宇治拾遺物語 12-2 提婆菩薩(だいばぼさつ)、竜樹菩薩(りゆうじゆぼさつ)の許(もと)に参る事

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原文

昔、西天竺(さいてんぢく)に竜樹菩薩(りゆうじゆぼさつ)と申す上人(しやうにん)まします。智恵甚深(じんしん)なり。また中天竺(ちゆうてんぢく)に提婆菩薩(だいばぼさつ)と申す上人、竜樹の智恵深き由を聞き給ひて、西天竺に行き向ひて、門外に立ちて、案内を申さんとし給ふところに、御弟子外(ほか)より来給ひて、「いかなる人にてましますぞ」と問ふ。提婆菩薩答へ給ふやう、大師の智恵深くまします由(よし)承りて、瞼難(けんなん)をしのぎて、中天竺よりはるばる参りたり。この由申すべき由のたまふ。御弟子、竜樹に申しければ、小箱に水を入れて出(いだ)さる。提婆心得給ひて、衣の襟(えり)より針を一つ取り出(いだ)して、この水に入れて返し奉る。これを見て、竜樹大に驚きて、「早く入れ奉れ」とて、坊中を掃(は)き清めて入れ奉り給ふ。

御弟子あやしみ思ふやう、「水を与へ給ふ事は、遠国よりはるばると来給へば疲れ給ふらん、喉潤(のどうるほ)さんためと心得たれば、この人針を入れて返し給ふに、大師驚き給ひて敬ひ給ふ事、心得ざる事かな」と思ひて、後(のち)に大師に問ひ申しければ、答へ給ふやう、「水を与へつるは、我が智恵は小箱の内の水のごとし。しかるに、汝万事(なんぢばんじ)を凌ぎて来る、智恵を浮べよとて、水を与へつるなり。上人(しやうにん)そらに御心を知りて、針を水に入れて返す事は、我が針ばかりの智恵を以て、汝が大海の底を極めんとするなり。汝ら年来隋逐(としごろずいちく)すれども、この心を知らずして、これを問ふ。上人は始めて来たれども、我が心を知る。これ智恵のあるとなきとなり」云々。即(すなは)ち瓶水(びやうすい)を移すごとく、法文を習ひ伝へ給ひて、中天竺(ちゆうてんぢく)に帰り給ひけりとなん。

現代語訳

昔、西天竺に竜樹(りゅうじゅ)菩薩と申すまことに智恵の深い上人がおいでになった。また中天竺に提婆(だいば)菩薩と申す上人がおり、竜樹の智恵の深さをお聞きになって、西天竺に出向き、門の外に立って、案内を請おうとなさっていたところに、御弟子が外から帰って来て、「どういうお方でいらっしゃいますか」と尋ねる。提婆はこれに答えて、大師の智恵が深くておいでになられるいう事を承りましたので、困難な道中をしのいで中天竺からはるばるやって参りました。この旨を申し上げていたさきたいとおっしゃる。御弟子が竜樹にこのことを申し上げると、小箱に水を入れてお出しになった。提婆は竜樹の突きつけた問いの意味を察して、衣の襟から針を一つ取り出し、この水に入れてお返しになった。これを見て、竜樹菩薩は大いに驚き、「早く中にお入れせよ」といって、部屋の中を掃き清め、提婆を迎え入れられた。

弟子は不思議に思い、「水をお与えになることは、遠国からはるばる来られた疲れを癒(いや)すためであろう、喉を潤(うるお)すためと理解しましたが、この人が針を入れてお返しになったのを、大師が驚かれ敬われたのには合点がいかぬ」と思って、後で、大師に尋ねると、「水を与えたのは、我が智恵は小箱の中の水のような物だ。ところで、汝は万事を凌んでやって来た。智恵を浮べよと水を与えたのだ。提婆が暗にその心を知って、針を水に入れて返したのは、わが針ほどのわずかな智恵をもって、あなたの大海のような広い智恵の底を極めようというのだ。お前たちは長年私について修行しているが、この心がわからずして、これを問う。上人は始めて来たというのにわが心をお見通しであった。これが智恵がある者と智恵のない者の違いだ――」。こうして、提婆は瓶の水を別の容器に移すように残すところなく竜樹の法文を習得し、中天竺にお帰りになったという。

語句  

■西天竺-五天竺の一つ。インド中西部。■竜樹菩薩-梵語Nagarujunaの訳。二~三世紀の人。南インドのバラモン教との出身。大竜菩薩に学び、大乗経典を教学的に大成し、八宋の祖ともされる。著書に『大智度論』百巻、『中論』四巻、『十二門論』などがある。■甚深-まことに深い。■中天竺-五天竺の一つ。インド中部。■提婆菩薩-梵語Devaの音表記。三世紀ごろの人。バラモン族の出、竜樹の高弟。『広論』二巻などの著者で、三論宗の祖。■申さんと-請おうと。■いかなる人にてましますぞ-どういうお方でいらっしゃいますか。■大師-ここは竜樹菩薩に対する尊称。■ましますよし-おいでになることを。■瞼難(けんなん)-困難な道中。『今昔』巻四-二五話には、「其ノ道、遥ニ遠クシテ、或ハ深キ河ヲ渡り、或ハ梯(かけはし)ヲ渡り、或ハ遥ナル巌(いはほ)ノ山ヲカヽツリ登リ、或ハ道无(な)キ荒磯を渡リ、深キ山ヲ通り、広キ野ヲ行ク。或ハ水无(な)所ヲ過ギ、或ハ粮(かて)絶ル時モ有ケリ」と詳しい。■しのぎて-のりこえて。■この由申すべき由のたまふ-この旨を申し上げていただきたいということをおっしゃる。■小箱に水を入れて云々-『大唐西域記』巻第十憍薩羅国の条では「鉢ニ水ヲ盛リ満シテ」、それを提婆に示せ、と弟子に命じている。■心得給ひて-竜樹の突きつけた問いの意味を察して。

■この人針を入れて返し云々-『今昔』では、「比丘、水ヲバ不飲(のまず)シテ衣ノ頸ヨリ針ヲ抜出デ、箱二入レテ還(かえ)シ奉ル。針ヲ大師二奉ルナメリト思フ所二、箱ヲバ針ヲ乍入(いれながら)置キ給フ。忝(かたじ)ケナガリ呼ビ入レ給フ事不心得(こころえ)ズ」とあって、たいへん分りよい。■水を与へつるは-『今昔』には、この後に「水入レタル器ハ、雖小(ちひさしといへど)万里の景(かげ)ハ浮ブ事也」との一文がある。■しかるに-ところで。■そらに御心を知りて-暗にそのお心を知って。暗黙のうちに私の真意を察知して。「御心」は自敬語。■汝が大海の底を極めんとするなり-あなたの大海のような広い智恵の底を極めようというのだ。■年来隋逐(としごろずいちく)すれども-長年私について修行をしているのに。長年つき随っているが。■すなはち-そこで。■瓶水(びやうすい)を移すごとく-瓶の中の水を別の容器に移すように、師の持ち伝える教えの奥義を弟子に残すところなく伝授する形容。瀉瓶(しゃびょう)。

備考・補足

■前話では旅の旅行僧が老僧たちの聖徳の深さに気づくきっかけとなったが、本話では、訪問された高僧が、旅の修行僧の聖徳の深さを見抜く。二人の菩薩が阿吽(あうん)の呼吸で互いの心を読み合うのと対照的に、世間智を抜け出せない取り次ぎの僧の愚かしさがきわだつ。

朗読・解説:左大臣光永


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