宇治拾遺物語 12-19 宗行(むねゆき)が郎等(らうどう)、虎を射る事

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原文

今は昔、壱岐守(いきのかみ)宗行(むねゆき)が郎等(らうどう)を、はかなき事によりて、主の殺さんとしければ、小舟に乗りて逃げて、新羅国(しらぎのくに)へ渡りてゐたりける程に、新羅の金海(きんかい)といふ所の、いみじうののしり騒ぐ。「何事ぞ」と問へば、「虎(とら)の国府(こふ)に入りて人を食(くら)ふなり」といふ。この男問ふ、「虎はいくつばかりあるぞ」と。「ただ一つあるが、にはかに出(い)で来(き)て、人を食(くら)ひて逃げて行き逃げて行きするなり」といふを聞きて、この男のいふやう、「あの虎にあひて一矢を射て死なばや。虎かしこくば、共にこそ死なめ。ただむなしうはいかでか食(くら)はれん。この国の人は兵(つはもの)の道わろきにこそはあめれ」といひけるを、人聞きて国守(くにのかみ)に、「かうかうの事をこそこの日本人申せ」といひければ、「かしこき事かな。呼べ」といへば、人来て、「召しあり」といへば、参りぬ。

「まことにや、この虎の人食(く)ふをやすく射んとは申すなる」と問はれければ、「しか申し侍(さぶら)ひぬ」と答ふ。守、「いかでかかる事をば申すぞ」と問へば、この男の申すやう、「この国の人は、我が身をば全(また)くして敵をば害せんと思ひたれば、おぼろけにて、かやうのたけき獣などには、我が身の損ぜられぬべければ、まかりあはぬにこそ候ふめれ。日本の人は、いかにも我が身をばなきになしてまかりあへば、よき事も候ふめり。弓矢に携(たづさは)らん者、何(なに)しかは我が身を思はん事は候はん」と申しければ、守、「さて、虎をば必ず射殺してんや」といひければ、「我が身の生き生かずは知らず、必ず彼(かれ)をば射取り侍りなん」と申せば、「いといみじうかしこき事かな。さらば必ず構へて射よ。いみじき悦(よろこ)びせん」といへば、をのこ申すやう、「さてもいづくに候ふぞ。人をばいかやうにて食(く)ひ侍るぞ」と申せば、守の曰(いは)く、「いかなる折(をり)にかあるらん、国府(こふ)の中に入り来て、人一人(ひとり)を頭を食(く)ひて、肩にうち掛けて去るなり」と。この男申すやう、「さてもいかにしてか食(く)ひ候ふ」と問へば、人のいふやう、「虎はまづ人を食(く)はんとては、猫の鼠(ねずみ)を窺(うかが)ふやうにひれ伏して、しばしばかりありて、大口をあきて飛びかかり、頭を食(く)ひて肩にうち掛けて走り去る」といふ。「とてもかくても、さはれ、一矢射てこそは食(くら)はれ侍らめ。その虎(とら)の有所(ありどころ)教へよ」といへば、「これより西に廿四町退(の)きて麻(を)の畠(はたけ)あり。それになん伏すなり。人怖(お)ぢて、敢(あ)へてそのわたりに行かず」といふ。「おのれただ知り侍らずとも、そなたをさしてまからん」といひて、調度(てうど)負ひて往(い)ぬ。新羅(しらぎ)の人々、「日本の人ははかなし。虎に食(く)はれなん」と集りてそしりけり。

