平家物語 八十ニ 奈良炎上(ならえんしやう)
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平家物語巻第五より「奈良炎上(ならえんしょう)」。高倉宮(以仁王)の謀反以来、平家と南都の関係は悪化する一方だった。ついに平重衡率いる討伐軍が、南都攻撃に向かう。
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前回「都帰(みやこがえり)」からのつづきです。
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あらすじ
今年(治承4年)五月、以仁王が平家に反旗を翻した時、三井寺と南都(興福寺)は以仁王に助力した。このため平家が両寺を攻撃するだろうという噂が立った。
ならば先に攻めよと、興福寺が蜂起する。摂政藤原基通が、「言いたいことがあるなら、法皇へ奏上しよう」と言って尽力したが、興福寺は一切聞かなかった。
有官の別当忠成、右衛門佐親雅らが使いに送られるが、興福寺の大衆に髻(もとどり)を切られ、逃げ帰る。
また、南都の大衆は大きな球丁(ぎっちょう。杖で毬を打つ球技)の球を作って、「平相国の首だ」と称して、足蹴にした。
平相国清盛という人は、仮にも天皇の外祖父だが、それをこのように罵るとは、天魔の行いとも言うべきものだった。
清盛はこれを聞き、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)を検非所に任じ、鎮圧のため南都へ差し向ける。
瀬尾太郎兼康の配下の侍は、内々の取り決めで武装していなかったが、南都の大衆はそれを知らず、六十余人を討ち取って、その首を猿沢の池のほとりに並べた。
怒った清盛は、頭中将重衡を大将軍とした四万余騎を南都へ差し向ける。
南都大衆は奈良坂・般若寺に城郭を築いて抵抗するも、夜になるまでに破られてしまう。
坂四郎永覚(さかのしろう ようがく)という悪僧は、小勢ながらよく戦ったが、平家の大勢に押され、撤退する。
戦いが夜に及び、重衡は火をともすよう命じる。
折からの激しい風にあおられた炎は、多くの寺院に吹きかかり、大火となり、ついには東大寺の大仏にまで燃え移る。
興福寺は藤原不比等が建立して以来、藤原氏の氏寺として栄えたが、東金堂の釈迦像も、西金堂の観世音も、煙となってしまった。
東大寺の大仏は、聖武天皇が自ら磨かれたものだが、熱で溶解し、頭部は焼け落ちてしまう。また、多くの経文が消失し、人命が失われた。
二十九日、頭中将重衡が南都より帰還する。入道相国一人は喜ぶが、ほかの人々は、重衡が伽藍を焼き尽くしたことを嘆いた。
僧兵たちの首は、獄門にすらかけられず、そこらの溝や堀に投げ捨てられた。
聖武天皇は東大寺を建立されたとき、「わが寺が栄えれは天下も栄え、わが寺が衰えれば天下も衰える」と書かれた。今後天下が衰えることは、疑いない。
こうして酷いことばかりだった一年が暮れ、治承5年となる。
原文
都には又、「高倉宮(たかくらのみや)、園城寺(をんじやうじ)へ入御(じゆぎよ)の時、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、同心(どうしん)して、あまッさへ御(おん)むかへに参る条(でう)、これもッて朝敵(てうてき)なり。されば南都をも三井寺(みゐでら)をもせめらるべし」といふ程こそありけれ、奈良(なら)の大衆(たいしゆ)おびたたしく蜂起(ほうき)す。摂政殿(せつしやうどの)より、「存知(ぞんぢ)の旨(むね)あらば、いくたびも奏聞(そうもん)にこそ及ばめ」と仰せ下されけれども、一切(いつせつ)用ゐ奉らず。有官(うくわん)の別当忠成(べつたうただなり)を御使(おつかひ)にくだされたりければ、「しや乗物よりとッてひきおとせ。もとどりきれ」と騒動(さうどう)する間、忠成色をうしなッてにげのぼる。つぎに右衛門佐親雅(うゑもんのすけちかまさ)をくださる。これをも、「もとどりきれ」と大衆ひしめきければ、とる物もとりあへずにげのぼる。其時(そのとき)は勧学院(くわんがくゐん)の雑色二人(ざふしきににん)がもとどりきられにけり。