平家物語 七十四 咸陽宮(かんやうきゆう) 

平家物語巻第五より「咸陽宮(かんようきゅう)」。源頼朝の挙兵に関連して、時の権力者にそむいた例が引用される。

中国戦国時代。荊軻は、燕の太子丹に味方して、秦の始皇帝の暗殺をはかった。『史記』刺客列伝などに有名なエピソード。

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前回「朝敵揃(ちょうてきぞろえ)」からのつづきです。
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あらすじ

中国、戦国時代。燕の太子丹は秦の始皇帝に囚われ、十二年間監禁される。

丹が「本国にいる老母にもう一度会いたい」と始皇帝に赦しを請うと、始皇帝は「馬に角が生え、烏が白くなれば赦してやる」と難題をつきつける。

しかし丹が必死に祈ると、角のある馬、白い烏があらわれた。

天子に二言は無い(「倫言返らず」)ということで、始皇帝は太子丹を釈放するが、やはり惜しく思い、追っ手を差し向ける。

秦と燕の境の楚の国にかかっている橋に細工をして、丹が通った時に橋が落ちるようにした。

始皇帝の策どおり丹は川に落ちるが、沢山の亀が甲羅を並べて、丹を岸に渡してくれ、助かった。

太子丹はこうして燕国に戻ったが、始皇帝と燕国の確執は続いていた。

そこで丹は荊軻という者を大臣にし、始皇帝暗殺の相談をする。

荊軻は田光先生という老人に始皇帝暗殺の相談をするが、田光は歳を理由に断った。

荊軻が「このことを口外しないでください」と言うと、田光は「人に疑われるに過ぎる恥はない」と、李の木に頭をぶつけて死んだ。

また、范予期(樊於期 はんよき)という者がいた。始皇帝のために家族を殺され、その上始皇帝から指名手配にされ、五百斤の賞金がかけられていた。

荊軻は范予期に会い、「お前の首をかせ」という。首を差し出す際に始皇帝に接近できるから剣で胸を刺すのだと。

范予期は家族を殺された憎しみを語り、喜んで荊軻の計画に乗ると言い、みずから首をはねる。

また、秦巫陽(しんぶよう)という者を、秦国の案内者として連れていった。

秦国に向かう途中のある夜、管弦の音が響いてきたので、荊軻はその音で運命を占うと、「敵は水、味方は火」と出て、始皇帝暗殺はとても遂げられない様子だった。

といって今更戻るわけにもいかないので、とにかく咸陽宮に入る。燕国の絵図と范予期の首を持ってきた旨を伝え、阿房殿に通される。

宮殿のきざはしをのぼる際、秦巫陽は怖気付いて震えだす。始皇帝の臣下の者が怪しむが、荊軻は「田舎者ですから皇居のきらびやかな様子に驚いているのです」と取り繕う。

始皇帝に近づく荊軻。その時、燕の絵図の入った櫃の底に刀があるのに始皇帝は気付く。

咄嗟に逃げようとした始皇帝を荊軻はむずと捕まえ、胸に刀を突きつける。

まわりの臣下たちも、どうすることもできない。

始皇帝は「この世の名残に后の弾く琴の音を聴きたい」と願い、荊軻は許す。

琴の名手・花陽夫人のかなでる琴の音に荊軻も思わず任務を忘れ、聴き惚れるほどだった。

そこで花陽夫人は始皇帝にのみわかるように、歌詞の中に逃げ方を指示する。

始皇帝はその指示に従い、逃げる。

荊軻は怒って始皇帝に剣を投げるが、そばにいた番医者が薬の袋を投げ、剣はそれにからまって柱につきささってしまった。

武器を失った荊軻は始皇帝に八つ裂きに斬られる。

秦巫陽も殺され、燕は秦に滅ぼされてしまった。

原文

又先蹤(せんじよう)を異国に尋ぬるに、燕(えん)の太子丹(たいしたん)といふ者、秦始皇(しんしくわう)にとらはれて、いましめをかうぶる事十二年、太子丹涙をながいて申しけるは、「われ本国に老母(らうぼ)あり。暇(いとま)を給はツてかれを見ん」と申せば、始皇帝(しくわうてい)あざわらツて、「なんぢに暇をたばん事は、馬に角(つの)おひ、烏(からす)の頭(かしら)の白くならん時を待つべし」。

