平家物語 七十八 福原院宣(ふくはらいんぜん)

平家物語巻第五より「福原院宣(ふくはらいんぜん)」。伊豆に流された文覚上人は、頼朝に打倒平家の決意を迫ります。困惑する頼朝に文覚がしめしたものは……

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前回「文覚被流(もんがくながされ)」からのつづきです。
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あらすじ

頼朝のいる伊豆の蛭が小島のそばに、文覚も流されていた。ある時文覚は、平家一の識者、重盛はすでに無く、今が平家を打倒する時と頼朝にうながす。

ためらう頼朝に文覚は父義朝のドクロをみせる。平治の乱の落ち武者狩りで命を落としたのを、以来自分が持ち歩いて供養していたと。

頼朝は涙を流すが「幽閉されている身でどうやって謀反など起こせようか」と、煮え切らない。

そこで文覚はひそかに福原へ上り、藤原光能を介して法皇から平家追討の宣旨を賜り、伊豆に帰って頼朝に手渡す。

頼朝は恐縮し、三度拝して院宣を開いた。そこには平家の横暴と、はやくこれを打倒すべきことが記されていた。

頼朝はこの院宣を錦の袋に入れて、石橋山の合戦の時も、首にかけていたという。

原文

近藤四郎国高(こんどうしらうくにたか)といふ者に預けられて、伊豆国奈古屋(いづのくになごや)がおくにぞ住みける。さる程に兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)へ常は参ツて、昔今(むかしいま)の物語ども申してなぐさむ程に、或時文覚(あるときもんがく)申しけるは、「平家には小松のおほいとのこそ心も剛(かう)に、はかり事(こと)もすぐれておはせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞの八月薨(こう)ぜられぬ。いまは源平のなかに、わとの程将軍の相(さう)もツたる人はなし。

はやはや謀反(むほん)おこして、日本国(につぽんこく)したがへ給へ」。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、「思ひもよらぬ事宣(のたま)ふ聖御坊(ひじりのごぼう)かな。われは故池(こいけ)の尼御前(あまごぜん)に、かひなき命をたすけられ奉(たてま)ツて候へば、その後世(ごせ)をとぶらはんために、毎日に法花経(ほけきやう)一部転読(てんどく)する外(ほか)は他事なし」とこそ宣ひけれ。文覚かさねて申しけるは、「天のあたふるをとらざればかへツて其(その)とがをうく。時いたツておこなはざればかへツて其殃(わざはひ)をうくといふ本文(ほんもん)あり。かう申せば御辺(ごへん)の心をみんとて申すなンど思ひ給ふか。

御辺に心ざしのふかい色を見給へかし」とて、ふところより白いぬのにつつんだる髑髏(どくろ)を一つとりいだす。兵衛佐、「あれはいかに」と宣へば、「これこそわとのの父故左馬頭殿(こさまのかうのとの)のかうべよ。平治(へいぢ)の後獄舎(のちごくしや)のまへなる苔(こけ)のしたにうづもれて、後世(ごせ)とぶらふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あツて、獄守(ごくもり)にこうてこの十余年頸(くび)にかけ、山々寺々をがみまはり、とぶらひ奉れば、いまは一劫(いちごふ)もたすかり給ひぬらん。されば文覚は故頭殿(こかうのとの)の御(おん)ためにも奉公の者でこそ候へ」と申しければ、兵衛佐殿一定(いちじやう)とはおぼえねども、父のかうべときくなつかしさに、まづ涙をぞながされける。其後(そののち)はうちとけて物語し給ふ。「抑頼朝勅勘(そもそもよりともちよくかん)をゆりずしては、争(いか)でか謀反をばおこすべき」と宣へば、「それやすい事、やがてのぼツて申しゆるいて奉らん」。「さもさうず、御房(ごぼう)も勅勘(ちよくかん)の身で人を申しゆるさうど宣ふあてがひやうこそおほきにまことしからね」。「わが身の勅勘をゆりうど申さばこそひが事(こと)ならめ、わとのの事申さうはなにか苦しかるべき。いまの都福原の新都へのぼらうに三日(みつか)に過ぐまじ。院宣(ゐんぜん)うかがはうに一日(いちにち)が逗留(とうりう)ぞあらんずる。都合七日八日(つがふなぬかやうか)には過ぐべからず」とてつきいでぬ。奈古屋(なごや)にかへツて弟子どもには、伊豆(いづ)の御山(おやま)に人にしのんで七日参籠(しちにちさんろう)の心ざしありとていでにけり。げにも三日といふに福原(ふくはら)の新都へのぼりつく。前右兵衛督光能卿(さきのうひやうゑのかみみつよしのきやう)のもとに、いささかゆかりありければ、それにゆいて、「伊豆国流人前兵衛佐頼朝(いづのくにのるにんさきのひやうゑのすけよりとも)こそ、勅勘をゆるされて院宣をだにも給はらば、八ケ国(はちかこく)の家人(けにん)ども催(もよほ)しあつめて、平家をほろぼし、天下(てんか)をしづめんと申し候へ」。兵衛督(ひやうゑのかみ)、「いさとよ、わが身も当時は三官共(とも)にとどめられて、心苦しいをりふしなり。法皇もおしこめられてわたらせ給へば、いかがあらんずらん。さりながらもうかがうてこそ見め」とて、此由ひそかに奏(そう)せられければ、法皇やがて院宣(ゐんぜん)をこそくだされけれ。聖(ひじり)これをくびにかけ、又三日といふに伊豆国(いづのくに)へくだりつく。