かくて、この男は、虎の有所(ありどころ)問ひ聞きて行きて見れば、まことに畠はるばると生(お)ひわたりけり。麻(を)の長(たけ)四尺ばかりなり。その中を分け行きて見れば、まことに虎臥(ふ)したり。尖矢(とがりや)をはげて片膝(かたひざ)を立ててゐたり。虎、人の香を嗅(か)ぎて、ついひらがりて、猫の鼠窺うやうにてあるを、をのこ矢をはげて、音もせでゐたれば、虎大口をあきて躍(をど)りて、をのこの上にかかるを、をのこ弓を強く引きて、上にかかる折にやがて矢を放ちたれば、頤(おとがひ)の下より項(うなじ)に七八寸ばかり、尖矢(とがりや)を射出(いだ)しつ。虎さかさまに伏して倒れてあがくを、雁股(かりまた)をつがひ、二たび腹を射る。二たびながら土に射つけて遂(つひ)に殺して、矢をも抜かで、国府(こふ)に帰りて、守にかうかう射殺しつる由(よし)いふに、守感じののしりて、多くの人を具(ぐ)して虎のもとへ行きて見れば、まことに箭(や)三つながら射通されたり。見るにいといみじ。「まことに百千の虎起(おこ)りてかかるとも、日本の人十人ばかり、馬にて押し向ひて射ば、虎何わざかせん。この国の人は、一尺ばかりの矢に、錐(きり)のやうなる鏃(やじり)をすげて、それに毒を塗りて射れば、遂(つひ)にはその毒の故(ゆゑ)に死ぬれども、たちまちにその庭に射伏する事はえせず。日本の人は、我が命死なんをも露惜(つゆを)しまず、大(おほ)きなる矢にて射れば、その庭に射殺しつ。なほ兵(つはもの)の道は、日の本(もと)の人には当るべくもあらず。されば、いよいよいみじう恐ろしく覚ゆる国なり」とて怖(お)ぢけり。

さて、このをのこをば、なほ惜(を)しみとどめていたはりけれど、妻子を恋ひて筑紫(つくし)に帰りて、宗行(むねゆき)がもとに行きて、その由を語りければ、「日本の面興(おもておこ)したる者なり」とて、勘当(かんだう)も許してけり。多くの物ども、禄(ろく)に得たりける、宗行にも取らす。多くの商人(あきうど)ども、新羅(しらぎ)の人のいふを聞きて語りければ、筑紫(つくし)にも、この国の人の兵はいみじき者にぞしけるとか。

現代語訳

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今は昔、壱岐守宗行(いきのかみむねゆき)が、家来を取るに足らない事で、殺そうとしたので、家来は小舟に乗って逃げて、新羅の国へ渡り、隠れて住んでいた。時に、新羅の金海という所で人がたいそうがやがやと騒いでいる。「何事ですか」と聞くと、「虎が国府に入って人を食うのだ」と言う。この男が、「虎は何頭いるのですか」と問うと、「ただの一頭ですが、突然出て来て、人を食っては逃げ、食っては逃げて行くのだ」と言うのを聞いて、この男が、「その虎と戦って、一矢射て死にたいものだ。虎がすぐれて強ければ、共に死にもしよう。ただいたずらに食われて良いものか。この国の人は武芸が劣っているのだろう」と言った。それを土地の人が聞いて、国守に「これこれをこの日本人が申しております」と言ったので、「それは耳よりなことだ。呼べ」と言うので、人が来て、「国守がお呼びです」と言うので、男は国府へ参上した。

「本当か、この人食い虎を、たやすく射止めようと申しておるそうだが」と尋ねられて、「そのように申しました」と答える。国守が、「どうしてさようなことを申すのか」と聞くと、「この国の人は、自分の身を安全にしておいて、敵を殺そうと思っているから、いいかげんになるのです。このように獰猛な獣などには、自分の身が危ないと思うので、たちうちできないのでしょう。日本の人は、まったく我が身をないものにして、立ち向うのでうまくゆくこともあるのです。武芸に生きようとする者が、どうして、我が身を惜しむことがありましょうか」と申し上げた。国守が、「では、虎を必ず射殺してもらえるか」と言ったので、「我が身の生き死には分りませんが、必ず、そいつを射殺してみせましょう」と言う。「まことにありがたい。では、必ず、用心して射よ。沢山褒美をとらせるぞ」と言う。男が「それにしても、どこにいるのですか。人をどうやって食うのですか」と聞くと、国守が言う。「どのような折であったか、国府の中に入って来て人一人を頭から食い、肩に引っ掛けて立ち去って行ったことがある」と。この男が、「いったいどのようにして食うのですか」と聞くと、ある人が、「虎は人を食おうとする時には、まず猫が鼠を狙うように身を伏せて、しばらくしてから、大きな口を開けて、飛びかかり、頭を食い、肩に担いで、走り去るのです」と言う。「とにもかくにも、ままよ、一矢射てから食われもしましょう。その虎の居場所を教えてくだされ」と言うと、「ここから西へ二十四町離れて麻の畑がある。その畑の中に身を低くして隠れているのだ。人は怖がって、絶対にその場所には行かない」と言う。「私はじかにその場所を知らぬが、そこを目指して行こう」と言って、弓を持ち、胡簗(やなぐい)を背負って出て行った。新羅の人たちは、「日本の人は愚かなものよ。きっと虎に食われるに違いない」と集まってそしり合った。

