平家物語 八十 五節之沙汰(ごせつのさた)
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本日は平家物語巻第五より「五節之沙汰(ごせつのさた)」です。前半が富士川の合戦後のあれこれ。後半は安徳天皇が福原の新都に遷られたが、天皇即位の年に行われる大嘗会(だいじょうえ)は行われず例年どおり新嘗会(しんじょうえ)ですませることとなったいきさつが述べられます。
(新嘗会・大嘗会…毎年11月下旬に行われる宮中行事。天皇がその年収穫された穀物を神に供え、収穫を感謝する。天皇即位の年はとくに大嘗会という。新嘗祭(しんじょうさい・にいなめのまつり)・大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)とも)
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前回「富士川(ふじがわ)」からのつづきです。
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あらすじ
富士川に布陣していた平家軍は、水鳥の羽音を源氏の夜襲と勘違いし 逃亡してしまった(「富士川」)。
源氏が押し寄せてみると陣はもぬけのカラである。頼朝は八幡大菩薩に感謝した。
源氏軍はこのまま平家を攻めるべきところではあったが今は東国の地固めが大切と相模の国に退いた。
東海道沿いの宿々の遊君・遊女たちは平家のふがいなさに呆れた。
皮肉に満ちた落書(風刺の文を人目につきやすい場所に貼ったり落としておくもの) が多く書かれた。
ひらやなる 宗盛いかにさわぐらん はしらとたのむ すけをおとして
(意味)平屋の棟守り(棟の番人)はどんなにうろたえているだろう。 柱と頼りにしていた助柱が落ちてしまって。
「平屋」と「平家」、「宗盛」と「棟守」、「助柱」と「権亮」を懸ける。
富士川の せぜの岩こす 水よりも はやくもおつる 伊勢平氏かな
(意味)富士川の淵瀬淵瀬の岩を乗り越える水の流れよりも速く、 伊勢の瓶子(伊勢産のとっくり)は流れ落ちていくことよ。
「伊勢平氏」に「伊勢瓶子」を懸ける。
上総守が富士川に鎧を捨てたのを詠んで…
富士川に よろひは捨てつ 墨染めの 衣ただきよ 後の世のため
(意味)富士川に鎧を捨ててしまった忠清よ。もう武士をやめてさっさと 僧になれ。平家の後世を弔うために。
「忠清」と「ただ着よ」を懸ける。
ただきよは にげの馬にぞ のりにける 上総しりがい かけてかひなし
(意味)忠清は白黒ニ毛の馬に乗っていたから逃げ足が速かったのだろう。 せっかくの【上総鞦(かずさしりがい)】も意味のないことであった。
「ニ毛」と「逃げ」、「上総鞦」と「上総介」を懸ける。
鞦(しりがい)は尻尾の下をくぐらせ尻の上 で交差させた布の帯
清盛は大いに怒り、維盛を島流しに忠清を死罪にせよと言うが、 一門の反対により結局処罰は行われなかった。
それどころかなぜか維盛が右近衛中将に昇進したので人々は陰口を言い合った。
昔、将門追討のため、平貞盛、田原藤太秀郷が関東へ出発したが、将門はかんたんに滅びなかったので、加えて宇治の民部卿忠文、清原滋藤を将門追討に行かせることになった。
駿河国清見が関に宿った時、滋藤は満々たる海上を見渡して漢詩を詠んだ。その風流さに忠文は涙を流した。
そうこうしているうちに貞盛、秀郷が将門を討ち取り、その首をもって都へのぼる途中、清見が関で忠文、滋藤と合流し、ともに上洛した。
公卿らが話し合って、忠文、滋藤にも褒美をとらせるべきか議論になった。九条右丞相(くじょうのうしょうじょう)師輔(もろすけ)公は忠文、滋藤にも褒美を与えるべきだと主張したが、小野宮殿(藤原実頼)は、褒美は不要といった。小野宮殿の意見が通って、忠文、滋藤に褒美は下されなかった。
忠文はこれを恨み、「小野宮殿の子孫をわが従者となそう。九条殿の子孫には守護神となろう」と誓って、断食して死んだ。
それで、九条殿の子孫は繁栄をきわめたが、小野宮殿の子孫は絶えてしまった。
