宇治拾遺物語 13-10 慈覚(じかく)大師、纐纈城(かうけちじやう)に入り行く事

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昔、慈覚(じかく)大師仏法を習ひ伝へんとて、唐(もろこし)へ渡り給ひておはしける程に、会昌(くわいしやう)年中に、唐武宗(たうのぶそう)仏法を滅(ほろぼ)して、堂塔をこぼち、僧尼を捕へて失ひ、或は還俗(げんぞく)せしめ給ふ乱にあひ給へり。大師をも捕へんとしける程に、逃げて、ある堂の内へ入り給ひぬ。

その使(つかひ)、堂へ入りて捜しける間、大師すべき方(かた)なくて仏の中に逃げ入りて、不動を念じ給ひける程に、使求めけるに、新しき不動尊、仏の御中におはしける。それをあやしがりて、抱(いだ)きおろして見るに、大師もとの姿になり給ひぬ。使驚きて、御門(みかど)にこの由奏(よしそう)す。御門仰(みかどおほ)せられけるは、「他国の聖(ひじり)なり。すみやかに追ひ放つべし」と仰せられければ放ちつ。

大師喜びて他国(たこく)へ逃げ給ふに、遥(はる)かなる山を隔てて人の家あり。築地(ついじ)高くつきめぐらして一の門あり。そこに人立てり。悦(よろこ)びをなして問ひ給ふに、「これは一人(ひとり)の長者の家なり。わ僧は何人ぞ」と問ふ。答へて曰(いは)く、「日本国より仏法習ひ伝へんとて渡れる僧なり。しかるに、かくあさましき乱れにあひて、しばし隠れてあらんと思ふなり」といふに、「これは、おぼろけに人の来たらぬ所なり。しばらくここにおはして、世しづまりて後(のち)出でて、仏法も習ひ給へ」といへば、大師喜びをなして、内へ入りぬれば、門をさし固めて奥の方(かた)に入るに、尻(しり)に立ちて行きて見れば、さまざまの屋を造りつづけて、人多く騒がし。傍(かたは)らになる所に据(す)ゑつ。

さて、仏法習ひつべき所やあると見歩(みあり)き給ふに、仏経、僧侶等すべて見えず。後(うし)ろの方、山に寄りて一宅(たく)あり。寄りて聞けば、人のうめく声あまたす。あやしくて、垣の隙(ひま)より見給へば、人を縛りて上よりつり下げて、下に壷(つぼ)どもを据ゑて血をたらし入る。あさましくて故(ゆゑ)を問へども、いらへもせず。大にあやしくて、また異所(ことどころ)を聞けば、同じくによふ音す。覗(のぞ)きて見れば、色あさましう青びれたる者どもの、やせ損じたる、あまた臥(ふ)せり。一人を招き寄せて、「これはいかなる事ぞ。かやうに堪へがたげにはいかであるそ」と問へば、木の切(きれ)をもちて細き腕(かひな)をさし出でて、土に書くを見れば、「これは纐纈城(かうけちじやう)なり。これへ来たる人には、まづ物いはぬ薬を食はせて、次に肥(こ)ゆる薬を食はす。さてその後(のち)、高き所につり下げて、所々をさし切りて、血をあやして、その血にて纐纈(かうけち)を染めて売り侍るなり。これを知らずして、かかる目を見るなり。食物(くひもの)の中に、胡麻(ごま)のやうにて黒ばみたる物あり。それは物言はぬ薬なり。さる物参らせたらば、食ふまねをして捨て給へ。さて人の物申さば、うめきのみうめき給へ。さて後に、いかにもして逃ぐべき支度(したく)をして逃げ給へ。門は固くさして、おぼろけにて逃ぐべきやうなし」と、くはしく教へければ、ありつる居所に帰り居給ひぬ。

さる程に、人、食物(くひもの)持ちて来たり。教へつるやうに気色(けしき)のある物、中にあり。食ふやうにして懐(ふところ)に入れて、後(のち)に捨てつ。人来りて物問へば、うめきて物ものたまはず。今はしおほせたりと思ひて、肥(こ)ゆべき薬をさまざまにして食はすれば、同じく食ふまねして食はず。人の立ち去りたるひまに、丑寅(うしとら)の方に向ひて、「我が山の三宝助け給へ」と、手を摺(す)りて祈請(きせい)し給ふに、大(おほ)きなる犬一疋(ぴき)出(い)で来(き)て、大師の御袖(そで)を食ひて引く。様(やう)ありと覚えて、引く方(かた)に出で給ふに、思ひかけぬ水門(みずと)のあるより引き出(いだ)しつ。外に出でぬれば、犬は失(う)せにけり。

今はかうと思(おぼ)して、足の向きたる方(かた)へ走り給ふ。遥(はる)かに山を越えて人里あり。人あひて、「これはいづ方(かた)よりおはする人の、かくは走り給ふぞ」と問ひければ、「かかる所に行きたりつるが、逃げてまかるなり」とのたまふに、「あはれ、あさましかりける事かな。それは纐纈城(かうけちじやう)なり。かしこへ行くぬる人の帰る事なし。おぼろけの仏の御助けならでは、出づべきやうなし。あはれ、貴(たふと)くおはしける人かな」とて、拝みて去りぬ。

