平家物語 六十 南都牒状(なんとてふじやう)

平家物語巻第四より「南都牒状(なんとちょうじょう)」。

三井寺では高倉宮をむかえて平家と合戦するにあたり、比叡山延暦寺と奈良興福寺に協力をもとめた。

前回「山門牒状(さんもんへのちょうじょう)」からのつづきです。
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あらすじ

三井寺では高倉宮をむかえ、平家軍と戦うにあたって長年の仇敵、比叡山に協力を要請する(「山門牒状」)。

その書状を読んで、比叡山の大衆は怒る。

三井寺はもともと比叡山から分かれた寺であり、比叡山から見れば、格下にあたるはず。

それを対等のように表現しているのがけしからん、と。

また、清盛は天台座主明雲に働きかけ、比叡山の動きを抑えさせた。

こうしたことから比叡山は三井寺にあてて「味方するかどうか未定だ」と返事を送った。

さらに清盛は比叡山の宿々に米と絹を引き出物として配り、味方につけるべく工作した。

この様子を見て、何者かが皮肉って落書した。

山法師 おりのべ衣 うすくして 恥をばえこそ かくさざりけれ

(意味)比叡山の法師たちが争って手に入れた織延絹で作った衣は薄地なので、衣の下にある いやらしい本性を隠すことができなかったよ

おりのべを 一きれもえぬ われらさへ うすはぢをかく かずに入るかな

(意味)織延絹を一きれも貰えなかった我らまで、薄恥をかいた数に入れられてしまったぞ

また、三井寺は興福寺にも協力を要請した。

衆徒一同以仁王の引渡し要求に従うつもりはなく、仏敵清盛と戦う覚悟であること、

また、関白藤原基房が清盛によって流罪に処せられたが、興福寺は藤原氏の氏寺であり、 いっそう清盛に恨み深いといえるではないか…と。

興福寺は三井寺の要請を受諾し、書状を送る。

天台宗と法相宗は別の宗義を立ててはいるが、共に釈迦の弟子である、

清盛はもと卑しい家柄。それがたまたま成り上がり、今では権力のままに 後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉し、関白藤原基房を流罪に処するに至っている。

興福寺でも心苦しく思っていたところに、この以仁王の一件である。

命がけで以仁王を守り清盛と戦おうということ覚悟を聞き、喜んでいる。

唐の武宗が仏教を弾圧した時、清涼山の僧らが命がけで仏法を守ったように、興福寺も延暦寺も 協力しないことがあろうか。
出発の連絡をお待ちください…と。

原文

山門の大衆(だいしゆ)、此状(このじやう)を披見(ひけん)して、「こはいかに、当山(たうざん)の末寺(まつじ)でありながら、鳥の左右(さいう)の翅(つばさ)の如し、又車の二つの輪に似たりと、おさへて書く条奇怪(きツくわい)なり」とて、返牒(へんてふ)をおくらず。其上(そのうえ)入道相国、天台座主明雲大僧正(てんだいざすめいうんだいそうじやう)に、衆徒(しゆと)をしづめらるべきよし、宣ひければ、座主いそぎ登山(とうざん)して、大衆をしづめ給ふ。

かかりし間、宮の御方(おんかた)へは、不定(ふぢやう)のよしをぞ申しける。又入道相国、近江米(あふみごめ)二万石、北国のおりのべぎぬ三千疋(びき)、往来(わうらい)に寄せらる。これを谷々峰々(たにだにみねみね)にひかれけるに、俄(にはか)の事ではあり、一人(いちにん)してあまたをとる大衆もあり、又手をむなしうして一つもとらぬ衆徒もあり。何者のしわざにやありけん、落書(らくしよ)をぞしたりける。

