平家物語 七十九 富士川(ふじがは)

平家物語巻第五より「富士川(ふじがわ)」。源頼朝の挙兵にともない、平維盛率いる討伐軍が東国へ向かった。源氏方はこれを迎え討とうと頼朝自ら軍勢を率いて東海道を西へ向かい、源平両方は、駿河国浮島が原で向かい合う。

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前回「福原院宣(ふくはらいんぜん)」からのつづきです。
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あらすじ

福原では頼朝が軍勢を集める前に討伐しようということになり、大将軍維盛、副将軍忠教の三万余騎が東国へ出発する。

忠教はある皇族の娘である女房の元に長年通っていた。ある時忠教がその女房の局にいた時、不意に身分の高い女房が訪ねてきた。

忠教は軒端に追い出される形になった。客人は長話でなかなか帰らない。イライラした忠教は軒端で扇子を荒くバタバタさせた。

するとこの忠教の想い人である女房は、

野もせにすだく虫のねよ(野原いっぱいに虫の声がしてうるさい)

と口ずさんだので、忠教は扇ぐのをやめた。

後日、その女房が「なぜあの時さっさと扇を使いやめたのか」と尋ねると、忠教は女房が引用した歌を踏まえて、「かしがましなんど聞こえ候しかば…」(うるさいと思ったので)と答えた。

忠教の出陣にあたって、この女房から小袖一重ねに添えて歌が贈られた。

昔は朝敵を滅ぼすため遠国へ向かう将軍は、天皇から指揮権を委託されたしるしとして「節刀」を賜った。

今回の出征に当たってはかつて清盛の祖父・正盛が源義親を追討に向かった例に倣い、駅道の人夫や馬を徴収する権限の証である【鈴】のみを賜った。

…一部省略…

十月十六日、一行は駿河国清美が関につく。途中人員を徴収し七万余騎に膨れ上がっていた。

大将軍維盛は「足柄山を越えて坂東で戦をしよう」と主張するが、清盛より戦のことを任せられていた上総守忠清が「富士川の前で味方が到着するのを待ちましょう」と言うので、そうすることにした。

一方頼朝は駿河国黄瀬河の浮島が原に軍勢二十万騎を終結させていた。

上総守忠清はたまたま源氏の使いの者を捕らえてその軍勢の様子を知る。

そして大将軍維盛の決断が遅れたために 平家方の集結が遅くなったことを歯がゆく思った。

また、大将軍維盛は東国の案内者として連れてきた斉藤別当実盛に 「お前ほど強弓を引く者は東国にどれほどいるのか」と尋ねる。

斉藤別当実盛は、「自分程度の者はいくらもいます」と笑い、親が討たれればその屍骸の上を乗り越え乗り越え戦う坂東武者の凄まじさを語る。

平家の武者たちはこれを聞いて震え上がった。

決戦前夜、平家の陣から源氏の陣を見渡すと百姓らが戦を避けるために避難していた炊事の火が見えた。

平家軍はこれを勝手に源氏の松明の火と思い込み大騒ぎしていた。

夜半、富士の沼にいた水鳥たちが、何に驚いてがバッと一度に飛び上がった。

平家軍は源氏の襲撃と勘違いし、大慌てで陣を蜂起し逃げてしまった。

翌二十四日、源氏軍は富士川に押し寄せる。

原文

さる程に福原(ふくはら)には、勢(せい)のつかぬ先に、いそぎ打手(うつて)をくだすべしと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あッて、大将軍(たいしやうぐん)には小松権亮少将維盛(こまッごんのすけぜうしやうこれもり)、副将軍には薩摩守忠度(さッまのかみただのり)、都合其勢(そのせい)三万余騎、九月十八日に都をたッて、十九日には旧都(きうと)につき、やがて廿日東国へこそうッたたれけれ。大将軍権亮少将維盛(ごんのすけぜうしやうこれもり)は、生年(しやうねん)廿三、容儀体拝(ようぎたいはい)絵にかくとも筆も及びがたし。重代(ぢゆうだい)の鎧唐皮(よろひからかわ)といふ着背長(きせなが)をば、唐櫃(からひつ)に入れてかかせらる。路(みち)うちには赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、萌黄威(もえぎをどし)の鎧着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に金覆輪(きンぷくりん)の鞍(くら)おいて乗り給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地(こんぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧着て、黒き馬のふとうたくましいに、沃懸地(いッかけぢ)の鞍(くら)おいて乗り給へり。馬、鞍、鎧、甲(かぶと)、弓矢、太刀(たち)、刀(かたな)にいたるまで、てりかかやく程にいでたたれたりしかば、めでたかりし見物(けんぶつ)なり。

薩摩守忠度は、年来(としごろ)ある宮腹(みやばら)のもとへかよはれけるが、或(ある)時(とき)おはしたりけるに、其女房のもとへ、やンごとなき女房客人(まらうと)にきたッてやや久しう物語し給ふ。さよもはるかにふけゆくまでに、客人かへり給はず。忠度軒(のき)ばにしばしやすらひて、扇(あふぎ)をあらくつかはれければ、宮腹(みやばら)の女房、「野もせにすだく虫のねよ」と、優にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて扇をつかひやみてかへられけり。其後(そののち)又おはしたりけるに、宮腹の女房、「さても一日(ひとひ)、なにとて扇をばつかひやみしぞや」と問はれければ、「いさかしかましなンどきこえ候(さうら)ひしかば、さてこそつかひやみ候ひしか」とぞ宣ひける。かの女房のもとより、忠度(ただのり)のもとへ小袖(こそで)を一かさねつかはすとて、千里(ちさと)のなごりのかなしさに、一首の歌をぞおくられける。

