平家物語 六十九 都遷(みやこうつり)

原文

治承(じしよう)四年六月三日(みつかのひ)、福原(ふくはら)へ行幸(ぎやうがう)あるべしとて、京中ひしめきあへり。此日ごろ都(みやこ)うつりあるべしときこえしかども、忽(たちま)ちに今明(きんみやう)の程とは思はざりつるに、こはいかにとて、上下(じやうげ)さわぎあへり。あまツさへ三日とさだめられたりしが、いま一日ひきあげて二日になりにけり。二日の卯刻(うのこく)に、すでに行幸の御輿(みこし)を寄せたりければ、主上は今年(こんねん)三歳(ざい)、いまだいとけなましうましましければ、なに心(ごころ)もなう召されけり。主上をさなうわたらせ給ふ時の御同與(ごどうよ)には、母后(ぼこう)こそ参らせ給ふに、是(これ)は其儀(そのぎ)なし。

御めのと、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただきやう)の北の方、帥(そつ)のすけ殿(どの)ぞ、一つの御輿(おんこし)に参られける。中宮(ちゆうぐう)、一院(いちゐん)、上皇(しやうくわう)、御幸(ごかう)なる。摂政殿(せつしやうどの)をはじめ奉(たてま)ツて、太上大臣以下(だいじやうだいじんいげ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、我も我もと供奉(ぐぶ)せらる。三日(みつかのひ)福原へいらせ給ふ。池(いけ)の中納言頼盛卿(ちゆうなごんよりもりのきやう)の宿所皇居(くわうきよ)になる。同四日(おなじきよつかのひ)、頼盛家(いへ)の賞(しやう)とて正二位(じやうにゐ)し給ふ。九条殿(くでうどの)の御子(おんこ)、右大将良通卿(うだいしゃうよしみちのきやう)こえられ給ひけり。摂禄(せつろく)の臣の御子息、凡人(ぼんにん)の次男に加階(かかい)こえられ給ふ事、これはじめとぞきこえし。

さる程に法皇を、入道相国やうやう思ひなほツて、鳥羽殿(とばどの)をいだし奉り、都へいれ参らせられたりしが、高倉宮御謀反(たかくらのみやごむほん)によツて、又大きにいきどほり、福原へ御幸なし奉り、四面(しめん)にはた板(いた)して、口(くち)一つあけたるうちに、三間(さんげん)の板屋(いたや)をつくツて、おしこめ参らせ、守護(しゆご)の武士には、原田(はらだ)の大夫種直(たいふたねなほ)ばかりぞ候(さうら)ひける。たやすう人の参りかよふ事もなければ、童部(わらはべ)は籠(ろう)の御所(ごしよ)とぞ申しける。聞くもいまいましうおそろしかりし事共(ことども)なり。

法皇、「今は世の政(まつりごと)しろしめさばやとは露(つゆ)もおぼしめしよらず。ただ山々寺々修行(しゆぎやう)して、御心のままになぐさまばや」とぞおほせける。凡(およ)そ平家の悪行(あくぎやう)においては悉(ことごと)くきはまりぬ。「去(さんぬ)る安元(あんげん)よりこのかた、おほくの卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるい)はながし或はうしなひ、関白(くわんぱく)ながし奉り、わが聟(むこ)を関白になし、法皇を城南(せいなん)の離宮(りきゆう)に「うつし奉り、第二の皇子高倉(たかくら)の宮(みや)をうち奉り、いまのこるところの都うつりなれば、かやうにし給ふにや」とぞ人申しける。

都うつりは是先蹤(これせんじよう)なきにあらず。神武天皇(じんむてんわう)と申すは、地神五代(ぢじんごだい)の帝(てい)、彦波瀲武 e15; dc0;草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあはせずのみこと)の第四の皇子(わうじ)、御母(おんはは)は玉依姫(たまよりひめ)、海人(かいじん)の娘なり。神(かみ)の代(よ)十二代の跡をうけ、人代百王(じんだいはくわう)の帝祖(ていそ)なり。辛酉歳(かのとのとりのとし)、日向国宮崎(ひうがのくにみやざき)の郡(こほり)にして、皇王(くわうわう)の宝祚(ほうそ)をつぎ、五十九年といツし己未歳(つちのとのひつじのとし)十月に、東征(とうせい)して豊蘆原中津国(とよあしはらなかつくに)にとどまり、このごろ大和国と名づけたる畝傍(うねひ)の山(やま)を点じて帝都(ていと)をたて、橿原(かしはら)の地(ち)をきりはらツて宮室(きゆうしつ)をつくり、給へり。これを橿原の宮と名づけたり。それよりこのかた、代々の帝王、都を他国他所へうつさるる事、卅度にあまり四十度に及べり。神武天皇より景行天皇(かいかうてんわう)まで十二代は、大和国こほりごほりに都をたて、他国へはつひにうつされず。しかるを成務天皇(せいむてんわう)元年に、近江国(あふみのくに)にうつツて志賀(しが)の郡(こほり)に都をたつ。