山法師(やまぼふし)おりのべ衣(ごろも)うすくして恥(はぢ)をばえこそかくさざりけれ

又きぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、

おりのべを一きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入るかな
又南都の状に云(いはく)、

園城寺牒(をんじやうじてつ)す、興福寺(こうぶくじ)の衙(が)。

殊(こと)に合力(かふりよく)をいたして、当寺の破滅を助けられんと乞(こ)ふ状(じやう)。

右仏法(みぎぶつぽふ)の殊勝(しゆしよう)なる事は、王法(わうぼふ)をまぼらんがため、王法又長久なる事は、すなはち仏法による。爰(ここ)に入道前太政大臣平朝臣清盛公(にふだうさきのだいじやうだいじんたひらのあつそんきよもりこう)、法名(ほふみやう)浄海、ほしいままに国威(こくゐ)をひそかにし、朝政(てうのまつりごと)を乱(みだ)り、内(ない)につけ外(げ)につけ、恨(うらみ)をなし歎(なげき)をなす間、今月十五日の夜(よ)、一院第二の皇子、不慮の難(なん)をのがれんがために、にはかに入寺(にふじ)せしめ給ふ。ここに院宣と号(かう)して、出(いだ)し奉るべきむね、責(せめ)ありといへども、衆徒一向(しゆといつかう)これを惜しみ奉る。仍(よつ)て彼禅門(かのぜんもん)、武士を当寺にいれんとす。仏法と云ひ、王法と云ひ、一時(いつし)にまさに破滅せんとす。昔唐(たう)の会昌天子軍兵(ゑしやうてんしぐんぴやう)をもツて、仏法をほろぼさしめし時、清涼山(しやうりやうぜん)の衆(しゆ)、合戦(かつせん)をいたして、これをふせぐ。王権猶(わうけんなほ)かくの如し。何(いか)に況(いはん)や、謀反(むほん)八逆の輩(ともがら)においてをや。就中(なかんづく)に南京(なんきやう)は例(れい)なくて、罪なき長者(ちやうじや)を配流(はいる)せらる。今度にあらずは、何(いづ)れの日か会稽(くわいけい)をとげん。ねがはくは衆徒、内には仏法の破滅をたすけ、外(ほか)には悪逆(あくぎやく)の伴類(はんるい)を退(しりぞ)けば、同心のいたり、本懐(ほんぐわい)に足(た)んぬべし。衆徒の僉議(せんぎ)かくの如し。仍(よつ)て牒奏件(てつそうくだん)の如し。

治承四年五月十八日 大衆等(だいしゆら)

とぞ書いたりける。

現代語訳

山門の大衆は、この書状を開き見て、「これはどうしたことか。わが山の末寺でありながら、鳥の左右の翼のごとし、また車の輪に似たりと、わが山のことを低くみつもって書くことはけしからん」

といって、返事を送らない。

その上入道相国が、天台座主明雲(めいうん)大僧正に、衆徒を鎮められるようにおっしゃったので、座主は急いで比叡山に登り、大衆をお鎮めになった。

こういう状況だったので、高倉宮の御方へは、味方するかどうか未定である旨を申した。

また入道相国は、近江米二万石、北国の織延絹三千疋を、手紙に添えて山門に贈られた。

これを比叡山の谷々峰々の僧坊に引き出物として配ったところ、突然の事ではあり、一人でたくさん取る大衆もあり、手をカラにして一つも取らない衆徒もある。何者のしわざであったろうか、落書があった。

山法師…

(山法師は織延の衣が薄いので、その下にある恥を隠すことができないのだな)

また絹を手に入れられなかった大衆が読んだのだろうか、

おりのべを…

(織延絹を一きれも手に入れられない我らまでも、薄恥をかいた者の数に入ることだ)

また南都への書状に言うことに、

園城寺が興福寺の寺務所に送る。

特別に力をあわせて、わが寺の破滅を助けてもらいたいと願う書状。

右について、仏法が殊勝である事は、王法を守るためであり、王法がまた長く久しい事は、すなわち仏法によるのだ。

ここに入道相国前太政大臣(にゅうどうしょうさきのだいじやうだいじん)平朝臣清盛公(たいらのあつそんきよもりこう)、法名浄海は、好き放題に国の権威をわたくしして、朝政を乱し、内につけても外につけても、恨みをなし嘆きをなすので、今月十五日の夜、後白河院第二の皇子が、不慮の難をのがれようとして、突如、三井寺にお入りになった。

