宇治拾遺物語 12-13 貫之(つらゆき)歌の事

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原文

今は昔、貫之(つらゆき)が土佐守(とさのかみ)になりて下(くだ)りてありける程に、任果(にんは)ての年、七つ八つばかりの子の、えもいはずをかしげなるを、限りなくかなしうしけるが、とかくわづらひて失(う)せにければ、泣き惑ひて、病づくばかり思ひこがるる程に、月比(つきごろ)になりぬれば、かくてのみあるべき事かは、上(のぼ)りなんと思ふに、「児(ちご)のここにてありしはや」など思ひ出でられて、いみじう悲しかりければ、柱に書きつけける。

都へと思ふにつけて悲しきは帰らぬ人のあればなりけり

と書きつけたりける歌なん今までありける。

現代語訳

今は昔、貫之が土佐守になって土佐に下っていたが、任期満了の年の事、七つか八つの年頃で言いようもなく美しい子を、このうえもなく可愛がっていたが、その子がしばらく患って亡くなった。それで泣き悲しんで、それこそ病気になる程、思い続けているうちに、幾月かたってしまった。「こうしているわけにはいかない。京へ帰らなくては」と思うにつけて、「子供がここでこんなことをしていたなあ」などと思い出され、せつなく悲しかったので、柱に書きつけた。

都へと思ふにつけて悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
(都へ帰らなくてはと思うたびに悲しくなるのは自分とともに帰らぬ人がいるからだ)

こう歌を書きつけた柱が最近まで残っていたという。                                               

語句  

■貫之-紀貫之(870?~945。一説に946)。御書所預、大内記、加賀介、美濃介などを経て、土佐守。のち、木工権頭。『古今集』の撰者の一人。同集仮名序の筆者、また『土佐日記』の作者。■土佐守-土佐国(高知県)の長官。貫之の土佐への赴任は延長八年(930)。■任果ての年-国司の任期満了の年すなわち承平四年(934)。その十二月に貫之は土佐を発った。■とかくわずらひて失せにければ-『土佐日記』には「(承平四年十二月)二十七日。(中略)かくあるうちに、京にて生れたりし女子、国にてにはかに亡(う)せにしかば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、何ごともいはず。京へ帰るに、女子のなきのみぞ悲しび恋ふる」とする。これによれば、貫之の娘は、帰京の時が近づいた一、二か月前ごろに急死したもののようである。

備考・補足

■愛児を任地で失い、その思いでの残る土地を去らねばならぬ悲しみ。「児のここにて何とありしはや」というような亡児に対する追慕の哀惜と愚痴な親心が織り込まれて、ひときわ悲愁の色が濃い。

朗読・解説:左大臣光永