宇治拾遺物語 13-3 俊宜(としのぶ)、まどはし神に合ふ事

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今は昔、三条院の八幡(やはた)の行幸に、左京属(さきやうのさくわん)にて、邦の俊宜(としのぶ)といふ者の供奉(ぐぶ)したりけるに、長岡に寺戸といふ所の程行きけるに、人どもの、「この辺(へん)には迷神(まよひがみ)あんなる辺(へん)ぞかし」といひつつ渡る程に、「俊宜も、さ聞くは」といひて行く程に、過ぎもやらで、日もやうやうさがれば、今は山崎のわたりには行き着きぬべきに、あやしう同じ長岡の辺を過ぎて、乙訓川(おとくにがは)の面(つら)を過ぐと思へば、また寺戸の岸を上(のぼ)る。寺戸過ぎてまた行きもて行きて、乙訓川の面に来て渡るぞと思へば、また少し桂川(かつらがは)を渡る。

やうやう日も暮方(くれがた)になりぬ。後先(しりさき)見れば、人一人(ひとり)も見えずなりぬ。後先(しりさき)に遥(はる)かにうち続きたる人も見えず。夜の更(ふ)けぬれば、寺戸の西の方(かた)なる板屋の軒におりて、夜を明かして、つとめて思へば、我は左京の官人(くわんにん)なり。九条にてとまるべきに、かうまで来つらん、きはまりてよしなし。それに同じ所を夜一夜めぐり歩(あり)きけるは、九条の程より迷はかし神の憑(つ)きて、率(ゐ)て来るを知らで、かうしてけるなめりと思ひて、明けてなん西京(にしのきやう)の家には帰り来たりける。俊宜が正(まさ)しう語りし事なり。

現代語訳

今は昔、三条院が八幡の石清水八幡宮へ行幸をなされた折のこと、左京職の四等官で邦の俊宜という者が御供をしていた。長岡の寺戸という所を通る時に、人々が「この辺りには人を迷わす神がいるそうですよ」と言いながら通って行った。「俊宜もそのように聞いているわ」と言って、行くうちに、いくら行っても先に進まず、日も次第に傾いていく。今は山崎の辺りまでは行き着いている時刻だが、変な事にまた同じ長岡の辺りを過ぎて、乙訓川のほとりを通ったかと思えば、また寺戸の岸を上って行く。寺戸を過ぎてまたどんどん行って、乙訓川のほとりへ来て、渡るなと思うと、また前に通った桂川を渡る。

次第に日も落ち、暮れ方になった。後方を見ると人一人も見えなくなった。遥か後方に続く人も見えない。夜も更けてきたので、寺戸の西にある板葺きの屋根の家の軒先を借りて夜を明かし、翌朝思うに、「自分は左京職の役人である。昨夜は九条で泊まるべきだったのに、ここまで来てしまったとは、まったくつまらないことをしたものだ。それに同じ所を夜通し歩き続けたのは、九条の辺りから人を迷わす神に取り憑かれ、それを連れてきているのを知らずに、このようにしてしまったのであろう」と思って、明けてから西京の家に帰って来たのであった。俊宜が確かに語った事である。

語句  

■三条院-第六十七代天皇(976~1017)。寛弘八年(1011)~長和五年(1016)まで在位。■八幡の行幸-京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮への行幸。在位中の同宮への行幸は、長和二年(1013)十一月二十八日(『扶桑略記』など)。その翌日十五日には賀茂神社に行幸している。■左京属-左京職の四等官。■邦の俊宜-大系は、『除目大成抄』に「長保二年秋、左京少属従七位上国宿禰利述」と見える人物を同人かとする。『今昔』巻巻二七-四二話では「利延」。■供奉-行幸などの行列に供をすること。また、その人。■寺戸-往年の長岡京、現在の京都府向日市市内。■迷神(まよひがみ)-『今昔』は「迷ハシ神」。■あんなる-いるという。■かし-(終助詞)念押し。~ね。~よ。~だよ。~な。■渡る-通る。■さ聞くは-そう聞いているよ。■過ぎもやらで-通り過ぎもしないで。■やうやうさがれば-しだいに傾くので。■山崎-京都府乙訓郡大山崎町。■わたりには-あたりには。■行き着きぬべきに-行き着くはずであるが。■あやしう-変な事に。■乙訓川-京都市西京区の大枝山を源として、向日市の西を流れ、桂川に合流する。小畑川、沓掛川とも。■面を-ほとりを。■行きもてゆきて-どんどん行って。■少し桂川を-『今昔』は「過ニシ桂川ヲ」。

■やうやう-しだいに。■後先-後方。後方の人。■板屋-板ぶきの屋根の家。■つとめて-翌朝。■西京の官人-西京職の役人。■かうまで来つらん-ここまで来てしまったとは。■きはまりて-まったく。■よしなり-つまらないことだ。■それに-それにしても。■夜一夜-夜どおし。■かうしてけるなめり-このようにしてしまったのであろう。■明けてなん-『今昔』は「其レヨリナム」。夜が明けてから。■西京-京の朱雀大路より西の区域。■まさしう-確かに。

朗読・解説:左大臣光永

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