あづまぢの草葉をわけん袖(そで)よりもたたぬたもとの露ぞこぼるる

薩摩守返事には、

わかれ路をなにかなげかんこえてゆく関(せき)もむかしの跡(あと)と思へば

「関も昔の跡」とよめる事は。平将軍貞盛(へいしやうぐんさだもり)、将門追討(まさかどついたう)のために、東国へ下向(げかう)せし事を、思ひいでてよみたるけるにや。いとやさしうぞきこえし。

現代語訳

そのうちに福原には、敵の軍勢が到着する前に、急いで討手を下すのがよいと、公卿評定して、大将軍には小松権亮少将(こまつのごんのすけじょうしょう)維盛(これもり)、副将軍には薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、総勢三万余騎、九月十八日に都をたって十九日には旧都につき、すぐに二十日、東国へうったたれた。

大将軍権亮少将維盛は、生年二十三、姿立ち居振る舞いは、絵に画くとも及ばぬほどすばらしい。

平家の嫡男に代々伝わる鎧、唐皮という着背長を、唐櫃にいれてかつがせておられる。道中は赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て、連銭葦毛の馬に黄覆輪の鞍おいてお乗りになっている。

副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧着て、黒い馬の太くたくましいのに、沃懸地(いかけじ…漆塗りに金粉・銀粉をまぜたもの)の鞍おいてお乗りである。

馬、鞍、鎧、甲、弓矢、太刀、刀にいたるまで、照り輝くほどの出で立ちでいらっしゃるので、すばらしい見ものである。

薩摩守忠度は、長年ある皇女腹の女房のもとへ通はれていたが、ある時いらした時、その女房のもとへ、身分の高い女房が客人としてきたってやや久しくお話なさる。

夜もすっかりふけゆくまで、客人はお帰りにならない。忠度は軒ばにしばし休んで、扇をあらくお使いになると、皇女腹の女房が、

「野もせにすだく虫のねよ(野原いっぱいに集まる虫の音のようにうるさいですわよ)」

と、優雅に口ずさみなさったので、薩摩守はすぐに扇を使いやめてお帰りになった。

その後またいらした時に、皇女腹の女房が、「ところで先日は、どうして扇を使いやめたのですか」

とお尋ねになったので、

「さあ、うるさいなど聞こえましたので、だから使いやめましたのですぞ」

とおっしゃった。

その女房のもとから、忠度のもとへ小袖を一かさね遣わすということで、はるか遠く隔たる悲しさに、一首の歌を贈られてきた。

あづまぢの…

(あなたは東国へ旅立ち、草葉をわけてその袖が濡れることでしょう。しかしここに留まっている私の袖のほうこそ涙の露がこぼれて濡れてしまうでしょうよ)

薩摩守の返事には、

わかれ路を…

(この別れ路を、どうして嘆きましょう。私が超えてゆく関はその昔平氏が朝敵討伐のために超えていった、その輝かしい昔の跡と思いますと)

「関も昔の跡」と読んだことは、将軍平貞盛が将門追討のために、東国へ下向した事を、思い出してよんだのだろうか。たいそう優雅に思われた。

語句

■九月十八日 『山槐記』には維盛の福原発は九月二十ニ日、翌日六波羅入、二十九日出発。 ■体拝 身のこなし。 ■重代の鎧 平家の嫡男に代々伝わる鎧。 ■着背長 鎧。 ■唐櫃 六脚の櫃。 ■連銭葦毛 葦毛に銭のような丸い斑点のあるもの。 ■黄覆輪 金覆輪に同じ。鞍の前後の前輪(まえわ)・後輪(しずわ)が金色に縁取りしてあるもの。 ■沃懸地 いツかけぢ。いかけじ。漆塗りに金粉・銀粉をまぜたもの。 ■薩摩守忠度は… 以下の話は『今物語』『十訓抄』『古近著聞集』にも見える。また延慶本や源平盛衰記では「忠度都落」にしるす。 ■宮腹 皇女の腹から生まれたこと。皇女の子。 ■野もせにすだく 「かしかましのもせにすだく虫の音に我だに物をいはでこそ思へ」(新撰朗詠集上・虫)。「野も狭に」は野原いっぱいに。「すだく」は集まる。 ■小袖 袖の小さい平服。 ■千里のなごり はるか遠くに隔たってしまうことの名残。 ■あづまぢの… 「あづまぢの草葉を分けむ人よりもおくるる袖ぞまづは露けき」(拾遺・別 女蔵人三河)。「たたぬ」は「立たぬ(出発しない)」と「裁たぬ(袂)」をかける。 ■貞盛 貞盛は常陸掾(常陸国三等官)で常陸から将門追討に赴いたのでここの記述は事実に反する。京都から赴いたのは藤原忠文。 