こうして、この男が、虎のいる所を尋ね歩いて行って見ると、なるほど麻の畑が延々と生え広がっている。麻の長さは四尺ほどである。その中をかき分けて行って見ると、本当に虎が寝ていた。男は鏃の先端が鋭くとがっている矢をつがえて片膝を立てていた。虎は、人の匂いを嗅ぎつけて、平たく伏せて身構え、猫が鼠を狙うように伺っていたが、男が矢をつがえて音も立てずにいると、やがて虎は大きな口を開けて跳躍し、男の上に飛びかかってきた。男は弓を強く引いて、虎が上にかぶさったその瞬間に矢を放ったので、あごの下から首の後ろに七八寸ほど尖矢が突き抜けた。虎がまっさかさまに倒れ、もがいているところを、雁股(かりまた)をつがえて二度腹を射た。二度ともみな土まで射貫いて、とうとう殺して、矢も抜かずに国府に戻って、国守にこうこう射殺した次第を告げると、国守は感嘆の声をあげた。大勢の人を連れて虎のそばへ行って見ると、本当に矢が三本ともみな射通されていた。それを見るとまったく見事な手並みである。「まったく百頭千頭の虎が襲いかかろうとも、日本の人が十人ばかり馬で立ち向って矢を射れば、虎はなんの手出しもできないだろう。この国の人は一尺ばかりの矢に、錐(きり)のような鏃(やじり)をつけて、毒を塗って射るので、最後にはその毒のために死ぬのだが、すぐにその場で射倒す事はできない、日本の人は、自分が死ぬ事など、まったく気にせず大きな矢で射るのでその場で射殺してしまう。やはり武芸の道では日本の人にはかないそうもない。だからますますすぐれて恐ろしく思われる国だ」と怯(おび)えた。

さて、この男を、なおも引き留めて大事にもてなしたが、妻子を恋しがって筑紫に帰り、宗行の所へ行って、事の次第を語ったので、「日本の名誉を上げた者だ」と、勘当も許してくれた。たくさんの褒美をもらったのを宗行にも差し出した。大勢の商人たちが新羅の人の言うのを聞いて語ったので、筑紫でも、日本の武士はすばらしいものだとほめそやしたという。                                                                                                                             

語句  

■壱岐守(いきのかみ)-壱岐国(長崎県壱岐島)の島司。壱岐島は長崎県東松浦半島の北々西の海上にあり、対馬とともに古来、九州と朝鮮半島とを結ぶ交通の要路にあった。■宗行(むねゆき)-伝未詳。■はかなき事-ささいな事。取るに足りないような事。つまらない事。■主の-宗行が。■新羅国(しらぎのくに)-かって朝鮮半島の東南部にあった古い王国の名。しらぎ・しんら、と読む。紀元前五七年に興り、七世紀にいったんは朝鮮全土を統一するが、九三五年に高麗国に滅ぼされた。■金海-現在の大韓民国慶尚南道金海郡の地。四~六世紀にかけて任那(みまな)日本府が置かれていた。■国府(こふ)-国守の役所のあった場所。金海郡の首都。■いくつばかりあるぞ-何頭ぐらいいるのか。■あひて-出会って。立ち向って。■かしこくば-すぐれて強ければ。■ただむなしうは-ただ何もせずには。ただ無意味には。■兵(つはもの)の道わろきにこそはあめれ-武芸の術には劣っているようだ。郎等にはたった一頭の虎の出没に振り回されている状態が解せなかった。■かしこき事かな-耳よりな事。ありがたくうれしい話。