燕丹(えんたん)天にあふぎ地に臥(ふ)して、「願(ねが)はくは、馬に角(つの)おひ、烏(からす)の頭(かしら)白くなしたべ。故郷(こきやう)にかへツて、今一度(ど)母をみん」とぞ祈りける。かの妙音菩薩(めうおんぼさつ)は、霊山浄土(りやうぜんじやうど)に詣(けい)して、不孝(ふかう)の輩(ともがら)をいましめ、孔子(くじ)、顔回(がんくわい)は、支那震旦(しなしんだん)に出でて、忠孝(ちゆうかう)の道をはじめ給ふ。冥顕(みやうけん)の三宝(さんぽう)孝行の心ざしをあはれみ給ふ事なれば、馬に角おひて宮中に来(きた)り、烏の頭白くなツて、庭前の木に住めりけり。始皇帝、烏頭馬角(うとうばかく)の変(へん)におどろき、綸言(りんげん)かへらざる事を信じて、太子丹をなだめつつ、本国へこそかへされけれ。始皇なほくやしみて、秦(しん)の国と燕の国のさかひに、楚国(そこく)といふ国あり。大きなる河ながれたり。かの河にわたせる橋をば、楚国の橋といへり。始皇官軍(くわんぐん)をつかはして、燕丹がわたらん時、河なかの橋をふまばおつる様(やう)にしたためて、燕丹をわたらせけるに、なじかはおちいらざるべき、河なかへおち入りぬ。されどもちツとも水にもおぼれず、平地(へいぢ)を行くごとくして、むかへの岸(きし)へつきにけり。こはいかにと思ひて、うしろをかへり見ければ、亀どもがいくらといふかずも知らず、水の上にうかれ来て、甲(かふ)をならべてぞあゆませたりける。これも孝行のこころざしを、冥顕(みやうけん)あはれみ給ふによツてなり。

太子丹うらみをふくんで、又始皇帝にしたがはず。始皇(しくわう)官軍をつかはして、燕丹(えんたん)をうたんとし給ふに、燕丹おそれをののき、荊軻(けいか)といふ兵(つはもの)をかたらうて、大臣になす。又田光先生(てんくわうせんせい)といふ兵をかたらふ。かの先生申しけるは、「君はこの身がわかうさかんなツし事をしろしめされてたのみ仰せらるるか。麒麟(きりん)は千里を飛べども、老いぬれば、駑馬(どば)にもおとれり。いまはいかにもかなひ候(さうらふ)まじ。兵をこそかたらうて参らせめ」とてかへらんとするところに、荊軻、「この事あなかしこ、人に披露(ひろう)すな」といふ。先生申しけるは、「人にうたがはれぬるに過ぎたる恥(はじ)こそなけれ。此事(このこと)もれぬる物ならば、われうたがはれなんず」とて、門前なる李(すもも)の木に、頭(かしら)をつきあて、うちくだいてぞ死ににける。

又樊於期(はんよき)といふ兵(つはもの)あり。これは秦(しん)の国の者なり。始皇(しくわう)のために親(おや)、おぢ、兄弟(きやうだい)をほろぼされて、燕(えん)の国ににげこもれり。秦皇四海(しんくわうしかい)に宣旨(せんじ)をくだいて、樊於期がかうべはねて参らせたらん者には、五百斤(こん)の金(きん)をあたへんと披露せらる。荊軻これを聞き、樊於期がもとにゆいて、「われ聞く、なんぢがかうべ、五百斤の金に報(ほう)ぜらる。なんぢが首(かうべ)われにかせ。取ツて始皇帝に奉らん。よろこンで叡覧(えいらん)をへられん時、つるぎをぬき、胸(むね)をさささんに、やすかりなん」といひければ、樊於期をどりあがり、大息(おほいき)をついて申しけるは、「われ、親、おぢ、兄弟を、始皇のためにほろぼされて、よるひるこれを思ふに、骨髄(こつずい)にとほツて忍びがたし。げにも始皇帝をほろぼすべくは首(かうべ)をあたへん事、塵(ちり)あくたよりも尚(なほ)やすし」とて、手づから首を切つてぞ死ににける。

