宇治拾遺物語 15-8 相応和尚(さうおうくわしやう)、都卒天(とそつてん)にのぼる事、染殿(そめどの)の后(きさき)祈り奉る事

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原文

今は昔、叡山無動寺(えいざんむどうじ)に相応和尚(さうおうくわしやう)といふ人おはしけり。比良山(ひらさん)の西に、葛川(かつらがは)の三滝(さんたき)といふ所にも、通ひて行ひ給ひけり。その滝にて不動尊に申し給はく、「我を負ひて、都卒の内院、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の御許に率(ゐ)て行(ゆ)き給へ」と、あながちに申しければ、「きはめて難(かた)き事なれど、強(し)ひて申す事なれば、率(ゐ)て行くべし。その尻(しり)を洗へ」と仰(おほ)せければ、滝の尻にて水浴(あ)み、尻よく洗ひて、明王の頭に乗りて、都卒天(とそつてん)にのぼり給ふ。

ここに内院の門の額に、「妙法蓮華」と書かれたり。明王のたまはく、「これへ参入(さんにふ)の者は、この経を誦(じゆ)して入れ、誦さざれば入らず」とのたまはば、遥(はる)かに見上げて、相応のたまはく、「我この経、読みは読みは奉る。誦する事いまだかなはず」と。明王、「さては、口惜(くちを)しき事なり。その儀ならば参入かなふべからず。帰りて法華経を誦して後(のち)参り給へ」とて、かき負ひ給ひて葛川へ帰り給ひければ、泣き悲しみ給ふ事限りなし。さて本尊の御前にて経を誦し給ひて後(のち)、本意を遂(と)げ給ひけりとなん。その不動尊は、今に無動寺におはします等身(とうじん)の像にてぞましましける。

その和尚(くわしやう)、かやうに奇特(きどく)の効験おはしければ、染殿(そめどの)の后(きさき)、物の怪(け)に悩み給ひけるを、ある人申しけるは、「慈覚(じかく)大師の御弟子に、無動寺の相応和尚と申すこそいみじき行者にて侍れ」と申しければ、召しに遣はす。即(すなは)ち御使(つかひ)に連れて参りて、中門(ちゆうもん)に立てり。人々見れば、長(たけ)高き僧の、鬼のごとくなるが、信濃布(しなのぬの)を衣に着、椙(すぎ)の平足駄(ひらあしだ)をはきて、大木槵子(だいもくげんじ)の念珠(ねんず)を持てり。「その体(てい)、御前に召し上ぐべき者にあらず。無下(むげ)の下種法師(げすほふし)にこそ」とて、「ただ簀子(すのこ)の辺に立ちながら加持(かぢ)申すべし」とおのおの申して、「御階(みはし)の高欄(かうらん)のもとにて、立ちながら候(さぶら)へ」と仰せ下(くだ)しければ、御階の東の高欄に立ちながら押しかかりて祈り奉る。

宮は寝殿(しんでん)の母屋(もや)に臥(ふ)し給ふ。いと苦しげなる御声、時々御簾(みす)の外(ほか)に聞ゆ。和尚(くわしやう)わづかにその声を聞きて、高声(かうしやう)に加持(かぢ)し奉る。その声、明王も現じ給ひぬと、御前に候(さぶら)ふ人々、身の毛よだちて覚ゆ。しばしあれば、宮、紅の御衣二つばかりに押し包まれて、毬(まり)のごとく簾中よりころび出でさせ給うて、和尚の前の簀子(すのこ)に投げ置き奉る。人々騒ぎて、「いと見苦し。内へ入れ奉りて、和尚も御前に候へ」といへども、和尚、「かかる乞児(かたゐ)の身にて候へば、いかでかまかり上(のぼ)るべき」とて、さらに上(のぼ)らず。

初め召しあげられざりしを、やすからず憤り思ひて、ただ簀子にて、宮を四五尺あげて打ち奉る。人々しわびて、御几帳(きちやう)どもをさし出(いだ)して立て隠し、中門をさして人を払へども、きはめて顕露(けんろ)なり。四五度ばかり打ちたてまつりて、投げ入れ投げ入れ祈りければ、もとのごとく内へ投げ入れつ。その後(のち)、和尚まかり出づ。「しばし候へ」ととどむれども、「久しく立ちて腰痛く候ふ」とて、耳にも聞き入れずして出でぬ。

宮は投げ入れられて後(のち)、御物(もの)の怪(け)さめて御心地さはやかになり給ひぬ。験徳(げんとく)あらたなりとて、僧都(そうづ)に任ずべき由宣下(よしせんげ)せらるれども、「かやうの乞児は、何条僧綱(そうがう)になるべき」とて返し奉る。その後も召されけれど、「京は人を卑しうする所なり」とて、さらに参らざりけるとぞ。
                                                                         