現代語訳

(文覚は)近藤四郎国高という者に預けられて、伊豆国奈古谷(なごや)の奥に住んだ。

そうしている内に、兵衛佐殿のもとへ日常的に参って、昔今の多くの物語を申してなぐさめているうちに、ある時文覚が申したことは、

「平家には小松の大臣(重盛)こそ心も勇敢で、智謀にもすぐれていらしたが、平家の運命が末になったのでしょうか、去年の八月、亡くなりました。いまは源平のなかに、あなたほど将軍の相をもった人はない。はやくはやく謀叛をおこして、日本国を従えください」

兵衛佐、

「思いもよらぬ事をおっしゃる御坊さまであるな。私は故池の尼御前に、望みのない命をたすけていただきましたので、その後世を弔うために、毎日法華経一部の転読するほか、考えることはない」

とおっしゃった。

文覚がかさねて申したことは、

「天の与えるをとらなければかえってその咎を受ける。時いたって行わざればかえってその災をうけるという古典の言葉があります。こう申せばあなたの心をみようとして申すなど思われるか。あなたに心ざしの深いしるしを御覧ください」

といって、ふところから白いぬのにつつんだ髑髏を一つ取り出す。兵衛佐、「それは何だ」とおっしゃると、

「これぞ、あなたの父故左馬頭殿(さまのかうのとの)の首ですぞ。平治の乱の後、獄舎の前にある苔の下に埋もれて、後世弔う人もなかったのを、文覚存ずるところがあって、獄守にたのんで首をもらって、この十年首にかけ、山々寺々をおがみまわり、弔い申し上げたので、いまは長い間の苦しみからも助かりなさったでしょう。であれば文覚は故頭殿(ここうのとの)の御ためにも奉公の者でございます」

と申したところ、兵衛佐は、それが確かな話とは思わないまでも、父の首ときくなつかしさに、まず涙をお流しになった。

その後はうちとけて物語なさる。

「そもそも頼朝が勅勘をゆるされずに、どうやって謀叛をおこせばよいのか」

とおっしゃると、

「それはたやすい事。すぐに都にのぼって(院に)申し上げて許されて、あなたに許状を差し上げましょう」

「そんなことはありえない。御坊も勅勘の身で、人を申しゆるそうとおっしゃる取り計らい方は、まったく本当らしくない」

「わが身の勅勘を許されようと申せば不都合なことでしょうが、あなたの事を申すことはなんの問題がありましょう。いまの都福原の新都へのぼるのに三日に過ぎないでしょう。院宣をうかがうのに一日の逗留が必要です。都合七日八日には過ぎないでしょう」

