平家物語 七十三 朝敵揃(てうてきぞろへ)

■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

本日は平家物語巻第五より「朝敵揃(ちょうてきぞろえ)」です。源頼朝の挙兵に関連して、神武天皇以来のさまざまな朝敵(反逆者)の例が語られます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/HK073.mp3

前回「早馬(はやうま)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK072.html

あらすじ

神武天皇の治世四年に紀州名草の地方首長が朝家に背いて以来、二十余人が背いたが一人として成功せず、官軍に滅ぼされた。

また、現在では王権も軽んじられるようになってしまったが、昔は宣旨(天皇の勅命)といえば草も木も従ったものだ。

延喜帝(醍醐天皇)の時代、帝が京都の神泉苑に行幸された時、池の水際に鷺がいた。

帝は鷺を取ってこいと六位の役人に命じた。

役人が鷺に向かって「宣旨である」と言うと鷺の動きが固まり、かんたんに捕まった。

帝は鷺を五位に任じ、「鷺の中の王である」という札をかけて空へ放たれたということである。

原文

夫我朝(それわがてう)に朝敵(てうてき)のはじめを尋ぬれば、やまといはれみことの御宇(ぎよう)四年、紀州(きしう)なぐさの郡(こほり)、高雄村(たかをのむら)に一つの蜘蛛(ちちう)あり。身みじかく足手ながくて、力(ちから)人にすぐれたり。人民(にんみん)をおほく損害せしかば、官軍発向(くわんぐんはつかう)して、宣旨(せんじ)をよみかけ、葛(かづら)の網(あみ)をむすんで、終(つひ)にこれをおほひころす。それよりこのから、野心(やしん)をさしはさんで、朝威(てうゐ)をほろぼさんとする輩(ともがら)、大石山丸(おほいしのやままる)、大山王子(おほやまのわうじ)、守屋(もりや)の大臣(だいじん)、山田石河(やまだのいしかは)、曽我入鹿(そがのいるか)、大友(おほとも)のまとり、文屋宮田(ふんやのみやだ)、橘逸成(きついつせい)、氷上河次(ひかみのかはつぎ)、伊与の親王、太宰少弐藤原広嗣(だざいのせうにふじはらのひろつぎ)、恵美押勝(ゑみのおしかつ)、早良太子(さはらのたいし)、井上(ゐがみ)の皇后(くわうこう)、藤原仲成(ふじはらのなかなり)、平将門(たひらのまさかど)、藤原純友(ふじはらのすみとも)、安倍貞任(あべのさだたふ)、宗任(むねたふ)、対馬守源義親(つしまのかみみなもとのよしちか)、悪左府(あくさふ)、悪衛門督(あくゑもんのかみ)にいたるまで、すべて廿余人、されども一人(いちにん)として、素懐(そくわい)をとぐる者なし。かばねを山野にさらし、かうべを獄門(ごくもん)にかけらる。

この世にこそ王位も無下(むげ)にかるけれ、昔は宣旨(せんじ)をむかツてよみければ、枯れたる草木も花咲き実(み)なり、とぶ鳥もしたがひけり。中比(なかごろ)の事ぞかし。延喜御門(えんぎのみかど)、神泉苑(しんぜんゑん)に行幸(ぎやうがう)あツて、池のみぎはに鷺(さぎ)のゐたりけるを、六位を召して、「あの鷺とツて参らせよ」と仰せければ、いかでかとらんと思ひたれども、綸言(りんげん)なればあゆみむかふ。鷺はねづくろひしてたたんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛びさらず。これをとツて参りたり。「なんぢが宣旨にしたがツて、参りたるこそ神妙(しんべう)なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。今日(けふ)より後(のち)は鷺の中の王たるべしといふ礼をあそばいて、頸(くび)にかけてはなたせ給ふ。まツたくの鷺の御料(おんれう)にはあらず、只王威(わうい)の程をしろしめさんがためなり。

現代語訳

いったいわが国に朝敵のはじめの例をさがすと、神日本磐余彦(神武天皇)の御代の四年、紀州なぐさの郡、高雄村に一つの蜘蛛(くも=従わない者)がいた。

体は短く足と手が長くて、力は人よりすぐれていた。人民を多く損害したので、官軍が出発して、宣旨をよみかけ、つる草で編んだ網をむすんで、ついにこれを覆い殺した。

それからというもの、野心をもって、朝廷の権威をほろぼそうとする連中は、

大石山丸、大山王子、守屋の大臣、山田石川麻呂、蘇我入鹿、大友真鳥、文屋宮田、橘逸成、氷上川継、伊予親王、大宰少弐藤原広嗣、恵美押勝、早良太子、井上皇后、藤原仲成、平将門、藤原純友、安倍貞任、宗任、対馬守源義親、宇治の悪左府頼長、悪衛門督藤原信頼にいたるまで、すべて二十余人、しかし一人も本望をとげた者はない。

