平家物語 六十ニ 大衆揃(だいしゆぞろへ)

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本日は平家物語巻第四より「大衆揃(だいしゅぞろへ)」です。

源頼政らは興福寺と合流するため、三井寺の僧兵たちを率いて三井寺を出発します。

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前回「永僉議(ながのせんぎ)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK061.html


頼政道跡(醍醐寺の北)

あらすじ

長評定が続いていた三井寺の大衆も、ようやく夜討ちに出発することで意見がまとまった(「永僉議」)。

搦手の源三位入道頼政、大手の伊豆守仲綱がそれぞれ三井寺の僧兵たち率いて、三井寺を出発する。

逢坂の関にかかった頃、鶏が鳴く。

夜討ちをかける計画だったのに、これでは昼になってしまう。

円満院大夫源覚は、孟嘗君が配下の者に鶏の鳴きまねをさせ函谷関の門を開けさせた故事を引き、これも敵のはかりごとに違いないと 主張するが、結局夜は明けてしまう。

伊豆守仲綱(頼政の長男)は、昼間の戦となれば六波羅には適わないと判断。先発した軍勢を呼び返す。

三井寺の若大衆は、「夜が明けたのは一如房阿闍梨慶秀が詮議を長引かせたせいだ」と、慶秀の僧房を打ち壊す。

慶秀は六波羅へ逃げ延びて、このことを訴えるが、六波羅ではすでに軍兵を整え、万全の構えだった。

同二十三日の暁、高倉宮(以仁王)は南都(興福寺)の助力を求めて三井寺を出発。

そのとき高倉宮は蝉折・小枝という笛をお持ちになった。

この蝉折は、鳥羽上皇の時代に宋朝より日本に贈られたもので、
蝉のような節がついていた。

ある時高松の中納言実平卿がこの笛を吹いたとき、 普通の笛と同じように膝より下に置いたところ、笛が無礼をとがめたのか、節の所で折れてしまった。

この逸話から「蝉折」と呼ばれることとなった。

高倉宮は、老僧たちに暇を出す。 若大衆、悪僧、源三位入道一族を合わせて以仁王が率いるのは一千人ほどだった。

乗円房阿闍梨慶秀は、自分は年寄りで助力できないが、長年息子のように育ててきた刑部卿俊秀を高倉宮に託す。

原文

搦手(からめて)にむかふ老僧ども、大将軍(たいしやうぐん)には源三位入道頼政、乗円房阿闍梨慶秀(じようゑんぼうのあじやりけいしう)、律成房阿闍梨日胤(りつじやうぼうのあじやりにちいん)、帥法印禅智(そつのほふいんぜんち)、禅智が弟子義宝(ぎほう)、禅永(ぜんやう)をはじめとして、都合其勢(そのせい)一千人、手々(てんで)にたい松もツて、如意(によい)が峰(みね)へぞむかひける。大手の大将軍には、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光、大衆には、円満院(ゑんまんゐん)の大輔源覚(だいふげんかく)、成喜院(じやうきゐん)の荒土佐(あらどさ)、律成房伊賀公(りつじやうぼうのいがのきみ)、法輪院(ほふりんゐん)の鬼佐渡(おにさど)、これらは力のつよさ、打物(うちもの)もツては、鬼にも神にもあはうどいふ、一人当千(いちにんたうぜん)のつはものなり。平等院(びやうどうゐん)には、因幡堅者荒大夫(いなばのりつしやあらだいふ)、角六郎房(すみのろくらうぼう)、島(しま)の阿闍梨(あじやり)、筒井法師(つつゐほふし)に、卿阿闍梨(きやうのあじやり)、悪少納言(あくせうなごん)、北院(きたのゐん)には、金光院(こんくわうゐん)の六天狗(てんぐ)、式部、大輔、能登、加賀、佐渡、備後等(びんごら)なり。松井の肥後(ひご)、証南院(しようなんゐん)の筑後(ちくご)、賀屋(がや)の筑前(ちくぜん)、大矢(おほや)の俊長(しゆんちやう)、五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、乗円房(じようゑんぼう)の阿闍梨慶秀(けいしう)が房人(ぼうにん)六十人の内、加賀光乗(くわうじよう)、刑部春秀(ぎやうぶしゆんしう)、法師原(ほふしばら)には、一来法師(いちらいほふし)にしかざりけり。堂衆(だうじゆ)には、筒井の浄妙明秀(じやうめうめいしう)、小蔵尊月(おぐらのそんぐわつ)、尊永(そんえい)、慈慶(じけい)、楽住(らくぢゆう)、かなこぶしの玄永(げんやう)、武士(ぶし)には、渡辺省(わたなべのはぶく)、播磨次郎(はりまのじらう)、授(さづく)、薩摩兵衛(さつまのひやうゑ)、長七唱(ちやうじつとなふ)、競滝口(きほふのたきぐち)、与右馬允(あたふのうまのじよう)、続源太(つづくのげんだ)、清(きよし)、勧(すすむ)を先として、都合其勢一千五百余人、三井寺をこそうツたちけれ。

