平家物語 六十八 三井寺炎上(みゐでらえんしやう)
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本日は平家物語巻第四より「三井寺炎上(みいでらえんしょう)」です。
平家は、三井寺が高倉宮の謀叛に加担したことへの報復として、三井寺を焼き討ちにします。
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三井寺金堂
前回「鵼(ぬえ)」からのつづきです。
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あらすじ
高倉宮以仁王の謀叛に加担した園城寺(三井寺)、南都(興福寺)に対して、平家は報復を行う。
治承四年五月二十七日、頭中将(とうのちゅうじょう)重衡(しげひら)、薩摩守忠度(ただのり)以下、総勢一万余騎で、園城寺に向かう。
一日合戦し、夜になって平家軍は寺に攻め入り火をはなった。三井寺の多くの堂塔伽藍は灰燼と化した。
寺の長吏円慶法親王は、天王寺の別当職を停止された。そのほか役職つきの僧が十三人役職を停止され、みな検非違使に預けられた。
悪僧は筒井の浄妙明秀にいたるまで、三十余人流されてしまった。
人々はこうした天下の乱れに、平家の世が終わることを予感した。
原文
日ごろは山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)こそ、みだりがはしきうツたへ仕るに、今度(こんど)は穏便(をんびん)を存じて、おともせず。南都、三井寺、或(あるい)は宮うけとり奉り、或は宮の御むかへに参る。これもツて朝敵(てうてき)なり。されば三井寺をも南都をも、せめらるべしとて、同(おなじき)五月廿七日、大将軍には入道の四男頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、副将軍には薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、都合其勢一万余騎で、園城寺(をんじやうじ)へ発向(はつかう)す。寺にも堀(ほり)ほりかいだてかき、、逆茂木(さかもぎ)ひいて待ちかけたり。卯剋(うのこく)に矢合(やあはせ)して、一日たたかひくらす。ふせぐところの大衆以下(だいしゆいげ)の法師原(ほふしばら)三百余人までうたれにけり。夜(よ)いくさになツてくらさはくらし、官軍(くわんぐん)寺にせめ入りて火をはなつ。焼くるところ、本覚院(ほんがくゐん)、成喜院(じやうきゐん)、真如院(しんによゐん)、花園院(けをんゐん)、普賢堂(ふげんだう)、大宝院(だいほうゐん)、清滝院(しやうりうゐん)、教待和尚本坊(けうだいくわしやうのほんばう)、ならびに本尊等(ほんぞんとう)、八間四面の大講堂(だいこうだう)、鐘楼(しゆろう)、経蔵(きやうざう)、灌頂堂(くわんぢやうだう)、護法善神(ごほふぜんじん)の社壇(しやだん)、新熊野(いまぐまの)の御宝殿(ごほうでん)、惣(そう)じて堂舎搭廟(だうじやたふべう)六百三十七宇(う)、大津の在家(ざいけ)一千八百五十三宇、智証(ちしよう)のわたし給へる一切経(いつさいきやう)七千余巻(くわん)、仏像(ぶつざう)二千余体(たい)、忽(たちま)ちに煙(けぶり)となるこそかなしけれ。諸天五妙(しよてんごめう)のたのしみも此時(このとき)ながくつき、竜神三熱(りゆうじんさんねつ)の苦しみもいよいよさかんなるらんとぞみえし。
それ三井寺は、近江の擬大領(ぎだいりやう)が私(わたくし)の寺たりしを、天武天皇に寄せ奉ツて、御願(ごぐわん)となす。本仏(ほんぶつ)もかの御門(みかど)の御本尊(ごほんぞん)、しかるを生身(しやうじん)の弥勒(みろく)ときこえ給ひし教待和尚(けうだいくわしやう)、百六十年おこなうて、大師(だいし)に付属(ふぞく)し給へり。都士多天上摩尼宝殿(としたてんじやうまにほうでん)より、あまくだり、はるかに竜花下生(りゆうげしやう)の暁(あかつき)をまたせ給ふとこそききつるに、こはいかにしつる事どもぞや。大師此ところを、伝法灌頂(でんぽふわんぢやう)の霊跡(れいせき)として、井化水(ゐけすい)の三(みつ)をむすび給ひしゆゑにこそ、三井寺とは名づけたれ。かかるめでたき聖跡(せいせき)なれども、今はなにならず。顕密須萸(けんみつしゆゆ)にほろびて、伽藍(がらん)さらに跡もなし。三密道場(さんみつだうじやう)もなければ、鈴(れい)の声もきこえず。一夏(いちげ)の花もなければ、阿伽(あか)のおともせざりけり。宿老碩徳(しゆくらうせきとく)の名師(めいし)は行学(ぎやうがく)におこたり、受法相承(じゆほふさうじよう)の弟子は又、経教(きやうげう)にわかれんだり。寺の長吏円恵法親王(ちやうりゑんけいほつしんわう)、天王寺の別当(べつたう)をとどめらる。其外僧綱(そのほかそうがう)十三人闕官(けつくわん)ぜられて、みな検非違使(けんびゐし)に預けらる。悪僧は筒井の浄妙明秀(じやうめうめいしう)にいたるまで、卅余人ながされたり。「かかる天下(てんか)の乱(みだれ)、国土のさわぎ、ただ事ともおぼえず。平家の世末になりぬる先表(せんぺう)やらん」とぞ人申しける。
