平家物語 六十七 鵼(ぬえ)

原文

抑(そもそも)源三位入道と申すは、摂津守頼光(つのかみよりみつ)に五代、三河守頼綱(みかはのかみよりつな)が孫(まご)、兵庫頭仲政(ひやうごのかみなかまさ)が子なり。保元(ほうげん)の合戦(かつせん)の時、御方(みかた)にて先(さき)をかけたりしかども、させる賞にもあづからず。又平治の逆乱(げきらん)にも、親類(しんるい)を捨てて参じたりしかども、恩賞(おんしやう)これおろそかなり。大内守護(たいだいしゆご)にて年ひさしうありしかども、昇殿(しようでん)をばゆるされず。年たけよはひ傾(かたぶ)いて後(のち)、述懐(しゆつくわい)の和歌一首ようでこそ、昇殿をばゆるされけれ。

人知れず大内山(おほうちやま)のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな

この歌によツて、昇殿ゆるされ、正下四位(じやうげしい)にしばらくありしが、三位を心にかけつつ、

のぼるべきたよりなき身は木(こ)のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな

さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して、源三位入道とて、今年は七十五にぞなられける。

此人一期(このひといちご)の高名(かうみやう)とおぼえし事は、近衛院御在位(このゑのゐんございゐ)の時、仁平(にんぺい)のころほひ、主上(しゆじやう)よなよなおびえたまぎらせ給ふ事ありけり。有験(うげん)の高僧貴僧(かうそうきそう)に仰せて、大法秘法(だいほふひほふ)を修(しゆ)せられけれども、其しるしなし。御悩(ごなう)は丑(うし)の剋(こく)ばかりでありけるに、東三条(とうさんでう)の森の方(かた)より、黒雲一村(くろくもひとむら)たち来ツて、御殿(ごてん)の上におほへば、かならずおびえさせ給ひけり。これによツて、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。去(さんぬ)る寛治(くわんぢ)の比(ころ)ほひ、堀河天皇(ほりかはのてんわう)御在位の時、しかのごとく主上よなよなおびえさせ給ふ事ありけり。其時(そのとき)の将軍義家朝臣(しやうぐんぎかのあつそん)、南殿(なんでん)の大床(おほゆか)に候はれけるが、御悩(ごなう)の剋限(こくげん)に及んで、鳴弦(めいげん)する事三度(ど)の後(のち)、高声(かうしやう)に、「前陸奥守(さきのむつのかみ)源義家(よしいへ)」と名のツたりければ、人々皆身の毛よだツて、御悩(ごなう)おこたらせ給ひけり。
しかればすなはち先例(せんれい)にまかせて、武士に仰せて警固(けいご)あるべしとて、源平両家(りようか)の兵者(つはもの)共のなかを、撰(せん)ぜられけるに、頼政(よりまさ)をえらびいだされたりけるとぞきこえし。其時はいまだ兵庫頭(ひやうごのかみ)とぞ申しける。頼政申しけるは、「昔より朝家(てうか)に武士をおかるる事は、逆反(ぎやくはん)の者をしりぞけ、違勅(ゐちよく)の者をほろぼさんが為(ため)なり。目にもみえぬ変化(へんげ)のもの仕れと、仰せ下さるる事、いまだ承り及び候はず」と申しながら、勅定(ちよくぢやう)なれば召(めし)に応じて参内(さんだい)す。頼政はたのみきツたる郎等(らうどう)、遠江国住人(とほたふみのくにのぢゆうにん)、井早太(ゐのはやた)に、ほろの風切(かざきり)はいだる矢おはせて、ただ一人(いちにん)ぞぐしたりける。我身(わがみ)は二重(ふたへ)の狩衣(かりぎぬ)に、山鳥の尾(お)をもツてはいだるとがり矢二(ふた)すぢ、滋藤(しげどう)の弓にとりそへて、南殿の大床に伺候(しこう)す。頼政矢を二つたばさみける事は、雅頼卿(まさよりのきやう)、其時(そのとき)はいまだ左小弁(させうべん)にておはしけるが、「変化(へんげ)の物仕らんずる仁(じん)は、頼政ぞ候」と、えらび申されたるあひだ、一(いち)の矢に変化(へんげ)の物を射そんずる物ならば、二の矢には雅頼の弁(べん)の、しや頸(くび)の骨(ほね)を射んとなり。