宮いらせ給ひて後(のち)は、大関小関(おほぜきこぜき)ほりきツて、堀(ほり)ほり逆茂木(さかもぎ)ひいたれば、堀に橋わたし、逆茂木ひきのくるなンどしける程に、時剋(じこく)おしうつツて、関路(せきぢ)のには鳥なきあへり。伊豆守宣ひけるは、「ここで鳥ないては、六波羅は白昼(はくちう)にこそ寄せんずれ。いかがせん」と宣へば、円満院大輔幻覚(えんまんゐんのだいふげんかく)、又さきのごとくすすいいでて僉議しけるは、「昔秦(しん)の昭王(せうわう)のとき、孟嘗君(まうしやうくん)召しいましめられたりしに、きさきの御たすけによツて、兵者(つはもの)三千人をひきぐして、にげまぬかれけるに、函谷関(かんこくくわん)にいたれり。鶏(にはとり)なかぬかぎりは、関の戸をひらく事なし。孟嘗君が三千の客(かく)のなかに、てんかつといふ兵者(つはもの)あり。鶏のなくまねをありがたくしければ、鶏鳴(けいめい)ともいはれけり。彼(かの)鶏鳴たかき所にはしりあがり、にはとりのなくまねをしたりければ、関路(せきじ)のにはとり聞きつたへて、みななきぬ。其時関守(そのときせきもり)鳥のそらねにばかされて、関の戸あけてぞとほしける。これもかたきのはかり事(こと)にやなかすらん。ただ寄せよ」とぞ申しける。かかりしほどに、五月(さつき)のみじか夜(よ)ほのぼのとこそあけにけれ。伊豆守宣ひけるは、「夜(よ)うちにこそさりともと思ひつれども、ひるいくさにはかなふまじ。あれよびかへせや」とて、搦手如意(からめてによい)が峰(みね)よりよびかへす。大手は松坂(まつざか)よりとツてかへす。若大衆(わかだいしゆ)ども、「これは、一如房阿闍梨(いちのぼうのあじやり)が、なが僉議(せんぎ)にこそ夜(よ)はあけたれ。おし寄せて其坊(そのぼう)きれ」とて、坊をさんざんにきる。ふせぐところの弟子同宿数十人(でしどうじゆくすじふにん)うたれぬ。一如坊阿闍梨、はふはふ六波羅に参ツて、老眼(ろうがん)より涙をながいて、此由うツたへ申しけれども、六波羅には軍兵数万騎馳(ぐんぴやうすまんぎは)せあつまツて、さわぐ事もなかりけり。

現代語訳

搦手(からめて)に向う老僧どもは、大将軍には源三位入道頼政(よりまさ)、乗円房の阿闍梨慶秀(けいしゅう)、律成房(りつじょうぼう)の阿闍梨日胤(にちいん)、帥法印禅智(ぜんち)、禅智の弟子の義宝(ぎほう)・禅永(ぜんよう)をはじめとして、総勢一千人が、手に手に松明(たいまつ)を持って、如意が峰へ向った。

大手の大将軍には、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光など、衆徒では、円満院の大輔源覚(げんかく)、成喜院の荒土佐、律成房の伊賀公(いがのきみ)、法輪院の鬼佐渡、これらの者は力の強さといい、武器を持つては、鬼にも神にも敵対しようという、一人当千の勇士である。