現代語訳

今は昔、叡山無動寺に相応和尚という人がいらっしゃった。比良山の西にある葛川の三滝という所にも通って修行をなさった。その滝で、不動尊にお願いをされた。「私を背負って、都卒の内院におられる弥勒菩薩の所へ連れて行ってください」と無理やりお願いしたので、「かなり難しい事だが、それほど言うなら、連れて行きましょう。その尻を洗いなさい」と仰せられたので、滝の下で水浴をし、尻をよく洗って、明王の頭に乗って、都卒天に御昇りになられた。

そこの、内院の門の額に、「妙法蓮華」と書かれていた。明王が、「ここに参入する者は、この経をそらんじながら入れ、そらんじできない者は入れないのだ」とおっしゃるので、和尚は、その額を遥かに見上げながら、「私はこの経を読むことは読みます。しかし、そらんずることはまだできません」と申し上げた。すると、明王は、「それは残念な事よ。そうであるなら、参入することはできまい。帰って法華経をそらんじた後で、参られよ」と言われ、また背負って葛川へお帰りになった。そこで和尚は、悔しがって限りなく泣き悲しまれた。それから本尊の御前で経をそらんじられるようになってから、本意を遂げられたという事である。その不動尊は、今でも、無動寺に安置されている等身大の像であるとの事である。

その和尚は、このような不思議な効験がおありだったので、染殿の后が、物の怪に悩まされておられたとき、ある人が、「慈覚大師の御弟子で、無動寺の相応和尚と申されるお方がおられますが、すぐれた修行者であられます」と申し上げると、それを召しに使いをお出しになった。すぐに、相応はお使いに連れられて来て、中門に立った。人々がそれを見ると、背が高くて、鬼のような姿をした僧が、信濃布で作った貧相な衣を着て、杉の下駄を履き、大木欒子の数珠を持っている。「その様子は、御前に呼び出される者のありようではない。取るに足らない身分の低い法師に違いない」と言って、「ただ簀子の辺りに立ったままで加持申し上げよ」と后のお付きの者どもが言った。后も同じように、「御階の高欄の所で、立ったままで加持せよ」と仰せ下され、和尚は、御階の東の高欄に立ち、よりかかってお祈り申し上げた。

后の宮は寝殿の母屋に臥しておられる。とても苦しそうな御声が時々、御簾(みす)の外に聞こえる。和尚はかすかにその声を聞いて、その声のする方角を向いて、大きな声で加持し申し上げる。御前にいた人々は、その声を聞いて、明王もご出現なさったのかと、身の毛がよだつような思いにかられた。しばらくすると、宮が、紅の衣に包まれてあたかも毬のように御簾の中から転がり出され、和尚の前の簀子に投げ出されになった。それを見て、人々は騒ぎ、「まことに見苦しい。中へお入れ申して、和尚も御前に参られよ」と言えども、和尚は、「こうした乞食の身でありますから、どうして御前にまかり出る事ができましょうか」と、どうしても建物の中に入ろうとしなかった。

最初、昇殿を許されなかった事に、いらいらして憤りを感じ、ひたすら后に憑いている物の怪もろとも四五尺持ち上げて簀子に打ちつけなさる。后のお付きの人々は、困り果てて、相応のかたくなな拒絶ぶりに手の施しようがなくて、御几帳などを出して隠し、階段のそばへの通行口になる中門を閉ざして人が集るのを防ぎ、かつ人払いをして、人目に立たないような処置をしたけれども、かなりはっきりと見えるのであった。相応は四五回ほど宮を打ち据え、投げ入れ投げ入れ祈ってから、もとのように寝殿の中へ投げ入れた。その後で、和尚が帰りかけた。「しばらくお待ちください」と人々が引き止めたが、「長い間立っていたので腰が痛うござる」と言って、耳に聞き入れもせず、退出した。

后の宮は投げ入れられた後、物の怪による苦しみから解放され、さわやかなお気持になられた。宮はこの後、和尚を験徳あらたなりと、僧都に任ずるよう宣下をなされたが、「このような乞食の身が、どうして僧綱などにになれましょうか」と言って辞退なさった。その後も召し出されたが、「京は人を卑しくする所である」と言って、決して参らなかったという。

語句

■叡山無動寺(えいざんむどうじ)-比叡山の東塔の別所。貞観七年(865)、相応の創建した寺で、比叡山の南端にあることから叡南ともいう。■相応和尚-慈覚大師の弟子(831~918)。櫟井氏、近江国浅井郡の人。十七歳で出家、円仁のもとで修行した。回峰行の始祖。■比良山(ひらさん)-比叡山の北方、琵琶湖西岸、滋賀県滋賀郡の山地。狭義には南都の蓬莱山をさし、標高1174メートル。■葛川の三滝-相応が開山という息障明王院葛川(不動堂)がある。『帝王編年記』貞観元年(859)条に「今年、相応和尚(慈覚弟子)、葛川第三ノ清滝ニ於テ生身ノ不動ヲ拝ス・・・」と、相応の霊徳をたたえる。■都卒の内院-欲界六天のうちの第四天である都卒天の内院。釈迦の教導にもれた衆生に説法する弥勒の住む所。■弥勒菩薩(みろくぼさつ)-滋氏と訳す。釈迦入滅後、五十六億七千万年後にこの世に現れ、衆生を済度するとされる当来仏。

