宇治拾遺物語 11-9 空入水(そらじゆすい)したる僧の事

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これも今は昔、桂川(かつらがは)に身投げんとする聖(ひじり)とて、まづ祇陀林寺(ぎだりんじ)にして百日懺法(せんぽふ)行ひければ、近き遠き者ども、道もさりあへず、拝みに行きちがふ女房車など隙(ひま)なし。見れば三十余りばかりなる僧の細やかなる、目をも人に見合せず、ねぶり目にて時々阿弥陀仏(あみだぶつ)を申す。そのはざまは唇(くちびる)ばかりはたらくは、念仏なめりと見ゆ。また時々そそと息を放つやうにして、集ひたる者どもの顔を見わたせば、「その目に見合せん」と集ひたる者ども、こと押し、あち押し、ひしめき合ひたり。

さて、すでにその日のつとめては、堂へ入りて、先にさし入りたる僧ども、多く歩み続きたり。尻(しり)に雑役車(ざつやくぐるま)に、この僧は紙の衣(ころも)、袈裟(けさ)など着て乗りたり。何(なに)といふにか、唇はたらく。人に目を見合せずして、時々大息をぞ放つ。行く道に立ち並(な)みたる見物の者ども、打撒(うちまき)を霰(あられ)の降るやうに撒(ま)き散らす。聖、「いかに、かく目鼻に入る、堪へがたし。志あらば、紙袋(かみぶくろ)などに入れて、我がゐたりつる所へ送れ」と時々いふ。これを無下の者は手を摺りて拝む。少し心のある者は、「などかうは、この聖はいふぞ。只今水に入りなんずるに、『ぎんだりへやれ。目鼻に入る、堪へがたし』などいふこそあやしけれ」など、ささめく者もあり。

さて、やりもて行きて、七条の末にやり出(いだ)したれば、京よりはまさりて、「入水の聖拝まん」とて、川原の石よりも多く人集ひたり。川ばたへ車やり寄せて立てれば、聖、「只今は何時(なんどき)ぞ」といふ。供なる僧ども、「申の下りになり候(さぶら)ひにたり」といふ。「往生の刻限にはまだしかんなるは。今少し暮(くら)せ」といふ。待ちかねて遠くより来たる者は帰りなどして、川原人少なになりぬ。「これを見果てん」と思ひたる者はなほ立てり。それが中に僧のあるが、「往生には刻限やは定むべき。心得ぬ事かな」といふ。 

とかくいふ程に、この聖(ひじり)、褌(たふさぎ)にて西に向ひて川にざぶりと入る程に、舟ばたなる縄に足をかけて、づぶりとも入らで、ひしめく程に、弟子の聖はづしたれば、さかさまに入りて、ごぶごぶとするを、男の川へおり下(くだ)りて、「よく見ん」とて立てるが、この聖の手を取りて引き上げたれば、左右の手して顔払ひて、くくみたる水を吐き捨てて、この引き上げたる男に手を摺(す)りて、「広大の御恩蒙(かうぶ)り候(さぶら)ひぬ。この御恩は極楽(ごくらく)にて申し候はん」といひて、陸(くが)へ走り上(のぼ)るを、そこら集りたる者ども、童部(わらはべ)、川原の石を取りて、まきかくるやうに打つ。裸なる法師の、川原下りに走るを、集ひたる者ども、受け取り受け取り打ち蹴ければ、頭打ち破(わ)られにけり。

この法師にやありけん、大和より瓜を人のもとへやりける文の上書(うはがき)に「前(さき)の入水(じゆすい)の上人(しやうにん)」と書きたりけるとか。
                              

現代語訳

これも今は昔、桂川に身を投げて極楽往生を願う事を予告する聖がいて、初めに祇陀林寺(ぎだりんじ)において百日懺法(せんぽふ)を行った。それを見ようという近隣の者や遠来の者たちが道も通り合えないほどにあふれ混雑し、拝みに行き交う女房の車などで大混乱であった。見ると三十余りと思える細身の僧で、目を人と見合せようとはせず、つぶっているような目で時々南無阿弥陀仏を唱えている。その間には唇ばかりが動いて念仏を唱えているように見える。また時々はふうっと息をつくようにして、集まっている人たちの顔を見渡すと、その目に視線を合せようと、集っている者たちが、あっちへ押しこっちへ押ししてひしめき合った。

そうして、いよいよその日の早朝には、聖はお堂に入って、そこから先ずお堂に集まって来た見送りの僧たちの行列が出る。この聖は最後尾の雑役車に紙の衣や袈裟などを着て乗っている。何を言っているのか唇が動いている。あいかわらず、人に視線を合せず、時々、大きなため息をつく。通り道に立ち並んだ見物の人々は、この聖に捧げて、米粒を霰のように撒きかける。すると聖は、「なんと、目鼻に入るではないか。堪えがたい事よ。気持ちがあるのなら、紙袋などに入れて、わしのもといた寺へ送ってくだされ」と時々繰り返して言う。その声を聞いただけで、ありがたがって、まったく分別のない者は手を摺って拝む。多少は物の道理がわかる者は、「なぜこんなことをこの聖は言うのか。いますぐ入水しようというのに、『祇陀林(ぎだりん)へやれ。目鼻に入って堪らない』などと言うのはどうもおかしい」などと、ささやく者もいる。