現代語訳

いったい源三位入道と申すのは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱の孫、兵庫頭仲政の子である。保元の合戦の時、味方(後白河天皇方)にて先をかけたが、たいした賞にも預からず、また平治の合戦にも、親類をすてて馳せ参じたが、恩賞はたいしたものでなかった。

皇居警護の役について長年すごしていたが、昇殿を許されなかった。年たけ齢傾いて後、述懐の和歌一首を詠んで、昇殿を許されたのだった。

人知れず…

(人知れず大内山の山守が木の陰に隠れて月を見るように、私は大内守護という役職にあって物ごしに帝のお姿をうかがうのだ)

この歌によって、昇殿をゆるされ、正四位下となってしばらく過ごしたが、三位を心にかけつつ、

のぼるべき…

木に登る手段のない者が木の下で椎を拾うように、昇進する手立てのない私はせめて四位を拾って世を過ごすのだなあ。

それで三位になったのだった。すぐに出家して、源三位入道といって、今年は七十五におなりだった。

この人の生涯一の高名と思われる事は、近衛院御在位の時、仁平(にんぺい)の頃、天皇が夜な夜な怯えひどく驚かれる事があった。

霊験ある高僧貴僧に仰せつけて、大法秘法を修せられたが、その効果もない。お悩みになるのは、丑の時ごろであるのだが、東三条(とうさんじょう)の森の方角から、黒雲一むらたち来たって、御殿の上に覆えば、必ず怯えられた。

これによって公卿らが評議した。去る寛治の頃、堀河天皇御在位の時、同じように天皇がよなよな怯えられた事があった。

その時の将軍源義家朝臣が、紫宸殿の大床に仕えておられたが、御なやみになられる刻限になると、弦を三度はじき鳴らした後(魔物を払う意味)、声高に、

「前陸奥守(さきのむつのかみ)源義家」

と名乗ったところ、人々皆、身の毛よだって、天皇のお悩みもお治りになった。

なのでそのまま先例にまかせて、武士に仰せつけて警護するのがよいということで、源平両家の武士たちの中を選ばられたところ、頼政を選び出されたのだということだった。

その時はいまだ兵庫頭(ひょうごのかみ)と申した。頼政は申したことは、

「昔から朝廷に武士を置かれることは、逆らい背く者をしりぞけ、勅命に従わない者を滅ぼすためである。目にも見えない妖怪を退治せよと仰せくだされる事は、いまだ聞きおよびません」

と申しながら、天皇の命令なので召しに応じて参代する。

頼政は深く頼みにしている郎党、遠江(とおとうみ)の住人、井早太(いのはやた)に、ほろの風切をはいだ矢を背負わせて、ただ一人だけ連れて行った。

わが身は二重(表裏同色)の狩衣に、山鳥の尾をはしだ尖った矢をニ筋、滋籐の弓にとりそえて、紫宸殿の大床にお仕する。

頼政が矢をふたつ手にはさんでいる事は、源雅頼(まさより)卿、その時はいまだ左少弁(さしょうべん)でいらしたが、「妖怪を退治する者は、頼政でございます」と、えらび申されたので、一の矢に妖怪を射損じた場合は、ニの矢には雅頼の弁の、そやつの首の骨を射ようとしてであった。

