平家物語 六十五 若宮出家(わかみやしゆつけ)

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本日は平家物語巻第四より「若宮出家(わかみやしゅっけ)」です。

高倉宮以仁王が討たれると、その子供たちに探索が及びます。八条女院の女房が生んだ若宮は清盛から差出し要求を受けますが、宗盛のとりなしで助命され、出家します。

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前回「宮御最期(みやのごさいご)」からのつづきです。
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あらすじ

源頼政は自害し、高倉宮以仁王は平家軍に討たれた(宮御最期)。

源三位入道頼政の首は郎党の長七唱(ちょうじつ となう)が宇治川に沈めたので、発見できなかった。

高倉宮の首は、長年その御所に立ち寄る人がなかったので本人と確認することが困難だった。

しかし六波羅では高倉宮最愛の女房を探し出し、本人と確認した。

高倉宮は方々に若宮(子供)をもうけていた。八条女院(暲子内親王)に仕える女房、三位局(さんみのつぼね)との間には七歳の若宮、五歳の姫宮がいた。

清盛は池中納言頼盛を介して八条女院に若宮を引き渡すよう要求する。

八条女院は「乳母がどこかへ連れ去りました」ととぼけるが、清盛は重ねて要求する。

頼盛は八条女院の乳母子(同じ乳母に育てられた女性)を妻としていたので、八条女院とは日頃から親しく行き来する間柄だった。しかしこの時頼盛は別人のように事務的だった。

再三の引渡し要求と、若宮自身も名乗り出たこともあり、遂に身柄を六波羅に引渡す。

宗盛のとりなしで、命ばかりは許され、出家を強要される。

仁和寺の御室に弟子入りし、後には東寺の一の長者(主席僧侶)となり、安井の宮の僧正道尊と名乗ったのはこの宮のことである。

原文

平家の人々は、宮ならびに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百余人が頸(くび)、太刀、長刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、夕(ゆふべ)に及ンで、六波羅へかへりいる。兵者(つはもの)どもいさみののしる事、おそろしなンどもおろかなり。其(その)なかに源三位入道の頸(くび)は、長七唱(ちやうじつとなふ)がとツて、宇治河のふかき所にしづめてンげれば、それはみえざりけり。子供(こども)の頸は、あそこここよりみな尋ねいだされたり。なかに宮の御頸(おんくび)は、年來(としごろ)参りよる人もなければ、見知り参らせたる人もなし。先年点薬頭定成(てんやくのかみさだなり)こそ御療治(ごれうじ)のために召されたりしかば、それぞ見知り参らせたるらんとて、召されけれども、現所労(げんじよらう)とて参らず。宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ねいだされたり。さしもあさからずおぼしめされて、御子(おんこ)をうみ参らせ、最愛(さいあい)ありしかば、いかでかみみそんじ奉るべき、只一目み参らせて、袖(そで)をかほにおしあてて、涙をながされけるにこそ、宮の御頸(くび)とは知りてンげれ。

此宮(このみや)は、腹々(はらばら)に御子(おんこ)の宮たちあまたわたらせ給ひけり。八条女院に(はつでうのにようゐん)に、伊予守盛章(いよのかみもりのり)が娘、三位局(さんみのつぼね)とて候はれける女房の腹(はら)に、七歳の若宮、五歳の姫宮(ひめみや)ましましけり。入道相国、おとと池の中納言頼盛卿(ちゆうなごんよりもりのきやう)をもツて、八条女院(はちでうのにようゐん)へ申されけるは、「高倉の宮の御子の宮達のあまたわたらせ給ひ候(さうらふ)なる。姫宮の御事(おんこと)は申すに及ばず。若宮をばとうとういだし参らツさせ給へ」と申されたりければ、女院御返事(おんへんじ)には、「かかるきこえのありし暁(あかつき)、御乳人(おちのひと)なンどが心をさなう具(ぐ)し奉(たてま)ツてうせにけるにや、まツたく此御所にはわたらせ給はず」と仰せければ、頼盛卿(よりもりのきやう)力及ばで、此よしを入道相国に申されけり。「何条(なんでう)其御所ならでは、いづくへかわたらせ給ふべかんなる。其儀(そのぎ)ならば武士(ぶし)ども参ツてさがし奉れ」とぞ宣ひける。この中納言は、女院の御(おん)めのと子(ご)、宰相殿(さいしやうどの)と申す女房に相具(あひぐ)して、常に参りかよはれければ、日来(ひごろ)はなつかしうこそおぼしめされけるに、此宮の御事(おんこと)申しに参られたれば、いまはあらぬ人のやうに、うとましうおぼしめされける。若宮、女院に申させ給ひけるは、「これ程の御大事に及び候うへは、つひにのがれ候まじ。とうとういださせおはしませ」と申され給ひければ、女院御涙をはらはらとながさせ給ひて、「人の七つ八つは、何事もいまだ思ひわかぬ程ぞかし。それにわれゆゑ大事のいでいたる事を、かたはらいたく思ひて、かやうに宣ふいとほしさよ。よしなかりける人を、此六七年手ならして、かかるうき目をみるよ」とて、御涙をせきあへさせ給はず。

