宇治拾遺物語 15-1 清見原天皇(きよみはらのすめらみこと)と大友(おほともの)皇子と合戦(かつせん)の事 

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原文

今は昔、天智天皇の御子に大友皇子といふ人ありけり。太政大臣になりて世の政(まつりごと)を行ひてなんありける。心の中に、「御門失(みかどう)せ給ひなば、次の御門には我ならん」と思ひ給ひけり。清見原(きよみはら)の天皇、その時は春宮(とうぐう)にておはしましけるが、この気色(けしき)を知らせ給ひければ、「大友皇子は時の政をし、世のおぼえも威勢も猛(まう)なり。我は春宮にてあれば、勢も及ぶべからず。あやまたれなん」と恐(おそ)り思(おぼ)して、御門(みかど)病(やまひ)つき給ふ則(すなは)ち、「吉野山の奥に入りて、法師になりぬ」といひて籠(こも)り給ひぬ。

その時、大友皇子に人申しけるは、「春宮を吉野山に籠(こ)めつるは、虎(とら)に羽をつけて、野に放つものなり。同じ宮に据(す)ゑてこそ心のままにせめ」と申しければ、げにもと思(おぼ)して、軍(いくさ)をととのへて、迎へ奉るやうにして殺し奉らんと謀(はか)り給ふ。

この大友皇子の妻(め)にては、春宮の御女(むすめ)ましければ、父の殺され給はん事を悲しみ給ひて、「いかでこの事告げ申さん」と思(おぼ)しけれど、すべきやうなかりけるに、思ひわび給ひて、鮒(ふな)の包焼(つつみやき)のありける腹に、小さく文を書きて押し入れて奉り給へり。

春宮これを御覧じて、さらでだに恐れ思しける事なれば、「さればこそ」とて、急ぎ下種(げす)の狩衣(かりぎぬ)、袴(はかま)を着給ひて藁沓(わらぐつ)をはきて、宮の人にも知られず、ただ一人(ひとり)山を越えて、北ざまにおはしける程に、山城国田原(やましろのくにたはら)といふ所へ、道も知り給はねば、五六日にぞ辿(たど)る辿るおはし着きにける。その里人、あやしく、けはひのけだかく覚えければ、高坏(たかつき)に栗を焼き、またゆでなどして参らせたり。その二色の栗を、「思ふ事かなふべくは、生(お)ひ出でて木になれ」とて、片山のそへに埋(うづ)み給ひぬ。里人これを見て、あやしがりて標(しるし)をさして置きつ。

そこを出で給ひて、志摩国(しまのくに)ざまへ、山に沿ひて出で給ひぬ。その国の人あやしがりて問ひ奉れば、「道に迷ひたる人なり。喉(のど)渇きたり。水飲ませよ」と仰(おほ)せられければ、大(おほ)きなる釣瓶(つるべ)に水を汲みて参らせたりければ、喜びて仰(おほ)せられけるは、「汝(なんじ)が族(ぞう)に、この国の守(かみ)とはなさん」とて、美濃国(みののくに)へおはしぬ。

この国のすのまたの渡(わたり)に舟もなくて立ち給ひたりけるに、女の、大(おほ)きなる舟に布入れて洗ひけるに、「この渡(わたり)、何(なに)ともして渡してんや」とのたまひければ、女申しけるは、「一昨日(おとつひ)、大友の大臣の御使(つかひ)といふ者来たりて、渡(わたり)の舟ども、みな取り隠させて往(い)にければ、これを渡し奉りたりとも、多くの渡(わたり)、え過ぎさせ給ふまじ。かく謀(はか)りぬる事なれば、今、軍(いくさ)責め来たらんずらん。いかがしてのがれ給ふべき」といふ。「さてはいかがすべき」とのたまひければ、女申しけるは、「見奉るやう、ただにはいませぬ人にこそ。さらば隠し奉らん」といひて、湯舟をうつぶしになして、その下に伏せ奉りて、上に布を多く置きて、水汲みかけて洗ひゐたり。しばしばかりありて、兵(つはもの)四五百人ばかり来たり。女に問ふて曰(い)はく、「これより人や渡りつる」といへば、女のいふやう、「やごとなき人の、軍千人ばかり具(ぐ)しておはしつる。今は信濃国(しなののくに)には入り給ひぬらん」。いみじき竜のやうなる馬に乗りて、飛ぶがごとくしておはしき。この少勢にては、追ひつき給ひたりとも、みな殺され給ひなん。これより帰りて、軍(いくさ)を多くととのへてこそ追ひ給はめ」といひければ、まことにと思ひて、大友皇子の兵(つはもの)引き返しにけり。