語句

■頼光 源頼光。六孫王源経基の孫。満仲の子。頼光ー頼国ー頼綱ー仲政ー頼政。 ■兵庫頭 兵庫寮の長官。兵庫寮は武器を納めた倉庫を管理する役所。 ■保元の合戦の時… 保元元年(1156)後白河天皇方として平清盛・源義朝らに味方した。 ■平治の逆乱にも… 平治元年(1160)平治の乱。藤原信頼・源義朝がクーデターを起こした。頼政ははじめ義朝についたが、後に平家についた。 ■大内守護 大内は大内裏。皇居。皇居警護役。 ■ようで 「読んで」の音便。 ■昇殿 仁安元年(1166)12月30日、内の昇殿をゆるされた。 ■人知れず… 「二条院の御時、年頃大内守る事を承りて御垣の内には侍りながら、昇殿は聴(ゆる)されざりければ、行幸ありける夜月の明かりけるに、女房の許に申侍りける」(千載・雑上)。ただし初句を「人知れぬ」とする。大内山と大内守護をかける。 ■正下四位 正四位下。 ■のぼるべき… 椎と四位をかける。 ■三位はしたりけり 治承ニ年(1178)12月24日三位、七十五歳。翌年出家。 ■七十五 史実は七十七歳。 ■一期の 一生涯の。 ■近衛院御在位の御時 1142-1156年。 ■仁平 近衛院の御代の元号。1151-54。頼政48歳から51歳。 ■たまぎる 非常に驚く。 ■東三条 二条南、西洞院東。鎮守の森があった。 ■寛治 堀河天皇の御代。1087-94年。 ■しかのごとく 同じように。そのように。 ■源義家 類似のエピソードは『古事談』『宇治拾遺物語』にも。 ■南殿 紫宸殿。 ■鳴弦 魔物をはらうため弦をはじいて鳴らすこと。 ■兵庫頭 頼政が兵庫頭となったのは久寿ニ年(1155)。仁平より後。 ■変化のもの仕れ 妖怪を退治せよ。 ■勅定 ここでは=勅諚。天皇のご命令。 ■たのみきッたる 深く頼みにしている。 ■ほろの風切 鳥の両翼の下にある、ほろという羽のうち、風切という羽。 ■二重の狩衣 表裏同じ色の狩衣。 ■とがり矢 先がとがった矢。 ■伺候 貴人のそば近くに仕えること。 ■雅頼卿 村上源氏。源雅頼。左少弁となったのは久寿三年(1156)。仁平より後。 ■しや頸 「しや」は相手をののしる感じの接頭語。あやつの首。

原文

日ごろ人の申すにたがはず、御悩(ごなう)の剋限(こくげん)に及んで、東三条(とうさんでう)の森(もり)の方(かた)より、黒雲(くろくも)一村(むら)たち来ツて、御殿(ごてん)の上にたなびいたり。頼政きツとみあげたれば、雲のなかにあやしき物の姿(すがた)あり。これを射そんずる物ならば、世にあるべしとは思はざりけり。さりながらも矢とツてつがひ、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)」と心のうちに祈念(きねん)して、よツぴいてひやうど射る。手ごたへしてはたとあたる。「えたり、おう」と矢さけびをこそしたりけれ。井(ゐ)の早太(はやた)つツと寄り、おつるところをとツておさへて、つづけさまに九(ここの)かたなぞさいたりける。其時上下手々(じやうげてんで)に火をともいて、これを御覧(ごらん)じみ給ふに、頭(かしら)は猿(さる)、むくろは狸(たぬき)、尾(お)は蛇(くちなは)、手足は虎(とら)の姿なり。なく声鵼にぞ似たりける。おそろしなンどもおろかなり。主上御感(しゆしやうぎよかん)のあまりに、獅子王(ししわう)といふ御剣(ぎよけん)をくだされけり。宇治の左大臣是(これ)を給はりついで、頼政にたばんとて、御前(ごぜん)の階(きざはし)をなからばかりおりさせ給へるところに、比(ころ)は卯月(うづき)十日あまりの事なれば、雲井(くもゐ)に郭公二声三声(くわくこうふたこゑみこゑ)音づれてぞとほりける。其時左大臣殿(さだいじんどの)、