原文

昔は朝敵(てうてき)をたひらげに、外土(ぐわいど)へむかふ将軍は、まづ参内(さんだい)して、節刀(せつと)を給はる。宸儀南殿(しんぎなんでん)に出御(しゆつぎよ)し、近衛階下(こんゑかいか)に陣をひき、内弁外弁(ないべんげべん)の公卿(くぎやう)参列して、中儀(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)おこなはる。大将軍(たいしやうぐん)副将軍おのおの礼儀(れいぎ)をただしうして、これを給はる。承平天慶(しようへいてんきやう)の蹤跡(しようぜき)も年久しうなッて、准(なぞら)へがたしとて、今度は讃岐守平(さぬきのかみたひら)の正盛(まさもり)が前対馬守源義親追討(さきのつしまのかみみなもとよしちかついたう)のために、出雲国(いづものこく)へ下向(げかう)せし例として、鈴(すず)ばかり給はッて、皮の袋(ふくろ)にいれて、雑色(ざふしき)が頸(くび)にかけさせてぞくだられける。いにしへ朝敵(てうてき)をほろぼさんとて、都をいづる将軍は、三(み)つの存知(ぞんぢ)あり。節刀(せつと)を給はる日、家を忘れ、家をいづるとて妻子(さいし)を忘れ、戦場にして敵(てき)にたたかふ時身を忘る。されば、今の平氏(へいじ)の大将(たいしやう)、維盛(これもり)、忠度(ただのり)も、定(さだ)めてかやうの事をば存知せられたりけん、あはれなりし事共なり。

同(おなじき)廿二日、新院又安芸国厳島(あきのくにいつくしま)へ御幸(ごかう)なる。去(さんぬ)る三月にも御幸ありき。そのゆゑにやなか一両月(いちりやうげつ)世もめでたくをさまッて、民(たみ)のわづらひもなかりしが、高倉宮(たかくらのみや)の御謀反(ごむほん)によッて、又天下(てんか)乱れて世上(せじやう)もしづかならず。これによッて且(かつ)は天下静謐(せいひつ)のため、且(かつ)は聖代不豫(せいたいふよ)の御祈念(ごきねん)のためとぞきこえし。今度は福原(ふくはら)よりの御幸なれば、斗藪(とそう)のわづらひもなかりけり。手づからみづから御願文(ごぐわんもん)をあそばいて、清書(せいじよ)をば摂政殿(せっしやうどの)せさせおはします。

蓋聞(けだしきく)、法性雲閑(ほつしやうくもしづ)かなり、十四十五の月高(たか)く晴(は)れ、権化智深(ごんげちふか)し、一陰(いん)一陽(やう)の風旁(かたはら)に扇(あふ)ぐ。夫厳島(それいつくしま)の社(やしろ)は、称名(しようみやう)あまねくきこゆるには、効験無双(かうげんぶさう)の砌(みぎり)なり。遙嶺(えうれい)の社壇(しやだん)をめぐる、おのづから大慈(だいじ)の高く峙(そばだ)てるを彰(あらは)し、巨海(こかい)の祠宇(しう)におよぶ、空(そら)に弘誓(ぐぜい)の深広(じんくわう)なる事を表(へう)す。夫以(それおもんみ)れば、初庸昧(しよようまい)の身をもッて、忝(かたじけな)く皇王の位を践(ふ)む。今賢猷(けんいう)を霊境(れいけい)の群(ぐん)に翫(もてあそ)んで、閑坊(かんばう)を射山(しやさん)の居(きよ)にたのしむ。しかるにひそかに一心の清誠(しやうじやう)を抽(ぬきん)で、孤島(こたう)の幽祠(いうし)に詣(まう)で、瑞離(ずいり)の下(もと)に明恩(めいおん)を仰(あふ)ぎ、懇(こん)念(ねん)を凝(こら)して汗(あせ)をながし、宝宮(ほうきゆう)のうちに霊(れい)託(たく)を垂(た)る。そのつげの心に銘(めい)ずるあり。就中(なかんづく)にことに怖畏謹慎(ふいきんしん)の期(ご)をさすに、もはら季夏初秋(きかしよしう)の候(こう)にあたる。病痾忽(へいあたちま)ちに侵(をか)し、猶(なほ)医術の験(しるし)を施す事なし。萍桂頻(へいけいしき)りに転ず。弥神感(いよいよしんかん)の空(むな)しからざることを知んぬ。祈祷(きたう)を求(もと)むといへども霧露散(ぶろさん)じがたし。しかじ心符(しんぷ)の心ざしを抽(ぬきん)でて、かさねて斗藪(とそう)の行(ぎやう)をくはたてんと思ふ。漠々(ばくばく)たる寒嵐(かんらん)の底(そこ)、旅泊(りよはく)に臥(ふ)して夢をやぶり、凄々(せいせい)たる微陽(びやう)のまへ、遠路(ゑんろ)に臨(のぞ)んで、眼(まなこ)をきはむ。遂(つひ)に枌楡(ふんゆ)の砌(みぎん)について、敬(うやま)つて清浄(しやうじやう)の席(むしろ)を展(の)べ、書写(しよしや)し奉る色紙墨字(しきしぼくじ)の妙法蓮華経(めいほふれんげきやう)一部、開結(かいけつ)二経(きやう)、阿弥陀(あみだ)、般若心等(はんにやしんとう)の経(きやう)、各(おのおの)一巻(くわん)、手づから自(みづか)ら書写し奉る金泥(こんでい)の提婆品(だいばほん)一巻、時に蒼松蒼柏(さいしやうさいはく)の陰(かげ)共に善理(ぜんり)の種(たね)をそへ、潮去潮來(てうきよてうらい)の響(ひびき)、空(そら)に梵唄(ぼんばい)の声に和(くわ)す。

現代語訳

昔は朝敵を征伐するために、地方へむかう将軍はまず参内して、節刀を天皇から賜る。天皇は紫宸殿に出御し、近衛兵が階の下に隊列をなし、内弁外弁(ないべんげべん)の公卿が参列して、中儀の節会が行われる。