■かかる事をば申すぞ-郎等が口にした「この国の人は兵の道わろきにこそはあめれ」を受ける。■我が身をば全(また)くして-自分の身の安全を確保したうえで。■おぼろげにて-不徹底になるのであって。どっちつかずの結果になってしまうのであって。この語を「まかりあはぬ」にかけて解する場合には、逡巡(しゅんじゅん)して、不安になって、の意となる。■まかりあはぬ-立ち向おうとしない。対決するのを避ける。■よき事も候ふめり-うまくいくこともあるようです。よい結果となることもあるわけでしょう。■弓矢に携はらん者-武芸に生きるような者が。■さて-それならば。ところで(実際問題として)。■生き生かずは知らず-生きるか死ぬかはともかくとして。「生く」は中古までは四段活用。「生か-ず」に明確にその名残が認められる。■いみじき悦びせん-十分な褒美を出そう。■頭を食ひて-まず相手の息の根を止めて少し味わい、それを自分の住みかに持ち運んで、ゆっくりと念を入れて食べる、という習性に基づく行動。■猫の鼠(ねずみ)を窺(うかが)ふやうに-これより早く、康平三年(1060)前後に成立の藤原明衡の『新猿楽記』に「譬(たと)ヘバ鼠ノ猫ニ会ヘルガ如ク」(原漢文)という類例が見える。■さはれ-どうなろうとも。■廿四町-書陵部本などは「廿余町」。■ただ知り侍らずとも-じかには知ってはいないのですが。■調度-ここは、弓・胡簗(やなぐい)(矢を入れて背負う入れ物)を指す。■はかなし-愚かである。馬鹿げている。■麻(を)の長(たけ)四尺-麻の高さはここでは、「四尺ばかり」(約1.3メートル)とあるが、ものによっては2メートル以上にもなるので、それがびっしりと植えられた畑は虎が姿を隠すには格好の場所となる。書陵部本などでは麻の高さを「四、五尺斗」とする。■尖矢(とがりや)をはげて-矢じりの先端が鋭くとがている矢。四枚羽がつき、回転力が強いので、物を射通す威力にすぐれる。「はげて」は、つがえて、の意。■ついひらがりて-平たく伏せるように身構えて。■頤(おとがひ)の下より項(うなじ)に-あごの下から首の後ろに。■雁股-矢じりの内側に刃が付いていて、物を射切るに威力があった。■三つながら-三本ともみな。すぐ前の「二たびながら土に射つけて」の場合も同じで、「二度ともみな」の意。完璧に成就していることを確認する言い方。■いといみじ-まったくみごとな手並みのほどである。直後の守の讃嘆の言葉からすれば、「まことに恐ろしい虎のありさまだ」と、虎への驚嘆と解することはできない。■何わざをかせん-何の手出しもできないだろう。手も足も出せないだろう。■この国の人は云々-以下、郎等の日本式的なやり方に対して、新羅の人々の毒矢による虎討ちの方法を述べる。■たちまちにその庭に-ただちにその場に。■当るべくもあらず-対抗することはできない。(とても)かないそうもない。                                           

備考・補足

■新大系が指摘しているように、『百錬抄』永歴元年(1160)四月二十八日条に、対馬島司から、高麗国の金海府によって、本進房なる者と銀の採丁者が禁固されたことが報じられている。対馬や隠岐、壱岐などと新羅との交流は日常茶飯事であった証拠である。
金海府で虎騒動に巻き込まれ、虎退治をするはめになった壱岐の男は、その結果まことにみごとに虎を射倒して、捨身の戦法の優秀さを示し、大いに日本武道の名を挙げたという本話の一件なども、あり得た事実を物語っている。

朗読・解説:左大臣光永