平家物語 七十 月見(つきみ)

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平家物語巻第五より「月見(つきみ)」。

都が福原に遷ってから、さいしょの秋がきました。新都にうつった人々も、旧都に残った人々も、それぞれ、名所の月を楽しみます。

そんな中、徳大寺実定は、ふるき都の月を恋いつつ、福原から京都へ向かいました。

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前回「都遷(みやこうつり)」からのつづきです。
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あらすじ

清盛が福原に強引に遷都してから(「都遷」)、最初の秋が来た。

新都に移った人々は、光源氏ゆかりの須磨など、月見の名所を訪ねる。 旧都に残った人々は、伏見の巨椋池、嵯峨の広沢池の月を見る。

その中に、徳大寺左大将実定卿(とくだいじの さだいしょう じっていのきょう)は、八月十日すぎに、福原から京都を訪ねていく。

すでに人が引き払ってしまった京の町は閑散として、荒れ果てていた。

実定は姉、近衛河原の大宮(こんえがわらの おおみや)を訪ねる。

(近衛河原の大宮は、近衛天皇と二条天皇二人の天皇に嫁いだ多子(たし)(「二代后」)。多子は、二条天皇崩御(「額討論」)の後は、近衛河原でひっそりと暮らしていた)

実定はまず随身(ずいじん。警護の役人)に門を叩かせると、「東の小門よりお入りください」との 声。実定が東の小門から入ると、大宮(多子)は琵琶を奏でているところだった。

実定の姿をみとめ、多子は喜び「これへこれへ」とよびよせる。

源氏物語宇治の巻に、宇治の八宮(亡き光源氏異母弟)の娘姉妹が、琵琶の撥で月を招き返した場面も思い起こさせることだった。

さて大宮に仕えている女房に、待宵の小侍従(まつよいの こじじゅう)という者がいた。

この女房が待宵の小侍従と呼ばれるようになったいきさつは、ある時、御所で「恋人の訪れを待っている夕べと、逢瀬を終えた恋人が帰っていく朝と、 どちらが趣深いでしょうか」というお題に、女房は答えた。

待つ宵の…

(恋人を待って次第に夜が更けていく中に鐘の音がしみじみと響く切なさに比べると、 朝聞く鳥の声などたいした悲しさではないと思えます)

これによって、「待宵の小侍従」と呼ばれることになった。

実定は、この待宵の小侍従を呼び出し、さまざまに物語する。
夜が更けて興が乗ってきた実定は、今様を口ずさむ。

ふるき都を来てみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
月の光は隈なくて 秋風のみぞ身には染む

そうこうする内に夜が明ける。実定は福原への帰路につくが、待宵の小侍従が名残惜しそうにしていたのが どうしても気になり、随身をもう一度近衛河原に向かわせる。

随身は、実定の作ということにして待宵の小侍従に歌をささげる。

物かはと…

(「たいした悲しさではない」と貴女が詠んだ鳥の声ですが、今朝はどうしてこんなに悲しく 聞こえるのでしょうか)

待宵の小侍従
またばこそ…

(恋人を待つ立場だからこそ、夜が更けていく中で聞く鐘の音も辛いのですが、 今度はいつ会えるかもしれない辛い別れの朝。その朝の鳥の声の、なんと悲しいことでしょう。夜に聞く鐘の音よりはるかに悲しいです。鳥の音が大したことはないなどと詠んだ私は、世間知らずでした)

随身が実定のもとに帰ってこのことを報告すると、実定は 「だからこそお前を遣わしたのだ」と、大いに感心した。

以後、この随身は「物かはの蔵人」と呼ばれるようになった。

原文

六月九日、新都(しんと)の事はじめ、八月十日上棟(しやうとう)、十一月十三日遷幸(せんかう)とさだめらる。ふるき都はあれゆけば、いまの都は繁昌(はんじやう)す。あさましかりける夏も過ぎ、秋にも已(すで)になりにけり。やうやう秋もなかばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月をみんとて、或(あるい)は源氏の大将(だいしやう)の昔の跡をしのびつつ、須磨(すま)より明石(あかし)の浦づたひ、淡路(あはじ)の瀬戸(せと)をおしわたり、絵島(ゑしま)が磯(いそ)の月をみる。或は白良(しらら)、吹上(ふきあげ)、和歌(わか)の浦(うら)、住吉(すみよし)、難波(なには)、高砂(たかさご)、尾上(おのへ)の月のあけぼのを、ながめてかへる人もあり。旧都(きうと)にのこる人々は伏見(ふしみ)、広沢(ひろさは)の月を見る。