大将軍副将軍はそれぞれ礼儀をただしくして、これをいただく。承平天慶の先例もはるかな昔のことになり、なぞるのが難しいということで、今度は讃岐守(さぬきのかみ)平正盛(たいらの まさもり)が前対馬守(さきのつしまのかみ)源義親(みなもとの よしちか)追討のために、出雲国へ下向した例ということで、駅鈴だけをいただいて、皮の袋にいれて、雑色の首にかけさせて下られた。

昔、朝敵をほろぼそうと都を出る将軍には三つの心得があった。

節刀を賜る日、家を忘れ、家を出るといって妻子を忘れ、戦場で敵に戦う時、身を忘れる。

なので、今の平氏の大将、維盛、忠度も、さぞかしこのような事を心得られていたのだろう。感慨深い事どもである。

同月(九月)二十ニ日、新院(高倉上皇)はまた安芸国厳島へ御幸なさる。去る三月にも御幸された。

そのためだろうか、一両月も平和に治まって、民のわずらいもなかったが、高倉宮の御謀叛によって、また天下が乱れて世の中はしずかでない。

これによって一方では天下が平和になるため、一方では上皇のご病気の御祈念のためということだった。

今度は福原からの御幸であるので、道中のわずらいもなかった。手づからご自身で御願文を書かれて、清書を摂政殿(藤原基通)がなさる。

聞くところによると、宇宙の本体は雲で隠れず、十四十五夜の月が高く晴れているようで、厳島明神は智慧深く、陰陽の風が交互に吹く。

いつたい厳島の社は、御仏の御名を唱える声がどこからもきこえるのは、霊験比類ない場所である。

はるかの嶺が社殿をめぐることは、自然と、大きな慈悲が高くそびえていることをあらわし、広大な海が社殿のすぐそばまで迫っているのは、衆生救済の誓願が深く広いことを暗にあらわしている。

そもそも考えてみれば、はじめは凡庸な身で、畏れ多くも帝位につく。今【賢猷(けんいう)を霊境(れいけい)の群(ぐん)に翫(もてあそ)んで(意味不明)】のんびりした暮らしを院の御所でたのしんでいる。

しかし密かに一心の真心を尽くして、離れ孤島の奥深い社に詣で、玉垣の下に神の恩を仰ぎ、ひたすらな思いをこらして汗を流し、宮のうちに信託を下された。

そのお告げが心に命じるものがある。中でも特に畏れ謹むべき時期を占うと、もっぱら夏から初秋にかけての季節にあたる。

病はたちまち私の身体を侵し、どうも医術の効果があらわれない。月日は繰り返しうつりかわる。いよいよ神の感応の正しいことを知った。

祈祷をさせたが、もやもやした病苦は去りそうもない。

心の中の思いをふるい起こして、かさねて巡礼行脚の行をするのが一番と思う。はてもない寒い嵐の底に、旅寝に熟睡もできない夜をすごし、寂しいかすかな光の前で、遠路に臨んで、視界のおよぶかぎり景色を眺める。

ついにこの神社の境内に到着して、敬って清らかな席をもうけ、書写し申し上げる色紙に墨で字を書いた妙法蓮華経(法華経)一部、無量義経と観音賢経ニ経、阿弥陀、般若心経などの経、それぞれ一巻、手づからみずから書写し申し上げる金泥の堤婆品一巻。

時に青々した松と柏の陰はともによい利益を得る種をそえ、潮の満干の響きは、空に仏を賛美する声と唱和する。

語句

■節刀 せっと。せっとう。朝敵征伐におもむく将軍に天皇から授けられる刀。 ■宸儀 天皇。 ■南殿 紫宸殿。正式な儀式などを行う宮中の建物。 ■陣をひき 隊列をなし。 ■内弁外弁 即位式や節会の時、紫宸殿正面の承明門の内側で庶務をつかさどるのが内弁、外側で庶務をつかさどるのが外弁。 ■中儀の節会 宮中で行われる節会には大儀・中儀・小儀があった。 ■承平天慶 承平天慶年間におこった平将門の乱をいう。 ■蹤跡 しょうぜき。先例。 ■平の正盛 清盛の祖父。嘉承ニ年(1107)因幡守平正盛は出雲国へ下向。 ■鈴 官吏が地方に下る時、これを示せば駅馬を徴発できる鈴。 ■存知 心得。 ■廿ニ日 『玉葉』『百練抄』などには二十一日と。 ■聖代不豫 上皇
のご病気。 ■斗藪のわづらひ 道のりの困難さ。 ■願文 神仏への願い事を記した書状。 ■摂政殿 藤原基通。 ■蓋聞 聞くところによれば。 ■法性雲閑かなり 法性は宇宙の本体。それが雲にさえぎられずにはっきりしていること。 ■権化智 ごんげち。厳島明神のこと。仏の本質が神の形であらわれている(本地垂迹)。 ■一陰一陽の風旁(かたはら)に扇(あふ)ぐ 陰陽の風が交互に吹くこと。 ■効験無双の砌 霊験並びなきところ。 ■遙嶺 はるかな嶺。厳島神社周辺の山々をいう。 ■大慈 大いなる慈しみ。 ■峙(そばだ)てる そびえる。 ■祠宇 厳島神社の社殿。 ■弘誓 仏が衆生を救済しようといって立てた誓願。 ■以れば 考えてみると。 ■初庸昧 はじめの頃の凡庸なさま。 ■賢猷(けんいう)を霊境(れいけい)の群(ぐん)に翫(もてあそ)んで 意味不明。 ■閑坊 静かな暮らし。 ■射山の居 院の御所。 ■一心の精誠 ひたすらな一途な誠。 ■抽で ぬきんで。尽くして。 ■幽祠 奥深い社。 ■瑞離 玉垣。 ■明恩 神の恩。 ■懇念 真心。 ■怖畏謹慎(ふいきんしん)の期(ご) 畏れ謹むべき時期。 ■病痾 病気。高倉上皇は病気だった。 ■医術の験を施す事なし 医術の効果があらわれない。 ■萍桂 へいけい。萍は日。桂は月。月日。 ■神感 神の感応。 ■霧露 もやもやした病苦。 ■心符の 心の中の。 ■抽んでて 奮い起こして。 ■斗藪(とそう)の行 遍歴修行。 ■漠々たる 果てしない。 ■旅泊に臥して夢をやぶり 旅寝して満足に夢も見られない=熟睡できない。 ■凄々(せいせい)たる微陽 寂しい微かな光。 ■眼をきはむ 視界のおよぶところまで眺めやる。 ■枌楡(ふんゆ)の砌(みぎん) 「みぎん」は「みぎり」の音便。にれの木の生える場所。神社の境内。 ■清浄の席 清らかな席。 ■開結 法華経の前後におく開経(無量義経)と結経(観音賢経)。 ■金泥 こんでい。金粉をにかわで溶いた顔料。 ■堤婆品 『法華経』二十八品の一。 ■善利の種 よい利益を得る種。 ■潮去潮来 ちょうきょちょうらい。潮の満干。 

