平家物語 七十五 文覚荒行(もんがくのあらぎやう)
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平家物語巻第五より「文覚荒行(もんがくのあらぎょう)」。源頼朝が謀叛をおこした背景に、高雄の文覚上人のすすめがあった。
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前回「咸陽宮(かんようきゅう)」からのつづきです。
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あらすじ
頼朝は平治の乱に父義朝が加担したことにより伊豆の蛭が小島に流され、二十年の月日を送っていた。
この頼朝が平家討伐に乗り出したのは、高雄の文覚上人の薦めによる。
この文覚は、元は遠藤盛遠という武士だったが、十九歳で出家し、修行に出た。
修行は過酷なもので、藪の中で裸になって横たわり、虫に喰われるまま八日を過ごしたり、 十二月の雪の降っている時に滝壺に首まで漬かるなどの苦行を続けた。
滝に打たれる修行五日目にして、遂に文覚は息絶えてしまう。その時天から童子が 降りてきて、文覚を助ける。
息を吹き返した文覚に、童子は「不動明王の使い」と名乗る。
文覚はいよいよ頼もしく思い、修行に精を出し、全国の霊場をまわり、「刃の験者」と呼ばれるに至った。
原文
抑(そもそも)かの頼朝(よりとも)と申すは、去(さんぬ)る平治(へいぢ)元年十二月、ちち左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が謀反(むほん)によツて、年十四歳(じふしさい)と申しし永暦(えいりゃく)元年三月廿日、伊豆国蛭島(いづのくにひるがしま)へながされて、廿余年の春秋(しゆんしう)をおくりむかふ。年ごろもあればこそありけめ、今年(ことし)いかなる心にて謀反をばおこされけるぞといふに、高雄(たかを)の文覚上人(もんがくしやうにん)の申しすすめられたりけるとかや。
彼(かの)文覚と申すは、もとは渡辺(わたなべ)の遠藤左近将監茂遠(えんどうさこんのしやうげんもちとほ)が子、遠藤武者盛遠(えんどうむしやもりとお)とて、上西門院(しやうせいもんゐん)の衆(しゆ)なり。十九の歳(とし)、道心おこし出家して、修行(しゆぎやう)にいでんとしけるが、「修行といふはいかほどの大事やらん、ためいて見ん」とて、六月の日の草もゆるがずてツたるに、片山(かたやま)のやぶのなかにはいり、あふのけにふし、虻(あぶ)ぞ蚊(か)ぞ蜂蟻(はちあり)なンどいふ毒虫(どくちゆう)どもが身にひしととりついて、さしくひなンどしけれども、ちツとも身をもはたらかさず、七日(しちにち)まではおきあがらず、八日(やうか)といふにおきあがツて、「修行といふはこれ程の大事か」と人に問へば、「それ程ならんには、いかでか命もいくべき」といふあひだ、「さてはあんべいござんなれ」とて、修行にぞいでにける。
熊野(くまの)へ参り那智(なち)ごもりせんとしけるが、行(ぎやう)の心みに、きこゆる滝にしばらくうたれてみんとて、滝もとへぞまいりける。比(ころ)は十二月十日あまりの事なれば、雪ふりつもりつららゐて、谷の小河(をがは)も音もせず。峰(みね)の嵐ふきこほり滝の白糸垂(しらいとたるみ)氷となり、みな白妙(しろたへ)におしなべて、四方(よも)の梢(こずゑ)も見えわかず。しかるに文覚、滝つぼにおりひたり、頸(くび)きはつかツて慈救(じく)の呪(しゆ)をみてけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりければこらへずして、文覚うきあがりにけり。数千丈(すせんぢやう)みなぎりおつる滝なれば、なじかはたまるべき。ざツとおしおとされて、かたなの刃(は)のごとくに、さしもきびしき岩かどのなかを、うきぬしづみぬ、五六町(ちやう)こそながれたれ。