又南都には大きなる玉丁(ぎつちやう)の玉をつくッて、これは平相国(へいしやうこく)のかうべとなづけて、「うて」「ふめ」なンどぞ申しける。「詞(ことば)のもらしやすきは、わざはひをまねく媒(なかだち)なり。事のつつしまざるは、やぶれをとる道なり」といへり。この入道相国(にふだうしやうこく)と申すは、かけまくもかたじけなく、当今(たうぎん)の外租(ぐわいそ)にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆(だいしゆ)、凡(およ)そは天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞみえたりける。 入道相国かやうの事どもつたへきき給ひて、いかでかよしと思はるべき。かつがつ南都の狼藉(らうぜき)をしづめんとて、備中国住人(びつちゆうのくにのぢゆうにん)、瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)、大和国の検非所(けんびしよ)に捕(ふ)せらる。兼康五百余騎で南都へ発向(はつかう)す。「相構(あひかま)へて衆徒(しゆと)は狼藉をいたすとも、汝等(なんぢら)はいたすべからず。物具(もののぐ)なせそ。弓箭(きゆうせん)な帯(たい)しそ」とてむけられたりけるに、大衆(だいしゆ)かかる内儀(ないぎ)をば知らず、兼康が余勢(よぜい)六十余人からめとッて、一々にみな頸(くび)をきッて、猿沢(さるさは)の池のはたにぞかけならべたる。入道相国大きにいかッて、さらば南都をせめよやとて、大将軍(たいしやうぐん)には頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、副将軍(ふくしやうぐん)には中宮亮通盛(ちゆうぐうのすけみちもり)、都合其勢四万余騎で、南都へ発向(はつかう)す。大衆(だいしゆ)も老少(らうせう)きらはず、七千余人、甲(かぶと)の緒(を)をしめ、奈良坂(ならざか)、般若寺(はんにやじ)、二ケ所の路(みち)をほりきッて、堀(ほり)ほりかいだてかき逆茂木(さかもぎ)ひいて待ちかけたり。平家は四万余騎を二手(ふたて)にわかッて、奈良坂、般若寺二ケ所の城郭(じやうくわく)におし寄せて、時をどッとつくる。
現代語訳
都にはまた、「高倉宮が園城寺へお入りになった時、南都の大衆が心をあわせて、その上御むかえにまで参ったことは、これはつまり、朝敵になったということである。であれば南都をも三井寺をも攻撃されるにちがいない」
と言うやいなや、奈良の大衆がおびただしく放棄する。
摂政殿(藤原基通)から、
「思うところがあれば、何度でも朝廷に申し上げるつもりだ」
と仰せ下されたが、一切聞き入れ申し上げなかった。勧学院の別当忠成(ただなり)を御使にお下しになったところ、
「こやつ乗り物からとって引き落とせ。もとどり切れ」
と騒ぐので、忠成は色を失って逃げのぼる。
次に右衛門佐親雅をお下しになる。これをも、
「もとどりきれ」
と大衆がさわぐので、とる物もとりあえず逃げのぼる。
その時は勧学院の雑色ニ人のもとどりが切られた。
また南都には大きな毬打(ぎっちょう)の玉をつくって、これは平相国の首となづけて、「うて」「ふめ」など申した。
「言葉を簡単にもらしてしまうのは禍を招くなかだちである。行動を慎まないのは、失敗する道である」
という。この入道相国と申す方は、口にするのも畏れ多いが、今上帝の外祖父でいらっしゃる。それをこのように申した南都の大衆は、いったい天魔の行いと見えたことだ。
入道相国はこのような多くの事を伝え聞きなさって、どうしてよいと思われるだろう。急いで南都の狼藉をしずめようといって、備中国の住人、瀬尾太郎兼康(せのおのたろうかねやす)を大和国の検非違所(けびいしょ)に任命した。
兼康は五百余騎で南都へ出発する。
「くれぐれも衆徒は乱暴をいたすといっても、お前たちはいたしてはならない。鎧を着るな。弓矢を持つな」
といって奈良へ差し向けられたところ、大衆はこのような内々の相談をしらず、兼康の残りの軍勢をからめとって、一々にみな首をきって、猿沢の池のはたにかけならべた。