かばねを山野にさらし、首を獄門にかけられた。

今の世でこそ王位もひどく軽くなって貶められているが、昔は宣旨を面とむかって読めば、枯れた草木も花咲き実なり、とぶ鳥もしたがった。

中頃のことである。延喜の帝(醍醐天皇)が、神泉苑に行幸されて、池のみぎわに鷺がいたのを、六位の役人を召して、「あの鷺とって参らせよ」と仰せられたので、どうやって捕らえようと思ったが、天皇のお言葉なので歩いて向かった。

鷺は羽をつくろい終えて飛び立とうとする。

「宣旨である」

と仰せになると、平伏して飛び去らない。これをとって参った。

「お前が宣旨にしたがって、参ったのは感心である。すぐに五位になせ」

といって、鷺を五位にされた。

「今日より後は鷺の中の王である」という札をお与えになって、首にかけてお放ちになった。

けして鷺がお入り用だったのではない。ただ天皇の権威の程をお知りになるためであった。

語句

■やまといはれみこと 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)=神武天皇。 ■なぐさの郡 和歌山市名草山付近か。『日本書紀』神武天皇戊午年六月に名草邑で名草戸畔という者を誅すとある。ただし土蜘蛛の件は別記事。 ■蜘蛛 ちちゅう。朝廷に従わない地方勢力? ■葛の網 蔓草などで編んだ網。 ■大石山丸 文石小麻呂(あやしのこまろ)の誤りか。『日本書紀』雄略天皇十三年八月条に誅せられた記事。 ■大山王子 応神天皇の子。帝位に野心あり、大鷦鷯(仁徳天皇)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と争って破れた。 ■守屋の大臣 物部守屋。蘇我馬子らと争って滅ぼされた。 ■山田石河 蘇我倉山田石川麻呂。中大兄皇子の片腕として乙巳の変(645)で功績あったが、大化5年(649)讒言を受けて自殺した。 ■蘇我入鹿 645年「乙巳の変」で中大兄皇子に滅ぼされた。 ■大友のまとり 平群真鳥(へぐり まとり)か?仁賢天皇十一年十一月、大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)に滅ぼされた。 ■文屋宮田 文屋宮田麻呂。承和十年(843)謀叛発覚(続日本後紀)。 ■橘逸成 きついっせい。たちばなのはやなり。承和九年(842)謀叛発覚(続日本後紀)。 ■氷上河次 氷上川継。延暦元年(782)謀叛発覚。桓武天皇の時(続日本紀)。 ■伊予の親王 桓武天皇の皇子、伊予王。大同ニ年(807)11月、謀叛に連座して自殺(日本紀略)。 ■大宰府少弐藤原広嗣 天平12年(740)九州で反乱を起こし誅せられる。 ■恵美押勝 藤原仲麻呂。天平宝字8年(764)謀叛。誅せらる。 ■早良太子 光仁天皇皇子、桓武天皇弟宮、早良親王。早良廃太子。はじめ皇太子に立つも廃された。 ■井上の皇后 井上皇后。 ■藤原仲成 妹、薬子とともに平城上皇を動かし、都を平城京に戻そうと画策した。計画はつぶされ、仲成は処刑される。 ■安倍貞任 前九年の役で朝廷に逆らい誅された。 ■宗任 安倍宗任。貞任の弟。前九年の役に破れ、捕らえられた。 ■対馬守源義親 源義家の子。出雲国で目代を殺害し官物をうばうなど乱暴をはたらき平正盛に鎮圧された。 ■悪左府 宇治の悪左府、藤原頼長。保元の乱で崇徳上皇に加担し、滅ぼされた。 ■悪衛門督 藤原信頼。平治の乱で源義朝とクーデターを起こし、二条天皇、後白河上皇を幽閉したが、平清盛らに滅ぼされた。 ■素懐 本望。 ■この世 今の世。 ■無下に ひどく貶められ。 ■枯れたる草木も… 『梁塵秘抄』巻ニ(仏歌)、『梁塵秘抄口伝集』巻十。「卒塔婆流」にもみえる。 ■延喜帝 醍醐天皇。 ■神泉苑 二条南。大宮西。桓武天皇以来、貴族や皇族が御遊した庭園。現在、元離宮二条城の南に残る。「ちやはぶる神の泉のそのかみや花ぞみゆきのはじめなりける」。 ■綸言 天子のことば。 ■ひらんで 平伏して。 ■御料 ご入り用。

ゆかりの場所

神泉苑

延暦13年(794年)桓武天皇が平安京造営に際し、大内裏裏手の沼沢地を開いて苑としたのが始まり。

当初は二条通りから三条通りに到る南北500メートル、東西240メートルの広大な苑だった。たえず清水がわき出るのでその名も神泉苑と名付けられ、代々、天皇や貴族が舟遊びや管弦の遊びにふけった。

慶長8年(1603)徳川家康の二条城造営で大きく削られましたが、現在も、元離宮二条城の南に、神泉苑跡の池と、京都で一番古い神社がある。静御前や小野小町、弘法大師空海の伝説が残る。

アヒルのアーちゃん、ルルちゃんたちが境内で放し飼いになってて、かわいいです!

朗読・解説:左大臣光永

■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル