宇治拾遺物語 13-11 渡天の僧、穴に入る事

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原文

今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺(てんぢく)に渡りて、他事(たじ)にあらず、ただ物のゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山(かたやま)に大(おほ)きなる穴あり。牛のありけるがこの穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。遥(はる)かに行きて、明(あか)き所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色いみじきが咲き乱れたり。牛この花を食ひけり。試みにこの花を一房取りて食ひたりければ、うまき事、天の甘露(かんろ)もかくあらんと覚えて、めでたかりけるままに多く食ひたりければ、ただ肥(こ)えに肥え太りけり。

心得ず恐ろしく思ひて、ありつる穴の方(かた)へ帰り行くに、初めはやすく通りつる穴、身の太くなりて狭(せば)く覚えて、やうやうとして穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪(た)へがたき事限りなし。前を通る人に、「これ助けよ」と呼ばはりけれども、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも何と見えけるやらん、不思議なり。日比(ひごろ)重なりて死にぬ。後(のち)は石になりて、穴の口に頭をさし出(いだ)したるやうにてなんありける。玄奘三蔵
天竺(げんじやうさんざうてんじく)に渡り給ひたりける日記にこの由(よし)記されたり。

現代語訳

今は昔、唐にいた僧が、天竺に渡って、特に目当てがあるわけでもないが、いろいろと見物してみたかったので、見物をして歩き回り、所々を見歩いていた。するとある山の片側に大きな穴があった。目の前にいた牛がこの穴の中に入ったのを見て、中がどうなっているのか見たいと思われ、牛の行くのに従って、僧も入って行った。穴の奥深くまで進んで行くと、やがて明るい所に出た。見回すと、そこは、別世界かとも思われ、見たこともない花が色美しく咲き乱れていた。牛はこの花を食った。そこでこの僧も試しにこの花を一房取って食べたところ、そのうまい事といったら、天の甘露もかくやと思われ、たぐいまれな美味であるのにつられて、沢山食べると、ただ肥りに肥ってしまった。

わけがわからず恐ろしく思って、さきほど出て来た穴の方へ帰って行くと、来たときは、簡単に通れた穴が、大きく肥ったため狭く感じた。やっとのことで穴の入口までは戻れたが、穴の外へ出る事はできず、その息苦しいことといったらない。前を通る人に、「私を助けてくれ」と呼びかけてみたが、聞き入れる人もいない。また、助けてくれる人もいなかった。人の目には何と見えたのであろうか。不思議な事である。数日後には死んでしまった。その後は石になって、穴の入口に頭を差し出したようになっていた。玄奘三蔵が天竺に渡られた折に書かれた日記にこのことが記されている。

語句  

■渡天-天竺に渡ること。天竺はインドの古称。■他事にあらず-特別の目当てはなく。■ただ物のゆかしければ-ともかくいろいろ見物してみたかったので。異国への好奇心の旺盛な旅の僧侶。その旺盛すぎる好奇心が命取りとなる。■しありき-「為歩く」で歩き回る、の意。■片山に-山の側面に。■ゆかしく覚えければ-穴の奥がどうなっているのか。牛は何の為に穴に入って行ったのかに興味を持ったので。好奇心の強い僧には、それを黙って見過ごす事ができなかった。■あらぬ世界-人間界とは別の世界。別世界。■いみじきが-美しいのが。■天の甘露-忉利天(とうりてん)の甘みの霊液。とびきり美味な不老不死の薬液で、一度これを服すると、飢えや苦をも忘れるとされていた。■かくやあらんと-こうであろうかと。■めでたかりけるままに-たぐいまれな美味であるのにつられて。すばらしい味であったので。■多く食ひたりければ-『打開集』二〇の類話では「三房バカリ食フ」とする。

■心得ず恐ろしく思ひて-異常な急速な肥り方に、このままここにいては出られなくなる、と身の危険を予感じて。■ありつる-さきほどの。■やすく-たやすく。■やうやうとして-やっとのことで。■え出でずして-穴の外へ出る事はできずに。引き続き肥満化が進行していたことをうかがわせる。それにしても「穴の口」は牛が入り込めるだけの広さがあったはずであった。そこから頭を出すのがやっととは、何たる巨人化のめざましさ。■堪(た)へがたき事限りなし-『打開集』は「内チホラナルニ帰モ帰ラズ、出ルモ出デテ、穴ヨリ頭許ヲ指出止ヌ」と身動きも出来ない息苦しい状態を述べる。■これ助けよ-私を助けてくれ。■見えけるにやらん-何と見えたのであろうか。■日比(ひごろ)重なりて-数日たって。■玄奘三蔵-中国唐代の僧(602~664)。太宗の貞観三年(629)インドに渡り、同十九年おびただしい仏典を携え帰国した。生涯に七十五部一三三五巻の経論を翻訳したと言われる。「三蔵」は経・律・論に通暁する高僧への敬称。■日記-『大唐西域記』をさすか。ただし、現存本にはこの話はない。

備考・補足

■類話である『今昔』巻五-三一話では、穴に入ったのは僧ではなく牛飼いで、出られなくなってからは、家族や国王までが救出を試みるが、成功しなかった、とする。トンネルをくぐり出た先が異郷であったという設定は、風土や時代を超えた類似の発想。

朗読・解説:左大臣光永