ほととぎす名をも雲井にあぐるかな

とおほせられかけたりければ、頼政右の膝(ひざ)をつき、左の袖(そで)をひろげ、月をすこしそばめにかけつつ、

弓はり月のいるにまかせて

と仕り、御剣(ぎよけん)を給はツて、まかりいづ。「弓矢をとツてならびなきのみならず、歌道(かどう)もすぐれたりけり」とぞ、君(きみ)も臣(しん)も御感(ぎよかん)ありける。さてかの変化(へんげ)の物をば、うつほ舟(ぶね)にいれて、ながされけるとぞきこえし。
去(さんぬ)る応保(おうほう)のころほひ、二条院(にでうのゐん)御在位の時、9d7c(ぬゑ)といふ化鳥(けてう)、禁中(きんちゆう)にないて、しばしば宸襟(しんきん)をなやます事ありき。先例(せんれい)をもツて、頼政を召されけり。比(ころ)は五月廿日(さつきはつか)あまりのまだよひの事なるに、鵼ただ一声(ひとこゑ)おとづれて、二声(ふたこゑ)ともなかざりけり。
目さすとも知らぬ闇(やみ)ではあり、すがたかたちもみえざれば、矢つぼをいづくともさだめがたし。頼政はかりことに、まづ大鏑(おほかぶら)をとツてつがひ、鵼の声しつる内裏(だいり)のうへへぞ射あげたる。鵼、鏑(かぶら)のおとにおどろいて、虚空(こくう)にしばしひひめいたり。
二の矢に小鏑(こかぶら)とツてつがひ、ひいふつと射きツて、鵼と鏑とならべて前にぞおとしたる。禁中(きんちゆう)ざざめきあひ、御感(ぎよかん)なのめならず、御衣(ぎよい)をかづけさせ給ひけるに、其時(そのとき)は大炊御門(おほひのみかど)の右大臣公能公(うだいじんきんよしこう)これを給はりついで、頼政にかづけ給ふとて、「昔の養由(やういう)は、雲の外(ほか)の鳫(かり)を射き。今の頼政は、雨の中に鵼を射たり」とぞ感ぜられける。

五月闇(さつきやみ)名をあらはせるこよひかな

と仰せられかけたりければ、頼政、

たそかれ時も過ぎぬと思ふに

と仕り、御衣を肩(かた)にかけて、退出(たいしゆつ)す。其後伊豆国(いづのくに)給はり、子息仲綱(なかつな)、受領(じゆりやう)になし、我身三位して、丹波の五カ庄(ごかのしやう)、若狭(わかさ)の東宮河知行(とうみやがはちぎやう)して、さておはすべかりし人の、よしなき謀叛おこいて、宮をもうしなひ参らせ、我身もほろびぬるこそうたてけれ

現代語訳

日頃人の申す通り、御悩みの刻限になって、東三条(とうさんじょう)の森の方角から、黒雲一むらたち来って、御殿の上にたなびいた。

頼政がきっと見上げると、雲の中に怪しい物の姿がある。これを射損じるものならば、生きていられるとは思われなかった。

そうはいっても矢をとって弓につがい、「南無八幡大菩薩」と心のうちに祈り念じて、強く弦を引いてひょうと射る。

手ごたえしてはたと当たる。

「仕留めたぞ。おう」

と矢叫びをした。

井の早太つっと寄り、落ちたところを取っておさえて、つづけさまに九度刀で割いた。

その時、上下手に手に火をともして、これを御覧になると、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿であった。

鳴く声は鵺に似ていた。恐ろしいなどという言葉ではとても足りない。

天皇はご感心されるあまりに、師子王(ししおう)という御剣をくだされた。宇治の左大臣(藤原頼長)がこれをいただいき取り次いで、頼政に与えようと、御前の階(きざはし)を半ば降りなさったところ、頃は卯月十日あまりの事であるので、空に郭公(かっこう)がニ声三声、声を立てて通った。その時左大臣殿、

ほととぎす名をも雲井にあぐるかな

(ほととぎすが空で声を上げて名乗ったぞ。お前も同じように、宮中で名声を上げたものだな)

と仰せられかけたところ、頼政は右の膝をつき、左の袖を広げ、月をすこし横目にかけつつ、

弓はり月のいるにまかせて

(弓はり月が山の端に入(い)るにまかせて、弓を射るにまかせて、まぐれで当たっただけでございます)