現代語訳

治承四年六月三日、福原へ行幸があるだろうということで、京中さわぎあった。

近々都うつりがあるだろうと噂されていたが、たちまちに今日明日のこととは思はなかったのに、これはどうしたことだと、上下さわぎあった。

その上、三日と決められていたのだが、いま一日ひきあげて二日になった。

二日の卯の刻(午前六時)に、すでに行幸の御輿を寄せたところ、安徳天皇は今年三歳、いまだ幼くいらっしゃるので、なに心もなくお乗りになった。

天皇が幼くいらっしゃる時に同じ御輿にお乗りになるのは、母后が参られるものだが、今回はそうではない。天皇の御めのと、平大納言時忠の北の方、帥(そつ)のすけ殿が、一つ御輿に参られた。

中宮(建礼門院)、一院(後白河法皇)、上皇(高倉上皇)が御幸なさる。

摂政殿(藤原基通)をはじめ、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我もとお供なさる。三日、福原にお入りになる。

池の中納言頼盛卿の宿所が皇居になる。同月(六月)四日、頼盛は自宅を皇居にした恩賞として正ニ位に叙せられなさった。九条殿(九条兼実)の御子、良通(よしみち)卿をお超えになった。

摂政の御子息が、一般貴族の次男に官位昇進において超えられることは、これが始めということだ。

そのうちに法皇を、入道相国がようやく思い直して、鳥羽殿を出し申し上げ、都へ入れ申し上げなさったが、高倉宮ご謀叛によって、また大いに怒り、福原へ御幸なし申し上げ、四面に板塀をして、出入り口一つあけた中に、三間の板屋をつくって、押し込め申し上げ、守護の武士には、原田の大夫種直だけがお仕えしていた。たやすく人が参り通う事もないので、童らは籠の御所と申した。

聞くもいまいましく恐ろしいことである。

法皇、

「今は世の政を執ろうとは露ほども思わない。ただ山々寺々で修行して、心のままに慰まなくては」

とおっしゃった。

いったい平家の悪行においては、ことごとく極まった。

「去る安元よりこのかた、多くの公卿殿上人を、あるいは処刑し、関白を流し申し上げ、わが婿(近衛基通)を関白になし、法皇を城南の離宮にうつし申し上げ、(後白河院)第二の皇子高倉宮をうち申し上げ、いま残るところの都うつりなので、このようになさるのだろう」

と人は申した。

都うつりは先例がないわけではない。神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武 e15; dc0;草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあはせずのみこと)の第四の皇子、御母は玉依姫(たまよりびめ)、海神の娘である。

神の代十二代の跡をうけ、人の代に入って百代も続く天皇の祖である。辛酉(かのとのとり)の年、日向国宮崎郡で皇位をついでから五十九年という己未(つちのとひつじ)の年十月に、東征して豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)にとどまり、このごろ大和国と名付けた畝傍の山を定め決めて帝都をたて、橿原の地を切り払って皇居を作られた。