平等院(びやうどうゐん)には、因幡堅者荒大夫(いなばのりつしやあらだいふ)、角六郎房(すみのろくらうぼう)、島(しま)の阿闍梨(あじやり)、筒井法師(つつゐほふし)に、卿阿闍梨(きやうのあじやり)、悪少納言(あくせうなごん)、北院(きたのゐん)には、金光院(こんくわうゐん)の六天狗(てんぐ)、式部、大輔、能登、加賀、佐渡、備後らである。

松井の肥後(ひご)、証南院(しようなんゐん)の筑後(ちくご)、賀屋(がや)の筑前(ちくぜん)、大矢(おほや)の俊長(しゆんちやう)、五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、乗円房(じようゑんぼう)の阿闍梨慶秀(けいしう)と同じ僧房に同宿する六十人の内、加賀光乗(くわうじよう)、刑部春秀(ぎやうぶしゆんしう)、法師原(ほふしばら)には、一来法師(いちらいほふし)に勝る者はない。

堂衆(だうじゆ)には、筒井の浄妙明秀(じやうめうめいしう)、小蔵尊月(おぐらのそんぐわつ)、尊永(そんえい)、慈慶(じけい)、楽住(らくぢゆう)、かなこぶしの玄永(げんやう)、武士(ぶし)には、渡辺省(わたなべのはぶく)、播磨次郎(はりまのじらう)、授(さづく)、薩摩兵衛(さつまのひやうゑ)、長七唱(ちやうじつとなふ)、競滝口(きほふのたきぐち)、与右馬允(あたふのうまのじよう)、続源太(つづくのげんだ)、清(きよし)、勧(すすむ)を先として、総勢一千五百余人、三井寺を出発した。

高倉宮が三井寺にお入りになって後は、(境内に)大関小関を掘って、堀をほり、逆茂木を設置したので、堀に橋をわたし、逆茂木をひきのけるなどしている間に、時刻がうつって、逢坂関に通じる道の鶏が鳴きあった。

伊豆守がおっしゃることは、

「ここで鳥が鳴いては、六波羅は白昼に攻め寄せてくるでしょう。どうしましょう」

とおっしゃると、円満院大輔(えんまんいんのたいふ)源覚(げんかく)が、また以前のように進みだして評定したのは、

「昔秦の昭王のとき、孟嘗君を召して戒められたときに、后の助けによって、兵士三千人を連れて、逃げ助かったところ、函谷関に至った。鶏が鳴かないかぎりは、関の戸を開くことはない。孟嘗君の三千人の食客の中に、てんかつという兵がいた。鶏のなきまねをめったに無いほどうまくしたので、鶏鳴とも呼ばれていた。その鶏鳴が高い所に走り上がり、鶏の鳴くまねをしたところ、関路の鶏が聞き伝えて、みな鳴いた。その時関守は鳥のうそ鳴きにばかされて、関の戸を開けて通したのだ。今回も敵のはかり事で鶏を鳴かすのだろう。ただ攻め寄せよ」

