平家物語 八十一 都帰(みやこがへり)

平家物語巻第五より「都帰(みやこがえり)」。福原の新都は不評で、遷都後わずか半年で平安京に都をもどすことになる。

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前回「五節之沙汰(ごせつのさた)」からのつづきです。
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あらすじ

福原への強引な遷都(「都遷」)は不評で帝も臣下も嘆いていた。延暦寺、興福寺を始め各地の神社や寺まで苦情を訴えたので、さしも強引な清盛も都帰りを決めざるを得なかった。

治承四年十一月二日、都帰りが行われる。福原は北はすぐ山、南はすぐ海で、波の音が常にうるさく、潮風のはげしい所である。

そのため高倉上皇もご病気がちになられ、いそいで福原をお出でになる。摂政藤原基通をはじめ太政大臣以下の公卿殿上人もお供して福原を後にする。

今回の遷都の真の理由は、京都は延暦寺と奈良が近く、何かと両山の僧兵たちが神輿をふりあげ無理な要求を訴えてくるので、これを避けようとしたようだった。

同年十一月二十三日、近江国で源氏が蜂起し、知盛・忠教が二万余騎で 討伐に向かい、これを破った。

原文

今度(こんど)の都遷(みやこうつり)をば、君も臣も御歎(おんなげき)あり。山(やま)、奈良(なら)をはじめて、諸寺諸社(しよじしよしや)にいたるまで、しかるべからざるよし一同(いちどう)にうッたへ申すあひだ、さしもよこ紙(がみ)をやらるる太政入道(だいじやうのにふだう)も、さらば都がへりあるべしとて、京中(きやうじゆう)ひしめきあへり。

同(おなじき)十二月二日(ふつかのひ)にはかに都がへりありけり。新都は北は山にそひてたかく、南は海ちかくしてくだれり。浪(なみ)の音(おと)常はかまびすしく、塩風(しほかぜ)はげしき所なり。されば新院(しんゐん)いつとなく御悩(ごなう)のみしげかりければ、いそぎ福原をいでさせ給ふ。摂政殿(せつしやうどの)をはじめ奉(たてま)ッて、太政大臣以下(だじやうだいじんいげ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、われもわれもと供奉(ぐぶ)せられける。入道相国(にふだうしやうこく)をはじめとして、平家一門の公卿殿上人、われさきにとぞのぼられける。誰(たれ)か心うかりつる新都に片(かた)ときものころべき去(さんぬる)六月より、屋どもこぼち寄せ、資材雑具(しざいざふぐ)はこびくだし、形(かた)のごとくとりたてたりつるに、又物ぐるはしう都がへりありければ、なんの沙汰(さた)にも及ばず。

うちすて打ちすてのぼられけり。おのおのすみかもなくして、八幡(やはた)、賀茂(かも)、嵯峨(さが)、太秦(うづまさ)、西山(にしやま)、東山(ひがしやま)のかたほとりについて、御堂(みだう)の廻廊(くわいらう)、社(やしろ)の拝(はい)殿(でん)なンどにたち宿ッてぞ、しかるべき人々もましましける。

今度の都うつりの本意(ほんい)をいかにといふに、旧都(きうと)は南都北嶺(なんとほくれい)ちかくして、いささかの事にも、春日(かすが)の神木(しんぼく)、日吉(ひよし)の神輿(しんよ)なンどいひて、みだりがはし。福原は山へだたり江(え)かさなッて程もさすがとほければ、さ様(やう)のことたやすからじとて、入道相国のはからひいだされたりけるとかや。

同(おなじき)十二月廿三日、近江源氏(あふみげんじ)のそむきしをせめんとて、大将軍(たいしやうぐん)には、左兵衛督知盛(さひやうゑのかみとももり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、都合其勢(そのせい)二万余騎で、近江国(あふみのくに)へ発向(はつかう)して、山本、柏木(かしはぎ)、錦古里(にしごり)なンどいふあぶれ源氏ども、一々にみなせめおとし、やがて美濃(みの)、尾張(おはり)へこえ給ふ。