其(その)なかにも、徳大寺(とくだいじ)の左大将実定卿(さだいしやうしつていのきやう)は、ふるき都(みやこ)の月(つき)を恋ひて、八月十日(とをか)あまりに、福原よりぞのぼり給ふ。何事も皆かはりはてて、まれにのこる家は、門前(もんぜん)草ふかくして、庭上(ていしやう)露しげし。蓬(よもぎ)が杣(そま)、浅茅(あさぢ)が原、鳥のふしどとあれはてて、虫の声々(こゑごゑ)うらみつつ、黄菊紫蘭(くわうきくしらん)の野辺(のべ)とぞなりにける。故郷の名残(なごり)とては、近衛河原(このへかはら)の大宮ばかりぞましましける。大将(だいしやう)その御所に参ツて、まづ随身(ずいじん)に惣門(そうもん)をたたかせらるるに、うちより女の声して、「たそや、蓬生(よもぎふ)の露うちはらふ人もなき所に」ととがむれば、「福原より大将殿の御参り候」と申す。「惣門(そうもん)はじやうのさされてさぶらふぞ。東面(ひんがしおもて)の小門(こもん)よりいらせ給へ」と申しければ、大将さらばとて、東の門より参られけり。大宮は御(おん)つれづれに、昔をやおぼしめしいでさせ給ひけん、南面(みんなみおもて)の御格子(みかうし)あげさせて、御琵琶(おんびは)あそばされけるところに、大将参られたりければ、「いかに夢かやうつつか。これへこれへ」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、うばそくの宮の御娘、秋のなごりを惜しみ、琵琶をしらべて夜もすがら、心をすまし給ひしに、在明(ありあけ)の月いでけるを、猶(なほ)たへずやおぼしけん、撥(ばち)にてまねき給ひけんも、いまこそ思ひ知られけれ。

待宵(まつよひ)の小侍従(こじじゆう)といふ女房も、此(この)御所にぞ候ひける。この女房を待宵と申しける事は、或時(あるとき)御所にて、「待つ宵(よひ)、帰る朝(あした)、いづれかあはれはまされる」と御尋(おたづ)ねありければ、

待つ宵(よひ)のふけゆく鐘の声きけばかへるあしたの鳥はものかは

とよみたりけるによツてこそ、待宵(まつよひ)とは召されけれ。大将(だいしやう)、かの女房よびいだし、昔いまの物語(ものがたり)して、さ夜(よ)もやうやうふけ行けば、ふるき都のあれゆくを、今様(いまやう)にこそうたはれけれ。

ふるき都をきてみれば あさぢが原とぞあれにける
月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ

と、三反(べん)うたひすまされければ、大宮をはじめ参らせて、御所中(ごしよぢゆう)の女房たち、みな袖(そで)をぞぬらされける。

現代語訳

六月九日、新都の工事がはじまり、八月十日、上棟式、十一月十三日、安徳天皇がお遷りになると決められた。

古き都は荒れゆけば、今の都は繁盛する。

呆れることが多かった夏も過ぎ、すでに秋になった。

しだいに秋も半ばになりゆけば、福原の新都にいらっしゃる人々は、名所の月をみようということで、あるいは源氏の大将(光源氏)の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたいに、淡路の瀬戸をわたり、江島が磯の月をみる。

あるいは白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月のあけぼのをながめて帰る人もある。

旧都にのこる人々は、伏見の巨椋池、広沢池の月を見る。

その中にも、徳大寺の左大将実定卿は、ふるき都の月を恋しく思い、八月十日あまりに、福原よりのぼられた。

何事も皆かわりはてて、まれに残る家は、門前に草深く、庭の上に露が多い。蓬が杣、浅茅が原、鳥のねどこと荒れ果てて、虫の声々は哀れな響きで、菊やふじばかまの生い茂った野となってしまっていた。

古き都の名残としては、近衛河原の大宮(姉である藤原多子)だけがいらっしゃった。

大将はその御所に参って、まず随身(お付きの者)に惣門を叩かせなさると、中から女の声がして、

「誰ですか。蓬生の露うちはらう人もない所ですのに」

ととがめるので、

「福原から大将殿が参られてございます」

と申す。

「惣門は錠がさされてございますよ。東面の小門からお入りください」

と申したところ、大将はそれならばと、東の門から参られた。

大宮は所在のないままに、昔を思い出しなさっていたのだろうか、南面の御格子を上げさせて、御琵琶をお弾きになっていたところに、大将が参られたので、

「どうしたことか。夢でしょうかうつつでしょうか。これへこれへ」

と仰せになった。

源氏物語の宇治の巻には、優婆塞の宮(八宮)の御娘が、秋のなごりを惜しみ、琵琶をしらべて一晩中、心を落ち着かせ集中させなさっていたが、有明の月が出てきたので、なお夜が終わるのが惜しく思われたのだろう、撥にて月をお招きになったのも、いまこそ思い知られるのだった。

