宇治拾遺物語 12-7 増賀上人(そうがしやうにん)、三条の宮に参り振舞(ふるまひ)の事

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原文

昔、多武嶺(たむのみね)に、増賀上人(そうがしやうにん)とて貴(たふと)き聖(ひじり)おはしけり。きはめて心たけうきびしくおはしけり。ひとへに名利(みやうり)を厭(いと)ひて、頗(すこぶ)る物狂はしくなん、わざと振舞ひ給ひけり。

三条大后(おほきさい)の宮、尼にならせ給はんとて、戒師(かいし)のために召しに遣はされければ、「もとも貴き事なり。増賀こそは実(まこと)になし奉らめ」とて参りけり。弟子ども、「この御使(つかひ)をいかつて、打ち給ひなどやせんずらん」と思ふに、思(おも)ひの外(ほか)に心やすく参り給へば、有りがたき事に思ひ合へり。

かくて宮に参りたる由(よし)申しければ、悦(よろこ)びて召し入れ給ひて、尼になり給ふに、上達部(かんだちめ)、僧ども多く参り集り、内裏(だいり)より御使(つかひ)など参りたるに、この上人は目は恐ろしげなるが、体(てい)も貴げながら、わずらはしげになんおはしける。

さて御前に召し入れて、御几帳(みきちやう)のもとに参りて、出家の作法して、めでたく長き御櫛(みぐし)をかき出(いだ)して、この上人にはさませらる。御簾(みす)の中に女房たち見て、泣く事限りなし。

はさみ果てて出でなんとする時、上人高声(かうしやう)にいふやう、「増賀をしもあながちに召すは何事ぞ。心得られ候(さぶら)はず。もしきたなき物を大(おほ)きなりと聞し召したるか。人のよりは大きに候へども、今は練絹(ねりぎぬ)のやうにくたくたとなりたるものを」といふに、御簾の内近く候ふ女房たち、ほかには公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)、僧たち、これを聞くにあさましく、目口はだかりて覚ゆ。宮の御心地もさらなり。貴(たふと)さもみな失(う)せて、おのおの身より汗あえて、我にもあらぬ心地す。

さて、上人(しやうにん)まかり出でなんとて、袖(そで)かき合せて、「年まかりよりて、風重くなりて、今はただ痢病(りびやう)のみ仕(つかまつ)れば、参るまじく候(さぶら)ひつるを、わざと召し候ひつれば、あひ構へて候ひつる。堪へがたくなりて候へば、急ぎまかり出で候ふなり」とて、出でざまに、西の対の簀子(すのこ)についゐて、尻(しり)をかかげて、はんざふの口より水を出(いだ)すやうにひり散らす。音高くひる事限りなし。御前まで聞ゆ。若き殿上人(てんじやうびと)、笑ひののしる事おびただし。僧たちは、「かかる物狂(ものぐる)ひを召したる事」とそしり申しけり。

かやうに、事にふれて物狂ひにわざと振舞ひけれど、それにつけても貴き覚えはいよいよまさりけり。

現代語訳

昔、多武嶺(たむのみね)に、増賀上人(そうがしやうにん)というありがたい聖がおいでになった。きわめて気性が激しく、厳しい人であった。ひたすら名誉と蓄財から逃れて、すこぶる人とは違った行動をとり、すこぶる狂気じみているように、わざと振舞われていた。

三条大后の宮が尼になられるという時、戒師としてお召ししたいと使いをお出しになったが、「いかにも尊い事です。この増賀が立派に尼にしてさしあげましょう」と言って、招きに応じて参上した。弟子たちは、「この御使いを叱って打ち据えたりなさらないだろうか」と案じたが、案外気安く参上なさったので、珍らしい事だと思った。

こうして宮に参った事を申し上げると、三条大后の宮は喜んで招じ入れられた。尼になられるというので、上達部、僧どもが多く参集し、内裏からは御使いなどがやって来たが、この上人は恐ろしい目つきをしておられたが、尊そうな様子でありながら、どことなく取り付きにくい様子をしておられた。

それから、御前に招き入れて、御几帳(みきちやう)の前に来て、出家の作法を行い、美しい長い御髪を几帳からお出しになって、この上人に鋏でお切らせになる。御簾の中では女房たちが、その様子を見て、泣き続ける。

