平家物語 六十六 通乗之沙汰(とうじようのさた)

本日は平家物語巻第四より「通乗之沙汰(さうじょうのさた)」です。

相少納言は有名な相人(人相見)でしたが、高倉宮以仁王に「位につく相あり」といって謀反をあおったのは失態でした。

それに関連して、いにしえの有名な相人、通乗(とうじょう)のことなどが語られます。

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前回「若宮出家(わかみやしゅっけ)」からのつづきです。
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あらすじ

奈良にも高倉宮の若宮がいたが、出家して北国へ逃れた。

後に木曽義仲がこの宮を連れて上洛し、主君と仰ぐため還俗(僧が俗人に還ること)させた。

「木曽の宮」とか「還俗の宮」と呼ばれたのはこの皇子のことである。後には嵯峨の野依に隠棲したので野依の宮ともよばれた。

昔、通乗(とうじょう)という相人(人相見)がいた。

この通乗は、藤原頼通、教通兄弟が天皇三代の間、関白の位につくことを予言した。

内大臣藤原伊周が流罪にあうことも言い当てた。

また聖徳太子は、崇峻天皇が臣下の曽我馬子に殺害されることを預言した。

昔の人は、かならずしも職業として人相見をやっていたわけではないが、このように 立派な占いをしたものだ。

ところが相少納言維長は高倉宮に「位につく相がございます」といって、謀反を煽った(「源氏揃」)のは大失態だった。

中頃、醍醐天皇皇子・兼明(げんめい)親王(中書王)、村上天皇皇子・具平(ぐへい)親王(後中書王)は位にはつかなかったが、謀叛などは起こさなかった。

後三条院の第三皇子、輔仁(すけひと)親王は父後三条院の遺言で即位させるように定められていたが、白河院が位につかせなかった。

せめての事に、輔仁親王の御子に源氏の姓をさずけて無位から一気に三位にした。花園左大臣有仁公のことである。

(このように昔の人はたとえ不遇をかこっても、うまく身を処したものである。子孫繁栄の道を自ら閉ざしてしまった高倉宮とは、たいへんな違いである)

以仁王謀反の間調伏の祈りをささげていた僧たちに褒賞が贈られた。

宗盛の子清宗は十二歳で三位に叙せられた。

但し書きには「源以仁・頼政父子追討の賞」と書かれた。「源以仁」とは高倉宮のことである。

後白河法皇の皇子を討っただけでもひどい話なのに、 臣籍にひきおろし、このように表記したのはひどいことであった。

原文

又奈良にも一所(いつしよ)ましましけり。御(おん)めのと讃岐守重秀(さぬきのかみしげひで)が、御出家せさせ奉り、具(ぐ)し参らせて北国へ落ちくだりたりしを、木曽義仲上洛(こそよしなかしやうらく)の時、主(しゆう)に参らせんとて具(ぐ)し奉ツて都へのぼり、御元服(げんぷく)せさせ参らせたりしかば、木曽が宮とも申しけり。又還俗(げんぞく)の宮とも申しけり。後(のち)には嵯峨(さが)のへん、野依(のより)にわたらせ給ひしかば、野依の宮とも申しけり。

昔通乗(とうじよう)という相人(さうにん)あり。宇治殿、二条殿をば、「君(きみ)三代(だい)の関白、共に御年(おんとし)八十」と申したりしもたがはず、帥(そつ)のうちのおとどをば、「流罪(るざい)の相(さう)まします」と申したりしもたがはず。聖徳太子の宗峻天皇(そうじゆんてんわう)を、「横死(わうし)の相まします」と申させ給ひたりしが、馬子(むまこ)の大臣(だいじん)にころされ給ひにき。さもしかるべき人々は、必ず相人(さうにん)としもにあらねども、かうこそめでたかりしか、これは相少納言(さうせうなごん)が不覚にはあらずや。中比兼明親王(なかごろげんめいしんわう)、具平親王(ぐへいしんわう)と申ししは、前中書王(ぜんちゆうしよわう)、後中書王(ごちゆうしよわう)とて、共に賢王聖主(けんわうせいしゆ)の皇子にてわたらせ給ひしかども、位にもつかせ給はず。