と申した。

こうしているうちに、五月の短夜がほのぼのと明けた。伊豆守がおっしゃることは、

「夜討ちをすればまさか負けまいと思うが、昼戦ではかなわないだろう。あれを呼び返せや」

といって、搦手の軍勢を如意が嶺から呼び返す。大手の軍勢は松坂から引き返す。

若大衆ども、「これは一如房阿闍梨(いちにょぼうのあじゃり)が、長評定をしたから夜が明けたのだ。押し寄せてその坊を破壊しろ」

といって、僧坊をさんざんに切り壊した。防衛にあたった弟子、同じ宿坊の僧数十人が討たれた。

一如坊阿闍梨は、這うようにして六波羅に参って、老眼から涙を流して、この事を訴え申し上げたが、六波羅には軍勢数万騎が馳せ集まって、さわぐ事もなかった。

語句

■鬼にも神にもあはうどいう 鬼にも神にも立ち会おうという。慣用表現。 ■三井寺中院の平等院。宇治の平等院ではない。 ■堅者 論語の席で質問に答える役の僧。 ■筒井 三井寺の南谷の三谷の一。 ■北院 三井寺三院(中院・北院・南院)のひとつ。 ■金光院 北院新羅者の西南。現存せず。 ■賀屋 伽耶房 僧房の号。 ■房人 僧房に同宿する僧。 ■しかざりけり 勝る者はなかった。 ■堂衆 どうじゆ。諸堂にすまい雑事にあたった下級の僧。■逆茂木 とげのある木材を組んだバリケード。 ■関路 逢坂関に通じる道。 ■孟嘗君 『史記』孟嘗君伝。斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ秦の宰相になるが、昭王の側近が「あの者は秦にいいことをするはずがありません。秦のために殺してしまいなさい」というので孟嘗君を殺すことになったが、昭王の寵姫に狐の白い皮衣を渡して許された。昭王はいったんは孟嘗君を逃したが後悔して追手をさしむける。夜半、函谷関に至ったとき、昭王の家来が追いかけてきた。関は鶏が鳴くまで開かないきまりだったが、孟嘗君の食客の一人に鶏の鳴き真似が上手なものがあり鳴き真似をすると、本当の鶏も釣られて鳴き出した。それで門番が門を開けたので、逃れることができた。清少納言「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」。 ■函谷関 河南省北西部。秦の東の国境。 ■客 『史記』に食客三千人とある。 ■ありがたくしければ めったに無いほどうまくしたので。 ■そらね うその鳴き声。 ■さりとも いくらなんでも負けないだろう。 ■松坂 粟田口と山科をむすぶ坂道。日ノ岡。粟田口刑場があった。 

原文

同(おなじき)廿三日の暁(あかつき)、宮は、「此寺(このてら)ばかりではかなふまじ。山門は心がはりしつ、南都はいまだ参らず。後日(ごにち)になツてはあしかりなん」とて、三井寺をいでさせ給ひて、南都へいらせおはします。此宮は、蝉折(せみをれ)、小枝(こえだ)ときこえし漢竹(かんちく)の笛を、二つもたせ給へり。かの蝉折と申すは、昔鳥羽院の御時、こがねを千両、宋朝(そうてう)の御門(みかど)へおくらせ給ひたりければ、返報とおぼしくて、いきたる蝉(せみ)のごとくに、ふしのついたる笛竹(ふえたけ)を、一(ひと)よおくらせ給ふ。「いかンがこれ程の重宝(ちようほう)を、左右(さう)なうはゑらすべき」とて、三井寺の大進僧正覚宗(だいしんのそうじやうかくそう)に仰せて、檀上にたて、七日加持(しちにちかぢ)して、ゑらせ給へる御笛なり。或時高松(あるときたかまつ)の中納言実衡卿(さねひらのきやう)参ツて、この御笛をふかれけるが、よの常の笛のやうに思ひ忘れて、ひざよりしもにおかれたりければ、笛やとがめけん、其時蝉折れにけり。さてこそ蝉折とはつけられたれ。笛の御器量(おんきりやう)たるによツて、この宮(みや)御相伝(さうでん)ありけり。されどもいまをかぎりとやおぼしめされけん、金堂(こんだう)の弥勒(みろく)に参らツさせおはします。竜花(りゆうげ)の暁(あかつき)、値遇(ちぐ)の御ためかとおぼえて、あはれなツし事共なり。

老僧どもには、みないとまたうで、とどめさせおはします。しかるべき若大衆、悪僧共は参りけり。源三位入道の一類(るい)ひきぐして、其勢(そのせい)一千人とぞきこえし。乗円房阿闍梨慶秀(じょうゑんぼうのあじやりけいしう)、鳩(はと)の杖(つゑ)にすがツて、宮の御(おん)まへに参り、老眼(らうがん)より涙をはらはらとながいて申しけるは、「いづくまでも御供仕るべう候(さうら)へども、齢(よはひ)すでに八旬(はつしゆん)にたけて、行歩(ぎやうぶ)かなひがたう候。弟子で候刑部房俊秀(ぎやうぶぼうしゆんしう)を、参らせ候。これは一年(ひととせ)、平治の合戦の時、故左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が手に候ひて、六条河原で打死(うちじに)仕り候ひし、相模国住人(さがみのくにのぢうにん)、山内須藤刑部丞俊通(やまのうちのすどうぎやうぶのじようとしみち)が子で候。いささかゆかり候あひだ、跡(あと)ふところでおほしたてて、心のそこまでよくよく知ツて候。いづくまでも召しぐせられ候べし」とて、涙をおさへてとどまりぬ。宮もあはれにおぼしめし、「いつのよしみをかうは申すらん」とて、御涙せきあへさせ給はず。