それよりこのかた、代々の帝王は、都を他国他所へうつされる事、三十度をすぎ四十度におよぶ。

神武天皇から景行天皇まで十二代は、大和国のあちこちの地方に都をたて、他国へはついにうつらなかった。

語句

■治承四年… 『玉葉』に治承四年六月三日都遷のはずが二日に早めた記事。 ■今明 今日明日。 ■二日 「天晴、卯刻、入道相国ノ福原別業ニ行幸、法皇、上皇、同ジク渡御」(玉葉・六月二日条)。 ■御同輿 同じ輿に乗ること。 ■中宮 建礼門院。 ■一院 後白河法皇。 ■上皇 高倉上皇。 ■摂政殿 藤原基通。 ■池の中納言頼盛卿の宿所… 「今夜大物ニ就キ明暁福原ニオハス」(玉葉・六月ニ日条)。「去四日夜、主上頼盛ノ家ヨリ禅門ノ別荘ニ還御太政皇御所也、則居替ヘ給フ云々、家主頼盛正ニ位ニ叙シ了ンヌ、右大将殿ヲ超エ奉ル、不可説々々々」(同六月六日条)。 ■家の賞 家を皇居にした恩賞。 ■九条殿 九条兼実。当時右大臣。 ■良通卿 九条良通。この時、従二位。 ■摂禄 摂政の異称。 ■凡人 摂政・関白などの家柄でない一般貴族。 ■加階 位階を超えられること。 ■やうやう ようやく。 ■はた板 端板。高い板塀。 ■原田の大夫種直 岩戸大夫種平の子。大宰大監、岩戸少将と称した。 ■籠の御所 牢屋の御所の意。 ■安元 安元三年(治承元年)天台座主明雲配流、鹿谷事件の発覚により、新大納言成親ら流罪。治承三年(1179)関白藤原基房を左遷し、娘婿の近衛基通を関白にした。 ■卿相雲客 公卿・殿上人。 ■地神五代 天皇家の血筋に先立つ五代の神。天照太神・正哉吾勝々速日天忍穂耳尊・天津彦彦火瓊瓊杵尊・彦火々出見尊・彦波瀲武 e15; dc0;草葺不合尊。 ■神の代十ニ代 天神七代…国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟(以上三代)・泥土煮尊 (陽神)・沙土瓊尊(陰神)・大戸之道 尊(陽神)・大戸間辺尊(陰神)・面足尊(陽神)・惶根尊(陰神)(以上三代)・伊弉諾尊(陽神)・伊弉冊尊(陰神)(以上一代)」に地神五代を加えた十二代。 ■人代百王 神武天皇以下の代々の天皇。 ■辛酉歳 『日本書紀』によれば辛酉年春正月、大和国橿原宮で即位。「此天皇御年十五ニテ太子ニ立、五十一ニテ父神ニカハリテ皇位ニハツカシメ給。コトシ辛酉ナリ。筑紫日向ノ宮崎ノ宮ニオハシマシケルガ、兄ノ神達ヲヨビ皇子群臣ニ勅シテ、東征ノコトアリ」(神皇正統記)。 ■宝祚 天皇の位。 ■五十九年 出典不明。 ■豊葦原中津国 日本の古称。 ■畝傍の山 畝傍山。奈良県橿原市。大和三山の一。 ■点じて 定めて。 ■橿原 奈良県橿原市。 ■丗度にあまり四十度に及べり 三十度をすぎ四十度にいたった。 ■景行天皇 12代。ヤマトタケルの父。はじめ大和国巻向宮(まきむくのみや)に居り、近江国志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に移った。 ■成務天皇 13代。志賀の高穴穂宮で即位? 

原文

仲哀天皇(ちゆうあいてんわう)二年に、長門国(ながとのくに)にうつツて、豊浦郡(とよらのこほり)に都をたつ。

其国(そのくに)の彼都(かのみやこ)にて、御門(みかど)かくれさせ給ひしかば、きさき神功皇后御世(じんぐうくわうごうおんよ)をうけとらせ給ひ、女帝(によてい)として、鬼界(きかい)、高麗(かうらい)、荊旦(けいたん)までせめしたがへさせ給ひけり。異国(いこく)のいくさをしづめさせ給ひて、帰朝(きてう)の後、筑前国三笠郡(ちくぜんのくにみかさのこほり)にして、皇子御誕生(ごたんじやう)、其所をばうみの宮とぞ申したる。かけまくもかたじけなく、八幡(やはた)の御事これなり。位につかせ給ひては、応神天皇(おうじんてんわう)とぞ申しける。其後神功皇后(そののちじんぐうくわうごう)は、大和国にうつツて、岩根稚桜(いわねわかざくら)のみやにおはします。応神天皇は、同国軽島明(おなじきくにかるしまあかり)の宮に住ませ給ふ。

