「人にかねて見えなば、めなれぬべし」とて、御所近かりける人の家に入りゐて、従者を呼びて、「やうれ、御所の辺にて見て来(こ)」と見て参らせてけり。

無期(むご)に見えざりければ、「いかにかうは遅きにか」と、「辰(たつ)の時とこそ催しはありしか、さがるといふ定(ぢゃう)、午未(うまひつじ)の時には渡らんずらんものを」と思ひて待ちゐたるに、門の方(かた)に声して、「あはれ、ゆゆしかりつるものかな、ゆゆしかりつるものかな」といへども、ただ参るものをいふらんと思ふ程に、「玄蕃殿の国司姿こそ、をかしかりつれ」といふ。「藤左衛門殿は錦(しにき)を着給ひつ。源右衛門殿は縫物(ぬひもの)をして、金の文をつけて」など語る。

あやしう覚えて、「やうれ」と呼べば、この「見て来(こ)」とてやりつる男、笑(ゑ)みて出(い)で来(き)て、「大方(おほかた)ばかりの見物候(さぶら)はず。賀茂祭も物にて候はず。院の御桟敷(さじき)の方(かた)へ渡しあひ給ひたりつるさまは、目も及び候はず」といふ。「さていかに」といへば、「早う果て候ひぬ」といふ。「こはいかに、来ては告げぬぞ」といへば、「こはいかなる事にか候ふらん。『参りて見て来(こ)』と仰(おほ)せ候へば、目をたたかず、よく見て候ぞかし」といふ。大方とかくいふばかりなし。

さる程に、「行遠は進奉不参(しんぶふさん)、返す返す奇怪(きくわい)なり。たしかに召し籠(こ)めよ」と仰せ下(くだ)されて、廿日余り候ひける程に、この次第を聞し召して、笑はせおはしましてぞ召し籠めはゆりてけるとか。
                              

現代語訳

これも今は昔、白川法皇が鳥羽殿におられた時、北面の武士たちに、国司が任国へ下るまねをさせて御覧になるということになった。玄蕃頭久隆という者を国司に仕立てて、衣冠に衣出しをさせ、その外の五位の者たちには先払いをさせ、衛府の役人たちには胡簗(やなぐい)を背負わせて御覧になるというので、それぞれの役人は錦、唐綾を着て、他の者には負けまいと装った。この時、左衛門尉源行遠は特に念入りに仕度して、「前もって人の目に触れてしまっては、見慣れて、珍しいという感じを与えられなくなるだろう」と、御所に近かった人の家に入って、従者を呼び、「おい、御所の近くで様子を見て来い」と言って様子を見に行かせた。

ところが、いつまでたっても戻って来ないので、「どうしてこんなに遅いのか」と「午前八時ごろということだったから、いかに遅れたと言っても、正午から午後二時ぐらいには行列はやってくるはずだ」と思って待っていると、門の方で声がして、「ああ、実に見事なものだった、すばらしかった」と言う。しかし、それは御所に集まって行く者について言うのだろうと思っていると、「玄蕃殿の国司姿は実にすばらしかった」と言う。「藤左衛門殿は錦を着ておられた。源兵衛殿は刺繍をして、金の文様を施して」などと語り合っている。

おかしいと思って、「おい」と呼ぶと、あの「見て来い」といって遣った男が笑いながら出て来て、「まずこれほどの見物はございません。賀茂祭も物の数ではございません。院の御桟敷の方へ渡って行かれた様子は、目もくらむほどの見物でした」と言う。「それでどうした」と言うと、「もうとっくに終りました」と言う。「これはあきれた、どうして帰って来て知らせなかったのか」と言うと、「それはどういうことでしょうか。『行って見て来い』と言われたので、まばたきもせず、よく見ておりましたのです」と言う。まったく話にもならなかった。

まもなく、「行遠は供奉(くぶ)にも参らず、まことにもって不届きである。しかと謹慎させよ」と、仰せ下されて、二十日ほど経った頃、法皇がこの事情をお聞きになって、お笑い遊ばされて、謹慎は解かれたということである。 
                                           

