宇治拾遺物語 12-15 河原院融公(かはらのゐんとほるこう)の霊住む事

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今は昔、河原院(かはらのゐん)は融(とほる)の左大臣の家なり。陸奥(みちのく)の塩釜(しほがま)の形(かた)を作りて、潮(うしほ)を汲(く)み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしき事を尽して住み給ひける。大臣失(おとどう)せて後(のち)、宇多院には奉りたるなり。延喜(えんぎ)の御門(みかど)たびたび行幸ありけり。

まだ院住ませ給ひける折(をり)に、夜中ばかりに、西の対(たい)の塗籠(ぬりごめ)をあけて、そよめきて人の参るやうに思(おぼ)されければ、見させ給へば、ひの装束(さうぞく)うるはしくしたる人の、太刀(たち)はき、笏(しやく)取りて、二間ばかり退(の)きて、かしこまりてゐたり。「あれは誰(た)そ」と問はせ給へば、「ここの主に候(さぶら)ふ翁(おきな)なり」と申す。「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す。「さはなんぞ」と仰(おほ)せらるれば、「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく、所狭く候ふなり。いかが仕るべからん」と申せば、「それはいといと異様(ことやう)の事なり。故大臣(おとど)の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りてゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と高やかに仰せられければ、かい消(け)つやうに失(う)せぬ。

その折の人々、「なほ御門(みかど)はかたことにおはします者なり。ただの人はその大臣(おとど)にあひて、さやうにすくよかにはいひてんや」とぞいひける。

現代語訳

今は昔、河原院は融の大臣の家である。奥州の塩釜(しおがま)の風景を模して庭を造り、海水を汲み寄せて塩を焼かせたりなど、さまざまな風雅の限りを尽くして住んでおられた。大臣が亡くなって後、宇多院に献上したものである。その後は延喜の御門(みかど)がたびたび行幸になった。

まだ院がお住まいになっておられた頃、夜中に、西の反対側に合った塗籠を開けて、そよそよと衣擦れの音がして人がやってくるように思われたので、御覧になると、日の装束をきちんとつけた者が、太刀をさし、笏を持って、二間ほど下がってかしこまって控えていた。院が、「お前は誰か」と尋ねられると、「この屋敷の主の翁でございます」と言う。「融の大臣か」と問われると、「さようでございます」と言う。「そのまねは何事か」と仰せになると、「我が家なので住んでおりますが、帝がお出でになるのが畏れ多く、窮屈でなりませぬ。どうしたらよいのでしょう」と言うので、「それはまったくおかしな話だ。この屋敷は亡くなった大臣の子孫が我に献上したからこそ住んでいるのだ。我が取り上げて無理に住んでいるのならともかく、礼義もわきまえずに、どうしてそのように恨むのか」と大声でおっしゃると、かき消すように消えてしまった。

その時、人々は、「やはり帝はどこか違っておられる。普通の人ならその大臣にあって、あのようにきっぱりとはものが言えまい」と言い合ったそうだ。

語句  

■河原院(かはらのゐん)-源融の贅(ぜい)を尽した庭園を持つ広大な邸宅。東六条院とも呼ばれ、六丈坊門小路の南、万里小路(までのこうじ)の東、京極大路の西に位置した。■融(とほる)-源融(822~895)。嵯峨天皇の皇子。左大臣就任は、貞観十四年(872)。■陸奥(みちのく)の塩釜(しほがま)の形(かた)-奥州の塩釜(宮城県塩竃市)の浦の景色。■潮(うしほ)を汲(く)み寄せて、塩を焼かせなど-『顕昭古今和歌集鈔』に「毎月難波ノ潮ニ十斛(こく)ヲ汲マシメテ、日ニ塩ヲ煮テ以テ陸奥ノ塩釜浦ノ勝概ヲ模ス」の記事が参考になる。■宇多院-第五十九代天皇(867~931)。亭子院、寛平法皇とも。■延喜の御門-第六十代醍醐天皇(885~930)。宇多天皇の皇子。

■塗籠-寝殿造の建物の一室で、部屋の周囲を壁で塗り込め、妻戸で出入りする。衣服や調度品の物置、または寝室として使われた。■ひの装束-束帯姿。公事の際の正装。■融の大臣か-新大系は『本朝文枠』巻十四に「宇多院、河原ノ左相府ノタメニ没後ニ修スル諷誦文」が載ることを紹介している。それによれば、本話は事実に基づくものとなる。■さはなんぞ-そのまねは何事か。■所狭く候ふなり-窮屈でなりません。

■かたことにおはします者なり-ただ人ではないということを意味するが、諸説がある。「方異」で、あり方(人格)が格別である、の意か。

朗読・解説:左大臣光永

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