仁徳天皇(にんとくてんわう)元年に、津国難波(つのくになには)にうつツて、高津(たかつ)の宮におはします。履中天皇(りちゆうてんわう)二年に、大和国にうつツて、十市(とをち)の郡(こほり)に都をたつ。反正天皇(はんせいてんわう)元年に、河内国にうつツて、柴垣(しばがき)の宮に住ませ給ふ。允恭天皇(いんぎようてんわう)四十二年に、又大和国にうつツて、飛鳥(とぶとり)のあすかの宮におはします。雄略天皇(ゆうりやくてんわう)廿一年に、同国泊瀬朝倉(はつせあさくら)に宮居し給ふ。継体天皇(けいたいてんわう)五年に山城国綴喜(やましろのくにつづき)にうつツて十二年、其後乙訓(おとぐに)に宮居し給ふ。宣化天皇(せんくわてんわう)元年に、又大和国にかへツて、檜隈(ひのくま)の入野(いるの)の宮におはします。孝徳天皇大化(かうとくてんわうたいくわ)元年に、摂津国長良(ながら)にうつツて、豊崎(とよざき)の宮に住ませ給ふ。斉明天皇(せいめいてんわう)二年、又大和国にかへツて、岡本の宮におはします。天智天皇(てんちてんわう)六年に、近江国にうつツて、大津宮(おほつのみや)に住ませ給ふ。天武天皇(てんむてんわう)元年に、猶(なほ)大和国にかへツて、岡本の南の宮に住ませ給ふ。これを清見原(きよみはら)の御門(みかど)と申しき。持統(ぢどう)、文武(もんむ)二代の聖朝(せいてう)は、同国藤原(おなじきくにふぢはら)の宮におはします。元明天皇(げんめいてんわう)より、光仁天皇(くわうにんてんわう)まで七代は、奈良の都に住ませ給ふ。

しかるを桓武天皇(くわんむてんわう)延暦(えんりやく)三年十月二日、奈良の京、春日(かすが)の里より、山城国長岡(ながおか)にうつツて、十年といツし正月に、大納言藤原小黒丸(だいなごんふじはらのおぐろまる)、参議左大弁紀(さんぎさだいべんき)の古佐美(こさみ)、大僧都賢憬等(だいそうづげんけいら)をつかはして、当国葛野郡(たうごくかどのこほり)、宇多(うだ)の村を見せらるるに、両人共に奏(そう)して云(いはく)、「此地(このち)の体(てい)をみるに、左青竜(さしやうりゆう)、右白虎(うびやくこ)、前朱雀(ぜんすざく)、後玄武(ごげんぶ)、四神(しじん)相応の地なり。尤(もつと)も帝都をさだむるに足れり」と申す。仍(よつ)て愛宕郡(をたぎのこほり)におはします、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に告げ申させ給ひて、延暦十三年十二月廿一日、長岡の京より此京へうつされて後、帝王卅二代、星霜(せいさう)は三百八十余歳(さい)の春秋(しゆんしう)をおくりむかふ。「昔より代々の帝王、国々ところどころに、多くの都をたてられしかども、かくのごとくの勝地は(しようち)はなし」とて、桓武天皇(くわんむてんわう)ことに執(しつ)しおぼしめし、大臣公卿(だいじんくぎやう)、諸道の才人等に仰せあはせ、長久なるべき様(やう)とて、土にて八尺の人形(にんぎやう)をつくり、くろがねの鎧(よろひ)、甲(かぶと)を着せ、同じうくろがねの弓矢をもたせて、東山(ひんがしやま)の峰に、西むきにたててうづまれけり。末代(まつだい)に此郡を他国へうつす事あらば、守護神(しゆごじん)となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事いでこんとては、この塚(つか)必ず鳴動(めいどう)す。将軍が塚とて今にあり。桓武天皇と申すは、平家の曩祖(なうそ)にておはします。なかにもこの京をば、平安城(へいあんじやう)と名づけて、平(たひ)らかに安(やす)き京(みやこ)と書けり。尤(もつと)も平家のあがむべき都なり。先祖の御門(みかど)のさしも執(しつ)しおぼしめされたる都を、させるゆゑなく、他国他所へうつさるるこそあさましけれ。

現代語訳

それを成務天皇元年に近江国にうつって志賀の郡に都をたてる。仲哀天皇ニ年に、長門国にうつって志賀の郡に都をたてる。その国のかの都にて、天皇が崩御されると、きさき神功皇后が御世をうけとられ、女帝として、鬼界(九州南方の島々)、高麗、契丹まで攻め従わせられた。