原文

弟子北闕(ていしほくけつ)の雲を辞して、八実(じつ)、涼燠(りやうあう)のおほく廻(めぐ)る事なしといへども、西海(さいかい)の浪(なみ)を凌(しの)ぐ事二(ふた)たび、深く機縁(きえん)のあさからざる事を知(し)んぬ。朝(あした)に祈る客(かく)一にあらず。夕(ゆふべ)に賽(かへりまうし)するもの且千なり。但し尊貴の帰仰(ききやう)おほしといへども、院宮の往詣(わうけい)いまだいかず。禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)初めて其(その)儀(ぎ)をのこい給ふ。弟子眇身(ていしべうしん)深く其(その)志(こころざし)を運(はこ)び、彼崇高山(かのすうかうざん)の月の前には、漢武(かんぶ)いまだ和光のかげを拝せず。蓬莱洞(ほうらいとう)の雲の底にも、天仙(てんせん)むなしく垂跡(すいしやく)の塵(ちり)をへだつ。仰(あふ)ぎ願はくは大明神、伏(ふ)して乞(こ)ふらくは一乗経(いちじようきやう)、新(あらた)に丹祈(たんき)をてらして、唯一(ゆいいち)の玄応(げんおう)を垂(た)れ給へ。
治承(ぢしょう)四年九月廿八日                                  太上天皇(だいじやうてんわう)

とぞあそばされたる。

さる程に、此(この)人々は九重(ここのへ)の都をたッて、千里(せんり)の東海におもむかれける。たひらかにかへりのぼらん事も、まことにあやふき有様どもにて、或(あるい)は野原(のばら)の露にやどをかり、或はたかねの苔(こけ)に旅ねをし、山をこえ河をかさね、日かずふれば十月十六日には、駿河国清見(するがのくにきよみ)が関(せき)にぞつき給ふ。都をば三万余騎でいでしかど、路次(ろし)の兵(つはもの)召し具して七万余騎とぞきこえし。先陣は蒲原(かんばら)、富士河(ふじかは)にすすみ、後陣(ごぢん)はいまだ手(て)越(ごし)、宇津(うづ)の屋(や)にささへたり。大将軍権亮少将維盛(ごんのすけぜうしやうこれもり)、侍大将上総守忠清(さぶらひだいしやうかづさのかみただきよ)を召して、「ただ維盛が存知(ぞんぢ)には、足柄(あしがら)をうちこえて、坂東(ばんどう)にていくさをせん」とはやられけるを、上総守(かづさのかみ)申しけるは、「福原をたたせ給ひし時、入道殿(にふだうどの)の御定(ごじやう)には、『いくさをば忠清(ただきよ)にまかせさせ給へ』と仰せ候ひしぞかし。八ケ国(はちかこく)の兵共(つはものども)みな兵衛佐(ひやうえのすけ)にしたがひついて候なれば、何(なん)十万騎(ぎ)か候らん。御方(みかた)の御勢(おんせい)は七万余騎とは申せども、国々のかり武者共なり。馬も人もせめふせて候。伊豆(いづ)、駿河(するが)の勢(ぜい)の参るべきだにもいまだみえ候はず。ただ富士河をまへにあてて、みかたの御勢をまたせ給ふべうや候らん」と申しければ、力及ばでゆらへたり。

