宇治拾遺物語 14-8 仲胤僧都(ちゆういんそうづ)、連歌(れんが)の事

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原文

これも今は昔、青蓮院(しやうれんゐん)の座主(ざす)のもとへ七宮渡らせ給ひければ、御つれづれ慰め参らせんとて、若き僧綱(そうがう)、有識(うしき)など庚申(かうしん)して遊びけるに、上童(うへわらは)のいと憎さげなるが、瓶子取(へいしと)りなどしありきけるを、ある僧忍びやかに、

うへわらは大童子にも劣りたり

と連歌にしたりけるを、人々しばし案ずる程に、仲胤僧都(ちゆういんそうづ)その座にありけるが、「やや、胤(いん)、早うつきたり」といひければ、若き僧たち、「いかに」と顔をまもり合い侍りけるに、仲胤は、

祇園(ぎをん)の御会(ごゑ)を待つばかりなり

とつけたりけり。

これをおのおの、「この連歌はいかにつきたるぞ」と、忍びやかに言ひ合ひけるを、仲胤聞きて、「やや、わたう、連歌だにつかぬとつきたるぞかし」といひたりければ、これを聞き伝へたる者ども、一度に「はつ」と、とよみ笑ひけりとか。

現代語訳

これも今は昔、照蓮寺の座主の所へ、覚快法親王がお出でになられたので、御たいくつを御慰め申し上げようと、若い僧綱や有識などが庚申待をして夜を徹して遊んだが、その時に、ひどく憎たらしい顔つきをした上童が、お酌などをして回って歩いたが、ある僧がひっそりと、

うえわらは大童子にも劣りたり(この上童は、寺院に仕える大童子にも器量が劣っている)

と連歌に詠んだのを、人々がしばらく付け句を考えているうちに、仲胤僧都がその席におり、「やあ、私がもう付けましたぞ」と言ったので、若い僧たちは、「どのように」とみな顔を見まもっていると、仲胤は、

祇園の御会を待つばかりなり(祇園の御会の行列が来るのを今か今かと待っているばかりです)

と下の句を付けたのであった。

これをおのおのが、「この連歌はどのように付いているのか」と、こそこそと言い合っていたのを、仲胤が聞いて、「やあ、皆様がた、この上句では、下句など付けかねる」と付けたのだ。と言ったので、これを聞き伝えた者たちは、一度に、どっと大笑いしたという。

語句  

■青蓮院(しやうれんゐん)の座主(ざす)-藤原師実の子。行玄(1097~1155)。第四十八代天台座主。初代の青蓮主。■七宮-鳥羽天皇第七皇子、覚快法親王(1138~81)。行玄の弟子。第五十六代天台座主。■渡らせ給ひければ-おいでになったので。■御つれづれ-御たいくつを。■僧綱(そうがう)-僧尼を統括する僧正・僧都・律師または法印・法眼・法橋という高位の僧をさす。■有識(うしき)-已講(いこう):(「三会已講師」の略で、僧職、僧位の一つ)・内供(ないぐ):(宮中の道場で天皇に奉仕し、御斎会の読師、または夜居を務めた僧職)・阿闍梨:(師匠の意。文字どおりの意味は,伝統的な正しい態度,習慣や,確定された規定などを知り,保ち,実行する人の意の総称)■庚申-「庚申待ち」の略。庚申待ちとは:道教で、人間の体内にいる三尸(さんし)という虫は、庚申の夜、眠った人の体から抜け出して天帝のもとにいたり、その人の罪過を訴え、命を短くするとされた。そのために庚申の夜は物語や遊戯をしたりして眠らずに過ごすという風習があった。■上童(うえわらは)-宮中または貴人に仕える少年。■いと憎さげなるが-ひどく憎たらしげなのが。■瓶子取(へいじと)りなどしありけるを-お酌などをして回っていたのを。■忍びやかに-こっそりと。

■大童子にも劣りたり-この貴人に勤仕している少年の憎々しいような顔つきは、大童子(寺に仕える年配の男)よりもかわいげがないわい。

■しばし-しばらく。■案ずるほどに-(付句を)考えているうちに。■仲胤僧都-権中納言藤原秀仲の子。説法の名手として知られる延暦寺の僧。■やや-やあ。■早うつけたり-もう付けましたぞ。■まもりあひ侍りけるに-互いに見守っていると。

■祇園(ぎをん)の御会(ごゑ)・・・・-祇園会には田楽を囃(はや)す人々や疫病神などのふん装者が行列するが、たとえて言えば、その行列の到着を沿道でまだかまだかと待っているようなものだ。「行列が着かない」と「連歌の下句が付かない」とを掛けた。「祇園会」は八坂神社の祭礼。古くは陰暦六月七日~十四日。

■いかにつきたるぞ-どのように付けたのか。■忍びやかに-秘かに。■わたう-皆の衆。皆様がた。■連歌だにつかぬとつきたるぞかし-(この上童には)連歌さえつけられないとつけたのだぞ。■はつと-どっと。■とよみ笑ひけるとか-声をあげて笑ったとかいうことだ。                             

備考・補足

■仲胤の既出の話をみると、巻第一の二話では、「不浄説法する法師は、平茸(ひらたけ)に生れるのだ」という秘説によって謎解きをして人々を安堵させ、巻第五ノ十一話では、二番煎じの説経を「犬の糞(くそ)説経」と一刀両断して喝采(かっさい)を浴び、本話では一応は付けておきながら、「連歌だに付かぬ」との一種のどんでん帰しによって聞き手を煙に巻く、というような能説ぶりがうかがわれる。

■『古今著聞集』十八には、法勝寺の御八講におくれて慎んでいる間に、ある人からこぶしの花を送られて来たので、「くびつかれ頭かかへていでしかどこぶしの花のなほいたきかな」というように、当意即妙の歌を詠んだと伝えられる。このお連歌の付け方は、非常にわかりしくいものだが、「連歌だに付かぬと付きたるぞかし」というのは、上童のあまりの憎らしさに、連歌さえつけようがないとつけたのだと解され、いかにも機智に富んだ言葉のように思われる。   

朗読・解説:左大臣光永