時にうつくしげなる童子一人(どうじいちにん)来(きた)ツて、文覚(もんがく)が左右(さう)の手をとツてひきあげ給ふ。人、奇特(きどく)の思(おもひ)をなし、火をたきあぶりなンどしければ、定業(ぢやうごふ)ならぬ命ではあり、ほどなくいきいでにけり。文覚すこし人心地(ひとここち)いできて、大(だい)のまなこを見いからかし、「われ此滝(このたき)に三七日(さんしちにち)うたれて、慈救(じく)の三洛叉(さんらくしや)をみてうど思ふ大願(だいぐわん)あり。今日(けふ)はわづかに五日(ごにち)になる。七日(しちにち)だにも過ぎざるに、なに者がここへはとツてきたるぞ」といひければ、見る人身の毛よだツてものいはず。又滝つぼにかへりたツてうたれけり。
第二日(だいににち)といふに、八人の童子来(きた)ツて、ひきあげんとし給へども、さんざんにつかみあうてあがらず。三日といふに、文覚つひにはかなくなりにけり。滝つぼをけがさじとや、みづら結うたる天童(てんどう)二人、滝のうへよりおりくだり、文覚が頂上より、手足のつまさき、たなうらにいたるまで、よにあたたかにかうばしき御手(おんて)をもツて、なでくだし給ふとおぼえければ、夢の心地(ここち)していきいでぬ。「抑(そもそも)いかなる人にてましませば、かうはあはれみ給ふらん」と問ひ奉る。「われはこれ大聖不動明王(だいしやうふどうみやうわう)の御使(おんつかひ)に、こんがら、せいたかといふ二童子なり。『文覚無上(むじやう)の願(ぐわん)をおこして、勇猛(ゆみやう)の行(ぎやう)をくはたつ。ゆいて力をあはすべし』と、明王の勅(ちよく)によツて来(きた)れるなり」とこたへ給ふ。
文覚声をいからして、「さて、明王はいづくにましますぞ」。「都率天(とそつてん)に」とこたへて、雲井(くもゐ)はるかにあがり給ひぬ。たなごごろをあはせてこれを拝し奉る。さればわが行(ぎやう)をば、大聖不動明王(だいしようふどうみやうわう)までも、いろしめされたるにこそとたのもしうおぼえて、猶(なほ)滝つぼにかへりたツてうたれけり。まことにめでたき瑞相(ずいさう)どもありければ、吹きくる風も身にしまず、落ちくる水も湯のごとし。かくて三七日の大願(だいぐわん)つひにとげにければ、那智(なち)に千日こもり、大峰(おほみね)三度、葛城(かづらき)二度、高野(かうや)、粉河(こかは)、金峰山(きんぶぜん)、白山(はくさん)、立山(たてやま)、富士(ふじ)の嵩(だけ)、伊豆(いづ)、箱根(はこね)、信濃戸隠(しなののとがくし)、出羽羽黒(ではのはぐろ)、すべて日本国(にっぽんこく)のこる所なく、おこなひまはツて、さすが尚(なほ)ふる里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、凡(およ)そとぶ鳥も祈りおとす程のやいばの験者(げんじや)とぞきこえし。
現代語訳
そもそもあの頼朝は、去る平治元年十二月、父左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の謀叛によって、年十四歳ともうした永暦元年(1160年)三月二十日、伊豆国(いずのくに)蛭島(ひるがしま)に流されて、二十余年の春秋を送り迎えていた。
長年にわたって機会はあったろうに、今年どんな心で謀叛を起こされたのかというと、高雄の文覚上人が申しすすめられたとかいうことだ。
その文覚と申すのは、もとは渡辺の遠藤左近将監(えんどうさこんのしょうげん)茂遠(もちとお)の子、遠藤武者盛遠(えんどうむしゃ もりとお)といって、上西門院に仕える者であった。