そこで院宣と称して、高倉宮をお出し申し上げよと、命令を受けたが、衆徒はひたすら高倉宮の御身を引き渡すことを惜しみ申し上げる。

よってかの禅門(清盛)は、武士をわが寺に入れようとする。仏法といい、王法といい、一時にまさに破滅しようとしている。

昔、唐の会昌天子(ゑしやうてんし。武宗)が軍勢をもって、仏法を滅ぼそうとした時、五山の僧たちが、合戦をなさって、これをふせいだ。

王権もやはり(仏法に敵対すれば滅ぼされるのは)このようであるのだ。

まして、謀叛八虐の連中(平家一門)が、滅ぼされないことがあろうか。

特に、奈良では例のないことに、罪なき藤原氏の氏の長者(関白藤原基房)を流されている。

今度でなければいつ会稽の恥を雪ぐ機会があろう。

願うことは衆徒が内には仏法の破滅を助け、外には悪逆の同類を退ければ、同慶の至り、じゅうぶんに本望でしょう。衆徒の話し合ったのはこのようなことである。よってこのように書状を送る。

治承四年五月十八日 大衆ら

と書いてあった。

語句

■被見 開き見ること。 ■おさへて わが比叡山のことを低く抑えての意。 ■明雲 源(久我)顕通の子。生涯四度天台座主となった。 ■不定 味方するかどうか未定であるということ。 ■おりのべぎぬ 織延絹。絹の一種。疋は布をはかるの単位。 ■往来に寄せらる 手紙に添えて山門にお贈りになった。 ■ひかれける 引き出物として配った。 ■衙 寺務所。 ■国威 国家の威光。 ■ひそかにし 私して。 ■禅門 仏門に入った男子。清盛のこと。 ■会昌天子 唐朝の第18代皇帝。穆宗の五男。道教に傾倒し「会昌の廃仏」とよばれる仏教弾圧を行った。 ■清涼山 しやうりやうぜん。五台山の別名。 ■謀反八逆 正しくは謀反八虐。律の八虐罪。謀反(むへん)・謀大逆・謀叛(むほん)・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義。 ■南京 奈良の別名。 ■長者 藤原氏の長者、藤原基房をさす。「大臣流罪」 ■会稽 会稽の恥を雪ぐ。中国戦国時代、越王勾践は呉王夫差に会稽山で負けたが、国力をたくわえて呉王夫差を破った。ここから前に受けた恥を雪ぐこという。 ■伴類 同類。 ■同心のいたり 同慶の至り。相手の慶事が自分にとっても喜びであること。 ■本懐に足んぬ 本懐は本望。じゅうぶんに本望であろう。