その後(のち)、女に仰せられけるは、「この辺に軍(いくさ)催さんに、出で来(き)なんや」と問ひ給ひければ、女走り惑ひて、その国の宗(むね)とある者どもを催し語らふに、則(すなは)ちニ三千人ばかり兵(つはもの)出で来にけり。それを引き具して大友皇子を追ひ給ふに、近江国(あふみのくに)大津といふ所に追ひつけて戦ふに、皇子の軍敗れて、散り散りに逃げける程に、大友皇子、遂(つひ)に山崎にて討たれ給ひて頭を取らねぬ。それより春宮(とうぐう)、大和国(やまとのくに)に帰りおはしてなん位につき給ひけり。

田原(たはら)に埋み給ひし焼栗、ゆで栗は、形(かたち)も変らず生ひ出でけり。今に田原の御栗とて奉るなり。志摩国(しまのくに)にて水召させたる者は高階(たかしな)氏の者なり。さればそれが子孫、国守(くにのかみ)にてはあるなり。その水召したりし釣瓶(つるべ)は今に薬師寺にあり。すのまたの女は不破(ふは)の明神にてましましけりとなん。

現代語訳

今は昔、天智天皇の御子に大友皇子(おおとものみこ)という人がいた。太政大臣になって世の政治を司っておられた。心の中では、「御門がお亡くなりになったら次の御門は自分がなるであろう」と思われていた。天武天皇はその時は皇太子であられたが、この御心の内をご存知であったので、「大友皇子は時の政を執り行い、世間の評判も良く、勢いもある。私は皇太子なので、勢いも及ばない。きっと殺されるに違いない」と、恐れを抱き、御門が病の床におつきになるやいなや、「吉野山の奥に入って法師になります」と言って、お籠りになられた。

その時、大友皇子にある人が、「皇太子を吉野山に籠らせたのは、虎に羽根をつけて、野に放つようなものです。同じ宮殿に留め置いてこそ思い通りにできますものを」と申し上げたので、大友皇子は、なるほどと思われ、軍勢をそろえて、お迎え申し上げるようにして殺してしまおうとお謀(はか)りになった。

この大友皇子の妻は、皇太子の娘でおいでになったので、父が殺されようとしておられるのを悲しまれて、「何とかしてこの謀(はかりごと)をお知らせ申そう」と思われたが、知らせようもなかった。ついに思い悩まれて、たまたま鮒の包焼があったのを幸いに、その腹に、小さく手紙を書いて押し込んで遣わされた。

父の皇太子はこの手紙を御覧になって、そうでなくても恐れておられた事なので、「やはりそうであったか」と言って、急いで下男の狩衣を着、袴を履かれ、藁沓を履いて変装し、宮中の人にも知られず、たった一人で山を越え、北の方へお出でになった。こうして山城国田原という所に、道も御存じないので、五六日かかってようやく辿り着かれた。そこの里人は、皇太子を見て、何となくうさんくさいが、その中にも気高い様子を感じ取り、栗を焼いたり、茹でたりして高坏に盛ってさし上げた。その二種類の栗を、「願い事が成就するなら、芽を出して木になれ」と言って、山の傍らに埋められた。里人はこの様子を見ていて、不思議に思い、そこに目印を挿して置いた。

皇太子は、そこを出られてから、志摩国の方角へ、山に沿って出て行かれた。その国の人がいぶかしんでお尋ねになると、「道に迷った者だ。喉が渇いた。水を飲ませよ」と仰せられたので、大きな釣瓶(つるべ)に水を汲んでさし上げると、皇太子は喜んで、「お前の一族を国の守(かみ)にしてやろう」と仰せになって、美濃国(もののくに)へおいでになった。

