宇治拾遺物語 11-11 丹後守保昌(たんごのかみやすまさ)、下向の時致経(むねつね)の父にあふ事

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原文

これも今は昔、丹後守保昌(たんごのかみやすまさ)、国へ下(くだ)りける時、与佐(よさ)の山に白髪の武士一騎あひたり。路の傍(かたは)らなる木の下(した)にうち入りて立てたりけるを、国司の郎等ども、「この翁(おきな)、など馬よりおりざるぞ。奇怪(きくわい)なり。咎(とが)めおろすべし」といふ。ここに国司の曰(いは)く、「一人当千の馬の立てようなり。ただにはあらぬ人ぞ。咎むべからず」と制しているうち過ぐる程に、三町ばかり行きて、大矢の左衛門尉致経(さゑもんのじようむねつね)、数多(あまた)の兵を具してあへり。国司会釈する間、致経が曰く、「ここに老者(らうじや)一人あひ奉りて候ひつらん。致経が父平五大夫に候ふ。堅固(けんご)の田舎(ゐなか)人にて子細を知らず。無礼(むらい)を現し候ひつらん」といふ。致経過ぎて後(のち)、「さればこそ」とぞいひけるとか。
                              

現代語訳

これも今は昔、丹後守保昌が、国司として赴任する時、与佐の山中で馬に乗った白髪の武士に会った。道の傍らに立つ木の下に入って立っていたのを、国司の家来たちが、「この老人め。なんで馬から下りないのか。けしからん。咎めて下さねば」と言う。そこで国司が、「一騎当千の武士の隙の無い馬の構えだ。只者ではあるまい。咎めるでない」と諫めながら過ぎて行くと、三町ばかり行ったところで、大矢の左衛門尉致経が、大勢の兵を連れて行く行列に遭遇した。国司が会釈をしている間、致経が、「ここで一人の老人にお会いになられたと存じます。私の父の平五大夫でございます。頑固な田舎者で、わけもわからず無礼を働いたことでしょう」と言うのであった。致経が通り過ぎた後、国司は、「やはり言ったとおりであろう」と言ったとか。

語句  

■保昌-藤原致忠の子(958~1036)。丹後の国への赴任は、治安元年(1021)~万寿元年(1024)ごろのこと。■与佐の山-京都府宮津市の普甲山(ふこうさん)。与謝の大山とも。丹波から丹後への道筋があった。■奇怪なり-けしからんことだ。■一人当千の馬の立てようなり-一人で大勢を相手にできる勇士のすきのない馬の構えぶりだ。■大矢の左衛門尉到経(さゑもんのじようむねつね)-平致頼の子。字は大箭(おおや)。左衛門大尉、強弓の射手。長元四年(1031)、安房守平正輔と合戦、処罰された。『尊卑分脈』が治承三年八月没とするのは、誤伝か。『今昔』巻二三-一四話参照。■父平五大夫-平致頼。公雅の子。備中掾、従五位下。「平五」は平氏の五男(?~1011)。「大夫」は五位の称。後世、勇者として頼信、保昌、維衛と並び称される(十訓抄・第三)。平維衛との私闘により、長保元~三年(999~1001)、隠岐へ配流されている。

備考・補足

■まことに「勇者は勇者を知る」である。非凡な者同士の緊張感の漂う一瞬の出会い。凡庸な者には感知できないが、非凡な両者は互いに相手のただならぬ水準を直感しあう。本話では、それえお「目利き保昌」が家来たちに示唆し、大いに面目を施した手柄話として保昌の側から描いている。また巻第二ノ十話で、「いみじき盗人の大将軍」の袴垂を震え上がらせた保昌ほどの豪勇が、部下どもにあえて手出しを控えさせたという一点に、平五大夫の並々ならぬ勇姿が彷彿(ほうふつ)とする。

朗読・解説:左大臣光永