平家物語 七十ニ 早馬(はやうま)

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本日は平家物語巻第五より「早馬(はやうま)」です。関東で源頼朝が挙兵したことを、早馬の使者が伝えます。

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前回「物怪之沙汰(もっけのさた)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK071.html

あらすじ

治承四年(1180)九月二日、相模国の住人大庭景親が早馬を飛ばし 福原に報告してきた。

「去る八月十七日伊豆の国の流人源頼朝は、舅北条四郎時政に命じ、 伊豆の目代(代官)兼高を夜討ちにしました。

頼朝は石橋山で平家方と合戦するも散々に打ち破られ、土肥の 椙山に逃げ込みました。

その後畠山一族が参戦しますが源氏に味方した三浦勢に破られ いったんは退却します。

しかし攻め返し、三浦大介義明を討ち取りました。三浦の子らは 安房、上総へ逃げていきました」と。

平家の人々は都遷り(「都遷」)にも飽きていた頃で、 何か事件が起きないか、討手に向かうのにと無責任なことを言っていました。

京都にいた畠山重能(はたけやま しげよし)は、娘を頼朝に 嫁がせている北条はともかく、他の者が朝敵の味方をするなど 間違いだろうと言いますが、人々の意見はまちまちでした。

清盛は頼朝蜂起の報告を受けて怒り狂いました。

原文

同(おなじき)九月二日(ふつかのひ)、相模国(さがみのくに)の住人、大庭三郎景親(おおばのさぶらうかげちか)、福原へ早馬(はやうま)をもツて申しけるは、「去(さんぬる)八月十七日、伊豆国流人右兵衛佐頼朝(いずのくにのるにんうひやうゑのすけよりとも)、しうと北条四郎時政(ほうでうのしらうときまさ)をつかはして、伊豆の目代(もくだい)、和泉判官兼高(いづみのはうぐわんかねたか)を、やまきが館(たち)で夜(よ)うちにうち給ひぬ。其後土肥(そののちとひ)、土屋(つちや)、岡崎(おかざき)をはじめとして三百余騎、石橋山(いしばしやま)に立籠(たてごも)ツて候ところに、景親、観方(みかた)に心ざしを存ずる者ども、一千余騎を引率(いんそつ)して、おし寄せせめ候程に、兵衛佐七八騎にうちなされ、大童(おほわらは)にたたひなツて、土肥の椙山(すぎやま)へにげこもり候ひぬ。其後畠山(はたけやま)五百余騎で御方(みかた)を仕る。三浦大介義明(みうらのおほすけよしあきら)が子共(こども)、三百余騎で源氏方(げんじがた)をして、湯井(ゆゐ)、小坪(こつぼ)の浦でたたかふに、畠山(はたけやま)いくさにまけて、武蔵国(むさしのくに)へひきしりぞく。その後畠山(はたけやま)が一族、河越(かはごえ)、稲毛(いなげ)、小山田(をやまだ)、江戸(えど)、笠井(かさゐ)、惣じて其外七党(そのほかななたう)の兵(つはもの)ども、三千余騎を相具(あひぐ)して、三浦衣笠(みうらきぬがさ)の城(じやう)におし寄せてせめたたかふ。大介義明(おほすけよしあきら)うたれ候ひぬ。子供はくり浜(はま)の浦より舟に乗り、阿房上総(あはかづさ)へわたり候ひぬ」とこそ申したれ。

平家の人々、都うつりもはや興(きよう)さめぬ。わかき公卿殿上人(くぎやうてんじようびと)は、「あはれ、とく事(こと)のいでこよかし。打手(うつて)にむかはう」なンどいふぞはかなき。畠山(はたけやま)の庄司重能(しやうじしげよし)、小山田(をやまだ)の別当有重(べつたうありしげ)、宇都宮左衛門朝綱(うつのみやのさゑもんともつな)、大番役(おほばんやく)にてをりふし在京したりけり。畠山申しけるは、「僻事(ひがごと)にてぞ候らん。したしうなツて候なれば、北条(ほうでう)は知り給はず、自余(じよ)の輩(ともがら)は、よも朝敵(てうてき)が方人(かたうど)をば仕り候はじ。いまきこしめなほさんずるを物を」と申しければ、「げにも」といふ人もあり、「いやいや只今天下(てんか)の大事に及びなんず」と、ささやく者もおほかりけり。入道相国(にふだうしやうこく)いかられける様(やう)なのめならず。「頼朝(よりとも)をばすでに死罪(しざい)におこなはるべかりしを、故池殿(こいけどの)のあながちになげき宣(のたま)ひしあいだ、流罪(るざい)に申しなだめたり。しかるに其恩(そのおん)忘れて、当家(たうけ)にむかツて弓をひくにこそあんなれ。神明三宝(しんめいさんぽう)も、いかでかゆるさせ給ふべき、只今天(てん)の責(せめ)かうむらんずる頼朝なり」とぞ宣ひける。

現代語訳

同年(治承四年(1180))九月ニ日、相模国の住人、大庭三郎景親(おおばのさぶろうかげちか)が福原へ早馬で申してきたのは、

「去る八月十七日、伊豆国の流人右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝(よりとも)が、しゅうと北条四郎時政をつかわして、伊豆の目代(代官)、和泉判官(いずみのほうがん)兼高(かねたか)を、山木の舘(たち)で夜討ちに討ちました。

その後、土肥、土屋、岡崎をはじめとして三百余騎、石橋山にたてこもってございましたところに、景親が、平家方に心ざしを通じる者ども、一千騎を率いて、押し寄せ攻せますうちに、兵衛佐は七八騎にうちなされ、戦いの末、髻切ってざんばら髪になり、土肥の椙山に逃げこもりました。