といって、つっと出ていった。

奈古谷にかえって弟子たちには、伊豆の御山(伊豆山権現)に人にしのんで七日参籠の心ざしありといって出ていった。

実際に三日という日に福原の新都にのぼりつく。前右兵衛督(さきのうひょうえのかみ)光能卿(みつよしのきょう)のもとに、少し縁があったので、それに行って、

「伊豆国の流人前兵衛佐頼朝は、勅勘をゆるされて院宣をさえお受けすれば、関東八カ国の家人どもを集めて、平家をほろぼし、天下を鎮めるでしょうと申し上げください」。

兵衛督(ひょうえのかみ)は、

「さあ、わが身も今は三つの官職をすべて停止され、心苦しい時である。法皇もおしこめられていらっしゃるので、どうなるであろう。そうはいっても、うかがって見よう」

といって、この事をひそかに奏上んなさったので、法皇はすぐに院宣を下された。

文覚はこれを首にかけ、また三日という日に伊豆国へくだりつく。

語句

■近藤四郎国高 人物名は諸本によって異同がある。 ■奈古屋 静岡県田方郡韮山の東北。「北条蛭ガ島ノ傍ニ那古耶ガ崎と伝処ニ、那古耶寺トテ観音ノ霊地御シマス。文学彼ノ所ヘ行テ、諸人ヲ勧テ草堂ヲ造テ、毘沙門ノ象ヲ安置シテ、平家ヲ呪詛シケリ」(延慶本平家物語)。 ■こぞの八月 治承三年(1179)八月一日。 ■故池の尼御前に… 清盛の義母、池の禅尼が平治の乱で囚われた頼朝をたすけたいきさつは『愚管抄』などに記される。 ■かひなき命 望みのない命。父の謀叛に連座して、本来処刑されるはずだったことをいう。 ■転読 経を通読せず、ところどころ読んで形式的に通読したことにすること。 ■他事なし 他に考えることはない。 ■天のあたふるを… 「蓋シ聞ク、天ノ与フルヲ取ラザレバ反ツテ其咎ヲ受ク、時至ツテ行ハザレバ反ツテ其殃(わざわい)ヲ受ク」(史記・淮陰侯列伝)。 ■本文 古典の言葉。金言。 ■色 しるし・証拠。 ■故左馬頭殿 源義朝。平治の乱で藤原信頼のクーデターに与して、滅んだ。 ■一劫 きわめて長い時間。 ■一定 たしかにそのとおりだ。 ■ゆりずして 許されずに。「ゆり」は「ゆる」の未然形。 ■さもさうず 「さも候はず」の略。そんなことはありえない。 ■あてがいやう 取り計らい方。 ■ゆりうど 「ゆりんと」の音便。許されようと。 ■ひが事 不都合なこと。ありえないこと。 ■つきいでぬ つっと出ていった。 ■伊豆の御山 静岡県熱海市の伊豆山権現。 ■前右兵衛督光能卿 後白河院側近。治承元年皇太后宮権大夫。同三年十月右兵衛督兼任、参議。 ■八ケ国 関東の八ケ国。 ■いさとよ さあ。 ■三官 三つの官。参議・皇太后宮権大夫・右兵衛督。 

原文

兵衛佐(ひやうゑのすけ)、あつぱれこの聖御房(ひじりのごぼう)は、なまじひによしなき事申しいだして、頼朝(よりとも)又いかなるうき目にかあはんずらんと、思はじ事なう案じつづけておはしけるところに、八日(やうか)といふ午刻(うまのこく)ばかりくだりついて、「すは院宣よ」とて奉る。兵衛佐、院宣ときくかたじけなさに、手水(てうず)うがひをして、あたらしき烏帽子(えぼし)、浄衣(じやうえ)着て、院宣を三度拝(はい)して、ひらかれたり。