異国の戦をおしずめになり、日本に帰って後、筑前の国三笠郡(みかさのこおり)にて、皇子ご誕生、その所をうみの宮と申した。

口に出すのも畏れ多い、八幡神の御事である。

位におつきになってからは、応神天皇と申した。

その後神功皇后は、大和国にうつって、岩根稚桜宮(いはねわかざくらのみや)にいらした。

応神天皇は、同国、軽島明宮(かるしまあかりのみや)にお住まいになった。

仁徳天皇元年に、津国難波にうつって、高津の宮にいらした。履中天皇ニ年に、大和国にうつって、十市(とをち)の郡に都を立てる。

反正天皇元年に、河内国にうつって、柴垣宮(しばがきのみや)にお住まいになる。

允恭天皇四十ニ年に、また大和国にうつって、飛鳥(とぶとり)のあすかの宮にいらした。

雄略天皇二十一年に、同国泊瀬朝倉(はつせあさくら)に宮を立てて住まわれた。

継体天皇五年に山城国綴喜にうつって十二年、その後乙訓に宮を立てて住まわれた。

宣化天皇元年に、また大和国にかえって、檜隈(ひのくま)の入野(いるの)の宮にいらした。

孝徳天皇大化元年に、摂津国長良(ながら)にうつって、豊崎宮(とよざきのみや)にお住まいになる。

斉明天皇ニ年、また大和国にかえって、岡本宮(おかもとのみや)にいらした。

天智天皇六年に、近江国にうつって、大津宮にお住まいになる。天武天皇元年に、さらに大和国にかえって、岡本の南の宮(飛鳥浄御原宮)にお住いになる。これを清見原(きよみばら)の御門(みかど)と申した。

持統、文武二代の天皇の御代は同国藤原宮(ふじわらのみや)にいらした。元明天皇より光仁天皇まで七代は、奈良の都にお住まいになった。

それを桓武天皇延暦三年十月ニ日、奈良の京、春日の里から、山城国長岡にうつって、十年という正月に、大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀の古佐美(こさみ)、大僧都賢憬(げんけい)らをつかわして、東国葛野郡(かどののこほり)、宇多(うだ)の村を見せられると、両人共に奏上して言うことに、

「この地のありさまを見るに、左に青竜、右に白虎、前に朱雀、後ろに玄武、四神に対応した地です。きわめて帝都を定めるに足りています」

と申す。よって愛宕郡(をたぎのこほり)にいらっしゃる、賀茂大明神(かものだいみょうじん)に告げ申し上げなさって、延暦十三年十ニ月二十一日、長岡の都からこの都へうつされて後、帝王三十ニ代、年月は三百八十歳の春秋をおくりむかえる。

「昔から代々の帝王が、国々のあちこちに、多くの都を立てられたが、このような素晴らしい地はない」

といって、桓武天皇はことに執着なされ、大臣公卿、さまざまな道の才人らに仰せあわせて、長く久しく都であるようにといって、土で八尺の人形をつくり、鉄の鎧、甲を着せ、同じく鉄の弓矢をもたせて、東山の峰に、西むきに立てて埋められた。

末代にこの都を他国にうつす事があれば、守護神となって止めるようにと、ご約束あった。

なので天下に事がおこった時は、この塚が必ず鳴り動く。将軍が塚といって今にある。

桓武天皇と申すは、平家の先祖でいらっしゃる。中にもこの都を、平安城(へいあんじょう)と名付けて、平らかに安き都と書いた。なによりも平家のあがむべき都である。

先祖の帝のそれほど執着された都を、たいした理由なく、他国他所にうつされるのは呆れたことであった。

語句

■仲哀天皇 14代。熊襲を討つため西征。長門国豊浦の津に泊まり、穴門の豊浦宮に住む。 ■鬼界 九州南方の島々。 ■荊旦 契丹。高麗の西北にあった部族。 ■筑前国三笠郡 福岡県粕屋郡のあたり。 ■うみの宮 産宮。ホンダワケノミコご誕生によりこう名付けた。福岡県粕屋郡宇美町辺。宇美八幡宮がある。 ■岩根稚桜のみや 磐余稚桜。『日本書紀』に「磐余(いわれ)に都した」と。磐余は奈良県桜井市辺。磐余の池がある。 ■軽島明の宮 奈良県橿原市大軽の軽寺。 ■高津宮 大阪市中央区高津。仁徳天皇の宮。 ■十市の郡 奈良県(旧)十市郡。 ■柴垣の宮 丹比柴籬宮。大阪府松原市上田。 ■飛鳥のあすかの宮 飛鳥宮。奈良県高市郡明日香村。 ■泊瀬朝倉 泊瀬朝倉宮。奈良県桜井市朝倉近辺。 ■宮居 宮をつくって住むこと。 ■山城国綴喜 京都府綴喜郡。 ■乙訓 京都府乙訓郡(大山崎町)。 ■檜隈の入野宮 奈良県高市郡明日香村檜前。 ■豊崎の宮 難波長柄豊碕宮。大阪府大阪市中央区法円坂。大阪城の南。 ■岡本の宮 舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)という。奈良県高市郡明日香村岡? ■大津宮 滋賀県大津市錦織。 ■岡本の南の宮 岡本宮の南にある宮。飛鳥浄御原宮。 ■藤原の宮 藤原宮。奈良県橿原市醍醐町。持統天皇8年(694)遷都。 ■延暦三年十月ニ日 延暦三年(784)十一月十一日(続日本紀)。 ■長岡 乙訓郡長岡村。京都府向日市の辺。 ■十年といッし 『日本紀略』延暦十二年正月十五日、大納言藤原小黒麻呂・左大弁紀古佐美らを遣わし、葛野郡宇太村を相させた(土地の良し悪しを占う)とある。 ■左青龍… 四神。青龍・白虎・朱雀・玄武。 ■十ニ月廿一日 正しくは十月廿ニ日。 ■執しおぼしめし 執着なさり。 ■将軍が塚 将軍塚。京都市東山区華頂山の山頂。 ■

