宇治拾遺物語 15-3 賀茂祭(かもまつり)の帰り武正(たけまさ)、兼行(かねゆき)、御覧の事
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これも今は昔、賀茂祭の供に下野武正(しもつけのたけまさ)、秦兼行(はたのかねゆき)遣はしたりけり。その帰(かへ)さ、法性寺殿、紫野にて御覧じけるに、武正、兼行、殿下(てんが)御覧ずと知りて、殊(こと)に引き繕ひて渡りけり。武正殊(こと)に気色(きしよく)して渡る。次に兼行また渡る。おのおのとりどりに言ひ知らず。
殿御覧じて、「今一度北へ渡れ」と仰(おほ)せありければ、また北へ渡りぬ。さてあるべきならねば、また南へ帰り渡るに、この度(たび)は兼行さきに南へ渡りぬ。「次に武正渡らんずらん」と人々待つほどに、武正やや久しく見えず。「こはいかに」と思ふ程に、向ひに引きたる幔(まん)より東を渡るなりけり。「いかにいかに」と待ちけるに、幔の上より冠の巾子(こじ)ばかり見えて南へ渡りけるを、人々、「なほずちなき者の心際(こころぎは)なり」とほめけりとか。
現代語訳
これも今は昔、賀茂祭のお供に下野武正と秦兼行を遣わしたことがあった。その帰り道、法性寺殿(藤原忠通)が、紫野で行列を御覧なっていたが、武正も兼行も殿下が御覧になると知って、特に威儀を正して通り過ぎた。武正は格別に気取って通って行く。次に兼行がまた通る。それぞれとりどりに言いようもなく際立っていた。
殿が御覧になって、「もう一度北へ渡れ」と仰せられたので、また北へと通って行った。そのままでもいられないので、また南へ帰って来ると、今度は兼行が先になって南へへ通って行った。「次に武正殿がお通りになるであろう」と見物の人々が待っていたが、武正はなかなか姿を現さない。「どうしたのか」と思っていると、向こうに引き廻らされたまん幕より東側を通るのであった。みなが、「どうしたのか、どうしたのか」と待っていると、まん幕の上から冠の巾子だけが見えて、南へ過ぎて行ったが、人々はそれを、「たぐいなく気の利いた心遣いである」と褒め合ったという。
語句
■賀茂祭-京都の賀茂雷別神社・賀茂御祖神社の祭。葵祭とも。陰暦四月の中の酉の日に行われた。現在は五月十五日。「供」はその祭の行列の供の事。■下野武正-藤原忠実・忠通の随身、左府生。■秦兼行(はたのかねゆき)-藤原忠通の随身。右府生。『長秋記』によれば、武正と組んで大治五年(1130)四月十四日、翌年四月十九日の賀茂祭の引馬の役を務めている。■帰さ-帰り道。帰途。■法性寺殿-藤原忠通(1097~1164)。摂政・関白、太政大臣。■紫野-京都市北区大徳寺付近一帯。船岡山の北東部で、賀茂斎院である野の宮のあった場所。■殿下-忠通をさす。もと三后・皇太子の敬称。後に摂政・関白にも用いられた。■気色して-気取った顔つきをして。■巾子(こじ)-冠の頂上の後部の高く突き出ている部分。そこに髻(もとどり)を入れる。■なほずちなき者の心際(こころぎは)なり-「ずちなき」は「術なき」でどうしようもない意か。それによると、身分の卑しい者にしては、気の利いた心遣いであると解される。