さる程に兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、足柄(あしがら)の山を打ちこえて、駿河国黄瀬河(するがのこくきせがは)にこそつき給へ。甲斐(かひ)、信濃(しなの)の源氏ども、馳(は)せ来(きた)ッて、一つになる。浮島(うきしま)が原(はら)にて勢ぞろへあり。廿万騎とぞ記(しる)いたる。常陸源氏(ひたちげんじ)、佐竹太郎(さたけのたらう)が雑色(ざふしき)、主(しゆ)の使(つかひ)に文(ふみ)もッて京へのぼるを、平家の先陣上総守忠清(かずさのかみただきよ)、これをとどめてもッたる文をばひとり、あけてみれば、女房のもとへの文なり。苦しかるまじとてとらせてンげり。「抑兵衛佐殿(そもそもひやうゑのすけどの)の勢、いかほどあるぞ」と問へば、「凡(およ)そ八日九日(やうかここのか)の道にはたとつづいて、野も山も海も河も武者で候。下臈(げらふ)は四五百千(しごひやくせん)までこそ物の数をば知ッて候へども、それよりうへは知らぬ候(ざうらふ)。おほいやらうすくないやらうをば知り候はず。昨日黄瀬川(きのふきせがわ)で人の申し候ひつるは、源氏の御勢(おんせい)廿万騎とこそ申し候ひつれ」。上総守(かづさのかみ)これをきいて、「あつぱれ大将軍(たいしやうぐん)の、御心(おんこころ)ののびさせ給ひたる程口惜しい事候はず。いま一日(いちにち)も先に打手(うつて)をくださせ給ひたらば、足柄(あしがら)の山こえて八ケ国(はちかこく)へ御出(い)で候はば、畠山(はたけやま)が一族、大庭(おおば)兄弟などか参らで候べき。これらだにも参りなば、坂東(ばんどう)にはなびかぬ草木も候まじ」と、後悔すれどもかひぞなき。

現代語訳

仏弟子たる私は宮城の雲を離れ、八日、季節の多くめぐるというほどではないものの、西海の波を凌ぐことニたび、深く仏の教えを受ける縁のあさくない事を知った。

朝に祈る者は一人ではない。夕に参詣する者はとても多い。ただし貴人が仏に帰依し仰ぐ例は多いといっても、院や宮が遠くお参りする例はいまだきかない。

後白河法皇が初めてその先例となられた。

仏弟子たる私はいたらない身に深くそのこころざしを運び、かの嵩高山の月の前には、漢の武帝はいまだ仏の姿を拝むことができなかった。蓬莱山の雲の底にも、天仙はむなしく現れなかった。

厳島大明神に仰ぎ願い、法華経に伏して乞う、あらたかに心からの祈りを祈りを御覧になり、唯一の神の感応をお示しください。

治承四年九月二十八日

太上天皇

と書かれた。

そのうちに、この人々は都を出発して、はるか彼方の東海におもむかれた。無事に都に帰りのぼることも、ほんとうに危うい有様で、あるいは野原の露に宿をかり、あるいは高嶺の苔に旅寝をし、山をこえ河をかさね、日数が経って十月十六日には、駿河国清見が関におつきになった。

都を三万余騎で出発したが、道中の兵士を召集して、七万余騎ということだった。

先陣は蒲原、富士川にすすみ、後陣はいまだ手越、宇津ノ谷峠に停滞していた。

大将軍権亮少将(ごんのすけじょうしょう)維盛(これもり)が、侍大将上総守忠清(ただきよ)を召して、

「維盛の個人的考えでは、足柄をうちこえて、坂東で戦をしようと思う」

とはやられたのを、上総守が申し上げたことは、

「福原を出発なさった時、入道殿の仰せでは、『戦は忠清におまかせください』と仰せになったのですぞ。八カ国の兵士たちがみな兵衛佐にしたがいついてございますので、何十万騎かございますでしょう。味方の御勢は七万余騎とは申しましても、国々からかき集めた武者たちです。馬も人も疲れさせてございます。伊豆、駿河の軍勢が参ることになっているのさえ、いまだ見えてございません。ただ富士川を前にして、味方の御勢をお待ちになられるがよろしいでしょう」

と申したので、仕方なくその場にとどまることにした。

そのうちに兵衛佐は、足柄の山をうちこえて、駿河国黄瀬川におつきになった。甲斐、信濃の源氏たちが馳せ来って、一つになる。

浮島が原にて勢ぞろいした。二十万騎と記してある。

常陸源氏、佐竹太郎(さたけの たろう)の雑色が、主人の使いに文もって京へのぼるのを、平家の先陣上総守忠清が、これをとどめて持っている文をうばいとり、あけてみれば、女房のもとへの文である。

さしつかえないといって、取らせた。

「そもそも兵衛佐殿の勢は、どれほどあるのか」

と問えば、

「およそ八日九日の道にびっしりとつづいて、野も山も海も河も武者でございます。私のような身分卑しいものは四五百千までは物の数を知ってございますが、それ以上は知りません。多いのか少ないのかを知りません。昨日黄瀬川で人の申しましたのは、源氏の御勢二十万騎と申しました」

上総守はこれを聞いて、

「ああ大将軍(維盛)の御心がおのびになった事ほど口惜しい事はございません。いま一日も先に打手をお下しなさったら、足柄の山こえて八カ国へ御出でになれば、畠山の一族、大庭兄弟がどうして参上しないことがありましょうか。これらさえ参ったなら、坂東にはなびかぬ草木もございませんでしょうに」