原文

嵯峨(さが)の皇帝の御時(おんとき)、平城(へいぜい)の先帝、内侍(ないし)のかみのすすめによツて、世を乱(みだ)り給ひし時、すでにこの京を、他国へうつさんとさせ給ひしを、大臣公卿(だいじんくぎやう)、諸国の人民そむき申ししかば、うつされずしてやみき。一天の君、万乗(ばんじやう)の主(あるじ)だにも、うつしえ給はぬ都を、入道相国人臣の身として、うつされけるぞおそろしき。

旧都(きうと)はあはれめでたかりつる都ぞかし。王城守護(わうじやうしゆご)の鎮守(ちんじゆ)は、四方に光をやはらげ、霊験殊勝(れいげんしゆしよう)の寺々は、上下(じやうげ)に甍(いらか)をならべ給ひ、百姓万民(ひやくしやうばんみん)わづらひなく、五畿(き)七道(だう)もたよりあり。されども今は辻々(つじつじ)をみな堀りきツて、車なンどのたやすうゆきかふ事もなし。たまさかにゆく人も、小車(こぐるま)に乗り、路をへてこそとほりけれ。軒(のき)をあらそひし人の住ひ、日をへつつあれゆく。家々は、賀茂河(かもがは)、桂河(かつらがは)にこぼちいれ、筏(いかだ)にくみうかべ、資材雑具(しざいざふぐ)舟につみ、福原へとてはこび下す。ただなりに花の都ゐなかになるこそかなしけれ。何者のしわざにやありけん、ふるき都の内裏(だいり)の柱に、二首の歌をぞ書いたりける。

ももとせを四かへりまでに過ぎきにし愛宕のさとのあれやはてなん

咲きいづる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき

同(おなじき)六月九日(ここのかのひ)、新都の事はじめあるべしとて、上卿(じやうけい)には徳大寺左大将実定卿(とくだいじのさだいしやうしつていきやう)、土御門宰相中将通親卿(つちみかどのさいしやうのちゅうじやうとうしんのきやう)、奉行(ぶぎやう)の弁(べん)には蔵人左小弁行隆(くらんどのさせうべんゆきたか)、官人共召し具して、和田(わだ)の松原の西の野を点(てん)じて、九域の地をわられけるに、一条よりしも、五条までは其所(そのところ)あツて、五条よりしもはなかりけり。行事官(ぎやうじくわん)かへり参ツてこのよしを奏聞(そうもん)す。さらば播磨(はりま)の印南野(いなみの)か、なほ摂津国(つのくに)の児屋野(こやの)かなンどいふ。公卿僉議(くぎやうせんぎ)ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。旧都(きうと)をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人は、身をうき雲の思(おもひ)をなす。もとこのところに住む者は、地をうしなツてうれへ、いまうつる人々は、土木(どぼく)のわづらひをなげきあへり。すべてただ夢のやうなりし事どもなり。土御門宰相中将通親卿(つちみかどのさいしやうのちゅうじやうのとうしんきやう)、申されけるは、「異国(いこく)には三条の広路(くわうろ)をひらいて、十二(しふじ)の通門(とうもん)をたつと見えたり。いはんや五条まであらん都に、などか内裏をたてざるべき。かつがつ里内裏(さとだいり)つくるべき」よし議定(ぎぢやう)あツて、五条大納言邦綱卿(ごでうのだいなごんくにつなのきやう)、臨時に周防国(すはうのくに)を給はツて造進(ざうしん)せらるべきよし、入道相国はからひ申されけり。

この邦綱卿は、大福長者(だいふくちやうじや)にておはすれば、つくりいだされん事左右(さう)に及ばねども、いかンが国の費(つひえ)、民のわづらひなかるべき、まことにさしあたツたる大事(だいじ)、大(だいじやうゑ)なンどのおこなはるべきをさしおいて、かかる世の乱(みだれ)に、遷都造内裏(せんとざうだいり)、すこしも相応せず。いにしへのかしこき御代(みよ)には、すなはち内裏に茨(かや)をふき、軒をだにもととのへず。煙(けぶり)のともしきを見給ふ時は、かぎりある御(み)つき物をもゆるされき。これすなはち民をめぐみ国をたすけ給ふによツてなり。

