宇治拾遺物語 12-3 慈恵僧正(じゑそうじやう)、受戒(じゆかい)の日延引(えんいん)の事

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原文

慈恵僧正良源、座主(ざす)の時、受戒行ふべき定日(ぢやうにち)、例のごとく催(もよほ)し設(まう)けて、座主の出仕を相待つの所に、途中よりにはかに帰り給へば、供の者ども、「こはいかに」と心得がたく思ひけり。衆徒(しゆと)、諸識人(しよしきじん)も、「これ程の大事、日の定まりたる事を、今となりて、さしたる障(さは)りもなきに延引せしめ給ふ事、しかるべからず」と謗(ほう)ずる事限りなし。

諸国の沙弥(しやみ)らまでことごとく参り集ひて、受戒すべき由(よし)思ひゐたる所に、横川(よかは)の小綱(せうかう)を使(つかひ)にて、「今日の受戒は延引なり。重ねたる催しに随ひて行はるべきなり」と仰(おほ)せ下(くだ)しければ、「何事によりてとどめ給ふぞ」と問ふ。使、「全(また)くその故(ゆゑ)を知らず。ただ早く走り向ひて、この由を申せとばかりのたまひつるぞ」といふ。集れる人々、おのおの心得ず思ひてみな退散しぬ。

かかる程に、未(ひつじ)の時ばかりに、大風吹きて、南門にはかに倒れぬ。その時人々、「この事あるべしとかねて悟りて、延引せられける」と思ひ合せけり。受戒行はれましかば、そこばくの 人々みな打ち殺されなましと、感じののしりけり。

現代語訳

慈恵僧正良源が座主であった時、受戒の儀式を行うように定められていた日、いつものように種々準備をして、座主のおいでを待っている所に、途中から急にお帰りになったので、供の者たちが、「これはどうしたことか」といぶかしく思った。衆徒(しゆと)、諸識人(しよしきじん)も「こんなに大事な日と決まっていたのに、今になって、それほどの支障もなかろうに延期なされたことは、理解できない事だ」と限りなく非難した。

諸国の沙弥たちまで、ことごと参集して、受戒しようと思っていところに、横川の小綱を使って、「今日の受戒は延期する。改めての招集に随って行われる事とする」と仰せ下されたので、「どうして中止されるのか」と尋ねる。使いの者、「全くその理由はわかりません。ただ早く走って行って、この事を皆に伝えよとだけ申されました」と言う。これを聞いた受戒のためにそこに集まっていた人たちは、おのおのわけがわからないまま仕方なく引き揚げた。

こうしているうちに、午後二時ごろになると、大風が吹き荒れ、南門が突然倒れてしまった。その時人々は、「こういう事が起こるのを前々からご承知で延期されたのだ」と思い合ったのである。もし受戒の行事が行われていたならたくさんお人々がみな死んだ事だろうと、大いに感嘆し合ったのだった。

語句  

■慈恵僧正良源-良源(912~985)近江(滋賀県)の人。第十八代天台座主、叡山中興の祖といわれる。■座主の時-康保三年(966)八月より没年までの期間。■受戒-ここは叡山で大受戒を受けて僧として公認される儀式。■定日-あらかじめ定められている日。定例の日。■衆徒-延暦寺の大衆(学生、堂衆)。■諸識人(しよしきじん)-職衆(しきしゆ)(色衆)。法会の際、梵唄(ぼんばい)・散華(さんげ)などの役を勤める僧侶。

■沙弥-梵語sramaneraぼ略。仏門に入り、剃髪して得度式のみ終わった男子の称。正式でなく私的に出家した僧もいう。■横川-東塔・西塔とともに比叡山延暦寺の三塔の一つ。その中心である堂は首楞巌院(しゆりようごんいん)で、円仁の創建。後に良源が住み栄えた。■小綱(せうかう)-妻帯して雑務に従事する専当(せんどう)や専寺より下位の僧。全註解は、三鋼(さんごう)(上座・寺主・都維那(ついな))のうちの都維那かとする。ここは、事の重大さから考えて、後者か。■重ねたる催し-改めての招集。

■未の時-午後二時ごろ。■南門-『打聞集』の同文話では「戒壇門」とする。とすれば、戒壇院の正門。■感じののしりけり-大いに感嘆し合った。

備考・補足

■良源は後世、大魔王の一人となって天下騒乱の評定に加わっている(太平記・巻二十七・雲景未来記)などと悪い評判も立てられたが、本話のような説明抜きの果断なやり方によって多分に誤解を招いていた向きもあるようだ。前話とは、「知る人ぞ知る」 という共通の話柄を持つ。

朗読・解説:左大臣光永