(この挿話は維盛が戦働きがなかったにも関わらず昇進したことの説明となっている。清見が関で滋藤が漢詩をよみ、忠文が涙したというくだりも、風流人としての維盛と重ねる意図からだろう。ただし忠文・滋藤の場合は着任前に戦が終わっていたのであり、維盛の場合は戦う前に逃げ帰ったので、状況が異なる。事例としては空回りしている感がある)
同年(治承四年(1180年))11月13日、福原に安徳天皇が遷られた。大嘗会が行われるはずだが、結局行われなかった。福原の新都には即位式を行う大極殿もなく、御神楽を奉納する清暑堂もなく、宴会を行う豊楽院もなかったからである。
今年はただ、例年どおりの新嘗会、五節だけを行うこととし、新嘗の祭は旧都(平安京)の神祇官で行われることに決まった。
五節は、昔、天武天皇が吉野の宮におこもりの時、琴をつまびくと、天女が天下って五度袖をひるがえしたという故事による。
原文
平家の方(かた)には音もせず。人をつかはして見せければ、「みな落ちて候(そうらふ)」と申す。或は敵の忘れたる鎧(よろひ)とッて参りたる者もあり、或はかたきのすてたる大幕(おほまく)とッて参りたる者もあり。「敵の陣には蠅(はひ)だにもかけり候はず」と申す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)馬よりおり甲(かぶと)をぬぎ手水(てうず)うがひをして、王城の方(かた)をふしをがみ、「これはまッたく頼朝(よりとも)がわたくしの高名(かうみやう)にあらず。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御(おん)ぱからひなり」とぞ宣ひける。やがてうッとる所なればとて、駿河国(するがのこく)をば、「一条次郎忠頼(いちでうのじらうただより)、遠江(とほたふみ)をば安田三郎義定(やすだのさぶらうよしさだ)に預けらる。平家をばつづいてもせむべけれども、うしろもさすがおぼつかなしとて、浮島(うきしま)が原(はら)よりひきしりぞき、相模国(さがみのくに)へぞかへられける。 海道宿々(かいだうしゆくじゆく)の游君遊女(いうくんいうじよ)ども、「あないまいまし。打手(うつて)の大将軍(たいしやうぐん)の、矢一つだにも射ずして、にげのぼり給ふうたてしさよ。いくさには見にげといふ事をだに心うき事にこそするに、これはききにげし給ひたり」とわらひあへり。落書(らくしよ)どもおほかりけり。都の大将軍をば、宗(むね)盛(もり)といひ、討手(うつて)の大将(たいしやう)をば、権亮(ごんのすけ)といふ間(あひだ)、平家をひら屋(や)によみなして、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらんはしらとたのむすけをおとして
冨士河(ふじがは)の瀬々(せぜ)の岩こす水よりもはやくもおつる伊勢平氏(いせへいじ)かな
上総守(かづさのかみ)が富士河に鎧(よろひ)を捨てたりけるをよめり。
富士河に鎧(よろひ)はすてつ墨染(すみぞめ)の衣(ころも)ただきよ後(のち)の世のため
忠(ただ)清(きよ)はにげの馬にぞ乗りにける上総(かづさ)しりがいかけてかひなし
同(おなじき)十一月八日(やうかのひ)、大将軍権亮少将維盛(たいしやうぐんごんのすけぜうしやうこれもり)、福原の新都へのぼりつく。入道相国(にふだうしやうこく)大きにいかッて、「大将軍権亮少将維盛をば、鬼界(きかい)が島(しま)へながすべし。侍大将上総守忠清(さぶらひたいしやうかづさのかみただきよ)をば、死罪(しざい)におこなへ」とぞ宣(のたま)ひける。同九日(おなじきここのかのひ)平家の侍(さぶらひ)ども、老少参会(らうせうさんくわい)して、忠清が死罪の事いかがあらんと評定(ひやうぢやう)す。なかに主馬判官盛国(しゆめのはんぐわんもりこく)すすみいでて申しけるは、「忠清は昔より不覚人(ふかくじん)とは承り及び候(さうら)はず。あれが十八の歳(とし)と覚え候。鳥羽(とば)殿(どの)の宝蔵(ほうざう)に、五幾内(ごきない)一の悪党二人(あくたうににん)にげ籠(こも)ッて候ひしを、よッてからめうど申す者も候はざりしに、この忠清白昼(はくちう)に唯一人(ただいちにん)、築地(ついぢ)をこえはね入ッて、一人をばうちとり、一人をばいけどッて、後代(こうたい)に名をあげたりし者にて候。今度の不覚(ふかく)は、ただことともおぼえ候はず。これにつけてもよくよく兵乱(ひやうらん)の御(おん)つつしみ候べし」とぞ申しける。
