平家物語 六十一 永僉議(ながのせんぎ)

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平家物語巻第四より「永詮議(ながのせんぎ)」。

三井寺では平家軍との決戦を前に、評定が開かれた。真海阿闍梨は、時間かせぎのため評定のひきのばしをはかる。

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前回「南都牒状(なんとちょうじょう)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK060.html

あらすじ

高倉宮以仁王が保護を求めて三井寺に逃げ込むと(「競」)、 三井寺は比叡山、興福寺に協力を求めた(「山門牒状」)。

その協力要請を比叡山からは無視され、興福寺からはよい返事をもらうも軍勢がまだ到着しないという中、三井寺では評定が開かれる。

夜討ちにして一気に片をつけようという意見に対し、一如房の阿闍梨真海は、今をときめく平家に小勢でかなうはずがないと主張。会議を長引かせる。

乗円房の阿闍梨慶秀は、昔天武天皇が小勢で大友皇子を破った例を引き、他人がどうだろうと我らは六波羅を攻撃すると勇む。

そこで円満院大輔源覚が音頭をとり、大衆一同、六波羅へ出発するのだった。

原文

三井寺には又大衆(だいしゆ)おこツて僉議す。「山門は心がはりしつ。南部はいまだ参らず。此事(このこと)のびてはあしかりなん。いざや六波羅(ろくはら)におし寄せて、夜打(ようち)にせん。其儀(そのぎ)ならば、老少二手にわかツて、老僧どもは、如意(によい)が峰(みね)より、搦手(からめて)にむかふべし。足軽(あしがる)ども四五百人さきだて、白河の在家(ざいけ)に火をかけて、焼きあげば、在京人(ざいきやうにん)、六波羅の武士、『あはや事いできたり』とて、はせむかはんずらん。其時岩坂(いはさか)、桜本(さくらもと)にひツかけひツかけ、しばしささへてたたかはんまに、大手は伊豆守を大将軍にて、悪僧ども六波羅におし寄せ、風(かぜ)うへに火かけ、一(ひと)もみもうでせめんに、などか太政入道、焼きだいてうたざるべき」とぞ、僉議しける。

其(その)なかに平家のいのりしける、一如房(いちによぼう)の阿闍梨真海(あじやりしんかい)、弟子(でし)、同宿数十人(どうじゆくすじふにん)をひき具し、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、「かう申せば、平家の方人(かたうど)とやおぼしめされ候らん。たとひさも候(さうら)へ、いかンが衆徒の儀をもやぶり、我等の名をも惜しまでは候べき。昔は源平左右(さう)にあらそひて、朝家(てうか)の御まぼりたりしかども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家世(よ)をとツて、廿余年、天下(てんか)になびかぬ草木(くさき)も候はず。内々(ないない)の館(たち)の有様(ありさま)も、小勢(こぜい)にてはたやすうせめおとしがたし。さればよくよく外(ほか)にはかり事(こと)をめぐらして勢(せい)をもよほし、後日(ごじつ)に寄せさせ給ふべうや候らん」と、程(ほど)をのばさんがために、ながながとぞ僉議したる。

ここに乗円房(じようゑんぼう)の阿闍梨慶秀(あじやりけいしゆう)といふ老僧あり。衣(ころも)のしたに腹巻を着(き)、大きなる打刀(うちがたな)、まへだれにさし、法師頭(ほふしがしら)つつむで、白柄(しらえ)の大長刀杖(おほなぎなたつゑ)につき、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、「証拠(しようこ)を外(ほか)にひくべからず。我等の本願、天武天皇(てんむてんわう)は、いまだ東宮の御時、大友の皇子にはばからせ給ひて、吉野のおくをいでさせ給ひ、大和国宇多郡(やまとのくにうだのこほり)を過ぎさせ給ひけるには、其勢はつかに十七騎、されども伊賀、伊勢にうちこへ、美濃、尾張の勢をもツて、大友の皇子をほろぼして、つひに位につかせ給ひき。『窮鳥懐(きゆうていふところ)に入る、人倫(じんりん)これをあはれむ』といふ本文(ほんもん)あり。自余(じよ)は知らず、慶秀が門徒においては、今夜六波羅(ろくはら)におし寄せて、打死(うちじに)せよや」とぞ僉議(せんぎ)しける。円満院大輔源覚(えんまんゐんのだいふげんかく)、すすみいでて申しけるは、「僉議はしおほし。夜のふくるに、いそげやすすめ」とぞ申しける。

