宇治拾遺物語 15-2 頼時(よりとき)が胡人(こひと)見たる事

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今は昔、「胡国(ここく)といふは唐よりも遥(はる)かに北と聞くを、陸奥(みちのく)の地に続きたるにやあらん」とて、宗任(むねたふ)法師とて筑紫(つくし)にありしが語り侍るなりけり。

この宗任が父は頼時(よりとき)とて、陸奥の夷(えびす)にて、おほやけに随(したが)ひ奉らずとて、攻(せ)めんとせられける程に、「いにしへより今にいたるまで、おほやけに勝ち奉る者なし。我は過(あやま)たずと思へども、責(せめ)をのみ蒙(かうぶ)れば、晴(はる)くべき方(かた)なきを、奥地より北に見渡さるる地あんなり。そこに渡りて有様を見て、さてもありぬべき所ならば、我に随(したが)ふ人の限りを、みな率(ゐ)て渡して住まん」といひて、まづ舟ひとつをととのへて、それに乗りて行きたりける人々、頼時、厨川(くりやがは)の二郎、鳥海の三郎、さてはまた睦(むつ)ましき郎等(らうどう)ども廿人ばかり、食物、酒などを多く入れて、舟を出(いだ)してければ、いくばくも走らぬ程に、見渡しなりければ渡りけり。

左右は遥(はる)かなる葦原(あしはら)ぞありける。大(おほ)きなる川の湊(みなと)を見つけて、その湊にさし入れにけり。「人や見ゆる」と見けれども、人気もなし。「陸(くが)に上(のぼ)りぬべき所やある」と見けれども、葦原にて、道踏みたる方(かた)もなかりければ、「もし人気する所やある」と、川を上(のぼ)りざまに七日まで上(のぼ)りにけり。それがただ同じやうなりければ、「あさましきわざかな」とて、なほ廿日ばかり上(のぼ)りけれども、人のけはひもせざりけり。

三十日ばかり上(のぼ)りけるに、地の響くやうにしければ、「いかなる事のあるにか」と恐ろしくて、葦原にさし隠れて、響くやうにする方(かた)を覗(のぞ)きて見ければ、胡人(こひと)とて絵に書きたる姿したる者の、赤き物にて頭結(ゆ)ひたるが、馬に乗り連れてうち出でたり。「これはいかなる者ぞ」と見る程、うち続き、数知らず出(い)で来(き)にけり。

川原のはたに集り立ちて、聞きも知らぬことをさへづり合ひて、川にはらはらとうち入れて渡りける程に、「千騎ばかりやあらん」とぞ見えわたる。これが足音の響(ひびき)にて、遥かに聞えけるなりけり。徒(かち)の者をば、馬に乗りたる者のそばに、引きつけ引きつけして渡りけるをば、「ただ徒渡(かちわたり)する所なめり」と見けり。

三十日ばかり上(のぼ)りつるに、一所も瀬なかりしに、「川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれ」と見て、人過ぎて後(のち)にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。馬筏(うまいかだ)を作りて泳がせけるに、徒人(かちびと)はそれに取りつきて渡りけるなるべし。なほ上(のぼ)るとも、はかりもなく覚えければ、恐ろしくて、それより帰りにけり。さていくばくもなくてぞ頼時は失(う)せにける。されば胡国(ここく)と日本の東の奥の地とは、さしあひてぞあんなると申しける。

現代語訳

今は昔、「胡国(ここく)という所は、唐よりも遥かに北方にあると聞いていたが、奥州の地に続いているのであろうか」と、宗任(むねとう)法師という筑紫にいた人が語った事があったという。
この宗任の父は、頼時といって、陸奥の夷(えぞ)にいて、朝廷に服従しないからといって、朝廷が攻め落そうとされたが、「昔から今まで朝廷に勝った者はいない。しかし、私は過ちはしていないと思うが、おとがめばかり蒙っている。無実を晴らす方法もない。幸に奧の地から北の方に見える地があるようだ。そこに渡って様子をを見て、何とか住めそうな所ならば、自分に随う者を残らず、みな連れて行ってそこに移り住もう」と言って、まず舟を一艘準備した。それに乗って行った人々は、頼時、厨川の二郎、鳥海の三郎、他に親しい家来ども二十人ばかり。食物や酒などを多く、舟に積み込み、漕ぎ出すと陸奥から見渡せるような近い土地なので、いくらも走らないうちに、そこへ渡り着いた。

そこから左右を見渡すと、遥かに葦原が広がっている。大きな川の港を見つけて、そこへ漕ぎ入れた。「人影が見えるか」と見回したが、人の気配も無い。「陸に上がれそうな所があるか」と見たが、一面の葦原で、道を踏んだ跡も無かったので、「もしや人の気配のする所があろうか」と、捜しながら、川をどんどん上るうちに、七日ほどが経過した。それでも、ただ前と同じような有様だったので、「あきれたことだな」と、さらに二十日ばかり上って行ったが、人のいる気配もしなかった。