現代語訳
平家の方には音もしない。人をつかわして見させると、「みな逃げ落ちてございます」と申す。
あるいは敵の忘れた鎧とって参った者もあり、あるいは敵の捨てた大幕とって参った者もある。
「敵の陣には蝿さえ飛んでございません」と申す。
兵衛佐は馬からおり甲をぬぎ手水うがいをして、王城の方をふし拝み、
「これはまったく頼朝の個人的な手柄ではない。八幡大菩薩の御はからいである」とおっしゃった。
すぐに打ち取った土地であるのでといって、駿河国を、一条次郎忠頼(ただより)、遠江を安田三郎義定(よしさだ)に預けられた。
平家をつづけて攻めることもできたが、後方もやはり心配であるといって、浮島が原からひき退き、相模国へ帰られた。
東海道沿いの宿場宿場の遊君遊女どもは、
「ああいまいまいしい。討手の大将軍が、矢ひとつさえ射ないで、にげのぼりなさる情けなさよ。いくさには「見て逃げる」という事さえみっともない事とするのに、今回は「聞いて逃げ」なさったぞ」
と笑いあった。
落書が多く書かれた。
都の大将軍を、宗盛といい、討手の大将を、権亮(ごんのすけ)というので、平家をひら屋によみなして、
ひらやなる…
(平屋の棟守はどんなにあわてているだろう。家屋の柱とたのむ助柱を落として=平家の宗盛はどんなにあわてているだろう。平家の柱とたのむ権亮(ごんのすけ=維盛)を落として)
富士河の…
(富士川の瀬々の岩こす波よりもはやくも落ちる伊勢平氏だなあ)
上総守が富士川に鎧をすてたのをよんで、
富士河に…
(富士川に鎧を捨ててしまった上総守忠清は、ただもう出家して墨染の衣を着るがよい。それが後の世のためだ)
忠清は…
(上総守忠清はニ毛の馬(白と黒毛の馬)に乗って逃げてしまった。上総鞦(かずさしりがい)をかけて飾っても役に立たないように、上総守も役に立たないなあ)
同年(治承四年(1180年))十一月八日、大将軍権亮少将(ごんのすけじょうしょう)維盛(これもり)が、福原の新都にのぼりついた。
入道相国は大いにいかって、
「大将軍権亮少将維盛を、鬼界ヶ島に流すがよい。侍大将上総守忠清を、死罪にせよ」
とおっしゃった。
同月(十一月)九日、平家の侍たちは老いも若きも集まって、忠清の死罪の事どうしようと評定した。
そのなかに主馬判官(しゅめのはんがん)盛国(もりくに)が進み出て申したのは、
「忠清は昔から臆病者とは聞きおよびません。あれが十八の年と記憶してございます。鳥羽殿の宝蔵に、五畿内一の悪党二人がにげこもってございましたのを、攻め寄せてつかまえようと申す者もございませんでしたが、
この忠清は白昼にただ一人、築地を超えてはね入って、一人を討ち取り、一人をいけどって、後の世に名をあげた者でございます。今度の不覚は、ただごととも思えません。これにつけてもよくよく兵乱をしずめるべくご祈祷するべきでございます」
と申した。
語句
■大幕 陣屋の周囲にはりめぐらせた幕。 ■一条次郎忠頼 武田太郎信義の子。 ■うしろもさすが… 『吾妻鏡』十月二十一日条には、上総常胤らが頼朝に進言して「常陸国の佐竹太郎義政、秀義らが数百の軍勢を率いて帰服しない。その他にも敵が多いので、まず東国を平定してから西国に向かうべきです」といったとある。 ■うたてしさ 情けなさ。 ■落書 風刺や皮肉をこめた語句。 ■ひらやなる… 「ひらや」は平家と平屋をかける。「むねもり」は宗盛と棟守をかける。「すけ」は「亮」と助柱(すけばしら。家が倒れないように支える柱)をかける。 ■富士河に… 「ただきよ」は「忠清」と「ただ着よ」をかける。 ■忠清は… 「にげの馬」は「ニ毛の馬(白毛と黒毛の馬)」と「逃げの馬」をかける。「上総しりがい」は上総産の鞦(しりがい。馬具。馬の頭、胸、尻にかける)。忠清が上総守であることをいう。 ■主馬判官盛国 平正度の孫。季衡の子。越中前司盛俊の子。主馬判官は主馬寮の長官と判官を兼任する者。判官は検非違使尉。主馬寮は馬の事をつかさどる。 ■不覚人 臆病者。おろか者。 ■よッてからめうど 「寄りて絡めんと」の転。 ■御つつしみ 神仏の前でかしこまる=祈ること。
原文
同十日(おなじきとをかのひ)の日、大将軍権亮少将維盛、右近衛中将(うこんゑのちゆうじやう)になり給ふ。「打手(うつて)の大将(たいしやう)ときこえしかども、させるしいだしたることもおはせず。これは何事の勧賞(けんじやう)ぞや」と、人々ささやきあへり。
昔将門追討(まさかどついたう)のために、平将軍貞盛(へいしやうぐんさだもり)、田原藤太秀郷(たはらのとうたひでさと)承ッて、坂東(ばんどう)へ発向(はつかう)したりしかども、将門たやすうほろびがたかりしかば、かさねて打手(うつて)をくだすべしと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あッて、宇治(うぢ)の民部卿忠文(みんぶきやうただふん)、清原滋藤(きよはらのしげふぢ)、軍監(ぐんけん)といふ官を給はッてくだられけり。駿河国清見が関に宿したりける夜、かの滋藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟火影寒浪焼(ぎよしうのひのかげさむうしてなみをやき)、駅路鈴声夜過山(えきろのすずのこゑよるやまをすぐ)」といふから歌を、たからかに口ずさみ給へば、忠文優(いう)におぼえて、感涙(かんるい)をぞながされける。さる程に将門をば、貞盛、秀郷つひに打ちとッてンげり。そのかうべをもたせてのぼる程に、清見(きよみ)が関(せき)にてゆきあうたり。其(それ)より先後(ぜんご)の大将軍(たいしやうぐん)うちつれて上洛(しやうらく)す。貞盛(さだもり)、秀郷(ひでさと)に勧賞(けんじやう)おこなはれける時、忠文、滋藤にも勧賞(けんじやう)あるべきかと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。九条右丞相師輔公(くでうのうしようじやうもろすけこう)の申させ給ひけるは、「坂東(ばんどう)へ打手(うつて)はむかうたりといへども、将門たやすうほろびがたきところに、この人共仰(おほ)せをかうむッて、関(せき)の東へおもむく時、朝敵(てうてき)すでにほろびたり。さればなどか勧賞(けんじやう)なかるべき」と申させ給へども、其時の執柄(しつぺい)、小野宮殿(をののみやどの)、「うたがはしきをばなす事なかれと、礼記(らいき)の文(もん)に候へば」とて、つひになさせ給はず。忠(ただ)文(ふん)これを口惜しき事にして、「小野宮殿の御末(おんすゑ)をば、やつこにみなさん。九条殿(くでうどの)の御末には、いづれの世までも守護神(しゆごじん)とならん」とちかひつつ、ひじににこそし給ひけれ。されば九条殿の御末はめでたうさかえさせ給へども、小野宮殿(をののみやどの)の御末にはしかるべき人もましまさず。今はたえはて給ひけるにこそ。
さる程に入道相国(にふだうしやうこく)の四男(しなん)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、左近衛中将(さこんゑのちゆうじやう)になり給ふ。同(おなじき)十一月十三日、福原には内裏(だいり)つくりいだして、主上御遷幸(しゆしやうごせんかう)あり。大嘗会(だいじやうゑ)あるべかりしかども、大嘗会は十月のすゑ、東河(とうか)に御(み)ゆきして御禊(ごけい)あり。大内(たいだい)の北の野に税庁所をつくッて、神服神具(じんぷくじんぐ)をととのふ。大極殿(だいこくでん)のまへ、竜尾道(りようびだう)の壇下(だんのした)に、廻立殿(くわいりふでん)をたてて、御湯(おゆ)を召す。同壇(おなじきだん)のならびに大嘗宮(だいじやうぐう)をつくッて神膳(しんぜん)をそなふ。