頼盛卿(よりもりのきやう)、宮(みや)いだし参らツさせ給ふべきよし、かさねて申されければ、女院力およばせ給はで、つひに宮をいだし参らツさせ給ひけり。御母三位(おんははさんみ)の局(つぼね)、今をかぎりに別(わかれ)なれば、さこそは御名残(なごり)惜しう思はれけめ。泣く泣く御衣(ぎよい)着せ奉り、御(おん)ぐしかきなで、いだし参らせ給ふも、ただ夢とのみぞ思はれける。女院をはじめ参らせて、局の女房、女(め)の童(わらは)にいたるまで、涙をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。頼盛卿、宮(みや)うけとり参らせ、御車(おんくるま)に乗せ奉って、六波羅(ろくはら)へわたし奉る。

前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、此宮(この)をみ参らせて、父の相国禅門の御(おん)まへにおはして、「なにと候やらん、此宮をみ奉るが、あまりにいとほしう思ひ参らせ候。理(り)をまげて此宮の御命(おんいのち)をば、宗盛にたび候へ」と申されければ、入道、「さらばとうとう出家をせさせ奉れ」とぞ宣ひける。宗盛卿此よしを八条女院(はつでうのにようゐん)に申されければ、女院、「なにのやうもあるべからず。ただとうとう」とて法師になし奉り、尺子(しやくし)にさだまらせ給ひて、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)の御弟子(おんでし)になし参らツさせ給ひけり。後(のち)には東寺(とうじ)の一(いち)の長者(ちやうじや)、安井の宮の僧正道尊(だうそん)と申ししは、此宮の御事(おんこと)なり。

現代語訳

平家の人々は、宮ならびに三位入道の一族、三井寺の衆徒、総勢五百余人の首を、太刀、長刀の先に貫き、高く差し上げ、夕方になって、六波羅へ帰りついた。

兵たちが勇みさわぐ事は、恐ろしいという言葉では足りないくらいだ。その中に源三位入道の首は、長七唱(ちょうじつとなう)がとって、宇治川の深い所に沈めてしまったので、それは見えなかった。

子らの首は、あちこちから皆探し出された。中に高倉宮の御首は、長年参り寄る人もなかったので、見知り申し上げる人もない。先年典薬頭(てんやくのかみ)定成(さだなり)が御療治のために召されたので、それが見知り申し上げているだろうと、召されたが、今は病気ということで参らない。

高倉宮が常に召されていた女房ということで、六波羅に尋ね出された。たいそう深くご寵愛されていたので、御子を生み申し上げ、最愛の女房であったので、どうして見誤り申し上げることがあろうか。ただひと目拝見して、袖を顔に押し当てて、涙を流されたことで、高倉宮の御首と知られたのだった。

この宮(高倉宮)は、複数の女性の腹から生まれた宮たちが、多くいらっしゃった。

八条女院に、伊予守盛章(もりのり)の娘、三位局(さんみのつぼね)といってお仕えなさっている女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮がいらっしゃった。

入道相国は、弟池の中納言頼盛卿によって八条女院に申し上げなさることは、

「高倉宮の御子の宮たちが多くいらっしゃるということですね。姫宮の御事は申すに及びません。若宮をはやく差し出し申し上げください」

と申されたところ、女院の御返事は、

「このように(高倉宮の若宮を捕らえるという)噂のあった明け方、乳母などが幼稚な考えでお連れ申し上げたのでしょうか。まったくこの御所にはいらっしゃいません」

とおっしゃるので、頼盛卿は力及ばず、この事を入道相国に申し上げなさった。

「どうしてその御所でなくて、どこへいらっしゃるだろう。そういう事なら武士ども参って探し申し上げよ」

とおっしゃった。

この中納言(頼盛)は、八条女院の御めのと子である宰相殿と申す女房と連れ添って常に(八条女院の御所へ)参り通われていたので、(八条女院は頼盛を)日頃は親しみ深く思われていたが、(頼盛が)この宮(高倉宮の若宮・姫宮)の御事を申しに参られたので、(八条女院は頼盛のことを)いまは別人のように、うとましく思われた。