されどもいつしかは謀叛(むほん)をおこさせ給ひし。又後三条院(ごさんでうゐん)の第三の皇子、輔仁(すけひと)の親王(しんわう)も、御才学(おんさいがく)すぐれてましましければ、白河院(しらかはのゐん)いまだ東宮にてましまいし時、「御位(おんくらゐ)の後(のち)はこの宮を位につけ参らツさせ給へ」と、後三条院御遺詔(ごゆいぜう)ありしかども、白河院いかがおぼしめされけん、つひに位にもつけ参らツさせ給はず。せめてもの御事(おんこと)には、輔仁親王(すけひとのしんわう)の御子(おんこ)に、源氏の姓(しやう)をさづけ参らツさせ給ひて、無位(むゐ)より一度に三位(さんみ)に叙して、やがて中将になし参らツさせ給ひけり。一世(いつせ)の源氏、無位より三位にする事、嵯峨(さが)の皇帝の御子(おんこ)、陽院(やうゐん)の大納言定卿(だいなごんさだむのきやう)の外(ほか)は、これはじめとぞ承(うけたまは)る。花園左大臣有仁公(はなぞののさだいじんありひとこう)の御事なり。

高倉の宮御謀叛(ごむほん)の間、調伏(てうふく)の法(ほふ)承ツて修(しゆ)せられける高僧達(かうそうたち)に勧賞(けんじやう)おこなはる。前右大将宗盛卿の子息、侍従清宗(じじゆうきよむね)三位して三位侍従(さんみのじじゆう)とぞ申しける。今年纔(ことしわづ)かに十二歳、父の卿もこのよはひでは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)にてこそおはせしか。忽(たちま)ちに上達部(かんだちめ)にあがり給ふ事、一(いち)の人(ひと)の公達(きんだち)の外(ほか)は、いまに承り及ばず。

「源以仁(みなもとのもちひと)、頼政法師父子追討(ふしついたう)の賞(しやう)」とぞ除書(さきがき)にはありける。源以仁とは高倉宮(たかくらのみや)を申しけり。まさしい太上法皇(だいじやうほふわう)の皇子(わうじ)をうち奉るだにあるに、凡人(ぼんにん)にさへなし奉るぞあさましき。

現代語訳

また奈良にも高倉宮の皇子が一人いらっしゃった。養育役の讃岐守重秀(しげひで)が、御出家おさせになり、一緒に北国へ下っておられたのを、木曽義仲が上洛したとき、主上に担ぎ上げようと、お連れ申して都へのぼり、御元服おさせ申したので、木曽が宮とも申した。

又還俗の宮とも申した。後には嵯峨の辺、野依にお住まいになったので、野依の宮とも申した。

昔、通乗(とうじょう)という相人がいた。宇治殿(藤原頼道)・二条殿(藤原教通)を、「三代の天皇の関白になり、共に御年八十まで生きる」と申したのも違わなかったし、帥の内大臣(藤原伊周)を、「流罪の相があります」と申したのも違いはなかった。聖徳太子が崇峻(すしゅん)天皇のことを、「横死(おうし)の相があります」と申されたが、馬子の大臣に殺されておしまいになった。

いかにも優れた人々は、必ずしも相人というわけではないが、このようにすばらしかったのだが、この高倉宮の場合は、相少納言(伊長(これなが))の失敗ではないか。中頃、兼明親王・具平親王と申した方は、前中書王・後中書王といって、共に醍醐・村上両帝のような賢王聖主の皇子でいらっしゃったが、即位もなさらなかった。

けれでもいつ謀叛をお起しになったことがあろうか。又後三条院の第三の皇子、輔仁(すけひと)親王も、御才知・学問に勝れていらっしゃったので、白河院がまだ東宮でおられた時、「貴方が皇位につかれた後は、この宮(輔仁親王)を皇位におつけなされ」と、後三条院が御遺言なさっておかれたけれども、白河院はどうお考えになったのだろうか、ついに皇位にもおつけ申されなかった。

せめてこれだけでもという御事で、輔仁親王の御子に、源氏の姓をお授けになって、無位から一度に三位に叙して、すぐに中将に任じ申された。/p>

一世の源氏が無位から三位になったのは、嵯峨天皇の御子、陽院(よういん)の大納言定(さだむ)卿の外には、これが初めてとうかがっている。花園左大臣有仁(ありひろ)公の御事である。