頃年(しきりのとし)より以来(このかた)、平氏王皇蔑如(わうくわうべつじよ)して、政道(せいたう)にはばかる事なし。仏法を破滅して朝威(てうゐ)をほろぼさんとす。夫我朝(それわがてう)は神国なり。宗庿(そうべう)あひならんで神徳これあらたなり。故(かるがゆゑ)に朝廷開基(てうていかいき)の後(のち)、数千余歳(すせんよさい)のあひだ帝猷(ていいう)をかたぶけ、国家をあやぶめんとする者、みなもツて敗北(はいぼく)せずといふ事なし。然(しか)れば則(すなは)ち且(かつ)は神道(しんたう)の冥助(みやうじよ)にまかせ、且(かつ)は勅宣(ちよくせん)の旨趣(しいしゆ)をまもツて、はやく平氏の一類を誅(ちゆう)して、朝家(てうか)の怨敵(をんてき)をしりぞけよ。譜代弓箭(ふだいきゆうせん)の兵略(へいりやく)を継(つ)ぎ、累祖(るいそ)奉公の忠勤(ちゆうきん)を抽(ぬきん)でて、身をたて家をおこすべし。ていれば院宣かくのごとし。仍(よつ)て執達如件(しつたつくだんのごとし)。

治承四年七月十四日 前右兵衛督光能(さきのうひやうゑのかみみつよし)が承(うけたまは)り謹上前右兵衛佐殿(きんじやうさきのうひやうゑのすけどの)へ         

とぞ書かれたる。此院宣をば、錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれて、石橋山(いしばしやま)の合戦の時も、兵衛佐殿頸(ひやうゑのすけどのくび)にかけられたりけるとかや。

現代語訳

兵衛佐は、ああこのお坊様は、なまじっか悪い事を申し出して、頼朝はまたどんな酷い目にあうだろうと、さまざまに思いめぐらせていらしたところに、八日という日の正午ごろくだりついて、

「さあ院宣ぞ」

といって差し上げる。

兵衛佐は院宣ときく畏れ多さに、手水うがいをして、あたらしい烏帽子、浄衣を着て、院宣を三度拝して、お開きになった。

ここ数年来、平氏は皇室をないがしろにして、政道にはばかる事がない。仏法を破壊して朝廷の権威をほろぼそうとしている。

いったいわが国は神国である。伊勢大神宮、石清水八幡宮が相並んで、神の徳があらたかである。

それゆえに、朝廷開基の後、数千余年の間、帝王の道をかたむけ、国家を危うくしようとする者は、みな敗北しないという事がない。

なので一方では神のご助力にまかせ、一方では勅宣(朝廷の命令)の趣旨を守って、はやく平氏の一類を誅して、朝家の敵をしりぞけよ。代々の武士の家の兵略を継ぎ、先祖累代の忠勤をはげんで、身をたすけ家をおこすがよい。

それゆえ、院宣は以上のような次第である。よってこれを取り次ぐことは右のごとくである。

治承四年七月十四日 前右兵衛督光能(さきのうひやうゑのかみみつよし)が承(うけたまは)り謹上前右兵衛佐殿(きんじやうさきのうひやうゑのすけどの)へ         

と書いてある。これ院宣を、錦の袋にいれて、石橋山の合戦の時も、兵衛佐殿は首にかけられていたとかいうことだ。

語句

■思はじ事なう 思わないことはなく。あらゆることを考えて。 ■頃年 しきりのとし。ここ数年。 ■王皇 皇室。 ■蔑如して ないがしろにして。 ■宗庿 伊勢神宮と石清水八幡宮。 ■帝猷 ていゆう。帝王の道。 ■且は 一方では。 ■神道の冥助 神の御助力。 ■旨趣 しいしゅ。趣旨。 ■譜代弓箭の 代々の武士の家(源氏)の。 ■類祖 代々の先祖。 ■抽でて 励んで。 ■ていれば 「といへれば」の略。しかれば。それゆえ。 ■執達 取り次ぐこと。 ■石橋山の合戦 治承四年(1180)8月23日。源頼朝軍が大庭景親、伊東祐親軍と戦った戦。

……

文覚を介して、伊豆の源頼朝に、後白河法皇より、平家を打倒せよという院宣が下されるまでのいきさつでした。

文覚が義朝のドクロをみせて頼朝をたきつけたとか、ちょっと作り話っぽいところもありますが…作中でも頼朝が「一定とはおぼえねども」ほんとうにそうだとは思えないがとまで言ってるますからね…

しかし、頼朝が打倒平家の旗揚げをするに当たって、文覚が大きく関係していたのは確かです。そのいきさつは、京都高雄神護寺の縁起にくわしく記されています。

朗読・解説:左大臣光永

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