この国の墨俣(すのまた)の渡し場に舟もなくて、お立ちになっておられると、女が大きな桶に布を入れて洗っていた。そこで、皇太子が、「この渡し場からどうにかして渡してもらえないか」とおっしゃると、女は、「一昨日(おとつひ)、大友の大臣の御使いという者が来て、渡し船などをみな取り隠させて行ってしまいましたので、ここをお渡ししたとしても、この先の多くの渡し場を渡る事はできますまい。こうして手を打っていることですから、今ごろ追手の軍勢が攻めて来ているに違いありません。とてもお逃げにはなれますまい」と言う。「では、どうすればよいのか」と仰せになると、女は「お見受けいたしますと、只人ではいらっしゃらないようにお見受けいたします。それでは、お隠し致しましょう」と言って、桶をひっくり返して、その下にお隠しして、その上から布をたくさん被せ、水を汲み掛けては、洗っていた。しばらくしてから、兵が四五百人ほどやって来た。兵たちが女に尋ねて言う、「ここから人が渡ったか」と聞くと、女は、「身分の高そうな人が千人ほどの兵を連れてお出でになりました。今ごろは信濃国にお入りになったことでしょう。すばらしい竜のような馬に乗って、飛ぶようにしておいでになりました。この少ない軍勢では、追いついたとしても皆殺されてしまうでしょう。ここから引き返して軍勢を多く整えたうえでなら追いかける事もできましょう」と言ったので、「なるほど」と思って、大友皇子の兵は引き返してしまった。

その後で、皇太子が女に仰せられた。「この辺りで軍勢を募ったら、集って来るだろうか」とお尋ねになったので、女はあちこち走り回って、その国の有力者たちを集めて説き臥せると、すぐにニ三千人ほどの兵が集まって来た。その軍勢を引き連れて大友皇子の軍を追撃され、近江国(おうみのくに)大津という所で追いついて戦闘を交えると、皇子の軍は敗れ、散り散りに逃げ去ったので、遂に、大友皇子は山崎で討ち取られ、首を取られた。

それから皇太子は、大和国(やまとのくに)にお帰りになり、皇位に就かれた。田原で埋められた焼栗とゆで栗は、形も変らず芽を出した。今でも田原の御栗といって宮中に献上するのである。志摩国(しまのくに)で水をさし上げた者は高階(たか)氏の者で、それによってその子孫が国守になっているのである。その水をさし上げた釣瓶(つるべ)は今でも薬師寺にある。墨俣(すのまた)の女は不破(ふわ)の明神の化身であられたということである。

語句  

■天智天皇-第三十八代天皇(626~671)。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。舒明天皇の子、母は皇極(斉明)天皇。公地公民制と律令制による中央集権国家を目指した大家改新を主導し、近江国(滋賀県)大津京に遷都した。■大友皇子-天智天皇の第一皇子(648~672)。天智十年(671)正月、太政大臣、続いて叔父の大海人皇子(おおあまのおうじ)に対抗して皇太子となる。同年十二月に即位したが、翌年七月、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側に敗れて自殺。明治三年(1870)、第三十九代弘文天王と追贈された。■太政大臣-律令制の最高官。太政官の長官で、大友皇子が初任。■清見原の天皇-第四十七代天武天皇(?~686)。天智天皇の同母弟、大海人皇子。出家して吉野へ入るが、天智天皇の没後、壬申の乱で大友皇子を倒し、都を飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)に移して即位した。■春宮(とうぐう)-皇太子の別称。天智七年、天智天皇の即位時に、公式に皇太弟(次の天皇位継承者)として承認されていたことをさす。■あやまたれなん-きっと殺されるに違いない。

■虎(とら)に羽をつけて、野に放つものなり-威勢のある者に、思いのままに行動する自由を許し、さらに威力を添えさせるたとえ。『日本書紀』天武天皇即位前紀辛未年十月十九日条に「吉野宮ニ入リタマフ。(略)或ハ曰ク、虎ニ翼ヲ着ケテコレヲ放テルナリト」と見える。■据ゑてこそ-お住まわせになってこそ。■心のままにせめ-思いのままにできるでしょう。

■御女(むすめ)-十市皇女(?~678)をさす。父は大海人皇子、母は額田王(ぬかたのおおきみ)。『扶桑略記』は世間の伝聞として「大友皇子ノ妃、コレ天皇ノ女ナリ。ヒソカニ謀事ヲモテ隠レテ消息ヲ通ズ」と伝える。■ましければ-おいでになったので。■鮒の包焼-鮒の内臓を取り出して、代りに酒塩で調味した昆布、串柿、蒸栗、胡桃(くるみ)、けしなどを詰めて焼いたもの。■さればこそ-やはり思っていたとおりだ。大友皇子側を警戒はしていたが、娘の機転の手紙によって、「軍をととのへて、迎へ奉るやうにして殺し奉らん」という謀略が実際にあると知った驚き。■下種の狩衣-身分の低い者の着用する衣服。ただし、この服装が七世紀の当時一般化していたかは疑問。■山城国田原-現在の京都府綴喜(つづき)郡宇治田原の地。後出のように古来、栗の産地であった。■高坏(たかつき)-食物を盛る土製の皿器で、一本の高い足台のついているもの。■思ふ事かなふべくは、生(お)ひ出でて木になれ-本話と同じ題材を扱っている謡曲「国栖(くず)」では、天武天皇の供御(くご)の国栖魚の食べ残しを吉野川に放して吉凶を占っている。