現代語訳
いつもは山門(比叡山)の大衆は、無法な訴えをしているのだが、今度は穏便にしようと考えて、まったく騒がなかった。南都、三井寺は一方では高倉宮を受け入れ申し上げ、また一方では高倉宮の御迎えに参った、これは朝敵の行いである。だから、三井寺も南都も、攻めなければならないといって、同年(治承四年)五月二十七日、大将軍には入道(清盛)の四男、頭中将(とうのちゅうじょう)重衡(しげひら)、副将軍には薩摩守忠度(ただのり)、総勢一万余騎で、園城寺に向かう。
寺にも堀ほりかいだて(楯をならべて垣のようにしたもの)を組み、逆茂木(木のバリケード)をつくって待ちかけた。
卯の刻(午前6字頃)に矢合わせして、一日戦い通した。防いでいた大衆以下の法師ら三百余人まで討たれてしまった。
夜いくさになっていよいよ暗いし、官軍は寺に攻め入って火をはなつ。焼けたところ、本覚院(ほんがくゐん)、成喜院(じやうきゐん)、真如院(しんによゐん)、花園院(けをんゐん)、普賢堂(ふげんだう)、大宝院(だいほうゐん)、清滝院(しやうりうゐん)、教待和尚本坊(けうだいくわしやうのほんばう)、ならびに本尊等(ほんぞんとう)、八間四面の大講堂(だいこうだう)、鐘楼(しゆろう)、経蔵(きやうざう)、灌頂堂(くわんぢやうだう)、護法善神(ごほふぜんじん)の社壇(しやだん)、新熊野(いまぐまの)の御宝殿(ごほうでん)、すべて堂舎搭廟六百三十七宇(う)、大津の民家一千八百五十三宇、智証大師の伝えられた一切経七千余巻、仏像二千余体、あっという間に煙となったのは悲しいことであった。
天上の神々の音楽もこの時ながく尽き、竜神が受ける三熱の苦しみも、いよいよひどくなるだろうと思われた。
いったい三井寺は、近江の地方長官候補の私の寺であったのを、天武天皇に寄進申し上げて御願寺とした。本尊もかの天武天皇の御本尊の弥勒菩薩像であった。
それを弥勒菩薩が神通力で人の姿となったと言われなさった教待和尚(きょうだいかしょう)が、百六十年修行して、智証大師にお与えになった。
(弥勒菩薩は)都士多天(としたてん)の上にある摩尼宝殿から天下り、はるかに時を経て竜花の下に生まれ変わって説法をする、その暁をお待ちになっていると言われるが、それなのに、これはどうした事であろうか。
智証大師はこの場所を、仏法を伝え、灌頂の儀式を行う霊場として、朝一に汲んだ清浄な水をお汲みになられたから、三井寺と名付けたのだ。
このような素晴らしい聖蹟であるが、今は何でもない。顕教も密教もあっという間に滅びて、伽藍はまったく跡もない。
密教を行う道場もないので、鈴(れい)の音もきこえない。
夏の修行の間、お供えする花もないので、閼伽水(仏前に供える水)の音もしなくなった。
経験を積んだ老人や徳をつんだ名僧は修行・学問をおこたり、師から教えを受け伝えるべき弟子はまた、経文・教法から離れてしまった。
寺の長吏円慶法親王は、天王寺の別当職を停止された。そのほか役職つきの僧が十三人役職を停止され、みな検非違使に預けられた。
悪僧は筒井の浄妙明秀にいたるまで、三十余人流されてしまった。
「このような天下の乱れ、国土のさわぎ、ただ事とも思われない。平家の世が末になる前ぶれであろうか」
と人は申した。
語句
■みだりがはしきうッたへ 無法な訴え。 ■これもッて 「もッて」は強調。 ■五月廿七日 実際は十二月十一日(百練抄、玉葉等)。 ■かいだて かきだての音便。楯をならべて垣のようにしたもの。かいだてを組み立てることを「かく」という。 ■逆茂木 木のバリケード。逆茂木を立てることを「引く」という。 ■教待和尚本坊 智証大師作教待和尚像を安置する。本尊は弥勒菩薩。 ■大講堂 中院にある。教法の講義をする堂。 ■灌頂堂 灌頂を行う堂。 ■護法善神 仏法の守護神。 ■新熊野 熊野権現。三井寺五社鎮守の一。 ■塔廟 仏舎利塔。 ■在家 民家。 ■智証 三井寺開基、智証大師円珍。 ■一切経 経・律・論の三蔵とその注釈書を集めたもの。大蔵経とも。 ■諸天五妙のたのしみ 諸天は天界に通じる神々。五妙は音楽の五つの調べ(宮・商・角・徴・羽)。天界の神々のかなでる音楽。 ■竜神三熱の苦しみ 竜神が受ける三熱の苦しみ。 ■擬大領 義大領。大領は地方長官。義は候補者。「近江国志賀郡擬大領大友夜須良麿が私の寺たりしを」(源平盛衰記・十六)。大友夜須良麿は大友皇子の子、大友与多王の孫。三井寺の創健者は『園城寺伝記』には「大友与多麻呂」とする。 ■御本尊 三寸ニ分の弥勒菩薩像。 ■生身の弥勒 弥勒菩薩が神通力で人間の姿となったもの。 ■おこなうて 修行して。 ■大師に付属し給へり 智証大師にお与えになられた。 ■都士多天 弥勒菩薩のいる天。 ■摩尼宝殿 弥勒菩薩の宮殿。 ■竜花下生 摩尼宝殿から下って、竜花の下に生まれるの意。弥勒菩薩は釈迦に先立って入滅し、五十六億七千万年後に地上に下り、華林園の竜華樹の下で説法するという。 ■伝法灌頂の霊跡 仏法を伝え灌頂の儀式を行う霊地。 ■井花水の三つ 正しくは井花水の水。井花水は朝一で汲む清浄な水。『古今著文集』によると、天智・天武・持統三帝の初湯を汲んだことから御井寺といい、後に智証大師が三井寺に改めたという。 ■なにならず 何でもない。 ■須臾 あっという間に。 ■三密道場 密教(身密・語密・意密)の修行の場。 ■鈴 れい。密教の儀式に使う鈴。 ■一夏の花もなければ 一夏は、夏の間九十日間の「夏安居(げあんご)」のこと。その間花も備えられていないの意。 ■阿伽 閼伽水。仏に供える水のこと。 ■宿老碩徳 宿老は経験を積んだ老人。碩徳は徳をつんだ僧。 ■名師 すぐれた僧。 ■行学 修行と学問。 ■受法相承の弟子 師から教えを受けて伝えるべき弟子。 ■経教 経文と教法。 ■わかれんだり 「別れにたり」の音便。離れてしまった。 ■円慶法親王 後白河法皇皇子、八条宮。第三十六代園城寺長吏。仁安三年(1168)天王寺別当。 ■僧綱 総務をつかさどる僧官職。 ■闕官ぜられて やめさせられて。
ゆかりの場所
三井寺
三井寺は正式には長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)。天台寺門宗の総本山。琵琶湖を見下ろす長等山の中腹に位置する。延暦寺・興福寺・東大寺とともに日本四箇大寺(しかたいじ)の一つに数えられる。
三十五万坪を越える広大な寺域に、観音堂を中心とする南院、金堂や唐院を中心とする中院、新羅善神堂を中心とする北院の三つのエリアが広がる。
創建は天武天皇15年(686)、天智天皇・弘文天皇(大友皇子)・天武天皇の勅願寺として、大友皇子の息子・大友与多王(おおともの よたのおおきみ)の創建と伝えられる。
大友与多王が自ら「田園城邑(でんえんじょうゆう)」を寄進したので、天武天皇より「園城」の勅額を賜ったことが「園城寺」のはじまりと伝えられる。
境内に天智・天武・持統三帝の産湯につかったという霊水があるため「御井の寺」と呼ばれた。平安時代に智証大師円珍が密教の三部灌頂にその水を用いたことから「三井の寺」とよばれるようになった。
一時、衰退したが、平安時代初期に円珍によって中興された。
円珍は山王明神のお告げにしたがって唐にわたり多くの経典を持ち帰り、貞観元年(859)園城寺初代長吏に就任。長吏とは園城寺をたばねる長官のことで、今日まで163代を数える。
また円珍は新羅明神のお告げにより園城寺境内に「唐院」をもうけ、唐から持ち帰った経典をおさめた。
円珍の死後、比叡山延暦寺では円珍派と円仁派の対立が深まり、正暦4年(993)円珍派はいっせいに比叡山を下り、園城寺に入った。以後、山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(長等山園城寺)の対立が続いた(山門・寺門の争い)。
山門(比叡山延暦寺)の僧兵はしばしば比叡山を下り、園城寺を焼き討ちにした。かの武蔵坊弁慶も延暦寺から園城寺焼き討ちにおもむいた一人だったと伝えられる。
源頼義が前九年の役に出陣するにあたり戦勝祈願をして以来、三井寺は源氏の氏寺として保護された。源氏三代の政権が滅びた後も、北条氏から、ついで足利氏から保護を受け、大寺として発展した。
文禄4年(1595)豊臣秀吉は突如、園城寺に闕所(廃絶)令を出した。理由は不明。これにより三井寺は全山取り壊しとなった。金堂は比叡山に移され、延暦寺西塔・釈迦堂として現存している。
しかし次の徳川時代になると園城寺は順次、再興されていった。
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