入道相国は大いに怒って、それなら南都を攻めよやといって、大将軍には頭中将重衡(しげひら)、副将軍には中宮亮(ちゅうぐうのすけ)通盛(みちもり)、総勢四万余騎で、南都へ出発する。
大衆も老若とわず、七千余人、甲の緒をしめ、奈良阪、般若寺、二箇所の路に堀を切断して、堀をほりかいだてかき逆茂木ひいて待ちかけた。
平家は四万余騎をニ手にわけて、奈良坂、般若寺ニ箇所の城郭におし寄せて、時をどっとつくる。
語句
■摂政殿 藤原基通。興福寺は藤原氏の氏神。 ■存知の旨 思うところ。 ■用ゐ奉らず 聞き入れ申し上げない。 ■有官の別当 他に官位をもって勧学院の別当をつとめている者。勧学院は藤原氏の教育機関。 ■しや 相手を罵る時につける接頭語。 ■右衛門佐親雅 藤原親隆の子。安元三年(1177)右兵衛権佐。 ■勧学院 藤原冬嗣が藤原氏の師弟教育のために創設した教育機関。京都市中京区西ノ京職司町に勧学院阯碑。 ■玉丁 毬杖。杖で毬を打つ遊戯。 ■詞のもらしやすきは 「言ノ洩レ易キハ禍ヲ召ク媒ナリ、事の慎マザルハ敗ヲ取ル道ナリ」(臣軌・慎密章)。『臣軌』は中国唐代の典籍。 ■当今 今上帝。 ■かつがつ 急いで。とりあえず。 ■検非所 諸国にもうけられた検非違使の事務所。 ■内儀 内々の相談。 ■余勢 残りの軍勢。 ■猿沢の池 興福寺の南の池。もと興福寺の放生池(ほうじょうち)。放生池とは、魚をわざと放して功徳を積む儀式をするための池。 ■大将軍には頭中将重衡… 『山槐記』『玉葉』によると官軍出発は十ニ月二十五日。翌二十六日は雨雪のため宇治にとどまり、二十七日、先陣が合戦におよんだとある。 ■奈良坂 山城から大和へ入る道。 ■般若寺 奈良市般若寺町にある。白雉五年(654)蘇我日向創建。ここでは般若寺の前あたりを通る道のことか。 ■かいだて 掻楯。楯をずらりと並べて垣のようにしたもの。
原文
大衆(だいしゆ)はみなかち立打物(だちうちもの)なり。官軍(くわんぐん)は馬にてかけまはしかけまはし、あそこここにおッかけおッかけさしつめひきつめさんざんに射ければ、ふせぐところの大衆、かずをつくいてうたれにけり。卯刻(うのこく)に矢合(やあはせ)して、一日たたかひくらす。夜に入ッて奈良坂、般若寺二ケ所の城郭共にやぶれぬ。おちゆく衆徒(しゆと)のなかに坂四郎永覚(さかのしらうやうかく)といふ悪僧(あくそう)あり。打物(うちもの)もッても弓矢をとッても、力のつよさも、七大寺(だいじ)、十五大寺(だいじ)にすぐれたり。萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)のうへに、黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)をかさねてぞ着たりける。帽子甲(ぼうしかぶと)に五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)をしめて、左右(さう)の手には、茅(ち)の葉(は)のやうにそッたる白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)、黒漆(こくしつ)の大太刀(おほだち)もつままに、同宿(どうじゆく)十余人前後(ぜんご)にたて、てンがいの門(もん)よりうッていでたり。これぞしばらくささへたる。おほくの官兵(かんぴやう)、馬の足ながれてうたれにけり。されども官軍は大勢(おほぜい)にていれかへいれかへせめければ、永覚(やうかく)が前後左右にふせぐところの同宿(どうじゆく)みなうたれぬ。永覚ただひとりたけけれど、うしろあらはになりければ、南をさいておちぞゆく。