宸宴(しんえん)あり、御遊(ぎよいう)あり。大極殿にて大礼(たいれい)あり。清暑堂(せいじよだう)にて、御神楽(みかぐら)あり。豊楽院(ぶらくゐん)にて宴会(えんくわい)あり。しかるをこの福原の新都には、大極殿もなければ、大礼おこなふべき所もなし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき様(やう)もなし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。今年(こんねん)はただ新嘗会(しんじやうゑ)、五節(ごせつ)ばかりあるべきよし、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あッて、なほ新嘗の祭(まつり)をば、旧都の神祇官(じんぎくわん)にしてとげられけり。
五節はこれ清御原(きよみばら)のそのかみ、吉野(よしの)の宮にして、月白く嵐はげしかりし夜、御心(おんこころ)をすましつつ、琴(きん)をひき給ひしに、神女(しんによ)あまくだり、五(いつ)たび袖(そで)をひるがへす。これぞ五節のはじめなる。
現代語訳
同月(十一月)十日、大将軍権亮少将維盛は、右近衛中将になられた。
「討手の大将ときいたが、大した働きもなさらなかった。これは何事の褒美だろうか」
と、人々はささやきあった。
昔将門追討のために、将軍平貞盛と田原藤太秀郷が命令を受けて坂東へ向かったが、将門はかんたんには滅びなかったので、かさねて討手を下すべしといって、公卿評定して、宇治の民部卿(みんぶきょう)忠文(ただふん)、清原滋藤(きよはらの しげふじ)が、軍監という役職をたまわって下られた。
駿河国清見が関に宿した夜、その滋藤が、満々たる海の上を見渡して、
「漁舟(ぎょしゅう)の火の影寒うして浪を焼(や)き、駅路(えき)の鈴の声、夜山を過ぐ」
という漢詩を、たからかに口ずさみなさると、忠文は優雅に思って、感動して涙を流された。
そのうちに将門を、貞盛、秀郷がついに打ち取ってしまった。その首をもたせてのぼるうちに、清見が関で(将門・秀郷と忠文・滋藤が)ゆきあった。
それより先に下った大将軍と後に下った大将軍は連れ立って上洛する。貞盛、秀郷に勧賞がおこなわれた時、忠文、滋藤にも勧賞を行うべきかと公卿らは評定した。
九条の右大臣、師輔(もろすけ)公の申し上げなさることは、「坂東へ討手がむかったといっても、将門は簡単には滅びにくいところに、この人たち(忠文、滋藤)は仰せを受けて、関の東へおもむく時、朝敵はすでに滅びた。であればどうして勧賞がなくていいものか」
と申し上げなさったが、その時の摂政関白、小野宮殿(藤原実頼)が、
「うたがわしきをなす事なかれと、礼記の言葉にございますので」
といって、ついに勧賞をお与えにならなかった。
忠文はこれを口惜しいことに思って、
「小野宮殿のご子孫を、奴婢として見てやろう。九条殿のご子孫には、いづれの世までも守護神となろう」
と誓って、断食して死んでしまった。
なので九条殿のご子孫はめでたくさかえなさったが、小野宮殿のご子孫はたいした人もいらっしゃらず、今はたえはててしまわれたのだろう。
そのうちに入道相国の四男、頭中将(とうのちゅうじょう)重衡(しげひら)が、左近衛中将になられた。
同年(治承四年)十一月十三日、福原では内裏が完成して、主上がご遷幸された。大嘗会(だいじょうえ)を行う必要があったが、なさらなかった。
大嘗会は十月の末、賀茂川に御幸して禊をなさる。大内裏の北の野に斎場所(さいじょうしょ?)をつくって、神服神具をととのえる。
大極殿のまえ、竜尾堂の壇の下に、廻立殿(かいりゅうでん)をたてて、(天皇は)御湯を召される。
同じ壇のならびに大嘗宮(だいじょうぐう)をつくって神膳をそなえる。宴会があり、管弦の御遊があり、大極殿で即位式がある。
清暑堂(せいじょどう)で、御神楽がある。豊楽院(ぶらくいん)で宴会がある。
それをこの福原の新都には、大極殿もないので即位の大礼を行える所もない。