「楚章花(そしやうくわ)の台(たい)をたてて黎民(れいみん)あらけ、秦阿房(しんあはう)の殿(てん)をおこして天下乱る」といへり。茅茨(ぼうし)きらず、采椽(さいてん)けづらず、舟車(しうしや)かざらず、衣服(いふく)あやなかりける世もありけんものを。されば唐(たう)の太宗(たいそう)は、驪山宮(りさんきゆう)をつくツて、民の費(つひえ)をはばからせ給ひけん、遂(つひ)に臨幸(りんかう)なくして、瓦に松おひ、墻(かき)に蔦(つた)しげツて止(や)みにけるには、相違(さうゐ)かなとぞ人申しける。

現代語訳

嵯峨天皇の御時、平城上皇が、尚侍(藤原薬子)のすすめによって、世を乱しなさった時、すでにこの京を、他国へうつそうとなさったのを、大臣公卿、諸国の人民が反対申し上げたので、うつされずに終わった。

一天の君、万乗の主人(=天皇・上皇)さえも、うつすことがおできにならない都を、入道相国は臣下の身分として移れさたのは、とんでもないことであった。

旧都はああ素晴らしい都であったよ。王城守護の鎮守の神々は四方に(衆生救済の)光をやわらげ、霊験のことにすぐれた寺々は、上下に甍をならべられ、天下万民はわずらいなく、日本全国への交通の便もいい。

しかし今は辻々をみな掘ってしまい、車などのたやすく行き交う様子もない。

まれに行く人も、小車に乗り、道を何本も経由して通った。軒をならべた人の住まいも、日がたつにつれて荒れゆく。

家々は賀茂川、桂川に壊し入れて、筏にくみうかべ、資材とさまざまな道具を舟につみ、福原へ送るということで運び下す。

花の都が田舎になったことの悲しさよ。

何者のしわざであろうか、古き都の内裏の柱に、二首の歌を書いてあった。

ももとせを…

(百年を四回まで過ぎた平安京も、荒れ果てていくのだろうか)

咲きいづる…

(咲きいづる花の都をふりすてて風ふく福原でこの先どうなるか、あやういところだ)

同年(治承四年(1180))六月九日、新都の工事にとりかかるべしということで、公事担当公卿には徳大寺左大将(とくだいじのさだいしょう)実定卿(じっていのきょう)、土御門宰相中将(つちみかどのさいしょうのちゅうじょう)通親卿(とうしんのきょう)、現場担当官には蔵人左少弁(くらんどのさしょうべん)行隆(ゆきたか)、役人どもを召しつれて、輪田の松原の西の野を選び定めて、都の地を区画したところ、一条より下、五条までその所があり、五条より下はなかった。

新都造営の事務を行う役人が、返り参ってこのことを奏上する。ならば播磨の印南野(いなみの)か、やはり摂津国(つのくに)の児屋野(こやの)かなどいう公卿の評定があったが、うまく事がすすむようにも見えなかった。

旧都をすでにさまよいでたしまった。新都はいまだにうまく事が運ばない。あらゆる人が、わが身をうき雲のように心細い思いをした。

もとからこの所に住む者は、地を失って憂い、今うつる人は、工事の面倒なのを嘆きあう。

すべてただ夢のような事であった。

土御門宰相中将(つちみかどのさいしょうのちゅうじょう)通親卿(とうしんのきょう)が申されることは、

「異国には三条の広い路を開いて、十二の通門を立てるという例が見えている。まして五条まである福原京に、どうして内裏をたてないことがあろうか。とりあえず里内裏をつくるがよい」

ということを評定して、五条大納言(ごじょうのだいなごん)邦綱卿(くにつなのきょう)が臨時に周防邦(すおうのくに)をいただいて、その収入で福原京の工事をおこなうべきことを、入道相国がはからい申された。