それよりいよいよ逃げ退(の)きて、また都へ入りて忍びておはするに、会昌六年に武宗(ぶそう)崩じ給ひぬ。翌年大中元年、宣宗(せんそう)位につき給ひて、仏法滅(ほろぼ)す事やみぬれば、思ひのごとく仏法習ひ給ひて、十年といふに日本に帰り給ひて、真言(しんごん)を広め給ひけりとなん。

現代語訳

昔、慈覚大師が仏法を習い伝えようとして、唐へお渡りになっておられた時、会昌年中に、唐の武宗が仏教を禁止て、宝塔を破壊し、僧尼を捕らえて殺したり、あるいは還俗せしめるといった大きな動乱に遭遇なさった。大師をも捕らえようとしたので、逃げて、あるお堂の中にお入りになった。

その追手の役人がお堂へ入って捜している間、大師は、どうしようもなくて仏像の間に逃げ込んで、不動尊を祈っておられた。役人が捜しまわってみると、新しい不動尊が他の仏像に交じって鎮座しておられた。役人は不思議に思って、抱き降ろして見ると、大師はもとの姿に戻られた。役人は驚いて、御門にこの事を帰って申し上げると、「他国の聖じゃ。すぐに追放せよ」と仰せられたので、赦免した。

大師は喜んで他国へお逃げになったが、山また山を越えた、中国の都から遠く離れた地点に人家がある。築地を高く廻らせて一つの門があり、そこに男が立っていた。喜んでお尋ねになると、「これはある長者の家である。お坊さんはどなたです」と聞き返す。大師が答えて、「私は日本の国から仏教を習い伝えようとして渡って来た僧です。しかるに、このような驚くべき仏教弾圧の動乱に会いましたので、しばらく隠れていようと思っているのです」と言うと、「ここは、めったに人が来ない所です。しばらくここにおられて、混乱が静まってから、お出になって仏教を習われたらいかがか」と言うので、大師が喜んで、中に入ると、男は門を固く閉ざして奧の方にに入って行く。その後について行って見ると、さまざまな家屋が連なって建てられており、人が多く住んでいて騒がしい。男はその一隅に大師を住まわせた。

そこで、仏法を習えそうな所があるかと見歩くと、経典とか僧侶などまったく見当たらない。山に近い奧まった所に一軒の家がある。近寄って窺うと、たくさんの人のうめき声がする。奇妙に思って垣根の隙間から覗かれると、人間を縛って上から吊り下げ、その下に壷などを据え置いて血をたらし入れている。びっくりしてわけを尋ねるが返事もしない。大いに奇妙で、また他の建物のある場所で、中の物音に耳を澄ませると、同じくうめき声がする。覗いて見ると、驚くほど青ざめた色の者どものやせ細ったのが大勢寝ている。そのうちの一人を招き寄せて、「これはいったいどうしたことか。こんなに堪えがたい様子でどうしたというのだ」と聞くと、木切れを使って細い腕を差し出して地面に何かを書く。それを見ると、「ここは纐纈城(こうけちじょう)です。ここへ来た者には、まず、言葉がでなくなる薬を食わせます。次には肥る薬を食わせるのです。そして後では、高い所に吊り下げられ、所々、切り傷を入れられて、血をしたたらせられて、その血で纐纈を染めて売っているのでございます。これを知らずにこのような目にあっております。食物の中に胡麻のように黒みがかった物が入っております。それが口がきけなくなる薬なのです。それを持って来て勧めたならば、食う真似をしてお捨てなさい。それから人が話しかけたならばうめくだけうめきなさい。後で、どのようにでも逃げる支度をしてお逃げなさい。門は固く閉ざされていて、容易な事では逃げられはしないが」と、詳しく教えてくれたので、元の指定された小屋へ戻って座っておいでになった。      

そうしていると、男が食物を持って来た。先ほどの人が教えたように、怪しげな物が中に入っている。大師は食うふりをして懐に入れ、後になって捨てた。男が来て物を聞くと、うめいて物をおっしゃらない。先方は、そろそろ薬が効いてきた頃だろうと思って、肥る薬をいろいろ工夫して食わせると、大師は同じように食う真似をして食わない。男が立ちさった隙に、北東の方角に向って「我が山の三宝よお助けください」と手を摺って祈りを捧げると、大きな犬が一匹出て来て、大師の御袖を咥えて引っ張る。何かわけがあるに違いないと思って、引っ張られる方に出て行かれると、犬は思いがけず水門のある所から大師を引き出した。外に出ると、犬は消えてしまった。

もうこれで助かるとお思いになって、足の向く方に走って行かれた。遥かに山を越えて人里がある。途中で里人と会い、「これはどちらからお出でのお方か。こんなにお走りになって」と聞くので、「こういう所へ行ったのだが、逃げて来たのです」とおっしゃると、「ああ、、驚いたことです。それは纐纈城です。あすこへ行った人が帰って来たためしはございません。格別の仏のお助けがなかったら、出ることもできなかったはずです。ああ、なんと、尊いお方であられることよ」と言って、礼拝して立ち去った。