現代語訳

今度の都遷りを、君も臣も嘆かれた。比叡山、奈良をはじめとして、末端の寺や神社に至るまで、遷都などすべきでなかったということを一同に訴え申すので、あれほど強引な性格であられる太上入道も、それなら都帰りしようと言い出して、京中さわぎあった。

同年(治承四年)十ニ月二日、にわかに都帰りがあった。新都は北は山に沿って高く、南は海ちかく下っている。

浪の音が常にうるさく、潮風はげしい所である。なので新院(高倉上皇)はいつからとなくご病気がちであられたので、急いで福原をお出でになった。

摂政殿(藤原基通)をはじめ、太政大臣以下の公卿殿上人、われもわれもとお供なさった。

入道相国をはじめとして、平家一門の公卿殿上人は、われさきにとのぼられた。

誰がうんざりすることばかりだった新都にちょっとの間でも残りたいものか。

去る六月から、家々を壊して片寄せ、資材やさまざまな道具を運び下し、形ばかりは建てたけれど、また狂ったように都帰りがあったので、なんの指示もないままに、打ち捨て打ち捨てのぼられた。

おのおのすみかもなくして、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片隅について、御堂の廻廊、神社の拝殿などに宿って、しかるべき身分の人々ですら、いらっしゃった。

今度の都うつりの本当の目的は何かというに、旧都は南都北嶺(奈良と比叡山)が近くて、ちょっとの事でも、春日の神木、日吉の御輿などいって(僧兵どもが強訴してくるので)、うるさかった。

福原は山がへだたり川がかさなってなんといってもやはり道のりも遠いので、そのようなことは簡単にはできないだろうといって、入道相国が思いつかれたとかいうことだった。

同年(治承四年)十二月ニ十三日、近江源氏のそむいたのを攻めようといって、大将軍には左兵衛督(さひょうえのかみ)知盛(とももり)、薩摩守忠度(ただのり)、総勢二万余騎で、近江国に出発して、山本、柏木、錦古里(にしごり)などいう各地に分散している源氏どもを、一々にみな攻め落とし、すぐに美濃、尾張へ超えて行かれた。

語句

■よこ紙をやらるる 紙は横方向には破きにくいがそれでも強引に横に破ることから強引な性格。 ■ひしめきあへり 騒ぎあった。 ■十ニ月 『玉葉』治承四年十一月十九日条に遷都ははじめ二十六日出発、十ニ月ニ日入洛、後に繰り上げられて二十三日出発、二十六日入洛となったとある。 ■北は山にそひてたかく… 「北は山にそひて高く、南は海近くて下れり。波の音つねにかまびすしく、しほ風ことにはげし」(方丈記)。 ■御悩 『玉葉』に高倉上皇がこの頃病にかかっていた記事がある。 ■摂政殿 藤原基通。 ■形のごとくとりたてたりつる 形ばかりは建てた。 ■なんの沙汰にも及ばず なんの指示もないままに。都帰りが非常に早急におこなわれたさまが記されている。 ■八幡… 以下、京都の郊外。 ■本意 本当の目的。 ■春日の神木、日吉の御輿 興福寺が都に強訴におよぶ時は春日社の神木を掲げた。延暦寺が強訴のときは日吉社の御輿を掲げた。 ■十ニ月廿三日 『山槐記』『玉葉』には出発は十ニ月ニ日。 ■山本 山本義経ら。 ■柏木 山本義経の子、柏木義兼。甲賀郡柏木村(現水口)にすむ。 ■錦古里 柏木義兼の弟、錦織冠者義高。錦織(にしごり)は滋賀県大津市の地名。大津宮の跡地。 ■あぶれ源氏 流浪している源氏。各地にちらばっている源氏。

朗読・解説:左大臣光永

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