■志摩国-現在の三重県の東部一帯。■汝が族(ぞう)に-なんじの一族に。■国の守-広義には、守(かみ)だけでなく、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四等官すべての総称でもあったので、ここはその意味か。■美濃国(みののくに)-現在の岐阜県の南部一帯。

■すのまたの渡(わたり)-岐阜県安八(あんぱち)郡墨俣(すのまた)町。その地の長良川沿いの渡し場。■大きなる舟-木製の大きな洗濯桶。■何ともして渡してんや-どうにかして渡してくれまいか。■かく謀りぬる事なれば-こうして手を打っていることですから、の意。■今、軍(いくさ)責め来たらんずらん-まもなく、追手の軍が攻めて来ることでしょう。■見奉るやう-お見受けいたしますと。書陵部本などは、「見奉るやうあり」とする。■ただにはいませぬ人にこそ-普通ではいらっしゃらない人。ただの人ではない特別なお方。■湯舟をうつぶしになして-謡曲「国栖(くず)」では、洗濯している女ではなく、老人が本物の舟を伏せた下に天武天皇を隠す。■軍千人ばかり具(ぐ)しておはしつる-追手の兵たちをたじろがせるために誇張した人数を言った。■信濃国(しなののくに)-現在の長野県。■いみじき竜のやうなる馬-すばらしく足の速い竜のような名馬。いわゆる「竜馬」といえば、中国では標準的な馬の背丈(前足の高さ)は四尺(約1.3メートル)、それに対して八尺以上の駿馬(しゅんめ)をいう{周礼(しゅらい)}。次の「飛ぶがごとくして・・・」以下も追手の戦意をくじき、引き返させようとした一連の意図的な「おどし」的返答。

■軍(いくさ)催さんに-軍兵を募集したならば。■その国の宗とある者ども-美濃国で勢力を持っている者たち。いわゆる有力者たち。そういう者たちの間を奔走してたちどころに談合をさせる事のできる「女」も「ただにはいませぬ者」であると察知される。それもそのはず、後出のように彼女は美濃国の一の宮の不破明神であった。■大津-天智天皇の御所であった大津の宮付近。一説には現在の大津市南滋賀町のあたり。■山崎にて-『日本書紀』天武壬申(672)七月二十三日条には「是ニ於テ大友皇子走ニゲテ入ラム所無シ。及チ還リテ山前(やまさき)ニ隠レテ自ラ縊(くび)レヌ」とある。なお、この「山前」の地については、①近江国滋賀郡長等山、②河内国茨田郡三矢村山崎、③山城国乙訓郡大山崎など諸説がある。しかし、ここでの分脈からすれば、①以外には考え難い。■頭を取られぬ-大友皇子の首級が大海人皇子のもとに献じられたのは、七月二十六日のこと。■位につき給ひけり-大海人皇子の即位については、『日本書紀』天武紀葵酉(673)二月二十七日条に、この日、飛鳥浄御原宮(現在の奈良県高市郡明日香村の地)で即位式を挙行したことが見える。■薬師寺-天武天皇の発願により、文武二年(698)、藤原京に完成。平城遷都にともない、養老二年(718)、西の京に移る。法相宗の大本山。■不破の明神-岐阜県不破郡垂井町の南宮神社。もと仲山金山彦神社。『神社考』に「南宮山神ハ天武天皇白鳳ノ初、建祭スル所ナリ・・・」。  

備考・補足

■高階氏の賜性は後世、承和十一年(844)の事。天武天皇の皇子の高市皇子の五代の孫、峯緒(みねお)に始まる。従って、大海人皇子の逃避行の時代には、まだ存在していない。逆に本話の出所が高階氏の伝承にあった可能性は小さくない。前話が高階氏の関係話である事を意識した説話の配列ぶりが見える。田原の供御の栗の発祥も後世のことであるのをここに付会したものと思われ、現在からすれば精密とはいえない編者の年代感覚が、はしなくも露呈されている。

朗読・解説:左大臣光永


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