この邦綱卿は、大金持ちでいらっしゃるので、造り出されることは造作もないことだが、どうして国の出費、民のわずらいがないことがあろう。

ほんとうにすぐ行うべき大事、大嘗会(だいじょうえ)などが行われるべきなのをさしおいて、このような世の乱れに、遷都と内裏を造ることは、まったく合ってない。

いにしえの賢王の時代には、内裏に茅をそのままふき、軒さえもととのえなかった。民の炊く竈の煙のすくないのを御覧になった時は、限り有る貢物すら免除なされた。

これはつまり民をめぐみ国をお助けになるためである。

「楚がぜいたくな宮殿を立てたので庶民は離散し、秦が阿房宮をおこしたので天下は乱れた」

という。

屋根の茅も切りそろえず、垂木も削らず、舟も車もかざらず、衣服は派手でない世もあったのだが。

だから唐の太宗は、驪山宮(りさんきゆう)を造ったが、民の出費をおはばかりになったのだろうか、ついにお出ましにはならず、瓦に松が生え、垣に蔦がしげって終わりになったのとは、(入道相国による福原京遷都は)えらい違いだと人は申した。

語句

■平城の先帝 平城上皇は、大同4年(809)弟嵯峨天皇の時、都を平城京にもどそうとして画策した(平城太上天皇の変)。『日本後紀』にくわしい。 ■内侍のかみ 藤原薬子。兄仲成とともに平城上皇に取り入り都を平城京に戻させようとしたという。 ■人臣の身 臣下の身分。 ■鎮守は…光をやはらげ 本地が仏である鎮守の神々が、仏としての本性をかくして、衆生救済のために神の形に身をやつすことを「やはらげ」といっている。 ■霊殊勝の寺々 霊験がことにすぐれた寺々。 ■五畿七道 日本全国。五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津。七道は東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海。 ■たよりあり 交通の便がよい。 ■堀りきッて 掘ってしまって。 ■たまさかに まれに。 ■軒をあらそひし 軒をならべていた。「軒を争ひし人のすまひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河に浮び、地は目の前に畑となる」(方丈記)。 ■ただなりに…なる 「なりに…なる」と重ねることで強調している。 ■愛宕の里 平安京。 ■事はじめ 起工。はじめて工事にかかる。 ■上卿 公務を担当する主席の公卿。 ■奉行の弁 実務に当たる弁官。弁官は太政官に属する官。左右に分かれ、それぞれ上・中・下に分かれる。文書の受付、国司の召集などを行う。 ■和田の松原 輪田。福原の東の地名。 ■点じて 選び定めて。 ■九城の地 宮城の地。都の地。 ■行事官 新都造営の事務を行う役人。 ■印南野 兵庫県加古郡から明石市にかけて。輪田の次に印南野が帝都を築く候補地になったことが『百錬抄』にみえる。 ■児屋野 昆陽野。川辺郡(兵庫県伊丹市)の地。 ■うかれぬ さまよい出た。 ■ありとしある人 あらゆる人。「古京はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所にをるものは地を失ひて憂ふ。今移れる人は土木のわづらひあることを嘆く」(方丈記)。 ■三条の広路をひらいて 「三条之広路ヲ披(ひら)キ、十二之通門ヲ立ツ」(文選・一・西都賦)。 ■かつがつ とりあえず。 ■里内裏  貴族の邸宅などを臨時の内裏としたもの。 ■大福長者 大金持ち。 ■左右に及ばねども あれこれ言うまでもないことだが。造作もないことだが。 ■大嘗会 天皇即位の後、はじめて行われる新嘗祭。その年にとれた穀物を天皇が召し上がり臣下にもふるまわれる。 ■いにしへのかしこき御代 昔のすぐれた徳の高い天皇の時代。仁徳天皇の御代をさす。「伝へ聞く、いにしへの賢き御代には、あはれみを以て国を治め給ふ。すなはち、殿に茅ふきても、軒をだにととのへず、煙のともしきを見給ふ時は、限りある貢物をさへゆるされき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり」(方丈記)。 ■煙のともしきを見給ふ時は 『古事記』『日本書紀』にみえる仁徳天皇の故事。高台から竈の煙が少ないのを見て三年間、税を免除した。 ■楚章花の台をたてて… 『文選』にある、楚の皇帝がぜいたくな宮殿を立てた記事。 ■黎民 庶民。 ■あらけ 離散する。散り散りになる。 ■秦阿房の殿を… 秦の始皇帝が阿房宮を建てたこと。 ■茅茨 ぼうし。屋根の茅。 ■采椽 さいてん。垂木。 ■驪山宮 りさんきゅう。離山宮。『白氏文集』にある唐の太宗が驪山宮という宮殿をつくったが行幸の費用が民の負担になるのでついに訪れなかった記事。 ■瓦に松おひ… 「墻ニ衣(こけ)有リ、瓦ニ松有リ」(白氏文集・四・驪山高)。 ■相違かな 大変な違いだな。

平家物語|原文・現代語訳・解説・朗読

朗読・解説:左大臣光永