現代語訳

また(朝敵の)先例を異国に尋ねると、燕の太子丹という者が、秦の始皇帝にとらわれて、いましめを受けること十二年、太子丹涙を流して申したのは、

「私は本国に老母がある。暇をいただいて母に会いたい」

と申したところ、始皇帝はあざ笑って、

「お前に暇を与えることは、馬に角が生え、烏の頭が白くなる時を待つがよい」

燕丹は天に仰ぎ地に臥して、

「願はくは、馬に角が生え、烏の頭を白くなしてください。故郷に帰って、今一度母に会いたいと思います」

と祈った。

かの妙音菩薩は、(釈迦が説法していらした)霊山(りょうぜん)浄土に参詣して、不孝の連中をいましめ、孔子、顔回は、中国にあって、忠孝の道を始められた。あの世とこの世の仏は、孝行の心ざしをあわれみなさる事であるので、馬に角が生えて宮中に来て、烏の頭が白くなって、庭前の木に住んだ。

始皇帝は、烏の頭、馬の角の変におどろき、天子のことばに二言はないという事を信じて、太子丹を釈放して、本国へ返された。

始皇帝はしかしやはり悔しんで、秦の国と燕の国の境に、楚国という国がある。大きな河が流れている。その河にわたした橋を、楚国の橋という。

始皇帝は官軍をつかわして、燕丹がわたろうとする時、河なかの橋を踏めばおちるように準備して、燕丹をわたらせたので、どうして陥らないだろう。河なかへおち入った。

しかしまったく水にもおぼれず、平地を行くように、向かいの岸についた。これはどうしたことかと思って、うしろを返り見ると、たくさんの亀がいくらという数も知らず、水の上に浮かんで来て、甲羅をならべて歩ませたのであった。これも孝行の心ざしを、あの世の仏この世の仏があはれみなさったためである。

太子丹は恨みを深く心に抱いて、また始皇帝に従わない。始皇帝は官軍をつかわして、燕丹を討とうとなさると、燕丹はおそれおののき、荊軻という兵士を味方にして、大臣にする。荊軻はまた田光先生という兵士を味方にする。

その先生が申したのは、

「あなたはこの身が若く盛んであった時の事をご存知で頼み仰せられるのか。麒麟は千里を飛ぶといっても、年を取ればのろい馬にも劣る。今はどうにもなりません。他の兵を味方にして参らせましょう」

といって帰ろうとするところに、荊軻、

「この事、けして人に口外するな」

という。

先生が申したのは、

「人に疑われるに過ぎた恥はない。この事が発覚したら、私が疑われるに違いない」

といって、門前にある李の木に、頭を突き当て、うちくだいて死んでしまった。

また、樊於期という兵士がある。これは秦の国の者である。始皇帝のために親、叔父、兄弟をほろぼされて、燕の国に逃げこんでいた。

始皇帝は四方に宣旨を下して、樊於期の首をはねて献上した者には、五百斤の金を与えようと天下にお知らせになられた。荊軻はこれを聞いて、樊於期のもとに行って、

「私は聞いている。お前の首に五百斤の賞金がかけられている。お前の首を私にかせ。取って始皇帝に献上しよう。喜んで御覧になる時、つるぎを抜き、胸をさすのは、たやすいことであろう」

と言ったところ、

樊於期はおどりあがり、大きな息をついて申したことは、

「私は、親、叔父、兄弟を、始皇帝のためにほろぼされて、夜昼これを思うに、恨みが骨髄にとおって我慢できない。ほんとうに始皇帝を滅ぼせるなら、首を与えることは、塵あくたよりもずっとたやすい」