清暑堂もないので、御神楽を奏すことができるような様子もない。豊楽院もないので、宴会もおこなわれない。
今年はただ例年どおりの新嘗会(しんじょうえ)、五節(ごせつ)だけあるということが、公卿らが評議して、やはり新嘗の祭は旧都の神祇官で行われた。
五節は天武天皇の昔、吉野の宮で、月白く嵐はげしい夜、(天皇が)御心をすまして琴をおひきになった時、天女が天下り、五回、袖をひるがえした。これが五節のはじめである。
語句
■させるしいだしたることもおはせず たいしたこともしでかしておられない。 ■将門追討のために… 『扶桑略記』に将門関東で反乱。これを鎮圧するために平貞盛、田原藤太秀郷らが派遣され、かさねて忠文、滋藤らが派遣されたが、その時はすでに反乱は鎮圧されていたという記事がある。 ■藤原秀郷 相模国田原に住んだため田原を名乗り後に俵に転じた。天慶三年(940)平将門が関東で反乱をおこすと平貞盛とともに将門追討を命じられ、それをなしとげた。その恩賞として下野守となり、子孫が足利に住んだ。 ■宇治の民部卿忠文 天慶三年(940)将門追討の大将軍。宇治に別荘があった。 ■清原滋藤 未詳。 ■漁舟火陰寒焼浪… 「秋、臨江駅ニ宿ス」と題する杜荀鶴(とじゅんかく)の詩の一節。『和漢朗詠集』におさめる。杜荀鶴は中国晩唐の詩人。「漁船の火影は寒々した中に波間に燃えるようで、駅路の鈴の音をききながら夜
、山をすぎる」といった意味。 ■九条右丞相師輔公 九条流藤原氏。右丞相は右大将の唐名。藤原道長の祖父。 ■執柄 摂政関白。 ■小野宮殿 藤原実頼。小野宮流藤原氏。師輔の兄。頼忠の父。ただし実頼が摂政関白になったのは20年以上後。 ■うたがはしきをばなす事なかれ 「疑ハシキ事ハ質(ただ)スコト毋(なか)レ」(礼記・曲礼)。 ■やつこ 奴。奴僕。 ■ひじに 断食して死ぬこと。 ■左近衛中将 治承三年正月左近衛中将、同十ニ月辞任、同五年左近権中将(公卿補任)。 ■十一月十三日 『百練抄』などには十一月十一日とある。 ■大嘗会 大嘗祭。天皇即位の年に行われる特別な新嘗会。その年新しく穫れた穀物を天照大神および天神地祇に捧げ、天皇みずからお召し上がりになる。 ■東河 とうか。京都の東を流れる賀茂川。 ■御禊 みそぎ。水に浸かって身を清めること。 ■大内 大内裏。 ■税庁所 正しくは斎場所。大嘗会に使う神服や神具をつくるために清められた場所。 ■竜尾堂 大極殿の前庭の歩道のこと。 ■廻立殿 天皇がお湯を召される建物。 ■大嘗宮 神膳(神さまが召し上がる食物)を供える建物。 ■宸宴 天子の催す宴会。 ■大礼 即位式。 ■清暑堂 豊楽院の北、不老門の南の殿舎。大嘗会の五節が行われる。 ■新嘗会 例年どおりの新嘗会。 ■五節 十一月下旬に宮中で四日間行われる宴会。四日目が豊明節会で、五節の舞姫が舞い、天皇がその年新しく穫れた穀物を召し上がり臣下にもふるまわれる。「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ」(僧正遍昭)。 ■神祇官 神事をとりあつかう役所。 ■清御原 天武天皇。
……
前半が「富士川の合戦」後のあれこれ。中盤に平将門追討後の恩賞についてのエピソードが挿入され、後半は福原の新都で天皇即位の年に当然行われるべき大嘗会が行わず、新嘗会と五節だけが行われることに決まるまでのいきさつです。
こまかく説明すると説明ばかりになってしまうので、あらすじや現代語訳をごらんください。ひとつだけ、
五節は十一月下旬に宮中で四日間行われる宴会です。四日目の豊明節会で、五節の舞姫が舞い、天皇がその年新しく穫れた穀物を召し上がり臣下にもふるまわれます。
その始まりは、昔天武天皇が、吉野宮におこもりの時、心をすまして琴を爪弾くと、天女が天下って、五たび袖をひるがえしたと、これが五節の期限であるとされます。
「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ」小倉百人一首12番僧正遍昭の歌は、五節の宴会で舞を披露する、五節の舞姫を詠んだ歌です。
次の章「八十一 都帰(みやこがへり)」