十九の歳、道心おこして出家して、修行に出ようとしたが、「修行というのはどれほどの大事だろう、ためしてみよう」といって、六月の日の草もゆるがず日が照る中を、辺鄙な山のやぶの中に入り、仰向けに臥して、虻やら蚊やら蜂、蟻などいう毒虫どもが身体にひしととりついて、刺したりかじったりしたが、少しも身体を動かさず、七日までは起き上がらず、八日という日におきあがって、「修行というのはこれ程の大事か」と人にきくと、「そこまでやったら、どうして生きていられよう」と言うので、「さてはたやすいことであろう」といって、修行に出たのだった。
熊野へ参り那智ごもりしようとしたが、行の試みとして、噂にきく那智の滝にしばらくうたれてみようといって、滝の下へ参った。
頃は十二月十日あまりの事であるので、雪ふりつもり氷が張って、谷の小川も音もしない。嶺の嵐は吹き凍り、滝の白糸は氷柱となり、みな一様に真っ白になって、四方の木々の梢も見分けられない。
しかし文覚は滝つぼにおりてつかり、首際までつかって慈救の呪(不動明王の陀羅尼)を三万篇唱えようとしたが、ニ三日は唱えていたが、四五日にもなると耐えられずに文覚は浮き上がってしまった。
数千条みなぎり落ちる滝であるので、どうして無事でいられよう。ざっとおしおとされて、刀の刃のように、たいそうゴツゴツした岩かどの中を、浮いたり沈んだりして、五六町も流れた。
時にかわいらしい童子が一人来て、文覚の左右の手をとって引き上げなさる。人々は不思議に思い、火をたきあぶりなどすると、前世からの定めとして今死ぬことになっていない命ではあり、すぐに生き返った。
文覚はすこし意識が出てきて、大きな目を見いからし、「わしはこの滝に二十一日間うたれて、慈救の呪を三十万遍唱えようと思う大願がある。今日はわずかに五日になる。七日さえも過ぎないのに、なに者がここへ取ってきたのだ」
と言ったところ、見る人は身の毛よだって物も言わない。また滝つぼに引き返してうたれた。
第ニ日という日に、八人の童子が来て、引き上げようとなさったが、さんざんにつかみあって上がらない。三日という日に、文覚はついに死んでしまった。
滝つぼをけがすまいとしたのだろうか、鬢づらを結った天童二人が、滝の上からくだり、文覚の頭の上から、手足のつまさき、手のひらに至るまで、たいそうあたたかに香ばしい御手で、なでくだしなさると思ったら、夢の心地して生き返った。
「そもそもいかなる人でいらっしゃるので、このように哀れんでくださるのですか」
と質問申し上げる。
「われは大聖不動明王の御使に、こんがら、せいたかというニ童子である。『文覚がこの上ない願をおこして、勇ましく意思の固い行を計画している。行って力を合わせよ」と、明王の勅命によって来たのである」
とお答えになった。
文覚は声をはりあげて、
「では、明王はどこにいらっしゃるのか」
「都率天に」
と答えて、雲の上はるかにに上がられた。
手のひらを合わせてこれを拝み申し上げる。ではわが行を、大聖不動明王までも、ご存知であったのだと、たのもしく思って、さらに滝つぼに戻って水に打たれた。
まことにめでたいしるしがいくつもあったので、吹いてくる風も身にしまず、落ちてくる水も湯のようであった。
こうして二十一日間の大願をついに達成したので、那智に千日こもり、大峰三度、葛城ニ度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士の岳、伊豆、箱根、信濃の戸隠、出羽の羽黒、すべて日本国のこる所なく、修行して歩き、それでもやはりふる里が恋しかったのだろうか、都へ登ったところ、およそ飛ぶ鳥も祈りおとすほどの効験あらたかな修験者と評判になった。
語句