原文

南都の大衆此状(このじやう)を披見(ひけん)して、やがて、返牒(へんちやう)をおくる。其返牒(そのへんちやう)に云(いはく)、

興福寺牒(こうぶくじてつ)す、園城寺(をんじやうじ)の衙(が)。

来牒一紙(らいてふいつし)に載(の)せられたり。右入道浄海が為(ため)に、貴寺(きじ)の仏法をほろぼさんとするよしの事。

牒(てつ)す。玉泉(ぎよくせん)、玉花(ぎよくくわ)、両家(りやうか)の宗義(しゆうぎ)を立つといへども、金章(きんしやう)、金句(きんく)、同じく一代教門(いちだいけうもん)より出でたり。南京(なんきやう)、北京(ほくきやう)、共にもツて如来(によらい)の弟子(でし)たり。自寺他寺(じじたじ)、互(たがひ)に調達(でうだつ)が魔障(ましやう)を伏(ぷく)すべし。抑(そもそも)清盛入道は、平氏(へいじ)の糟糖(さうかう)、武家の塵芥(ちんがい)なり。祖父正盛(そぶまさもり)、蔵人(くらんど)五位の家に仕へて、諸国受領(しよこくじゆりやう)の鞭(むち)をとる。大蔵卿為房(おほくらきやうためふさ)、賀州刺史(がしうしし)のいにしへ、検非所(けんびしよ)に補(ふ)し、修理大夫顕季(しゆりのだいぶあきすゑ)、播磨太守(はりまのたいしゆ)たツし昔、厩別当職(むまやのべつたうしき)に任ず。しかるを親父(しんぷ)忠盛(ただもり)、昇殿(しようでん)をゆるされし時、都鄙(とひ)の老少、みな蓬壺(ほうこ)の瑕瑾(かきん)を惜しみ、内外(ないげ)の英豪(えいかう)、おのおの馬台(ばたい)の讖文(しんもん)に啼(な)く。忠盛青雲(せいうん)の翔(つばさ)を刷(かいつくろ)ふといへども世の民(たみ)なほ白屋(はくをく)の種(たね)をかろんず。名を惜しむ青侍(せいし)、其家にのぞむ事なし。しかるを去(さんぬ)る平治元年十二月、太上天皇(だいじやうてんわう)、一戦の功(こう)を感じて、不次(ふし)の賞(しやう)を授(さづ)け給ひしよりこのかた、たかく相国(しやうこく)にのぼり、兼(か)ねて兵仗(ひやうじやう)を給はる。男子或(なんしあるい)は台階(たいかい)をかたじけなうし、或(あるい)は羽林(うりん)につらなる。女子或(によしあるい)は中宮職(ちゆうぐうしき)にそなはり、或は准后(じゆごう)宣(せん)を蒙(かうむ)る。群弟庶子(ぐんていそし)、みな棘路(きよくろ)にあゆみ、其孫彼甥(そのまごかのおひ)ことごとく竹符(ちくふ)をさく。しかのみならず九州を統領(とうりよう)し百司(はくし)を進退(しんだい)して、奴婢(ぬび)みな僕従(ぼくじゆう)となす。一毛(いちもう)心にたがへば、王侯(わうこう)といへどもこれをとらへ、片言(へんげん)耳にさかふれば、公卿(くぎやう)といへどもこれをからむ。これによツて、或(あるい)は一旦(いつたん)の身命(しんみやう)をのべんがため、或は片時(へんし)の凌蹂(りようじう)をのがれんと思ツて、万乗(ばんじよう)の聖主(せいしゆ)、猶面展(めんてん)の媚(こび)をなし、重代(ぢゆうだい)の家君(かくん)、かへツて膝行(しつかう)の礼をいたす。代々相伝の家領(かりやう)を奪(うば)ふといへども、上宰(じやうさい)もおそれて舌をまき、宮々相承(みやみやさうじやう)の庄園をとるといへども、権威にはばかツて、物いふ事なし。勝つに乗るあまり、去年の冬十一月、太上皇(たいしやうくわう)のすみかを追捕(ついふ)し、博陸公(はくりくこう)の身をおしながす。反逆(はんぎやく)の甚(はなはだ)しい事、誠(まこと)に古今(こきん)に絶えたり。其時(そのとき)我等すべからく、賊衆(ぞくしゆ)にゆき向ツて、其罪を問ふべしといへども、或(あるい)は神慮にあひはばかり、或は綸言(りんげん)と称(しよう)ずるによツて、鬱陶(うつたう)をおさへ、光陰(くわういん)を送るあひだ、かさねて軍兵(ぐんぴやう)をおこして、一院第二の親王宮(しんわうぐう)をうちかこむところに、八幡三所(はちまんさんじよ)、春日の大明神、ひそかに影向(やうがう)をたれ、仙蹕(せんぴつ)をささげ奉り、貴寺におくりつけて、新羅(しんら)の扉(とぼそ)に預け奉る。

王法つきべからざるむねあきらけし。隋ツて又貴寺身命(しんみやう)をすてて、守護(しゆご)し奉る条、含識(がんじき)のたぐひ、誰(たれ)か随喜(ずいき)せざらん。我等遠域にあツて、そのなさけを感ずるところに、清盛入道、尚凶器(なほきようき)をおこして、貴寺に入らんとするよし、ほのかに承り及ぶをもツて、兼ねて用意をいたす。十八日辰(たつ)の一点に大衆をおこし、諸寺に牒奏(てつそう)し、末寺に下知(げぢ)し、軍士をえて後(のち)、案内(あんない)を達せんとするところに、青鳥(せいてう)飛び来ツて、芳翰(ほうかん)を投げたり。数日(すじつ)の鬱念一時(うつねんいつし)に解散(げさん)す。彼唐家清涼一山(かのたうかしやうりやういつさん)の苾芻(ひつしゆ)、猶武宗(ぶそう)の官兵(くわんぴやう)を帰(かへ)す。況(いはん)や和国南北両門の衆徒(しゆと)、なんぞ謀臣(ぼうしん)の邪類をはらはざらんや。よく梁園左右(りやうゑんさう)の陣をかためて、よろしく我等が進発(しんぱつ)の告(つげ)を待つべし。状を察して、擬殆(ぎたい)をなす事なかれ。もツて牒(てつ)す。