現代語訳

同月(五月)二十三日の暁、高倉宮は「この寺だけではかなわないだろう。山門(比叡山)は心がわりした。南都はいまだ参らない。後日になってはまずかろう」

といって、三井寺をお出になり、南都へお入りになる。この宮は蝉折、小枝ときこえた中国製の竹の笛を、二つお持ちになっている。その蝉折と申すのは、昔鳥羽院の時代、黄金を千両、宋朝の皇帝にお送りなさったので、返報とおぼしくて、生きている蝉のように、節のついた竹を、一本お送りになった。

「どうしてこれ程の重宝を、簡単に笛に作らせるべきか」

といって、三井寺の大進僧正(だいしんのそうじょう)覚宗(かくそう)に仰せて、壇上に立て、七日加持祈祷を行い、つくらせた御笛である。

ある時高松の中納言実衡卿(さねひらのきょう)が参って、この笛を吹かれたが、世にある普通の笛のように思い忘れて、ひざより下に置かれたところ、笛は無礼をとがめたのだろうか、その時蝉が折れてしまった。

それで蝉折とつけられたのだった。

この笛にじゅうぶん足る器量であるということで、この宮(高倉宮)に相伝されたのだ。

しかし今が最後と思われたのだろうか、三井寺金堂の弥勒菩薩に奉納申し上げた。

弥勒菩薩が再臨なさる朝、お会いするためと思われて、あわれの深い事どもである。

老僧どもには、みな暇を与えて、残らせなさった。

役に立ちそうな若大衆、悪僧どもはついて参った。源三位入道の一族をひきつれて、その勢一千人ということだった。

乗円坊阿闍梨(じょうえんぼうのあじゃり)慶秀(けいしゅう)が鳩の杖にすがって、高倉宮の御前にまいり、老眼から涙をはらはらと流して申したのは、

「どこまでも御供申し上げよう存じてございましたが、年すでに八十をこし、歩くこともおぼつかなくてございます。弟子でございます刑部房(ぎょうぶぼう)俊秀(しゅんしゅう)を、参らせてございます。

これは先年、平治の合戦の時、故左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の手にございまして、六条河原で討ち死にいたしました、相模国の住人、山内須藤刑部丞(やまのうちのすどうぎょうぶのじょう)俊通(としみち)の子でございます。いささかゆかりがございましたので、養子として育て上げて、心の底までよくよく知ってございます。どこまでも召し連れられませ」

といって、涙をおさえて留まった。

高倉宮も哀れにお思いになり、「いつ私が恩を与えたといってこのように申すのだろう」といって、御涙をせきとめることがおできにならない。

語句

■同廿三日 『玉葉』『山槐記』では廿五日夜半、『吾妻鏡』では二十六日明け方。 ■漢竹 中国産の竹。 ■一よ 一節。節ひとつぶん。一本。 ■ゑらす 彫らす。穴を開けること。 ■三井寺の大進僧正覚宗 藤原家基の子。保延五年(1139)園城寺長吏。 ■実衡卿 藤原仲実の子。 ■笛の御器量たるにッて 笛に対してじゅうぶんな器量の持ち主だということで。 ■金堂の弥勒 三井寺金堂の本尊、弥勒菩薩像。 ■竜花 りゆうげ。弥勒菩薩は釈迦にさきがけて入寂し、五十六億七千万年の後、再臨し、竜花の下で説法するとされる。 ■値遇 ちぐ。出会うこと。 ■いとまたうで 暇をお与えになって。 ■鳩の杖 頭部に鳩の飾り物のある杖。 ■八旬 旬は十年。八十歳。 ■山内須藤刑部丞俊通 山内は北鎌倉あたりの地名。刑部丞は刑部省の判官。六位の侍が当たった。 ■跡ふところで 養子にして。 ■おほしたてて 生し立てて。育て上げて。

ゆかりの地

頼政道跡

源頼政が高倉宮以仁王をかついで挙兵するも、平家に追われて大津の園城寺(三井寺)に入り、翌朝奈良興福寺との合流をめざして宇治に通り抜けた間道。醍醐寺の北。

……

源頼政と三井寺の大衆が通ったコースは、三井寺から山科に抜けて、醍醐、石田、六地蔵あたりを通って、宇治に向かったと、(本文からは)読み取れます。

現在、醍醐寺の近くに「頼政道」の碑が立ちます。

朗読・解説:左大臣光永

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