現代語訳

三井寺には大衆が起こって評議する。

「山門(比叡山)は心変わりした。南都はいまだ参らぬ。この事がのびてはよくない。さあ六波羅に押し寄せて、夜討ちにしよう。そういうことなら、老少二手に分かれて、老僧どもは、如意が峰から、敵の背後に向かうがよい。足軽ども四五百人先立てて、白河の在家に火をかけて、焼き払えば、在京の武士、六波羅の武士、「うわあ事が起こった」といって、はせ向うであろう。その時岩坂、桜本に攻めかかり攻めかかり、しばらく防いで戦ううちに、敵の正面は伊豆守(仲綱)を大将軍として、武装した僧どもが六波羅に押し寄せ、風上に火をかけて、ひと戦いして攻めるに、どうして太上入道(清盛)を焼きたて追い出して討てないことがあろうか」

と評議した。

その中に平家の祈祷の師である、一如房の阿闍梨真海(しんかい)が、弟子と同じ僧房にくらす僧数十人を連れて、評議の席に進みだして申したのは、

「こう申せば、平家の味方と思われるかもしれません。たとえそうであっても、どうして衆徒の義理をも破り、わが寺の名をも惜しまないでよいでしょうか。昔は源平左右に争って、朝家の御まもりをつとめましたが、ちかごろは源氏の運傾いて、平家が世をとって、ニ十余年、天下になびかぬ草木もございません。

平家内部のそれぞれの舘のようすも、小勢ではたやすく攻め落とすことは難しいです。後日に攻め寄せなさるのがよいと存じます」

と、時間かせぎのために、ながながと論議した。

ここに乗円房の阿闍梨慶秀という老僧がある。衣の下に腹巻を着て、大きな打刀を前に垂れるようにさし、法師頭をつつんで、白柄の第長刀を杖につき、評議の席に進みだして申したのは、

「小勢でも勝てるという証拠を外に引用するまでもない。わが寺の本願、天武天皇は、いまだ東宮の御時、大友皇子にははかられて、吉野の奥にこもられたが、後に吉野をお出になり、大和国宇多郡をお過ぎになる頃には、その勢わずかに十七騎、しかし伊賀、伊勢にうちこえ、美濃、尾張の勢をもって、大友の皇子をほろびし、ついに位におつきになった。『追い詰められた鳥が懐に入ってきたら、人はこれを憐れむ」という古典の言葉がある。ほかは知らないが、慶秀の門徒は、今夜六波羅に押し寄せて、討ち死にせよや」

と評議した。

円満院大輔源覚(えんまんゐんのだいふげんかく)が進み出て申したのは、

「評議は末端の事が多い。夜が老けてきたので、急いで進め」

と申した。

語句

■其儀ならば そういうことなら。 ■搦手 敵の背面。 ■在京人 京都に駐在して警護にあたる武士。 ■あはや それっ。うひゃあ。 ■岩坂 如意山の坂。現在地未詳。 ■桜本 京都市左京区神楽岡町。吉田山の東。 ■ひッかけひッかけ 襲いかかる。 ■悪僧 武装した僧。 ■一もみもうで 激しく攻め立てて。 ■平家のいのりしける 平家の祈祷の師であった。平家のために祈祷をしていた。 ■同宿 同じ僧坊に住む僧。 ■儀 義理。 ■内々の舘 平家一門のそれぞれの舘。六波羅全体に対して、個々の舘のことをいうか? ■打刀 打ち合いのための長い刀。 ■白柄の 白木のままで塗装していない。 ■証拠を外にひくべからず 小勢で勝てるという証拠を他に引用するまでもない。 ■本願 園城寺建立の願立てをした人。実際は、大友皇子の皇子、大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が大友皇子の遺言によって天武天皇に許可を得て勅願寺とした。 ■天武天皇 天智天皇10年(671)大海人皇子が病床の天智天皇に召されて帝位をゆずることを持ちかけられるが、身に危険を感じてすぐに出家して吉野に下った。その後、天智天皇が亡くなり、壬申の乱がおこった、『日本書紀』にしるされた経緯。 ■大和国宇多郡 奈良県宇陀郡。 ■はつかに わずかに。 ■窮鳥懐に入る、仁人憫む所」(顔氏家訓・省事篇)。追い詰められた鳥が懐に入ってきたら仁のある人は憐れむ。同じように我々も困って助けを求めてきた高倉宮を助けようじゃないか、の意。 ■自余 他。 ■門徒 宗門の同じ僧。 ■はしおほし 些末なことが多い。

朗読・解説:左大臣光永

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