そこからどんどん逃げ延びて、また都に入ってひっそりと隠れておられたが、会昌六年に武宗がお亡くなりになった。翌年大中元年、宣宗(せんそう)が位におつきになり、仏教を弾圧するのは取りやめになったので、思うように仏法を学ばれて、入唐後十年という年に日本にお帰りになり、真言密教を広められたという。

語句  

■慈覚大師-円仁(794~864)。壬生氏、下野国(栃木県)の人。十四歳で比叡山に登り、最澄に就いて止観を学び、承和五年(838)遣唐使に従って入唐、五台山などで修学して、承和十四年帰朝。仁寿四年(854)、第三代天台座主に就任する。会昌年-唐の武宗の治世。841~846年。■唐武宗-唐朝第十五代皇帝李炎(814~846)。会昌三年(843)以後、道教以外の諸宗教を禁止、仏教にも大弾圧を加えた。■還俗-出家者が俗人に戻ること。会昌五年には、僧尼二十六万人余が還俗させられた。■御門(みかど)-「皇帝」の和語的な言い方。武宗をさす。

■遥かなる山を隔てて-山また山を越えた、中国の都から遠く離れた地点に。■築地(ついじ)-厚い土壁。『今昔』巻一一-一一話では、「城固ク築キ籠テ、廻リ強ニ固メタリ」と、堀は大きな城の周囲をめぐらしているように述べられている。■わ僧-お坊様。「わ」は接頭語。ここでは親しみの気持ちを添える。■かくあさましき乱れ-このような驚くべき仏教弾圧の混乱。『今昔』は「仏法ヲ亡ロボス世ニ会テ」とする。■おぼろけに人の来らぬ所-めったに人の来ない所。普通には人が近づかない、あなたにとっては追手の目を逃れるのに都合のよい場所だ、の意。■門をさし固めて-案内の者は門を固く閉ざして。『今昔』では「門ヲバ即チ差(さし)ツ」。一旦門内に入れた者は再び門外に出すまいとする厳重な監視体制を示す。後段の効果的な伏線となる。■傍らなる所-『今昔』では「空キ屋ノ有ルニ」とする。

■仏経-仏教の経典類。仏像や経典、の意味に解することもできる。■後(うし)ろの方、山に寄りて一宅(たく)あり-たくさんの小屋小屋から離れて奥まった山際に一軒の家があった。酸鼻な採血場。■また異所(ことどころ)を聞けば-他の建物のある場所で、中の物音に耳を澄ませると。■によふ音-うめき声。うなり声。■色あさましう青びれたる者ども-驚くほど青ざめた色の者ども。後出のように血を抜かれているため血色が極端に悪くなっている状態。■纐纈城-纐纈染の布を作る城。「纐纈」はわが国でも飛鳥・奈良時代に広く行われた絞り染めの呼称。糸で布の要所要所を結んでしみ染にする最も古い模様染め。「城」は、ここでは外部からは自由に出入りのできないような閉鎖的な構造の建物をさす。■血をあやして-血をしたたらせて。多量の出血で死なないように慎重に点滴式に採血を行っているさま。■さる物参らせたらば-そういう黒ごま状の物を持って来て勧めたならば。■さて人の物申さば-その後、人が話しかけたならば(それは薬の効き目を確かめるためだから)。■うめきのみうめき給へ-『今昔』では「物ヲ不云(いは)ヌ様ニテウメキテ、努々(ゆめゆめ)物宣フ事無カレ」とする。■おぼろけにて-容易なことでは。生半可なやり方では。■ありつる居所-先ほど指定された小屋。

■去る程に-そのうちに、やがて、後世。■気色のある物-怪しげな物。『今昔』では「胡麻ノ様ナル物盛テ居(す)ヘタリ」。■今はしおほせたり-もう薬が効いた。口が利けなくなる薬の効果がもう現れた。■丑寅の方-北東の方角。比叡山が京都の北東方にあることからの連想によるか。中国から見れば、「辰巳」(南東)とでもあるべきところで、実際には見当違いの方角に向っていることになる。■我が山の三宝-比叡山延暦寺の仏たち。『三宝』は個別的には仏(釈迦仏・菩薩)・法(経典)・僧(僧侶・修行者)をさすが、総じて仏をいうことが多い。『今昔』では「本山ノ三宝薬師仏、我レヲ助ケ古郷ニ返ル事ヲ令特(えし)メ給へ」とする。■様ありと覚えて-何かわけがあると思って。それに従がうべき理由がある。

■今はかうと思して-もう大丈夫だと思って。■遥かに山を越えて人里あり-前出の「遥かに山を隔てて人の家あり」と対照する表現。■おぼろけの-「おぼろけならず」の意。格別の仏のお助けがなくては。

■都-長安(現在の西安)をさす。■会昌六年-846年。■宣宗(せんそう)-唐朝第十六代皇帝李忱。在位846~859年。■十年といふに-入唐後十年目の年。■真言-真言密教。大日経・金剛頂経・蘇悉地経などに基づく宗義。

朗読・解説:左大臣光永

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