と、後悔するが、どうしようもない。

語句

■梵唄の声 仏を賛美する声。 ■北闕 禁裏。宮城。皇居。内裏。 ■八実 八日の当て字。 ■涼燠 涼しさと暑さ。季節がめぐること。 ■機縁 仏に教えを受ける縁。 ■賽(かへりまうし)する お礼参り。参詣すること。 ■且千 きわめて多いこと。 ■帰敬 帰依し敬うこと。信仰すること。 ■禅定法皇 仏門に入った法皇。後白河法皇のこと。 ■弟子 仏弟子の私。 ■眇身 取るに足らぬ身。 ■嵩高山 漢の五岳の一、中岳。 ■漢武 漢の武帝。嵩高山に登った記事が『漢書』にある。 ■和光 仏が衆生救済のためにあえて仏としての光を和らげ、煩悩のうちにとどまること。 ■蓬莱洞 蓬莱山。中国で東の海のむこうにあると信じられた神仙の島。秦の始皇帝と漢の武帝が不老不死の薬をもとめて臣下を派遣したという。 ■垂迹の塵をへだつ 垂迹は仏が仮に神の姿をとってあらわれること。ここでは神仙がついにあらわれなかったことをいう。 ■一乗経 『法華経』のこと。 ■丹祈 心をこめた祈り。 ■玄応 神の感応。 ■清見が関 静岡県清水市興津清見寺にあったという旧跡。天武天皇の時代に関が設置されたという。 ■蒲原 静岡県庵原郡蒲原町。 ■手超 静岡市手越。 ■宇津の谷 宇津ノ谷峠。東海道の難所。静岡市丸子と志太郡岡部町の境。 ■ささへたり 停滞している。 ■足柄 足柄山。駿河と相模の国境。 ■せめふせて 疲れさせて。 ■ゆらへたり 留まる。 ■黄瀬川 静岡県沼津市東部、黄瀬川の東岸にあった宿。『吾妻鏡』治承四年十月十八日条には頼朝は二十万騎を率いて夜、黄瀬川に到着。二十四日を矢合わせと定めた。そこに甲斐・信濃の軍勢が合流したと。 ■浮島が原 沼津市と富士市の中間にある砂丘地帯。現富士川の東。JR東海道本線東田子の浦駅あたり。 ■苦しかるまじ 問題ない。 ■はたと びっしりと。 ■おほひやらうすくないならう 「多いやらん少ないやらん」の音便。 ■畠山 畠山庄司次郎重忠。秩父の豪族。「畠山次郎重忠。長井ノ渡ニ参リ会フ」(吾妻鏡・治承四年十月四日条)。 ■大庭 大庭平太景義、三郎景親、俣野五郎景尚。石橋山の合戦で頼朝軍を圧迫した。 

原文

又大将軍権亮少将維盛(たいしやうぐんごんのすけしぜうしやうこれもり)、東国(とうごく)の案内者とて、長井(ながゐ)の斎藤別当実盛(さいとうべったうさねもり)を召して、「やや実盛、なんぢ程の強弓勢兵(つよゆみせいびやう)、八ケ国にはいかほどあるぞ」と問ひ給へば、斎藤別当あざわらッて申しけるは、「さ候へば君は実盛を大矢(おほや)とおぼしめし候歟(か)。わづかに十三束(ぞく)こそ仕り候へ。実盛程候者は、八ケ国にいくらも候。大矢(おほや)と申すぢやうの者の、十五束(そく)におとッてひくは候はず。弓のつよさもしたたかなる者五六人してはり候。かかるせい兵(びやう)どもが射候へば、鎧(よろひ)の二三両をもかさねてたやすう射とほし候なり。大名(だいみやう)一人(にん)と申すは、勢(せい)のすくないぢやう、五百騎(き)におとるは候はず。馬に乗ッつれば、おつる道を知らず、悪所(あくしよ)をはすれども、馬を倒さず。いくさは又、親もうたれよ子もうたれよ。死ぬれば乗りこえ乗りこえたたかふ候(ざうらふ)。西国(さいこく)のいくさと申すは、親うたれぬれば孝養(けうやう)し、忌(いみ)あけて寄せ、子うたれぬればその思歎(おもひなげき)に寄せ候はず。兵粮米(ひやうらうまい)つきぬれば、春は田つくり、秋はかりをさめて寄せ、夏はあつしといひ、冬はさむしときらひ候。東国(とうごく)にはすべて其儀(そのぎ)候はず。甲斐(かひ)、信濃(しなの)の源氏共、案内は知ッて候。富士のすそより、搦手(からめて)にやまはり候らん。かう申せば君を臆(おく)せさせ参らせんとて申すには候はず。いくさは勢(せい)にはよらず、はかり事(こと)によるとこそ申しつたへて候へ。実(さね)盛(もり)今度のいくさに命いきて、ふたたび都へ参るべしとも覚(おぼ)え候はず」と申しければ、平家の兵共(つはものども)これをきいて、みなふるひわななきあへり。
さる程に十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士河(ふじがは)にて矢合(やあはせ)とさだめたりけるに、夜に入ッて、平家の方より源氏の陣を見わたせば、伊豆(いづ)、駿河(するが)の人民百姓等(にんみんひゃくしやうら)がいくさにおそれて、或(あるい)は野に入り山にかくれ、或は舟にとり乗ッて、海(うみ)河(かは)にうかび、いとなみの火の見えけるを、平家の兵(つはもの)ども、「あなおびたたしの源氏の陣の遠火(とほび)のおほさよ。げにもまことに野も山も、海も河も、みなかたきでありけり。いかがせん」とぞあわてける。その夜の夜半(やはん)ばかり、富士の沼(ぬま)に、いくらもむれゐたるける水鳥(みづとり)どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一度(いちど)にぱッと立ちける羽音(はおと)の、大風(おほかぜ)いかづちなンどの様(やう)にきこえければ、平家の兵(つはもの)ども、「すはや源氏の大勢(おほぜい)の寄するは。斎藤別当(さいとうべつたう)が申しつる様(やう)に、定めて搦手(からめて)もまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをばひいて、尾張河洲保(おはりがはすのまた)をふせげや」とて、とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ちゆきける。あまりにあわてさわいで、弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず、人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗らる。或はつないだる馬に乗ッてはすれば、杭(くひ)をめぐる事かぎりなし。ちかき宿々(しゆくじゆく)よりむかへとッてあそびける游君遊女(いうくんいうぢよ)ども、或(あるい)は頭(かしら)けわられ、腰(こし)ふみ折られて、をめきさけぶ者おほかりけり。
あくる廿四日卯刻(うのこく)に、源氏大勢廿万騎、富士河(ふじがは)におし寄せて、天もひびき大地(だいぢ)もゆるぐ程に、時(とき)をぞ三ケ度(さんがど)、つくりける。