■妙法蓮華-すばらしい一乗法の功徳を白蓮にたとえた呼称。■誦して-「読みながら」ではなく、そらんじながら。「誦す」は暗唱すること。■その儀ならば-そういう次第ならば。そういう程度であるなら。■等身の像-人間の大人の身長に等しい大きさの像。『天台南山無動寺建立和尚伝』には「(貞観)五年、等身不動明王像ヲ造リ奉リ(中略)同七年、仏堂ヲ造立、コノ明王ヲ中台ニ安置ス。一伽藍トナシ、無動寺ト号ス」と見える。

■染殿の后-藤原明子(829~900)。良房の娘、文徳天皇の后、清和天皇の生母。「染殿」は良房の邸宅の呼称。■信濃布(しなのぬの)-科(しな)の木で(一名マダの木)の皮の繊維で織った、目の粗い赤褐色の布。粗悪に見える布地。■椙(すぎ)の平足駄(ひらあしだ)-杉の木で作られた下駄(げた)。これも粗末なものに見える。
■木槵子(もくげんじ)-「もくれんじ」とも。ムクロジ科の落葉樹。その球形の種子で作られた輪の大きな数珠。■無下の下種法師にこそ-取るに足らない身分の低い法師に違いない。■簀子(すのこ)-廂(ひさし)の間の縁側の板敷。■加持(かぢ)-加持祈祷。印を結び、陀羅尼を唱え、観念をこらして諸仏の加勢を求める密教の呪法。■御階(みはし)-寝殿造りの母屋の広い階段の両側につけられている欄干。

■宮-染殿の后明子をさす。■母屋-寝殿造りの中心部の建物の廂(ひさし)の内の中央部にあたる場所。外縁部である階段の欄干のもとで、座る場所さえ与えられずに祈祷している相応との距離の隔たりを示す。■わづかにその声を聞きて-かすかに聞こえてくる后の苦悶の声を手がかりに、その声のする方向にいる病人に取り憑いている物の怪に向って、相応は不動明王の呪文を投げつけ続けた。■身の毛よだちて-体の毛が上を向いて立ってしまうような、ぞっとする恐怖感にとらわれた形容。
■投げ置き奉る-投げ置き申し上げた。■かかる乞児の身にて候へば-こうした乞食の身でありますから。当初、「無下の下種法師だろう」と言われて冷遇されたことに対する反抗的な物言い。■さらに上らず-どうしても建物の中に入ろうとしない。

■宮を四五尺あげて打ち奉る-后に取り憑いている物の怪もろとも、四五尺ばかりも宙に上げては、板敷に打ち付けられる。■人々しわびて-后のお付きの人々は、相応のかたくなな拒絶ぶりに手の施しようがなくて。■御几帳-室内に立てて仕切や目隠しに用いた調度。■中門をさして人を払へども-階段のそばへの通用口となる中門を閉ざして人の集まるのを防ぎ、かつ人払いをして、人目に立たないような処置をしたけれども。■四五度ばかり打ちたてまつりて-四、五回ばかり打ち懲らしめられて。表面上は后を打っているように見えるわけだが、次の「投げ入れ投げ入れ」も同じで、実は后に取り憑いている物の怪に制裁を加えているさま。■久しく立ちて腰痛く候ふ-当初座る場所を与えようともしなかった処遇に対する反発からの皮肉も込められていよう。

■物の怪覚めて-物の怪による悩乱が去って。『拾遺往生伝』では、この物の怪の正体を天狗道に落ちた紀僧正真済の霊とし、『真言伝』では紺青鬼とする。■僧綱(そうかう)-僧正に次ぐ僧位。■かやうの僧都は・・・-当初「無下の下種法師にこそ」と登殿も許されなかった屈辱的な扱いから出た「何を今さら」という反発による拒絶。

備考・補足

■都卒天まで往還したほどの不動明王に加護される行者を、外見から当初は下種法師と疎外し、効験を現してからは、位階を与えて懐柔しようとする朝廷人の対応のしかたが「京の方式」であるならば、それは人間を卑しくするものと拒否した相応和尚の「京都は人間をさもしくさせる所だ」という評言は、「むかしの坂東の人、京に長居しつれば、臆病になる也」という『一言芳談』の言葉を連想させるが、俗世の本質をついて痛烈かつ爽快。

朗読・解説:左大臣光永