そして牛車をだんだんと進めていって、七條大路の端まで来ると、この聖が身投げして成仏するのを拝もうと、人々はさらに集まった。京の市内からどんどん増えて、桂川の川原の石より多いほどである。川端へ車を止めると、聖は、「今、何時かな」と言う。供の僧どもは、「午後四時を過ぎた頃合になりました」と言う。「往生の刻限にはまだ早いな。もう少し待て」と言う。待ちかねて遠くから来た者は、帰り始めたりなどして、川原に集まっていた人たちも減っていった。「これを最後まで見届けよう」と思った人たちは、まだ立ち尽くしている。その中に僧がいたが、「往生するのに刻限を定めるとは、わけのわからぬことだわい」と言う。

そうこうしているうちに、この聖は褌一つになって西に向い、川にざんぶと入ったが、船端にある縄に足をひっかけ、どぼんとも入らずにもがいているので、見物衆がひしめき合っている間に、弟子の聖が縄を外してやると、真っ逆さまに落ち込み、あっぷあっぷしていた。たまたま川へおり下って、「よく見よう」と立っていた男が、この聖の手を取って引き上げると、聖は左右の手で顔の水を拭い、口に含んだ水を吐き捨て、この引き上げた男に手を摺り合せて、「大きな御恩を蒙りました。この御恩はいずれ極楽でお返しいたしましょう」と言って、陸の方へ走り上がった。それを目がけて、集まったいた大勢の人たちや子供たちが、川原の石を拾い、米を撒き掛けるように投げつけた。裸の法師が川原を下り走るのを目がけて、大勢の人々が、次々と石を投げつけたので、頭を打ち割られてしまった。

この法師の事であったのであろうか、大和からある人に瓜を送った時の手紙の上書きに、「先の入水の上人」と書いたとかいうことである。

語句  

■桂川-京都市の西部を南下する川。上流は大堰(おおい)川、下流は淀川と合流。■祇陀林寺(ぎだりんじ)-東京極大路の東、中御門大路の南にあった寺院。長保二年(1000)四月、源融(とおる)の子の仁康上人が、川原院の丈六の釈迦院を移して、創建。釈迦信仰、地蔵信仰の拠点として栄えた。『続古事談』によれば、その場所は、左大臣源顕光の邸跡という。■百日懺法(せんぽふ)-百日間、『法華経』を読誦して六根の罪障を懺悔(ざんげ)する修業。■そのはざまは唇(くちびる)ばかりはたらくは-その間に唇ばかりが動いているのは。■そそと-静かに、ふうっと。■その目に見合せん-極楽に往生するはずの聖人と目を合せて結縁(けちえん)しようとした。■つとめては-早朝には。

■尻(しり)に雑役車(ざつやくぐるま)に-最後尾の雑用に使う車に。■打撒(うちまき)-本来は邪気を払うために撒く米。ここは供養の意味があろう。■無下の者-まったく分別のない者。■少し心のある者-多少は物の道理を知る者。■只今水に入りなんずるに-すぐに入水しようというのに。■ぎんだり-祇陀林寺の俗称か。ちなみにこの寺は、もとは広幡院、のち応長元年(1311)以降は金蓮寺と改称される。

■七条の末-東西に通じる七条大路の西の果て。桂川にすぐの地点。■車やり寄せて立てれば-車を押し進めて止めると。■申の下り-午後四時を過ぎたころあい。■往生の刻限には-往生するための時刻には。「往生」は死後、阿弥陀仏のいるという西方の極楽浄土の転生して、そこで仏弟子として修行生活を送ること。■まだしかんなるは-「まだしかるなるは」で、まだその時刻にならないようだな。まだ早いようだわ。「まだし」は「いまだし」に同じ。■これを見果てん-最後まで見届けよう。

■褌(たふさぎ)-下の袴。現在の越中ふんどしなど、殿世の陰部を覆い隠す布。■づぶりとも入らで-どぼんとも沈まずに。■ひしめく程に-もがき騒いでいる時に。■ごぶごぶするを-ごぼごぼしているのを。沈みも浮びもできずに、あっぷあっぷしている状態。■くくみたる水を-(飲み込まずに)まだ口に含んでいる水を。■申し候はん-お返し申し上げます。いかさまの入水でひと稼ぎしようとした聖らしい実のない空約束。■そこら集りたる者ども-たくさん集まっていた人々。■まきかくるやうに-(米でも)撒き掛けるように。■受け取り受け取り-次から次へと待ち受けて。■大和より瓜を-大和は瓜(マクワウリ)の名産地であった。

朗読・解説:左大臣光永

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