■平治元年十二月 1160年。平治の乱。 ■永暦元年 1160年。 ■蛭島 静岡県田方郡韮山町。 ■高雄 京都市右京区梅ケ畑の高雄山神護寺。 ■渡辺 摂津国渡辺(大阪市内)。 ■上西門院 鳥羽天皇第二皇女統子。 ■衆 蔵人所に所属し雑務を行う者。 ■道心おこし… 『源平盛衰記』には文覚(遠藤盛遠)が出家するいきさつが記されている。渡辺渡(わたなべのわたる)の妻、袈裟御前(けさごぜん)に懸想して、思いを打ち明けると、袈裟御前は夫を殺してから一緒になりましょうというので、しめしあわせて暗闇の中首を落とすと、それは袈裟御前の首だった。袈裟御前は命とひきかえに貞操を守った。それに心打たれて遠藤盛遠は出家した、というもの。ただし創作と思われる。 ■片山 辺鄙な山。 ■あんべい 安平。たやすい。 ■ござんなれ 「にこそあるなれ」の略。 ■つららゐて 氷が張って。 ■垂水 氷柱。 ■慈救の呪 じくのしゅ。不動明王の陀羅尼。大呪・中呪・小呪があり、ここでは中呪。 ■みてけるが 所定の回数を満たそうとして唱えた。所定の回数は三十万遍。 ■危特の思をなし 不思議に思って。 ■定業ならぬ命 前世からの定めによって今死ぬことに決まっている命。 ■三洛叉 さんらくしゃ。三十万遍。洛叉は十万篇。 ■八人の童子 八大童子。不動明王の使者。慧光 (えこう) 、慧喜(えき)、阿耨達多 (あのくだった) 、指徳 (しとく) 、烏倶婆迦 (うぐばか) 、清浄比丘(しょうじょうびく) 、矜羯羅 (こんがら) 、制タ迦 (せいたか) 。 ■みづら びんづらに同じ。男児の髪型。両耳のあたりで左右の髪を輪のようにしてたばねる。 ■たなうら 手の平。 ■大聖不動明王 忿怒の形相をして悪魔を調伏する、五大尊の一。 ■こんがら・せいたか 矜羯羅、制タ迦。不動明王の使者。 ■勇猛 意思が固く勇ましい。 ■都率天 =都士多天。弥勒菩薩のいる天。 ■瑞相 めでたいしるし。吉兆。よいお示し。 ■大峰 以下修験道の霊地。大峰山は役行者開山という修験道の根本道場。「大峰行ふ聖こそ、あはれに尊きものはなし」(梁塵秘抄)。「もろともにあはれと思へ山桜花より他に知る人もなし」。 ■葛城山 奈良県にあり金剛山とも。役行者ゆかりの霊山。葛城古道が今も残る。 ■高野 高野山。弘法大師空海開基の金剛峯寺がある。 ■粉河 こかは。粉河寺。和歌山県紀の川市粉河。平安時代に朝廷や貴族の保護を受けて栄えた。 ■金峰山 吉野山の最高峰。役行者ゆかりの霊場。 ■白山 岐阜と石川の県境。 ■立山 富山県の山。 ■伊豆 静岡県田方郡伊豆山権現。 ■箱根 神奈川県足柄北郡箱根権現。 ■信濃戸隠 長野県の戸隠山。 ■出羽羽黒 山形県羽黒山。 ■やいばの 効験すぐれた。
……
『源平盛衰記』などには文覚の出家にいたるいきさつが記されます。
上西門院統子(鳥羽天皇第ニ皇女)に仕えた北面の武士、遠藤盛遠は、街で偶然みかけた袈裟御前に一目惚れします。袈裟御前が同僚の源渡(みなもとの わたる)の妻と知っても諦めず、袈裟御前の母親のところまで押しかけて、詰め寄ります。
「袈裟を私にください。もしダメならあなたと刺し違えるつもりだ」
遠藤盛遠の強引なやり方に、袈裟御前は困り果てます。
「そこまでおっしゃるなら夫を殺して、私をもらってください。今夜、夫の髪を洗って、酒を飲ませてから寝かせますから、濡れた髪の毛をたよりに、夫の首をはねてください」
よしきたと盛遠はその夜、渡の屋敷に忍び込み、暗闇の中、濡れた髪の毛をたよりに渡の首をドスンと切り落とします。
袖で首を包んで、外へ駆け出し、
やった!これで袈裟といっしょになれる!浮かれる盛遠。しかし、月明かりに照らされた首を見てみると、なんとそれは袈裟御前の首だった…
袈裟御前はわが身を犠牲にして、妻としての貞淑を守ったのである…
盛遠はおのれの非を恥じて直ちに出家し、文覚と名乗った…という話です。
ゆかりの場所
恋塚寺
文覚が袈裟御前の菩提を弔うために建立したという浄土宗の寺院。
本堂には木造阿弥陀如来像のほか、遠藤盛遠、袈裟御前、源渡の木造を安置する。境内にある宝篋印塔は袈裟御前の墓と伝えられる。
京都府京都市伏見区下鳥羽城ノ越町132
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