現代語訳

また大将軍権亮少将維盛は、東国の地理や事情に通じた者として、長井の斎藤別当実盛を召して、

「なあ実盛、お前ほどの強い弓を引く精兵は、八カ国にどれほどあるのか」

とご質問なさると、斎藤別当があざ笑って申したのは、

「でございましたら、君は実盛を大矢を射る者と思われますのか。わずかに十三束を引くだけでございます。実盛ほど射ます者は、八カ国にいくらもございます。大矢と申すていどの者で、十五束におとって引く者はございません。弓のつよさも屈強な者五六人して張ります。このような精兵どもが矢を射ますと、鎧のニ三領もかさねてたやすく射通してございます。

馬に乗れば、落ちる道を知らず、悪所を馳せても、馬を倒さず、いくさはまた、親もうたれよ子もうたれよ、死ねば死体の上を乗り越え乗り越えたたかいます。

西国の戦と申すは、親が討たれれば供養し、物忌の期間があけてから攻め寄せ、子が討たれればその思い嘆きに攻め寄せません。

兵粮米が尽きれば、春は田をつくり、秋は収穫が終わってから攻め寄せ、夏はあついといい、冬はさむいといって嫌います。

東国にはすべてそのような事はございません。甲斐、信濃の源氏どもは、地理・事情に通じてございます。富士のすそのから、搦手にまわりますでしょう。

こう申せば、君を脅し申し上げようとして申すのではございません。いくさは数にはよらず、はかり事によると申し伝えてございます。

実盛は今度のいくさに命いきて、ふたたび都へ帰れるだろうとも思いません」

と申し上げると、平家の兵たちはこれをきいて、みな震えわななきあった。

そのうちに、十月二十三日にもなった。あすは源平富士川で矢合わせと決めていたところ、夜に入って、平家の方から源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓らがいくさにおそれて、あるいは野に入り山にかくれ、あるいは舟にとり乗って、海河にうかび、炊事の火の見えたのを、平家の兵士どもは、

「ああ源氏の陣の遠火の多いことよ。まったく本当に、野も山も、海も河も、みな敵である。どうしよう」

と、あわてた。

その夜の夜半ごろ、富士の沼にいくらも群れをなしていた水鳥どもが、何におどろいたのだろうか、ただ一度にばッと立てた羽音の、大風や雷などのように聞こえれば、平家の兵士たちは、

「そりゃ源氏の大勢が攻め寄せるぞ。斎藤別当が申したように、きっと搦手にもまわるだろう。取り囲まれては敵わないだろう。ここを退却して、尾張川、墨俣を防げや」

といって、とる物もとりあえず、我さきにと落ちていった。あまりにあわて騒いで、弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず。

人の馬にはわれ乗り、わが馬を人に乗られる。あるいはつないだ馬に乗って駆け出すと、杭を走りめぐることかぎりなかい。

近くの宿々からむかへとって遊んでいた遊君遊女どもは、あるいは頭をけわられ、腰をふみ折られて、おめき叫ぶ者が多かった。

翌年二十四日の卯の刻(午前6時)に、源氏の大勢二十万騎、富士川におしよせて、天もひびき大地もゆるぐほどに、時を三度、作った。

語句

■案内者 地理や情勢に詳しい者。 ■長井 埼玉県大里郡長井。 ■斎藤別当実盛 本姓藤原氏。別当は庄司=庄園管理人。『尊卑分脈』によると実直の子で祖父実遠の猶子とも実遠の子とも。保元・平治の乱では源義朝に従った。越前の出身で、後に関東に移住。源義賢が悪源太義平に責め滅ぼされた、「大蔵合戦」の後、みなしごとなった駒王丸(木曽義仲)を信濃に逃した。 ■大矢 長い矢を使いこなす者。 ■十三束 ごふし十三個ぶんの長さ。 ■ぢやう 程度。範囲。 ■したたかなる者 腕っぷしのいい者。 ■せい兵 強弓使い。 ■両 正しくは領。鎧を数える単位。 ■大名 所領をもつ地方領主。 ■ぢやう 程度の者でも。 ■孝養 供養。 ■申しければ 延慶本・長門本はここで斎藤別当が二千騎を引き連れて帰京したとする。 ■十月廿三日 二十四日を矢合わせと定めたことが『吾妻鏡』十月十八日条にみえる。 ■矢合わせ 戦闘開始の合図として両軍が空中に鏑矢を放つこと。 ■いとなみの火 生活のための火。ここでは炊事の火。 ■富士の沼 浮島ケ原にある沼。 ■尾張川 木曾川の古名。 ■洲俣 墨俣。岐阜県安八郡墨俣町。羽柴秀吉の「墨俣一夜城」で有名。

朗読・解説:左大臣光永

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