夜(よ)いくさになッて、くらさはくらし、大将軍頭中将(とうのちゆうじやう)、般若寺(はんにゃじ)の門の前にうッたッて、「火をいだせ」と宣(のたま)ふ程こそありけれ、平家の勢(せい)のなかに、播磨国住人(はりまのくにのぢゆうにん)、福井庄下司(ふくいのしやうのげし)、二郎大夫友方(じらうたいふともかた)といふ者、楯(たて)をわり、たい松にして、在家(ざいけ)に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風ははげしし、ほもとは一つなりけれども、吹きまよふ風に、おほくの伽藍(がらん)に吹きかけたり。恥(はぢ)をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂(ならざか)にてうちじにし、般若寺にしてうたれにけり。行歩(ぎやうぶ)にかなへる者は、吉野十津河(よしのとつかは)の方(かた)へ落ちゆく。あゆみもえぬ老僧(らうそう)や、尋常(じんじやう)なる修学者(しゆがくしや)、児(ちご)ども、をんな童部(わらんべ)は、大仏殿(だいぶつでん)の二階の上、山階寺(やましなでら)のうちへわれさきにとぞにげゆきける。大仏殿の二階の上には、千余人のぼりあがり、かたきのつづくをのぼせじと、橋(はし)をばひいてンげり。猛火(みやうくわ)はまさしうおしかけたり。をめき叫ぶ声、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)、無間阿毘(むけんあび)のほのほの底(そこ)の罪人(ざいにん)も、これには過ぎじとぞ見えし。興福寺(こうぶくじ)は淡(たん)海(かい)公(こう)の御願(ごぐわん)、藤氏累代(とうじるいたい)の寺(でら)なり。東金堂(とうこんだう)におはします仏法最初(さいしよ)の釈迦(しやか)の像(ざう)、西金堂(さいこんだう)におはします自然涌出(じねんゆじゆつ)の観世音(くわんぜおん)、瑠璃(るり)をならべし四面(しめん)の廊(らう)、朱丹(しゆたん)をまじへし二階(にかい)の楼(ろう)、九輪(くりん)そらにかかやきし二基(き)の塔(たふ)、たちまちに煙(けぶり)となるこそかなしけれ。東大寺(とうだいじ)は常在不滅(じやうざいふめつ)、実報寂光(じつぽうじやくくわう)の生身(しやうじん)の御仏(おんほとけ)とおぼしめしなずらへて、聖武皇帝(しやうむくわうてい)、手づから身づからみがきたて給ひし。金銅(こんどう)十六丈(ぢやう)の廬遮那仏(るしやなぶつ)、烏瑟(うしつ)たかくあらはれて、半天(はんでん)の雲にかくれ、白毫新(びゃくがうあらた)にをがまれ給ひし、満月(まんぐわつ)の尊容(そんよう)も、御(み)くしは焼けおちて大地(だいぢ)にあり。御身(ごしん)はわきあひて山のごとし。
現代語訳
大衆はみな徒歩で、刀を持っている。官軍は馬でかけまわしかけまわし、あそこここにおッかけおッかけ、矢を連射してさんざんに射たので、防ぐところの大衆、数をつくして討たれてしまった。
卯の刻(午前6時)に矢合わせして、一日戦い通した。夜に入って、奈良阪、般若寺ニ箇所の城郭はともに破れた。
おちゆく衆徒のなかに、坂四郎永覚(さかのしろう ようかく)という悪僧がある。
刀をもっても弓矢をとっても、力のつよさも、奈良七大寺、十五大寺にすぐれていた。
萌黄威の腹巻のうえに、黒糸縅の鎧をかさねて着ていた。帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の手には、茅萱の葉のようにそっている白柄の大長刀と、黒漆の太刀を持ったまま、同宿の僧十余人、前後にたてて、転害門(てがいもん)からうってでた。
ここでしばらくささえた。多くの官軍が、馬の足をなぎ切られてうたれた。しかし官軍は大勢でいれかえいれかえ攻めたので、永覚の前後左右にふせいでいた同宿の僧はみなうたれてしまった。
永覚ただひとり勇敢にたたかったが、うしろがむきだしになったので、南をさしておちてゆく。
夜のいくさになって、暗さは暗いし、大将軍頭中将は般若寺の門の前につっ立って、「火を出せ」とおっしゃるが早いか、平家の軍勢の中に、播磨国の住人、福井の庄司の庄園管理人、次郎大夫友方(じろうたいふ ともかた)という者が、楯をわり、たい松にして、あたりの民家に火をかけたのだった。
十ニ月二十八日の夜であったので、風ははげしく、火元は一つであったが、吹きかまよう風に、多くの伽藍に吹きかけたのだった。
恥をも思い、名をも惜しむほどの者は、奈良阪でうち死にし、般若寺でうたれた。
歩ける者は、吉野十津川の方へ落ちてゆく。歩けない老僧や、すぐれた修学者、稚児(ちご)ども、女童は、大仏殿のニ階の上、山階寺(興福寺)の内へわれさきにと逃げていった。