若宮が女院に申し上げなさることは、

「これ程の御大事に及びました上は、最後には逃れることができませんでしょう。はやくはやく、私を差し出してください」

と申し上げなさると、女院は御涙をはらはらと流されて、

「人の七つ八つは、何事をもいまだ思い分けられない年齢ですよ。それなのにわがために大事の出来したことを、いたたまれなく思って、このようにおっしゃる愛おしさよ。縁のなかった人を、この六七年手ずから育てて、このような悲しい目を見ることよ」

といって、御涙をせきとめることがおできにならない。

頼盛卿が、宮を差しされるべきことを、かさねて申されると、女院はなされようがなく、ついに宮を差し出された。

御母三位の局、今が最後の別れであるので、さぞかし御名残惜しく思われたであろう。

泣く泣く御衣を着せ申し上げ、御ぐしかきなで、差し出し申し上げなさるのも、ただ夢とばかりに思われた。

女院をはじめ、三位局に仕える女房、女の童にいたるまで、涙を流し袖をしぼらぬ者はなかった。

頼盛卿は、宮をお受け取りし、御車にお乗せして、六波羅へわたし申し上げる。

前右大将(さきのうだいしょう)宗盛卿(むねもりのきょう)、この宮を拝見して、父の相国禅門の御前にいらっしゃって、

「何ということでしょう。この宮を拝見するに、あまりに愛おしく思い申し上げます。道理をまげてこの宮の御命を、宗盛にあずけてください」

と申されたところ、入道、

「ならばさっさと出家をさせ申し上げよ」

とおっしゃった。

宗盛卿このことを八条女院に申されると、女院は、

「何の異存もあろうはずもない。ただはやくはやく」

といって法師になし申し上げて、仏弟子にしたてなさって、仁和寺の御室の御弟子になし申し上げなさった。

後には東寺の一の長者、安井の宮の僧正道尊と申したのは、この宮の御事である。

語句

■定成 和気定成。定相の子。典薬頭は典薬寮の長官。典薬寮は医薬をつかさどる役所。 ■現所労 現在は病気である。 ■腹々に 複数の女の腹に。 ■八条女院 鳥羽天皇皇女、暲子内親王。高倉天皇の叔母。高倉宮の養母。保元ニ年(1157)出家。応保元年(1161)院号。建暦元年(1211)没。 ■心おさなう 幼稚な考えで。 ■何条 どうして。反語が続く。 ■この中納言 頼盛。 ■相具して 連れ添って。結婚して。 ■あらぬ人のやうに 別人のように。 ■手ならして 手づから育てて。 ■局の女房、女の童 ここでは三位局に仕えている女房や女の童。 ■なにと候やらん 何ということでしょう。 ■理をまげて 道理をまげて。 ■なにのやうもあるべからず 何の異存もあるはずがない。 ■尺子 釈子。釈迦の弟子。仏弟子。 ■東寺一の長者 教王護国寺。東寺の寺務を総括する者を長者といい、はじめ一人だったが、後に四人となった。一の長者から四の長者まで。 ■安井の宮の僧正 仁和寺の院家蓮華光院の門跡を安井門跡という。道尊が初代。蓮華光院は真言宗の門跡寺院で、仁和寺の院家として太秦安井に建立された。後、東山に移されたが、明治に廃絶となった。現在、東山に鎮守の安井金比羅宮が残る。

……

高倉宮以仁王の若宮が出家させられ、仁和寺の御室の弟子となり、後には仁和寺別院、蓮華光院の住職(安井門跡)になったという話でした。

蓮華光院は太秦の安井にあっため、安井門跡とよばれました。また住職のことも安井門跡とよびます。

元禄8年(1695)蓮華光院は東山に移りますが、明治の廃仏毀釈で寺は廃絶となり、鎮守の社だけが残りました。それが現在東山にある、「悪縁切り・良縁結び」の神社として有名な、安井金比羅宮です。

ゆかりの場所

安井金毘羅宮

崇徳天皇、大物主神、源頼政の三神を祀る。元禄8年(1695)太秦安井にあった仁和寺の院家寺院・蓮華光院が東山に移築された。その際、崇徳天皇とともに讃岐の金比羅宮から勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから「安井の金毘羅さん」とよばれる。明治の廃仏毀釈で寺は断絶し、鎮守の社だけが残った。

「悪縁切り・良縁結び」の神社として知られ、願いを書く「形代」がはられた石の穴を「おくぐり」することによって願いが成就するとされる。

朗読・解説:左大臣光永

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