といって、手づから首を切って死んでしまった。

語句

■燕 中国春秋時代の国の名。 ■馬に角おひ けしてありえないことのたとえ。以下、『史記』荊軻伝賛の記事より。『今昔物語集』巻十にも引用。 ■妙音菩薩 音楽にすぐれた菩薩。東方浄光荘厳国に住む。弁財天は妙音菩薩の垂迹。霊山(りょうぜん)に行って釈迦に孝行について尋ねた記事が『法華経』妙音菩薩品にみえる。 ■孔子 春秋時代の思想家。『論語』はその言行録。 ■顔回 孔子の一番弟子。 ■支那震旦 中国のこと。 ■冥顕 冥界と顕界。目に見えない世界と目に見える世界。あの世とこの世。未来と現在。 ■三宝 仏・法・僧。転じて仏。 ■綸言 天子のことば。 ■なだめつつ 釈放して。「つつ」はここでは順接。 ■楚国 楚国は揚子江の南の広大な国。秦と燕の間にあるとするのは誤り。 ■したためて 用意して。 ■うらみをふくんで 心中深くに恨みを抱いて。 ■かたらうて 味方にする。 ■麒麟は千里を飛べども… 「田光曰ク、臣聞ク、麒麟盛壮ノ時ハ、一日ニシテ馳スルコト千里、其衰老ニ至ツテハ、駑馬モ之ニ先ダツト。今太子光ノ盛壮ノ時ヲ聞キテ、臣ガ精已ニ消亡セルヲ知ラズ」(史記・荊軻伝)。 ■あなかしこ 決して。 ■樊於期 范予期。『史記』に登場。 ■五百斤 斤は重さの単位。一斤=十六両=百六十匁。 ■叡覧をふ 天子が御覧になること。

原文

又秦舞陽(しんぶやう)といふ兵(つはもの)あり。これも秦(しん)の国の者なり。十三の歳(とし)かたきをうツて、燕の国ににげこもれり。ならびなき兵なり。かれが嗔(いか)つてむかふ時は、大の男も絶入(せつじゆ)す。又笑(ゑ)んで向ふ時は、みどり子(こ)もいだかれけり。これを、秦(しん)の都の案内者にかたらうてぐしてゆく程に、ある片山(かたやま)のほとりに宿(しゆく)したりける夜、其辺(そのほとり)ちかき里に、管弦(くわんげん)をするをきいて、調子をもつて本意の事をうらなふに、かたきの方(かた)は水なり、我方(わがかた)は火なり。さる程に天もあけぬ。白虹日(はくこうび)をつらぬいてとほらず。「我等が本意とげん事ありがたし」とぞ申しける。

さりながら帰るべきにもあらねば、始皇(しくわう)の都咸陽宮(かんやうきゆう)にいたりぬ。燕(えん)の指図(さしづ)、ならびに樊於期(はんよき)が首(かうべ)もツて参りたるよし奏(そう)しければ、臣下(しんか)をもツて、うけとらんとし給ふ。「まツたく人しては参らせじ。直(ぢき)に奉らん」と奏する間、さらばとて節会(せちゑ)の儀(ぎ)をととのへて、燕の使(つかひ)を召されけり。咸陽宮は都のめぐり一万八千三百八十里(り)につもれり。内裏(だいり)をば地(ち)より三里たかく築(つ)きあげて、其上にたてたり。長生殿(ちやうせいでん)、不老門(ふらうもん)あり。金(こがね)をもツて日をつくり、銀(しろがね)をもツて月をつくれり。真珠(しんじゆ)のいさご、瑠璃(るり)の沙(いさご)、金の砂(いさご)をしきみてり。四方にはたかさ四十丈(ぢやう)の鉄(くろがね)の築地(ついぢ)をつき、殿の上にも同じく鉄(くろがね)の網(あみ)をぞ張つたりける。これは冥途(めいど)の使をいれじとなり。秋の田のもの雁(かり)、春は越路(こしぢ)へ帰るも、飛行自在(ひぎやうじざい)のさはりあれば、築地には雁門(がんもん)となづけて、鉄(くろがね)の門をあけてぞとほしける。そのなかにも阿房(あほう)殿(でん)とて始皇の常は行幸(ぎやうがう)なツて、政道(せいたう)おこなはせ給ふ殿(てん)あり。たかさは卅六丈、東西へ九町(くちやう)、南北へ五町、大床(おほゆか)の下は五丈のはたほこをたてたるが、猶(なほ)及ばぬ程なり。上(うへ)は瑠璃(るり)の瓦(かはら)をもツてふき、したは金銀にてみがきけり。