待宵の小侍従という女房も、この御所にお仕えしていた。この女房を待宵と申したことは、ある時御所で、「待つ宵、帰る朝、どちらがあはれが勝っているだろうか」と御尋ねあったので、

待つ宵の…

(待つ宵の更け行く鐘の音をきけば、帰る朝の鳥の声なんて、物の数ではない、たいした情緒ではないと思えます)

と詠んだので、待宵と名をつけられた。大将はその女房を呼び出して、昔や今の物語して、夜もだんだん更けていくと、古き都の荒れゆくことを、今様に歌われた。

ふるき都を…

(ふるき都にきてみれば雑草が生い茂る野原となって荒れ果てている。月の光は欠けたところもなく、秋風のみが身にしみる)

と、三度くりかえして立派に歌い終えられたので、大宮をはじめ、御所中の女房たちは、みな袖をお濡らしになった。

語句

■上棟 棟上式。 ■遷幸 天皇がお遷りになること。 ■あさましかりける あきれた事が多かった。高倉宮の決起、三井寺炎上、福原遷都などをいう。 ■源氏の大将 『源氏物語』須磨巻・明石巻。光源氏が須磨・明石に流された記事をふまえる。「月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけり、と思し出でて」(須磨)。 ■淡路の瀬戸 明石と淡路島の間の海峡。 ■江島が磯 淡路島北端。 ■白良 和歌山県の歌枕。現在の白浜。 ■吹上 同じく和歌山県の歌枕。和歌山県の西南。和歌山城の南。 ■和歌の浦 同じく和歌山県の歌枕。吹上の南。雑賀崎付近。 ■住吉 摂津(大阪市)の歌枕。住吉神社がある。 ■高砂 摂津(兵庫県)の歌枕。加古川の東。尾上も兵庫県加古川市。近い。「高砂の尾上の桜咲ににけり外山の霞立たずもあらなむ」(大江匡房)。ただしこの歌では尾上は山の上の意。 ■伏見 伏見の巨椋池。月の名所。現存せず。 ■広沢 広沢の池。京都市右京区嵯峨。月の名所。 ■蓬が杣 蓬が生い茂って杣山のようになっていること。杣山は材木のための植林をした山。 ■浅茅が原 茅など雑草が茂った野原。「浅茅生の小野の篠原しのぶれど余りてなどか人の恋しき」(参議等)。 ■黄菊紫蘭 菊やふじばかま。 ■近衛河原の大宮 実定の姉。二条后藤原多子。近衛天皇と二条天皇、二代の天皇に嫁いだ。「二代后」にくわしい。 ■つれづれに 所在がないため。退屈なため。 ■源氏の宇治の巻 『源氏物語』橋姫巻。『源氏物語』五十四帖まで十帖は宇治が舞台で「宇治十帖」という。 ■優婆塞の宮 桐壺帝の八宮(はちのみや)。優婆塞は俗人でありながら仏門に入っている人。薫が宇治に隠居中の八宮を訪ねていったところ、美しい姉妹(宇治の大君(おおいぎみ)と中君(なかのきみ))を垣間見る。「内なる人、ひとりは、柱にすこしゐ隠れて、琵琶を前におきて、撥を手まさぐりにしつつ居たるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、扇ならで、これしても月は招くべきかりけりとて、さしのぞきたる顔、いみじく、らうたげに匂ひやかなるべし」(橋姫)。撥で招いたのは中君。「らうたし」は可愛い、愛しい。可憐である。 ■心をすまし 心を落ち着かせ集中する。 ■待宵の小侍従 女流歌人。石清水八幡宮別当、紀光清の娘。父は石清水八幡宮第25代別当、大僧都光清。母は花園左大臣家女房・小大進(こだいしん)。はじめ二条天皇に仕え、二条天皇崩御後はその皇后・藤原多子(たし)に、ついで高倉天皇に仕え、出家後はふたたび多子に仕えた。太皇太后小侍従として歌合わせに参加し、歌人としての名声をはくした。晩年は摂津国桜井に寺(真如院)を建てて隠棲したと伝わる。能因法師・伊勢とともに「東摂の三歌人」と呼ばれる。 ■待つ宵の… 「ものかは」は物の数ではない。この歌は「新古今和歌集」に取られ、待宵は歌人としての名声を上げた。 ■今様 七五調を基本とする、当時の流行歌。 