その後、畠山(重忠)が五百余騎で味方をつとめました。三浦大介(みうらのおおすけ)義明(よしあきら)の子供らが、三百余騎で源氏方について、由比、小坪の浦で戦ったところ、畠山はいくさに負けて、武蔵国にひき退きました。

その後、畠山の一族、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西らやその他武蔵七党の武者どもが、三千余騎を引き連れて、三浦衣笠の城に押し寄せて、攻め戦います。三浦義明は討たれました。子供らは久里浜の浦から舟に乗り、安房上総にわたりました」

と申した。

平家の人々は、都うつりにも早くも飽きてしまった。若い公卿殿上人は、「ああ、早く何か事件が起こらないかなあ。討手に向かいたいものだ」

などと言うのは浅はかなことだ。

畠山の庄司重能(しげよし)、小山田の別当有重(ありしげ)、宇都宮左衛門(うつのみやのさえもん)朝綱(ともつな)、京都大番役としてその時在京していた。

畠山が申すには、

「まちがいでございましょう。北条は頼朝と親しくなってございますので、北条のことは存じませんが、その他の連中は、まさか朝敵の味方をするはずがございません。いまにお聞きなおしになることでしょう」

と申したところ、

「なるほど」

と言う人もあり、

「いやいや、すぐに天下の大事に及ぶであろう」

と、ささやく者も多かった。

入道相国はお怒りになること、並々でない。

「頼朝をもう少しで死罪にするべきだったのを、故池殿がたいそう助命嘆願なさるので、流罪に申しなだめたのだ。それなのにその恩を忘れて、当家にむかって弓をひくというのである。神も仏も、どうしてお許しになるだろう。頼朝は今すぐにでも天罰を受けるにちがいない」

とおっしゃった。

語句

■同九月ニ日 『玉葉』治承四年(1180)九月三日条、『山槐記』九月四日条に頼朝の反乱をきいた話がある。 ■和泉判官兼高 山木兼高(隆)。山木は静岡県田方郡韮山。このあたりの事情は『源平盛衰記』等に詳しい。『平家物語』では伝聞でアッサリとすまされている。 ■土肥 土肥次郎実平・土屋弥三郎宗遠・岡崎四郎義実ら。相模国に勢力を貼る。 ■石橋山 神奈川県小田原市石橋。 ■大童に 髻を切ってざんばら髪になること。 ■土肥の椙山 石橋山の南の山谷。当時は平家方であった梶原景時の機転で頼朝が難をのがれる話は長門本等にくわしい。 ■畠山 秩父の豪族。畠山次郎重忠。 ■三浦大介義明 三浦義明。三浦半島の豪族、三浦氏の長老。大介は国司のもとで職務を行う地元の者。 ■湯井、小坪 鎌倉南方の海岸。鎌倉市由比、逗子市小坪。小坪合戦として有名。 ■河越、… 河越太郎重頼、稲毛三郎重成、小山田別当有重、江戸太郎重長、葛西三郎清重。いずれも武蔵一帯に勢力をはる豪族。 ■七党 武蔵七党。横山・猪股・野与(のいよ)・村山・西・児玉・丹の七党。 ■三浦衣笠の城 神奈川県横須賀市にあった三浦氏の城。 ■くり浜 久里浜。横須賀市の海岸。 ■興さめぬ 飽きてしまった。 ■はかなき あさはかだ。 ■畠山庄司重能 畠山重忠の父。庄司は庄園の事務を司る者。 ■小山田の別当有重 畠山重能の弟。別当は庄園管理者。 ■宇都宮左衛門朝綱 宇都宮朝綱。日光別当職。 ■大番役 交代で京にのぼって宮城の警護にあたる役。 ■僻事 まちがい。 ■したしうなッて候なれば 北条は頼朝と親しくなってございますので。 ■自余の それ以外の。 ■すでに もう少しで。いよいよ。まさに。 ■故池殿 忠盛の後妻。清盛の義理の母。池の禅尼。平治の乱の後、捕らえられた頼朝の命乞いをしたことが『平治物語』にみえる。 ■神明三宝 神明は神。三宝は仏法僧だがここでは仏。神と仏。

……

関東で頼朝が挙兵して、それをきいた清盛が怒り狂った、という話でした。

源頼朝の挙兵、という歴史的場面ですが、ごくあっさりと、報告という形ですまされています。

治承4年(1180)8月17日、源頼朝は伊豆国の目代、山木邸襲撃を襲撃し山木の首を挙げるも、8月21日の石橋山合戦に敗れて、伊豆真鶴より房総半島に脱出。

8月24日、鎌倉と厨子の間、小坪では親類筋にあたる平家方畠山重忠軍と、源氏方三浦一族の間で合戦が行われ、

翌8月25日、三浦半島衣笠城(横須賀のちかく)に立てこもる老将三浦義明を、畠山重忠らが攻め落とし、自害に追い込みました。

…いずれも歴史のターニングポイントともいえる、重要な戦いです。しかし『平家物語』では都への報告、という形でごくあっさりと語られているのは、

もしかしたら『平家物語』の作者が西国出身で、あまり関東の事情にくわしくなかったのかなと思います。

一方、『源平盛衰記』にはこのあたり、源頼朝挙兵前後の事情が実に細かく描かれています。

関東の戦いについて詳しく知りたい方は、まず『源平盛衰記』を読んでください。

『源平盛衰記』は以前は手に入りにくく、あったとしても全巻そろえると数万円にもなりました。しかし現在はamazonでkindle版が安価で変えます。いい時代になったもんです…

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