大仏殿の二階の上には、千余人のぼりあがり、敵がつづくのを登らせまいと、橋を引いてしまった。
猛火はまっこうからおしかけた。おめきさけぶ声は、焦熱、大焦熱、無間地獄のほのおの底の罪人も、これには過ぎないだろうと見えた。
興福寺は淡海公(藤原不比等)の御願寺であり、藤原氏累代の氏寺である。東金堂におはします日本に仏法がはじめて伝わった時、新羅から贈られた釈迦の像、西金堂におはします自然に湧き出してきた観世音菩薩、瑠璃をならべたような四面の廻廊、朱・丹(に)をまじえた二階建ての楼台、九輪そらにかがやく二基の塔、それらが、たちまちに煙となるのは悲しいことであった。
東大寺は常に存在し滅びることがなく、実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)・常寂光土(じょうじゃっこうど)に通じる生身の御仏と思い定められて、聖武天皇が、手づからみずからみがきたてられた、金堂十六丈の盧遮那仏が、烏瑟たかくあらわれて、半天の雲にかくれ、白毫あらたかに拝まれなさった、満月のような尊いお姿も、御くしは焼けおちて大地にあり、御体は溶けて流れて山のようである。
語句
■かち立 徒歩で戦うこと。 ■打物 刀。 ■永覚 未詳。 ■悪僧 荒々しい僧。 ■七大寺 東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺。 ■十五大寺 七大寺に新薬師寺・大后寺・不退寺・京法華寺・超証寺・招提寺・宗鏡寺・弘福寺をくわえたもの。あるいは七大寺に新薬師寺・本元興寺・招提寺・西寺・四天王寺・崇福寺・弘福寺・東寺をくわえる。 ■帽子甲 鉢が丸く錣が柔らかい帽子のように見える甲。 ■五枚甲 錣が五枚ある甲。 ■茅 茅萱。イネ科の雑草。細く反り返っている。 ■てンがいの門 転害門(てがいもん)。東大寺の西面、南から三番目の門。正倉院の西側。平重衡の焼き討ち(1180)、三好・松永の兵火(1567)を焼け残って現存。天平時代の東大寺の伽藍を想像できる唯一の遺構。 ■下司 庄園の事務を取り扱う役。 ■十二月廿八日 『山槐記』治承四年十ニ月ニ十八日条にくわしい。 ■十津川 吉野の南。 ■尋常なる すぐれた。 ■大仏殿 東大寺大仏殿。世界最大の木像建造物。現在の大仏殿は江戸時代(元禄時代)に公慶上人によって再建されたもの。 ■山階寺 ここでは興福寺のこと。山階寺は興福寺の前身となった寺。藤原鎌足の妻・鏡女王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を願って山城国宇治郡山階(現山科)に鎌足造立の釈迦三尊像を安置したのが始まり。和銅3年(710)平城京遷都の直後に、奈良にうつされた。 ■まさしう まっこうから。 ■焦熱大焦熱、無間 『往生要集』にみえる八大地獄の名。焦熱地獄、大焦熱地獄、無間地獄。阿毘=阿鼻。無間の意味のサンスクリット語を漢字に当てたもの。 ■淡海公 藤原不比等の諡。 ■東金堂 神亀3年(726)聖武天皇が先代の天皇であり叔母にあたる元正上皇の病気平癒のために建立した建物。仏法が渡来したとき新羅から贈られたという釈迦像を安置。現在の中金堂は応永22年(1415)の再建。五重塔とならぶ。 ■西金堂 聖武天皇皇后・光明子が、亡き母・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の一周忌供養のため建立した建物。天平5年(733)正月より造営が始まり、翌天平6年正月に完成。享保2年(1717)の火事で焼けて、現在、土壇が残るのみ。しまいました。阿修羅像以下の八部衆や十大弟子などの像は取り出され、現在、国宝館に安置されている。 ■自然湧出 じねんゆじゅつ。自然にこの世に湧き出た。 ■九輪 塔の頂上にある、九つの輪を重ねた装飾。 ■ニ基の塔 天平ニ年(730)光明皇后が建てた五重塔と、康治ニ年(1143)待賢門院が建てた三重塔。 ■常在不滅 仏は常に存在しけして滅びないの意(法華経・十六・如来寿量品)。 ■実報寂光 天台宗で四仏土というものがある。