荊軻(けいか)は燕の指図をもち、秦舞陽(しんぶやう)は樊於期が首(かうべ)をもツて、珠(たま)のきざ橋をのぼりあがる。あまりに内裏(だいり)のおびたたしきを見て、秦舞陽わなわなとふるひければ、臣下(しんか)あやしみて、「舞陽謀反(むほん)の心あり。刑人(けいじん)をば君のかたはらにおかず。君子は刑人にちかづかず、刑人にちかづくはすなはち死をかろんずる道なり」といへり。荊軻たち帰ツて、「舞陽はまツたく謀反の心なし。ただ田舎(でんじや)のいやしきにのみならツて、皇居(くわうきよ)になれざるが故(ゆゑ)に、心迷惑(めいわく)す」と申しければ、臣下(しんか)みなしづまりぬ。仍(よつ)て王にちかづき奉る。燕の指図、ならびに樊於期が首(かうべ)、見参(げンざん)にいるるところに、指図の入ツたる櫃(ひつ)のそこに、氷(こほり)の様(やう)なるつるぎの見えければ、始皇帝(しくわうてい)これを見て、やがてにげんとし給ふ。荊軻(けいか)、王の御袖(おんそで)をむずとひかへて、つるぎをむねにさしあてたり。いまはかうとぞ見えたりける。数万(すまん)の兵庭上(つはものていしやう)に袖(そで)をつらぬといへども、すくはんとする力なし。ただ君、逆臣(ぎやくしん)にをかされ給はん事をのみかなしみあへり。始皇宣(しくわうのたま)はく、「われに暫時(ざんじ)のいとまをえさせよ。わが最愛の后(きさき)の琴(きん)のねを今一度きかん」と宣へば、荊軻しばしをかし奉らず。始皇は三千人の后をもち給へり。其中(そのなか)に花陽夫人(くわやうぶにん)とて、すぐれたる琴(こと)の上手(じやうず)おはしけり。凡(およ)そ此后(このきさき)の琴のねをきいては、武(たけ)きもののふのいかれるもやはらぎ、飛ぶ鳥もおち、草木もゆるぐ程なり。況(いはん)やいまをかぎりの叡聞(えいぶん)にそなへんと、泣く泣くひき給ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊軻も頭(かうべ)をうなたれ、耳をそばだて、殆(ほとん)ど謀臣(ぼうしん)の思(おもひ)もたゆみにけり。

后はじめてさらに一曲を奏(そう)す。「七尺(しつせき)の屏風(へいふう)はたかくとも、躍(をど)らばなどかこえざらん。一条(でう)の羅穀(らこく)はつよくとも、ひかばなどかはたえざらん」とぞひき給ふ。荊軻はこれをきき知らず。始皇(しくわう)はきき知ツて、御袖をひツきり、七尺の屏風を飛びこえて、あかがねの柱のかげににげかくれさせ給ひぬ。荊軻いかツてつるぎを投げかけ奉る。をりふし御前に番(ばん)の医師(いし)の候ひけるが、薬の袋(ふくろ)を荊軻がつるぎに投げあはせたり。つるぎ、薬の袋をかけられながら、口(くち)六尺(しやく)の銅(あかがね)の柱を、なからまでこそきツたりけれ。荊軻又剣(つるぎ)ももたねば、つづいても投げず。王たちかへツて、わがつるぎを召し寄せて、荊軻を八(や)つざきにこそし給ひけれ。秦舞陽(しんぶやう)もうたれにけり。官軍をつかはして、燕丹(えんたん)をほろぼさる。蒼(そう)天(てん)ゆるし給はねば、白虹日(はくこうひ)をつらぬいてはとほらず。秦(しん)の始皇(しくわう)はのがれて、燕丹つひにほろびにき。