三十日ほど上ると、地鳴りのするような音がしたので、何が起きたのかと、恐ろしくて、葦原に隠れて、音のする方を覗き見ると、胡人といって絵に描いてあるような姿をして、赤い物で頭を結んだ者が、幾人も馬に乗って続いて出て来た。

「これは何者か」と見ていると、次から次へと続いて数知れず出て来た。この騎馬の一団は、川原の端に集まって、聞いた事もない言葉でぺちゃくちゃしゃべり合いながら、川にすばやく一斉に乗り入れて渡って行ったが、「およそ千騎ほどはいたであろうか」と見渡せた。先ほどの響きは、この一団の足音の響きであって、遥かに聞こえたのだった。徒歩で歩く者を馬に乗った者の側に引きつけ引きつけしながら渡って行ったが、「そこは、ただ徒歩で渡れる浅瀬であろう」と思われた。

三十日ほどもさかのぼったのに、ただの一ヵ所も浅瀬が無かったのだが、「川であれば、浅瀬があるはずで、あそこが唯一渡れる瀬だったのか」と思って、一行が通り過ぎた後で近寄って見ると、同じように底知れぬ淵なのであった。馬を縦横に並べて、筏の形を作り、泳がせ、歩行者はそれに取りついて渡ったのであろう。さらに上ってもきりがなく思われたので、恐ろしくなって、そこから引き返してしまった。それから、あまり時を経ずに頼時は亡くなってしまった。

そういうわけで、胡国と日本の東の奥の地とは、向きあっているようだと語ったのであった。

語句  

■胡国(ここく)-古代中国の北方民族北荻(ほくてき)の国。ただし、ここは地理的には北海道のアイヌ族に該当するか。■宗任法師-安倍宗任(むねとう)。頼時の子。通称鳥海三郎。前九年の役で官軍と戦い、康平五年(1062)、源頼義に投降、伊予(愛媛県)に配流、のち大宰府に移された。松浦党はその後裔(こうえい)といわれる。■頼時(よりとき)-安倍頼時(?~1057)。奥州俘囚(ふしゅう)(陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの)の長。奧六郡の総帥として朝廷と対立、抗争を繰り返し、前九年の役では子の貞任、宗任らとともに官軍に抗戦するが、天喜五年(1057)七月、鳥海の柵での源頼義軍との戦いで流れ矢に当たって死ぬ。■過たず-(領地のこと)などで朝廷に対して罪を犯していない。■晴(はる)くべき方(かた)なきを-冤罪である事を晴すべき手立てもないのだが。■ありぬべき所ならば-生活することが可能な土地であるならば。■厨川の二郎-安倍貞任(1019~62)。頼時の子、宗任の兄。前九年の役で厨川(くりやがわ)の柵の戦いで源頼義・義家軍に敗死する。■鳥海の三郎-前述の宗任。■見渡しなりければ-こちら側から、見渡して見えるほどの近さであったので。■渡りけり-『今昔』巻三一-一一話では、この後に「然レドモ遥ニ高キ巌ノ岸ニテ、上ハ滋(しげ)キ山ニテ有リケレバ、可登(のぼるべ)キ様モ無カリケレバ、遥ニ山ノ根ニ付テ差廻テ見ケルニ」と、川の湊にいたり着くまでの経過が述べられている。

■胡人-北荻の人。中国古代の北方騎馬民族。『今昔』では「胡国ノ人ヲ絵ニ書タル姿シタル者ノ様ニ」とする。

■さへづり合ひて-日本語でない意味の分からない異国語で話し合っていることをいう。■はらはらと-すばやくいっせいに動き出す様の形容。『名語記』に、「人ノハラハラト来タリ、ハラハラトタツ如何。コノハラハラハハヤラカノ反」と見える。■徒(かち)の者-歩行している者。■徒渡する所-川が歩いて渡れる浅瀬になっている所。

■馬筏-たくさんの馬を縦横に並ばせ、筏のように隊列を組んで川などを泳いで渡らせる方法。■恐ろしくて-『今昔』は「亦然ラム程ニ自然(おのづか)ラ事ニ値ナバ、極テ益ナシ。然レバ食物ノ不尽ヌ前ニ、去来(いざ)返ナヌト云テ」と念入りに説明。■されば゛・・・-『今昔』では「然レバ胡国ト云所ハ唐ヨリモ遥ノ北ト聞ツルニ、陸奥ノ国ノ奥ニ有夷ノ地ニ差合ヒタルニヤ有ラムト」とする。

朗読・解説:左大臣光永

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