凡聖同居土ゅぼんしょうどうごど)・方便有余土(ほうべんうよど)・実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)・常寂光土(じょうじゃっこうど)。盧遮那仏はこのうち、実報無障礙土・常寂光土に通じているとされる。 ■盧遮那仏 正式には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。智慧と慈愛の光で全世界をあまねく照らし、衆生を導く仏。宗派によって解釈は違うが、華厳宗では釈迦と同一とみなす。 ■烏瑟 うしつ。烏瑟膩沙(うしつにしゃ)の略。仏の頭の上の一段高くなった部分。肉髻(にくけい)とも。 ■白毫 仏の眉間に生えている白い巻毛。 ■満月の尊容 仏の尊い姿を満月にたとえる。 ■わきあひて 熱ですべて溶けて。
原文
八万四千の相好(さうがう)は、秋の月はやく五重(ごじゆう)の雲におぼれ、四十一地(ぢ)の瓔珞(やうらく)は、夜の星むなしく十悪(じふあく)の風にただよふ。煙(けぶり)は中天(ちゆうてん)にみちみち、ほのほは虚空(こくう)にひまもなし。まのあたりに見奉る者、さらにまなこをあてず。はるかにつたへきく人は、肝(きも)たましひをうしなへり。法相(ほつさう)、三論(さんろん)の法門聖教(ほふもんしやうげう)すべて一巻(くわん)のこらず。我朝はいふに及ばず、天竺震旦(てんぢくしんだん)にもこれ程の法滅(ほふめつ)あるべしともおぼえず。優塡大王(うでんだいわう)の紫磨金(しまごん)をみがき、毘須羯磨(びしゆかつま)が赤栴檀(しやくせんだん)をきざんじも、わづかに等身(とうじん)の御仏(おんほとけ)なり。況哉(いはんや)これは、南閻浮提(なんえんぶだい)のうちには唯一無双(ゆいいちぶさう)の御仏(おんほとけ)、ながく朽損(きうせん)の期(ご)あるべしともおぼえざりしに、いま毒縁(どくえん)の塵(ちり)にまじはッて、ひさしくかなしみをのこし給へり。梵尺四王(ぼんじゃくしわう)、竜神八部(りゆうじんはちぶ)、冥官冥衆(みやうくわんみやうしゆ)も驚きさわぎ給ふらんぞ見えし。法相擁護(ほつさうおうご)の春日(かすが)の大明神(だいみやうじん)、いかなる事をかおぼしけん。されば春日野(かすがの)の露も色かはり、三笠山(みかさやま)の嵐の音、うらむる様(さま)にぞきこえける。
ほのほの中(なか)にて焼け死ぬる人数を記(しる)いたりければ、大仏殿(だいぶつでん)の二階(にかい)の上には一千七百人余、山階寺(やましなでら)には八百余人、或御堂(あるみだう)には五百余人、或御堂には三百余人、つぶさに記(しる)いたりければ、三千五百余人なり。戦場(せんぢやう)にしてうたるる大衆(だいしゆ)千余人、少々は般若寺(はんにやじ)の門の前にきりかけ、少々はもたせて都へのぼり給ふ。廿九日頭中将(とうのちゆうじやう)南都ほろぼして北京(ほくきやう)へ帰りいらる。入道相国(にふだうしやうこく)ばかりぞいきどほりはれてよろこばれけれ。中宮(ちゆうぐう)、一院(いちゐん)、上皇(しやうくわう)、摂政殿以下(せっしやうどのいげ)の人々は、「悪(あく)僧(そう)をこそほろぼすとも、伽藍(がらん)を破滅(はめつ)すべしや」とぞ御歎(おんなげき)ありける。衆徒(しゆと)の頸(くび)ども、もとは大路(おほぢ)をわたして、獄門(ごくもん)の木に懸けらるべしときこえしかども、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぷくじ)のほろびぬるあさましさに、沙汰(さた)にも及ばず。あそこここの溝(みぞ)や堀(ほり)にぞすておきける。聖武皇帝(しやうむくわうてい)、宸筆(しんぴつ)の御記文(ごきもん)には、「我寺興福(わがてらこうぷく)せば天下も興福し、吾寺衰微(わがてらすいび)せば天下も衰微すべし」とあそばされたり。されば天下の衰微せん事も疑(うたがひ)なしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れ、治承(ぢしよう)も五年になりにけり。
現代語訳
八万四千の相好(仏の顔かたち)は、秋の月がたちまち雲にかくれるように五逆罪の雲にしずみ、四十一地の瓔珞は、夜の星がむなしく風にただようように十悪のうちにただよう。