されば今の頼朝(よりとも)も、さこそはあらんずらめと、色代(しきだい)する人々もありけるとかや。

現代語訳

また秦舞陽(しんぶよう)という兵士がある。これも秦の国の者である。十三の歳かたきをうって、燕の国ににげこんだ。ならびなき兵士である。彼が怒って向かう時は、大の男も気絶する。また笑って向かう時は、みどり子も抱かれた。

これを、秦の都の案内者として味方にして連れて行くうちに、ある辺鄙な山のほとりに泊まった夜、そのあたり近い里に、管弦するのをきいて、その音調で目的達成の成否を占うと、敵の方は水である、わが方は火である、と出た。

そのうちに夜が明けた。白虹(光の輪)が太陽にかかっているが貫通してはいない。それで「われらの目的達成は難しいだろう」と申した。

そうはいっても、帰るわけにもいかないので、始皇帝の都咸陽宮に至った。燕の地図、ならびに樊於期(はんよき)の首をもって参ったことを奏上したところ、臣下に受け取らせようとされる。

「けして人を介しては参りません。直接献上いたします」

と奏上するので、それではといって、宴会の形式をととのえて、燕の使を召された。

咸陽宮は都のまわり一万八千三百八十里にわたる。内裏を地から三里たかく作り上げて、その上に立てている。

長生殿、不老門がある。

金で太陽をつくり、銀で月をつくっている。

真珠の砂、瑠璃の砂、金の砂をいっぱいにしいている。

四方には高さ四十丈の鉄の塀を作り、宮殿の上にも同じく鉄の網を張っている。

これは暗殺者を入れまいとしてである。

秋の田のもの雁が春は北国へ帰るのに、自由に飛ぶことに障害になるので、塀には雁門なづけて、鉄の門をあけて通した。その中にも阿房殿といって始皇帝のいつも行幸なって、政道を行われる宮殿がある。

高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は五丈の旗鉾を立てているが、それでもなお届かないほど深い。

上は瑠璃の瓦でふき、下は金銀で飾り立てている。

荊軻は燕の地図を持ち、秦舞陽は樊於期の首をもって、玉のきざはしを登り上がる。

あまりに内裏が壮大なのを見て、秦舞陽はわなわなと震えたので、臣下があやしんで、

「舞陽に謀叛の心あり。刑罰を受けた人を君にかたわらにおかず、君子は刑罰を受けた人に近づかず、刑罰を受けた人に近づくのはすなわち死をかろんずる道である」

と言った。

荊軻は引き返して、

「舞陽はまったく謀叛の心はない。ただ田舎の卑しいところにばかり慣れているので、皇居になれないので、心が迷い戸惑っているだけだ」

と申したので、臣下は皆しずまった。

なので王に近づき申し上げる。

燕の地図、ならびに樊於期の首を御覧に入れるところに、地図の入った櫃の底に、氷のような剣が見えたので、始皇帝はこれを見て、すぐに逃げようとなさる。

荊軻は、王の御袖をむずと押さえて、剣を胸にさし当てた。もうこれまでと見えた。数万の兵士が庭上に袖をつらねているといっても、救おうとするのに力がない。ただ主君が逆臣に害されなさるのを悲しみ合うばかりであった。

始皇帝がおっしゃった。

「われにしばらく時間を与えよ。わが最愛の后の琴(きん)の音を今一度きこう」

とおっしゃると、荊軻はしばらく殺し申し上げなかった。

始皇帝は三千人の后をお持ちだった。その中に花陽夫人(かようぶにん)とて、すぐれた琴の上手がいらした。いったいこの后の琴の音をきくと、気性の荒い武士の怒りもおさまり、飛ぶ鳥も落ち、草木もゆるぐほどである。