治承四年五月廿一日 大衆等

とぞ書いたりける。

現代語訳

南都の大衆はこの書状を開いてみて、すぐに返事を送る。その返事にいわく、

興福寺が送る。園城寺の寺務所に。

承った一枚の書状に記してあった。右は、入道浄海のために、貴寺の仏法をほろぼそうとする旨が書いてある。

返事を送る。天台宗・法相宗はそれぞれの宗義を立てているが、経文の文句は同じであり、釈迦一代の経文から出ている。

興福寺も延暦寺も、ともに如来の弟子である。

自分の寺も、よその寺も、互いに堤婆達多(だいばだった)のような仏法をさまたげる悪魔を屈服させるべきである。

そもそも清盛入道は、平氏のカスであり、武家のゴミクズである。祖父正盛は、蔵人五位の家に仕えて、諸国受領のもとで御者などの卑しい使用人をやっていた。

大蔵卿為房が、加賀国国司であった昔、地方の検非違使に任じられ、修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすえ)が、播磨守であった昔、厩の別当に任じられた。

それを清盛の父忠盛が昇殿をゆるされた時、都・田舎の人々は、みな院(鳥羽上皇)の失政だと残念がり、内外の仏教・儒教の学者は、それぞれ邪馬台の予言書のとおりになったと泣いた。

忠盛は立身出世の翼を整えたといっても、世の人々はやはり身分いやしき出自を軽くみた。

名を惜しむ身分低い侍は、平家に任官を望むことがなかった。

ところが去る平治元年十二月、後白河上皇が、一戦の功績を感心して、破格の賞をおさずけになってからというもの、高く相国にのぼり、同時に随身を召し連れる権利をいただいた。

男子はあるいは畏れ多くも大臣の位にのぼり、あるいは近衛府の役人となる。女子はあるいは中宮となり、あるいは准三后の宣旨を受ける。

多数いる弟も、嫡子以外の息子たちも、みな公卿となり、その孫、あの甥ことごとく国司に任じられる。

そればかりではなく日本全国をすべ治め、あらゆる役人の人事を好き勝手に行い、公の奴婢を奴隷同然に扱う。

毛一本も平家の心にそむけば、皇族といえどもこれを捕らえ、片言でも耳に逆らえば、公卿といえどもこれを絡める。

これによって、あるいは一日の身命をのばすため、あるいは片時の恥をのがれようと思って、天皇もやはり対面して媚をなし、先祖代々の(平家の)主人である藤原氏も、かえって膝をかがめる膝行の礼をとる。

代々相伝の庄園を奪っても、摂政もおそれて舌をまき、皇族が先祖代々継いでいる庄園をとるといっても、権威にはばかって物言うことがない。

勝つに乗るあまり、去年の冬十一月、後白河上皇のすみかを没収し、関白藤原基房の身を押し流す。

反逆のはなはだしさは、まったく古今に例がない。その時我らは当然、賊徒どもに行き向かって、その罪を問うべきであるが、(平家が)あるいは深慮にはばかり、あるいは天子の言葉と称しているので、(我々は)不満を抑えて、年月を送っている間、かさねて軍勢をおこして、一院第二の皇子(高倉宮)を取り込むところに、八幡三所、春日の大明神が、ひそかにお姿をあらわし、貴人の乗り物を捧げ申して、貴寺(三井寺)におくりつけて、新羅明神の前に預け申し上げた。

王法がつきていないことは、明らかである。したがってまた貴寺が身命をすてて、高倉宮を守護し申し上げることは、心ある人なら、誰が喜ばないことがあろう。

我ら遠い地にあってそのなさけを感じるところに、清盛入道がなおも軍勢を差し向けて、貴寺に入ろうとすることを、ほのかに承り及んだので、かねて準備をしている。

十八日辰の一点(午前8時)に大衆を立ち上がらせ、寺寺に連絡し、末寺に下知し、軍勢を組織して後、連絡をしようとするところに、使者が来て、手紙を投げ入れたのだ。

数日来のわだかまっていた心は一瞬で晴れた。かの唐の清涼山(しょうりょうさん)の僧たちもなお、武宗の軍勢を撃退したのだ。

まして和国南北両門(興福寺と延暦寺)が、どうして逆臣の悪人どもを撃退できないことがあろう。よく高倉宮の左右の陣を固めて、よろしく我らの出発の知らせを待つがよい。

この手紙の内容を察して、疑い恐れをなしてはならない。以上を送る。

治承四年五月二十一日 大衆ら

と書いてあった。

語句

■玉泉、玉花 玉泉は天台宗、玉花は法相宗のこと。天台宗開祖智者大師は玉泉寺に住し法相宗開祖玄奘三蔵は唐太宗の玉花宮で経文を翻訳したため。 ■金章、金句 きんしやう、きんく。貴重な章句。経文のこと。 ■一代経文 釈迦一代の間に説いた経文。実際には釈迦の説法をそのまま記録した経文はない。 ■調達 でうだつ。調婆達多の略。釈迦を裏切った弟子。 ■魔障 仏道の障害となる悪魔。 ■糟糠 カス。 ■蔵人五位の家に仕えて 藤原為房が五位の時に仕えたと。 ■鞭をとる 御者など身分卑しい使用人となること。 ■賀州刺史 加賀国の国司。刺史は国司の唐名。 ■検非所 検非違使所の略。諸国に置かれた検非違使の事務を行うところ。 ■顕季 藤原顕季。寛治8年2月播磨守、同7月修理大夫兼任。 ■厩別当職 むまやのべつたうしき。馬の管理を行う役。 ■蓬壺の瑕瑾 院の過ち。蓬壺は蓬莱。院のこと。瑕瑾は失敗。 ■内外の英豪 仏教、仏教以外(儒教)のすぐれた学者。 ■馬台の讖文 ばたいのしんもん。梁の宝志和尚の「邪馬台讖」をさす。邪馬台の予言。馬台=邪馬台=日本。讖文は預言書。未来記。 ■青雲 立身出世。 ■刷ふ
かいつくろふ。整える。 ■白屋の種 はくをくのたね。卑しい素性・出身。 ■青侍 公卿に仕えた身分の低い侍。 ■太上天皇 後白河上皇。 ■不次の 破格の。 ■台階 三台(太政大臣・左大臣・右大臣)の地位。 ■羽林 近衛府の唐名。近衛府の大・中・少将。 ■中宮職 中宮の身の回りの庶務を行う役所。ここでは「つらなる」で中宮徳子が高倉天皇の中宮となったことをさす。 ■准后 准三后 太皇太后・皇太后・皇后につぐ地位。 ■群弟 多くの弟。 ■庶子 嫡子以外の実子。 ■棘路 公卿。 ■竹符をさく 国司に任じられること。国司赴任の際、竹の符を割いて半分は都に残し、半分を任地に持っていったため。 ■九州 日本全国。 ■統領 領土をすべおさめる。 ■百司を進退し あらゆる役人の昇進や左遷を好き勝手にすること。 ■奴婢みな僕従となす 公の奴婢をみな奴隷のように扱うの意。 ■さかふれば 逆らえば。 ■凌蹂 はずかしめ。 ■万乗の聖主 天皇。 ■面展 対面。 ■重代の家君 先祖代々の家柄の主人=藤原氏。 ■膝行の礼 ひざまずいて膝で前進すること。 ■上宰 摂政の唐名。 ■宮々相乗の庄園 皇族が相伝している庄園。 ■追捕 ついふ。没収する。 ■博陸公 関白の別称。藤原(松殿)基房のこと。 ■古今に絶えたり 古今に例がない。 ■綸言 天子の言葉。 ■鬱陶 胸のうちのわだかまり。 ■八幡三所 応神天皇・神功皇后・玉依姫の八幡三神。 ■仙蹕 せんぴつ。貴人の乗り物。 ■つきべからざる つくべからざる。 ■含識のたぐい がんじき。心ある人々。 ■凶器 武器。 ■青鳥 手紙を届ける使者。 ■芳翰 ほうかん。手紙の美称。 ■苾芻(ひつしゆ) 比丘。僧。 ■梁園 皇族。ここでは高倉宮。 ■擬殆 疑い恐れること。

朗読・解説:左大臣光永

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