と歌を詠み申し上げ、御剣を賜って、退出した。

「弓矢をとって並びなきのみならず、歌道にもすぐれた人物であった」

と、君も臣もご感心された。

さて例の妖怪を、うつほ舟(木の中身をくり抜いて空洞にした丸木舟)に入れて、流されたということだった。

去る応保の頃、二条院御在位の時、鵺という怪鳥が、禁中に鳴いて、しばしば天皇の御心を悩ます事があった。

先例によって、頼政を召された。頃は五月二十日あまりのまだ宵の事であるので、鵺はただ一声声を発して、二声とも鳴かなかった。

目をさしてもわからないくらいの闇なので、姿形も見えないので、矢のねらい所をどことも定めがたい。

頼政は計略をめぐらせて、大鏑を取ってつがい、鵺の声のした内裏の上へ射上げた。

鵺は鏑の音におどろいて、虚空にちょっとひひと声を立てた。ニの矢に小鏑とってつがい、ひいふつっと射きって、鵺と鏑とならべて前に落とした。

宮中さわぎあい、天皇がご感心されることは並々でなく、御衣をお与えになられるのに、その時は大炊御門(おおいのみかど)の右大臣、公能(きんよし)公がこれを頂きとりついで、頼政にお与えになるということで、

「昔の養由は、雲の外の雁を射た。今の頼政は、雨の中に鵺を射た」

と感心なさった。

五月闇…

(五月闇の真っ暗な今夜、名声を上げたものだな)

と仰せられかけたところ、頼政は、

たそかれ時も…

(たそがれ時も過ぎたと思います、真っ暗な中ではありますが、名声を上げたものですな=この年ではありますが、なんとか名声を上げることができました)

と歌を詠んで、御衣を肩にかけて、退出する。

その後伊豆国を給わり、子息仲綱を国司にして、わが身は三位に叙せられ、丹波の五ケ庄(ごかのしょう)、若狭の東宮河(とうみやがわ)を知行して、そのまま無事に過ごせるはずだった人が、つまらない謀叛をおこして、高倉宮をも失い申し上げ、わが身も滅びてしまったのは、酷いことであった。

語句

■よっぴいて 「よっ」は「よく」の音便。 ■えたり 仕留めたぞ。 ■矢さけび 矢が当たったときに射手があげる声。 ■宇治の左大臣 藤原頼長。 ■給わりついで 天皇から取り次いで。 ■音ずれて 声を立てて。 ■ほととぎす 空と宮中をかける。名をあぐるは、「ほととぎすが名乗る」と「名声を上げる」を掛ける。 ■そばめ 横目。 ■弓はり月の… 弓はり月が「入る」と矢を「射る」を掛ける。 ■うつほ舟 木の中をくりぬいて空洞にした丸木舟。 ■応保 二条天皇の御代。1161-63。 ■化鳥 けてう。変化の鳥。 ■宸襟 天皇の御心。 ■目さすとも知らぬ 目を刺してもわからないくらいの。 ■矢つぼ 矢のねらい所。 ■はかりことに 計略をめぐらせて。 ■ひひめく ひらひらする。ひひと声を立てる。 ■かづけさせ給ふ お与えになる。 ■大炊御門右大臣公能 藤原公能。永暦元年(1160)右大臣。屋敷が大炊御門(郁芳門)の北、高倉の東にあった。 ■養由 養由基。中国春秋時代の弓の名人。百歩離れたところから柳葉を射ぬいたという。「昔養由ハ雲外ニ雁ヲ射、今頼政ハ雨中ニ鵼を得タリ」(十訓抄)。 ■たそかれ時 あれが誰かとも見分けがつかない時間帯。夕暮れ時。 ■受領 国司。 ■丹波の五ケ庄 丹波国船井郡五ケ庄村(京都府船井郡日吉町)。 ■若狭の東宮河 福井県小浜市宮川?

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平家物語|原文・現代語訳・解説・朗読

朗読・解説:左大臣光永