語句  

■白河法皇-第七十二代天皇(1053~1129)。■鳥羽殿-応徳四年(1087)、法皇が伏見の鳥羽に造営した離宮。■北面-北面武士。院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。 11世紀末に白河法皇が創設した。 院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。■受領-実際に任国に赴任した国司。遙任(奈良時代・平安時代などに、国司が任国へ赴任しなかったことを指す。 遥授(ようじゅ、遙授)ともいう。 遥任国司は、目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣するなどして、俸禄・租税などの収入を得た。)・兼任の国司と区別した呼称。■玄蕃頭久隆-治部省玄蕃寮の長官。玄蕃寮は外国使節の接待や仏寺・僧尼の名籍を管轄した役所。「久隆」は、伝未詳。■衣出- 直衣(のうし)または衣冠姿で、美しく仕立てた内着の衵(あこめ)の裾先を袍(ほう)の襴(らん)の下からのぞかせること。出衵(いだしあこめ)。出袿(いだしうちき)。出褄(いだしづま)。■衛府-古代、宮城の警備、行幸・行啓の供奉(ぐぶ)などに当たった官司。律令制下では衛門府(えもんふ)・左右衛士府(えじふ)・左右兵衛府(ひょうえふ)の五衛府であったが、弘仁2年(811)以後、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六衛府となった。■胡簗(やなぐひ)- 矢を入れて携行する道具。■左衛門尉-日本の律令制下の官職のひとつ。左衛門府の判官であり、六位相当の官職であった。五位の者が任ぜられた場合、左衛門大夫または大夫尉という他、検非違使と兼ねた場合には廷尉と俗称された。平家追討において活躍した源義経も任ぜられている。鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士の任官が広くなされるようになるにつれ、左衛門尉などの武官の職は武士から広く好まれるようになり、鎌倉~江戸期を通じて多くの武将たちが任ぜられるか、受領名として使用されるようになっていった。■源行遠-源頼信の四男頼任(河内冠者)の曾孫、左衛門尉(左衛門府の三等官)、元永元年(1118)一月、検非違使宣旨、従五位下。父親の師行と同官職。『中右記』永久~大治年間(1113~30)の条に頻出。■人にかねて見えねば云々-前もって人の目に触れてしまっては、見慣れて、珍しいという感じを与えられなくなるだろう。■心殊に出で立ちて-特に念入りに仕度して。■やうれ-やいやい。おいおい。呼びかけの語。語源は、感動詞の「や(やい)」に対象の人名代名詞「うれ(おまえ)」が合したもの。

■無期(むご)に見えざりければ-いつまでたっても戻って来ないので。■辰(たつ)の時とこそ催しはありしか-午前八時ごろと招集の指示はあったのだから。■さがるという定-遅れるとはいっても。■あはれ、ゆゆしかりつるものかな-ああ、すばらしいものだった。■参る者を-御所に集まって行く者。■藤左衛門-何者かは不明。■源兵衛-何者かは不明。■縫物(ぬひもの)をして、金の文をつけて-刺繍をして金の紋様を施して。

■さていかに-それで行列はどうした。■早う果て候ひぬ-もう終わってしまいました。■こはいかに-何としたことだ。■来ては告げぬぞ-どうして帰って来て知らせなかったのか。■目もたたかず-まばたきもせずに。■とかくいふばかりなし-あれこれ言っても始まらなかった。あまりにも愚かな従者の応答にはらわたの煮え返るような行遠の無念の思いを伝える。

■進奉不参(しんぶふさん)-供奉(ぐぶ)(行幸や祭礼などのときにお供の行列に加わること。また、その人。おとも。)に参加しなかった。■奇怪なり-不届きなことである。■たしかに召し籠(こ)めよ-かたく監禁せよ。■ゆりてける-許された。

朗読・解説:左大臣光永

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