宇治拾遺物語 11-6 蔵人得業(くらうどとくごふ)、猿沢(さるさは)の池の竜の事
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これも今は昔、奈良に、蔵人得業恵印(くらうどとくごふゑいん)といふ僧ありけり。鼻大(おほ)きにて、赤かりければ、「大鼻の蔵人得業」といひけるを、後(のち)ざまには、ことながしとて、「鼻蔵人」とぞいひける。なほ後々(のちのち)には、「鼻蔵(はなくら)、鼻蔵」とのみいひけり。
それが若かりける時に、猿沢(さるさは)の池の端(はた)に、「その月のその日、この池より竜(りよう)登らんずるなり」といふ札を立てけるを、行来(ゆきき)の者、若き老いたる、さるべき人々、「ゆかしき事かな」とささめき合ひたり。この鼻蔵人、「をかしき事かな。我がしたる事を人々騒ぎ合ひたり。をこの事かな」と、心中にをかしく思へども、「すかしふせん」とて空知らずして過ぎ行く程に、その月になりぬ。大方(おほかた)、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いづみ)、摂津国(せっつのくに)の者まで聞き伝えて集ひ合ひたり。恵印(ゑいん)、「いかにかくは集る。何かあらんやうのあるにこそ、あやしき事かな」と思へども、さりげなくて過ぎ行く程に、すでにその日になりぬれば、道もさりあへず、ひしめき集る。
その時になりて、この恵印思ふやう、「ただごとにもあらじ。我がしたる事なれども、やうのあるにこそ」と思ひければ、「この事さもあらんずらん。行きて見ん」と思ひて、頭つつみて行く。大方近う寄りつくべきにもあらず。興福寺の南大門の壇の上に登り立ちて、「今や竜の登るか登るか」と待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。
暗々(くらぐら)になりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰りける道に、一つ橋に、盲(めくら)が渡り合ひたりけるを、この恵印、「あな、あぶなのめくらや」といひたりけるを、盲(めくら)とりもあへず、「あらじ、鼻くらななり」といひたりける。この恵印を、「鼻蔵(はなくら)」といふとも知らざりけれども、「めくら」といふにつきて、「あらじ、鼻暗(はなくら)ななり」といひたるが、鼻蔵に言ひ合せたるが、をかしき事の一つなりとか。
現代語訳
これも今は昔、奈良に、蔵人得業恵印(くらうどとくごふゑいん)という僧がいた。鼻が大きく、赤かったので、人々は、「大鼻の蔵人得業」と言ったのだが、後には、長々しいということで、「鼻蔵人」と言った。さらに後々には「鼻蔵、鼻蔵」とだけ言った。
その僧が若かった時に、猿沢の池の端に、「○○月○○日に、この池から竜が昇ろうとするなり」と書いた札を立てた。それを見て、往来の者は、老いも若きも、それなりに分別のある人たちまでも、「ぜひ見たいものだ」とささやき合った。この鼻蔵人は、「おもしろい事だな。自分がしたことを人々が騒ぎ合っている。ばかげた話だわい」と、内心おかしく思っていたが、「だまって押し通そう」と、知らぬ顔をして過ぎて行くうちに、その月になった。だいたい、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いづみ)、摂津国(せっつのくに)の者までがこの話を噂に聞いて集って来た。恵印は、「どうしてこんなに集まるのか。何かわけがあるに違いない。妙な事だわい」と思ったが、内心の動揺を表には出さないようにして過ぎ行くうちに、いよいよその日になった。道も通れないほど押し合いへしあい人が集って来る。
その時になって、この恵印は、「これはただ事ではないぞ。自分がした事ではあるが、何かわけがあるのだろう」と思った。「ひょっとして竜が昇るというのは本当かもしれない。俺も行って見よう」と、袈裟で頭を包み、目だけを出して行く。人混みで池の近くに寄り付けそうにもない。そこで、興福寺の南大門の壇の上に登り立って、「今や竜が登るか登るか」と待っていたが、どうして昇るはずがあろう。やがて日が暮れた。
暗くなったが、このままいるわけにもいくまいと、帰りかけたが、道の途中に橋が一つ掛かっており、橋の上で盲と行き合った。恵印は、「ああ、あぶない暗闇に盲人だ」と言ったが、盲人はすかさず、「それは違う。鼻暗(鼻蔵)なんじゃわい」と言ったもんだ。盲人は、この恵印を「鼻蔵」というとも知らなかったが、「目暗」と言われて、「それは違う。鼻暗なんじやわい」と言ったのである。それがあだ名の鼻蔵に偶然音が一致したのが、ひとつの笑いぐさであったということだ。
語句
■蔵人得業-「蔵人」は在俗時代の官名か。「得業」は南都の三会(さんえ)(維摩会・御斎会・最勝会)の竪義(りゅうぎ)を勤めた僧の呼称。■恵印-興福寺の僧。大系によれば久安元年(1145)に竪者(りっしゃ)を勤め、のち已講(いこう)、権律師に就任した。
■猿沢の池-奈良市登大路町にある興福寺南大門前の前の旧放生池(捕らえた魚類などを放してやるために設けた池)。■をこの事かな-ばかげた話だわい。■すかしふせん-だまし隠そう。だまって押し通そう。■空知らずして-知らぬ顔をして。■何かあらんやうのあるにこそ-何かわけがあるに違いない。自分が仕掛けたいたずらであったはずが、人々の意が居な動向に、恵印自身も疑心暗鬼で引き込まれ、動揺し始める。■さりげなくて-内心の動揺を外には出さないようにして。■さりあへず-通れないほどに。「さりあへず」は「避り敢えず」で、人を避ける事ができずに、の意。
■やうのあるにこそ-きっと(自分の知らない)わけがあるに違いない。■さもあらんずらん-本当の事であるのかもしれない。竜が昇るというのは本当の事かもしれない。■頭つつみて-頭を包んで。僧侶が袈裟で頭を包み隠し、目だけを出したさま。
■かくてあるべきあらねば-そのまま待ち続けているわけにもいかないので。■あぶなのめくらや-あぶない、暗闇に盲人だ。「めくらに」は、目先の暗いの意と盲人の意とを掛けた。■あらじ-違う(目先が暗いのではない)。鼻先が暗いのだ。偶然にも「鼻暗」というのは恵印の「鼻蔵(人)」という通称と同じ音であった。■をかしき事の一つなりとか-一つの笑いぐさであったという話。