まして今が最後の天子のお耳に入れようと、泣く泣くお弾きになる、さぞかし素晴らしい音色であったろう。

荊軻も首をうなだれ、耳をそばだて、ほとんど刺客としての思いもゆるんでしまった。

后は弾き始めてさらに一曲を演奏する。

「七尺の屏風は高くとも、躍り上がればどうして超えられないことがありましょう。一条のうすものの絹は強いといっても、引けばどうして切れないことがありましょう」

とお弾きになった。

荊軻はこれを聞いたことがなかった。始皇帝は聞いたことがあって、御袖を引き切り、七尺の屏風を飛び越えて、銅の柱のかげに逃げ隠れられた。

荊軻は怒ってつるぎを投げかけ申し上げる。その時、御前に番の医師がお仕えしていたが、薬の袋を荊軻の剣に投げあわせた。

剣は、薬の袋にひっかかったまま、直径六尺の銅の柱を、中程まで切ったのだった。

荊軻は他に剣も持たないので、続いては投げない。王は立ち返って、自分のつるぎを召し寄せて、荊軻を八つ裂きになさった。

秦舞陽も討たれた。官軍をつかわして、燕丹を滅ぼされた。天がお許しにならなければ、白虹(刺客)が太陽(天子)を貫いて通ることはない。

秦の始皇帝はのがれて、燕丹はついに滅びた。なので今の頼朝も、そのようであろうと、平家に追従する人々もあったとかいうことだ。

語句

■秦舞陽 秦巫陽。『史記』荊軻伝に登場。 ■絶入 気絶する。 ■片山 辺鄙な山。 ■白虹 はくこう。霧などにより光が拡散され光の輪となる気象現象。兵器・兵乱を象徴する。それが日を貫くのは、兵乱によって天子が殺害されること。しかしそれが「とほらず」なので、始皇帝に対するテロが不成功に終わることを暗示している。 ■咸陽宮 陝西省西安に始皇帝が築いたという宮殿。 ■指図 地図。 ■節会 宮中の公式行事としての宴会。 ■長生殿 唐の宮殿の寝殿。 ■不老門 漢の洛陽の宮門。 ■築地 塀。 ■冥土の使い 暗殺者。 ■越路 北国。 ■飛行自在 自由に飛ぶこと。 ■阿房殿 始皇帝が建てた宮殿。 ■大床 寝殿造の広廂。 ■はたほこ 先端に旗をつけた鉾。 ■みがきけり 飾り立ててあった。 ■おびたたしき 壮大であること。 ■刑人 刑罰を受けた人。 ■迷惑す 迷いと惑う。 ■花陽夫人 出典不明。 ■叡聞にそなへんと 天子のお耳に入れようと。 ■謀臣 謀略をめぐらす臣下。 ■七尺の屏風… 「琴声ニ曰ク、羅縠(らこく)単衣裂キテ絶ツベシ、八尺ノ屏風超エテ超ユベシ」(史記・荊軻伝注)。 ■羅縠 らこく。うすものの絹布。 ■薬の袋を… 医師が薬袋を投げたのは剣を叩き落とすためだが、『史記』荊軻列伝とは展開が異なる。 ■色代 平家に対する追従。

……

『史記』刺客列伝や、『十八史略』に書かれて有名な、刺客・荊軻の話でした。

馬に角がはえて烏の頭が白くなったとか、亀の甲羅の上を歩いて川をわたったとか、始皇帝が命乞いをして寵姫に琴を弾かせたとか、およそ事実とは考えられない、おとぎ話のような部分も多いですが、

『史記』や『漢書』といった中国の歴史書は、平安時代の貴族たちにとって欠かせない教養でした。

今回のようなエピソードは、歴史上の事実かどうかという議論はさておき、平安時代、鎌倉時代の教養人にとって広く共有された知識だったのでしょう(ただし『十八史略』は14世紀前半の成立で『平家物語』がつくられた時代にはまだない)。

朗読・解説:左大臣光永