高倉宮御謀反の間、調伏の法を承って修められた高僧たちに勧賞が行われた。前右大将宗盛卿の子息、侍従宗清を三位に叙して三位侍従と申した。

今年やっと十二歳になったばかりである。父の宗盛卿も、この年頃では、兵衛佐(ひょうえのすけ)でいらっしゃったか。

すぐ上達部(かんだちめ)にご出世になることは、一世の人の公達の外には、いままで承ったことはない。

「源以仁(もちひと)、頼政(よりまさ)法師父子追討の賞」と除目(じもく)の聞書(ききがき)には書いてあった。源以仁とは高倉宮を申したのである。/p>

正真正銘の太上法皇(後白河天皇)の皇子をお討ちすることさえひどいことなのに、まして臣下にまでお降ろしするのは、全くあきれたことであった。

語句

■重秀 『尊卑分脈』には重季。藤原道綱の子孫。 ■野依 嵯峨の北。未詳。 ■通乗 未詳。 ■宇治殿 藤原頼通。父道長の別荘を寺院にして平等院を建立した。宇治関白とよばれた。 ■ニ条殿 頼通の弟、教通。大二条関白。 ■頼通は後一条、後朱雀・後冷泉三代の関白。教通は後冷泉、後三条、白河三代の関白。 ■帥のうちのおとど 藤原道隆の子、伊周(これちか)。中関白家。花山法皇の袖を射た咎で、一時大宰府に左遷されていた。伴別当という人が伊周の流罪のことを占ったことが『古事談』に見える。 ■聖徳太子の崇峻天皇を… 『聖徳太子伝暦』に聖徳太子が崇峻天皇に「傷害の相」があると占った記事。 ■崇峻天皇 大臣の蘇我馬子と意見があわず、殺害された。臣下に殺害された天皇のはじめの例。 ■馬子 大臣蘇我馬子。稲目の子。『日本書紀』崇峻天皇五年条に天皇を殺害した記事がある。 ■さもしかるべき人々 そうとうすぐれた人々。 ■相少納言 少納言伊長。以仁王の将来を相した記事が「源氏揃」にある。 ■兼明親王 げんめいしんのう。醍醐天皇の皇子。ニ品中務卿。中務卿の唐名を中書令とよぶため中書王とよばれた。 ■具平親王 村上天皇皇子。二品中務卿。 ■ましまいし ましまししの音便。 ■御遺詔 ごゆいじょう。天皇の遺言。 ■輔仁親王の御子 輔仁親王第二皇子・源有仁。仁和寺の花園に隠居したため花園左大臣と称した。詩歌にすぐれ『金葉集』以下の勅撰集に21首入集。音楽の才能もあり、特に琵琶と笙に長じていた。 ■一世の源氏 皇族が臣籍降下して一代目の源氏。 ■陽院の大納言定 『公卿補任』には天長五年(828)源姓を賜り、同九年(832)無位から従三位に叙せられた。 ■清宗 清宗が従三位に叙せられたことは『玉葉』治承四年五月三十日条にある。 ■父の卿 宗盛。永暦元年(1160)右兵衛佐。 ■上達部 公卿。三位および四位の参議。 ■一の人 摂政・関白のこと。 ■源以仁 正しくは源以光。皇族からはずして源氏にしたもの。 ■除書 ききがき。除目の理由を書いた文書。 ■まさしい 偽りのない。 ■凡人 臣下。皇族に対していう。

……

「源以仁」と、ついに凡人の立場にまで高倉宮以仁王が落とされて、まったくひどい話であったと。

それもこれも、相少納言伊長が、高倉宮の人相を見て「位におつきになる相です」などと占って、謀叛をあおったから、こういう悲劇がおこったのだ。まったく失態であると。

それに比べて昔は立派な人相見がいたんだぞと、平安時代中期の人相見、通乗のことが語られます。

通乗のことは、今昔物語 巻二十四 第二十一話に「僧登照、朱雀門の倒るるを相ずること」として出てきます。

昔、登照という人相見で有名な僧がいました。

ある時登照が朱雀門の前を通りかかると、門の下にいる大勢の人に顔に一様に死相が出ていました。

「こんな大勢にいっぺんに死相が出るとはどういうことだ?…そうか、朱雀門が倒れるのだな!」

そう判断した登照は、朱雀門の下にいた人に避難をよびかけます。

すると、大風でも地震でもないのに登照の言葉どおり朱雀門が一瞬のうちに倒壊しました。

登照に従って逃げた人は助かり、無視して門の下に留まっていた人は潰されたという話です。

朗読・解説:左大臣光永

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