原文

さる程に夜もあけければ、大将暇(いとま)申して福原へこそかへられけれ。御ともに候蔵人(くらんど)を召して、「侍従があまりなごり惜しげに思ひたるに、なんぢかへツて、なにともいひてこよ」と仰せければ、蔵人はしりかへツて畏(かしこま)り、「申せと候(ざうらふ)」とて、

物かはと君がいひけん鳥のねのけさしもなどかかなしかるらん

女房涙をおさへて、

またばこそふけゆく鐘も物ならめあかぬわかれの鳥の音(ね)ぞうき

蔵人かへり参ツて、このよし申したりければ、「さればこそなんぢをばつかはしつれ」とて、大将(だいしやう)大きに感ぜられけり。それよりしてこそ物かはの蔵人(くらんど)とはいはれけれ。

現代語訳

そうこうしている内に夜もあけたので、大将は暇申して福原へ帰っていかれた。

御ともとしてお仕えしていた蔵人を召して、「侍従があまりに名残惜しそうに思うので、お前が帰って、何とも言ってきなさい」

と仰せになると、蔵人はしり帰って、謹んで、

「申せと命じられましてございます」

といって、

物かはと…

(「あなたが「物の数ではない」とお詠みになった鳥の声が、今朝はどうしてこんなにも悲しく聞こえるのでしょうか)

女房は涙をおさえて、

またばこそ…

(愛しい人を待っているからこそ更け行く鐘の音があわれ深く聞こえるのでしょう。まだまだ会い足りない、満足できないままに別れる朝の鳥の声の、なんとつらいことでしょう)

蔵人はかえり参って、この事を申したところ、

「だからこそ、お前を遣わしたのだ」

といって、大将は大いに感心された。

それ以来、物かはの蔵人と言われるようになった。

語句

■蔵人 蔵人所の職員。はじめ皇室の文書や道具類をおさめる蔵の管理をしたため。後には天皇の身の回りの庶務を行う。 ■物かはと… 「都うつりの比、後徳大寺左大臣、太皇太后宮に参りて女房の中にて夜もすがら月を見て物語などして暁帰りける時小侍従送りて出でて侍りけるにともにありて申しける 藤原経尹」(新拾遺・離別)。『今物語』『十訓抄』には実定が恋人小侍従のもとから帰る時の歌として載る。しかし場所は大宮御所ではなく、待宵の返歌もない。

……

軍記物である『平家物語』の中にあって、かなり王朝文学的な、『源氏物語』的な風情が出ている回です。実際、『源氏物語』からの引用があります。

宇治十帖「橋姫」の、有名な場面です。

薫の大将が、宇治の八宮(亡き光源氏の異母弟)の屋敷をたずねていくと、簾のむこうに、女がいるのを、垣間見る。

一人は柱の影で、前に琵琶を置いて、撥を手まさぐりしながら座っている。

そのうちに、雲に隠れていた月が明るく出てきた。女は、「扇でなくても、これでも月は招き寄せることができるのね」そう言って撥ごしにのぞいた顔は、とても美しかった。

もう一人、横になっている女は、琴の上にもたれかかって、「夕日を呼び返す扇というのはきいたことがあるけれど、おかしなことを考えるのね」と、にっこり笑ったと。

これが宇治の大君(おおいぎみ)と中君(なかのきみ)の姉妹、宇治十帖前半のヒロインです。

宇治の源氏物語ミュージアムにはこの場面の等身大の模型があります。宇治によった際にはぜひ御覧になっていってください。

この話では、『源氏物語』「橋姫」の場面を本歌取り的に、とりこんでいるんですね。

徳大寺実定がたずねていった姉の多子は、近衛天皇、二条天皇と二代の天皇の后となった女性で、「二代の后」とよばれました(「二代后」)。

しかし、近衛天皇も、二条天皇も短命であられましたので、未亡人となられた後は、平安京の近衛河原でひっそりと隠棲していました。それを、弟の実定が、月の光にさそわれるように訪ねていく、という話です。

次回「物怪之沙汰(もっけのさた)」は10/12の配信です。

朗読・解説:左大臣光永

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