宇治拾遺物語 14-4 魚養(うをかひ)の事

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今は昔、遣唐使(けんたうし)の、唐(もろこし)にある間(あひだ)に妻を設(まう)けて子を生(う)ませつ。その子いまだいとけなき程に、日本に帰る。妻に契(ちぎ)りて曰(いは)く、「異(こと)遣唐使行(い)かんにつけて、消息(せうそこ)やるべし。またこの子、乳母(めのと)離れん程には迎へ取るべし」と契りて帰朝しぬ。母、遣唐使の来(く)るごとに、「消息やある」と尋ぬれど、敢(あ)へて音もなし。母大(おほ)きに恨みて、この児(ちご)を抱(いだ)きて日本へ向きて、児の首に「遣唐使それがしが子」といふ札(ふだ)を書きて結(ゆ)ひつけて、「宿世(すくせ)あらば、親子の中は行きあひなん」といひて、海に投げ入れて帰りぬ。

父、ある時難波(なには)の浦の辺(へん)を行くに、沖の方(かた)に島の浮びたるやうにて、白き物見ゆ。近くなるままに見れば、童(わらは)に見なしつ。あやしければ馬を控えて見れば、いと近く寄りくるに、四つばかりなる児の白くをかしげなる、波につきて寄り来たり。馬をうち寄せて見れば、大(おほ)きなる魚の背中に乗れり。従者(ずさ)をもちて抱(いだ)き取らせて見ければ、首に札あり。「遣唐使それがしが子」と書けり。「さは我が子にこそありけれ。唐(もろこし)にて言ひ契(ちぎ)りし児は問はずとて、母が腹立ちて海に投げ入れてけるが、しかるべき縁ありて、かく魚に乗りて来たるなめり」とあはれに覚えて、いみじくかなしくて養(やしな)ふ。遣唐使の行きけるにつけて、この由(よし)を書きやりたりければ、母も今ははかなきものに思ひけるに、かくと聞きてなん、稀有(けう)の事なりと悦(よろこ)びける。

さて、この子、大人になるままに手をめでたく書きけり。魚に助けられたりければ、名をば魚養(うをかひ)とぞつけたりける。七大寺の額(がく)どもは、これが書きたるなりけりと。

現代語訳

今は昔、ある遣唐使(けんとうし)が唐(もろこし)にいる間に妻をもうけ、子を生ませたが、その子がまだ幼い時に、日本に帰った。唐を離れる際、妻には、「ほかの遣唐使が行くのに言づてて便りをやろう。またこの子が乳離れした暁には迎えて日本に引き取ろう」と約束して帰朝した。母は遣唐使が来るたびに「便りはあるか」と尋ねたが、まったく音沙汰もない。母は約束が違うと大いに恨み、この児を抱いて日本の方角を向き、児の首に「遣唐使それがしが子」という札を書いて結びつけ、「前世からの縁があれば、親子の事、きっと行きあうだろう」と言って、その子を海に投げ入れて帰った。

さて、父親の遣唐使が、ある時難波の浦のあたりを行くと、沖の方に島が浮かび上がったように、白い物が見える。だんだん渚近くになるにつれてよく見ると、それは子供のようである。不思議に思い、馬を止めて見ていると、すぐ近くに寄って来る。四歳ぐらいの子供の色白で可愛らしいのが、波に揺られて寄って来た。馬を近づけてよく見ると、大きな魚の背中に乗っている。家来を使って抱き上げさせて見ると、子どもの首には札がかかっていて、「遣唐使それがしが子」と書いてある。「さては我が子であったか。唐で、引き取ると約束をして別れた児を、私が音信もしないというので、母が腹を立てて海に投げ入れたのが、縁あって、このように魚に乗って着いたのだろう」と胸打たれて、心から可愛がって育てた。新たな遣唐使が出発するのに托して、この事を唐にいる母に書いてやると、母親は、今はもう死んだものとあきらめていたところに、これを聞いて、驚いた事だと喜んだ。

それから、この子は大人(おとな)になるにつれて、文字を立派に書いた。魚に助けられたので、名をば魚養(うをかひ)とつけたそうである。南都の七大寺に掛かる額などは、この子が書いたものであるという。

語句  

■遣唐使-日本から中国の唐朝に派遣された使節。舒明二年(630)から承和五年(838)まで十数回に及んだが、寛平六年(894)に廃止された。ここの遣唐使は『本朝能書伝』によれば、一説に吉備真備(きびのまきび)。■乳母(めのと)離れん程には-乳幼児でなくなる頃には。男の手で養育できるようになったら。■宿世あらば-魚養は八世紀後半の人であるが、そのころの遣唐使は第十回が七三二年、第十一回が七五二年、第十二回が七五九年という具合で、初期のように数年おきではない。そうした事情に会わない叙述の見える本話は、遣唐使廃止後に成立したもの。■宿世あらば-前世からの定められた因縁があるならば。■親子の中は行きあひなん-親子の関係である以上、きっと行き会うだろう。

■難波-現在の大阪市とその周辺の古称。■四つばかりなる児の白くをかしげなる-四歳ばかりになる幼児の、色白でかわいらしい子が。これによれば、四か年の間に遣唐使が何回も派遣され、その度に母は消息を尋ねた事になり、事実に合わない。■波につきて-波に揺られて。■言ひ契りし児-引き取ると口約束してきた子。■今ははかなきものに思ひけるに-もはや死んだものとあきらめていたところに。

■手をめでたく書きけり-文字を立派に書いた。すばらしい能書家になったこと。■魚養(うをかひ)-朝野宿禰(すくね)魚養。宝亀~延暦(770~805)ごろに活躍した人。葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の六男の能書宿禰の末孫。播磨大堟。『南都七大寺巡礼記』には、魚養は遣唐使の父と唐人の母との間に生れ、成人して「天下第一之筆跡」になった見え、『入木抄』には「本朝は、魚養、薬師寺の額を書(かく)。是能書を用(もちゐし)最初也」とある。■七大寺-奈良の七大寺。すなわち東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。

朗読・解説:左大臣光永

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