切り終わって几帳から出ようとすると、上人は大きな声で、「よりによってこの増賀をわざわざ召されるとは何事です。納得がいきません。もしや、我の男根が大きいとお聞きになられたのか。いかにも人のよりは大きいが、今は練絹のようにふにゃふにゃになっておりますものを」と言うので、御簾の内近くにいる女房たち、他には公卿、殿上人、僧たちはこれを聞いてあきれはて、目口が開いたままふさがらないほど途方もなく驚いた。尊いという思いもみな失せ、それぞれ身体から汗を流して、呆然としたていである。

それから、上人は出て行こうとして、袖を掻き合わせ、「年をとってしまいまして、重い風邪にかかり、今ではただ下痢ばかりいたしておりますので、参上いたすまいと思いましたが、ことさらにお召しになられましたので、用心しながら参上いたしました。ところがもうこらえきれなくなりましたので、急いで退出いたします」と言って、出際に、西の対屋の縁側に腰を下ろし、尻をまくって、半挿(はんぞう)の口から水を出すようにたれ散らし、この上もなく音高く鳴らす。それが宮の御前まで聞える。若い殿上人がとてつもなく笑い騒ぐ。僧たちは、「こんな常軌を逸した坊主をお呼びになって」と非難した。

このように事あるごとに常軌を逸した振舞をしたが、それにつけても尊いという評判はますます高まっていったという。

語句  

■多武嶺-奈良県桜井市にある山、標高619メートル、藤原鎌足が葬られたことから、藤原氏の聖地となる。古くは天台宗多武峰寺(妙楽寺)、現在は談山神社がある。■増賀上人(そうがしやうにん)-「僧賀」と表記される事が多い。『尊卑分脈』によれば、参議橘恒平の子(917~1003)。新大系はそれを誤りとし、藤原伊衡(これひら)を父かとする。十歳より比叡山に登り、良源に師事、顕密を学ぶ。応和三年(963)より多武峰に移り、四季ごとに法華三昧を修したとされるほど『法華経』と摩訶止観の修学に専心した。■名利(みやうり)を厭(いと)ひて-名誉と蓄財から逃れて。■物狂はしくなん-奇矯で狂気じみているように。

■三条大后(おほきさい)の宮-藤原詮子(961~1001)。兼家の娘、円融天皇の女御、一条天皇の生母。寛和二年(986)、皇太后。東三条院。一説に、寛和二年一月に出家した三条宮に住んだ村上天皇の皇女資子内親王かとする。■尼に-詮子は、病気により正暦二年(991)に出家している。■戒師-戒を授け、出家に立ち会う僧。■有りがたき事-意外で珍しい事。

■上達部(かんだちめ)-公卿の別称。大臣、大・中納言、参議と三位以上の貴族。■わずらはしげに-気むずかしそうな様子で。

■出家の作法-戒律を受け、髪を下ろし、袈裟をつける作法。

■あながちに-たって。わざわざ。■きたなき物-男性の外性器、男根。■練絹-生の生糸で織ったものを精錬した柔らかな衣布。男根が勃起力を失っているさまをたとえた。■目口はだかりて-目口が開いたままふさがらないほどに途方もなく驚いたさま。■さらなり-言うまでもない。とんだ言いがかりにあきれはてていること。■汗あえて-汗が流れ出て。あまりの場違いで尾籠(びろう)な暴言にいたたまれないような気持になっている状態。

■袖かき合せて-いかにも弱々しく元気のなさそうに見えるしぐさ。■年まかりよりて-年をとってしまいまして。三条大后の宮が詮子の場合ならば、増賀は七十四歳、資子内親王の場合でも六十九歳であった。■痢病(りびやう)のみ仕(つかまつ)れば-下痢ばかりいたしておりますので。■西の対-西の対屋。寝殿造で母屋の西につながる別棟の建物。■簀子(すのこ)-寝殿造の廂(ひさし)の外側に出ている板敷の縁側。■はんざふ-湯・水を入れて物に注ぐ器。半挿。

備考・補足

■「増賀こそは実になし奉らめ」との請け合いをみごとに裏返したような宮廷人の度肝を抜いた乱行と蛮行。それは名聞・利養から徹底的に逃れるための最高の舞台を選んだうえでの計算ずくのふるまいであった。自分を「物狂い」と印象づけ、その評判を高める事によって、俗界との断絶を決定的なものにしようと図った勇気ある行動。

朗読・解説:左大臣光永


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