煙は中天にみちみち、炎は虚空にすきまなく上がっている。目の前に拝見する者は、まったく目を向けることができない。遠くで伝えきく人は、肝たましいを失った。
法相宗(興福寺)、三論宗(東大寺)の法文・経文はすべて一巻も残らない。わが国はいうに及ばず、中国にもこれ程の仏法の破壊があるとも思えない。
優塡大王(うでんだいおう)が黄金を磨き、毘須羯磨(びしゅかつま)が赤栴檀に彫刻して仏像をつくったのも、わずかに等身大の御仏である。
(それでも尊いのに)ましてこれは、人間世界のうちには唯一無双の御仏、ながく朽ち衰える時があるとも思わなかったのに、いま汚れた俗世の塵にまじわって、長き悲しみをお残しになった。
梵天・帝釈天・四天王、竜神はじめ八部衆、冥界の役人たちも驚きさわぎなさっだろうと見えた。
法相宗の守護神であられる春日の大明神は、どのような事を思われただろう。
であれば春日野の露も色がかわり、三笠山の嵐の音は、恨むようにきこえた。炎の中で焼け死んだ人数を記せば、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、細かく記すと、三千五百余人である。
戦場でうたれた大衆千余人、少々は般若寺の門の前にさらし、少々は首をもたせて都へのぼられた。
二十九日、頭中将は南都をほろぼして京都に帰り入った。入道相国だけが怒りがはれて喜ばれた。
中宮(建礼門院)、一院(後白河法皇)、上皇(高倉上皇)、摂政殿(藤原基通)以下の人々は、「悪僧を滅ぼすとしても、伽藍を破壊する必要があったのか」と、お嘆きになった。
衆徒の多くの首は、はじめは都大路をひきまわして、獄門の木にかけられるそうだと噂されたが、東大寺、興福寺がほろびてしまった悲惨さに、命令にも及ばない。
あちこちにの溝や堀に捨ておいた。
聖武天皇ご宸筆の御記文には、「わが寺が興福すれば天下も興福し、わが寺が衰微すれば天下も衰微するだろう」とお記しになった。
であれば天下の衰微するだろうことも疑いなしと思われた。酷いことばかりだった年も暮れ、治承も五年になった。
語句
■相好 そうごう。顔かたち。仏には八万四千の相好があり、それぞれ仏のよい面をあらわしているという。 ■五重の雲におぼれ 五逆罪におぼれることを雲にのまれることにたとえる。 ■四十一地 菩薩修行による四十一段の階位。十住・十行・十回向・十地・妙覚。 ■瓔珞 ようらく。仏像や仏殿、仏間の装身具。 ■十悪 殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)の「身三」、妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご)の「口四」、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)の「意三」の総称。 ■法相、三論 法相宗(興福寺)と三論宗(東大寺)。 ■法門聖教 法文・経典。 ■法滅 仏法の滅亡。 ■優塡大王 うでんだいおう。中インド、拘睒弥(くせんみ)国の王。釈迦を待ちわびて赤栴檀(香木)で仏像をつくった。 ■紫磨金 しまごん。黄金のこと。閻浮檀金(えんぶだごん)とも。 ■毘須羯磨 びしゅかつま。仏教を守護する天部の一。古代インド、コーサラ国の王、浪斯匿王(おしのくおう)=プラセーナジットが仏像を作ろうとした時、毘須羯磨が工人の姿であらわれて仏像を作ったという。 ■きざんじも 「刻みしも」の音便。 ■南閻浮提 なんえんぶだい。人間世界。須弥山の南側にある世界。 ■毒縁の塵 汚れた俗世の塵。 ■梵尺四王 ぼんじゃくしおう。梵は梵天。尺は帝釈天。四王は四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)。 ■八部 八部衆。仏教を守護する異形の神々。天竜八部衆、竜神八部とも。天衆・竜衆・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)。 ■冥官・冥衆 冥土の役人たち。 ■法相擁護の春日の大明神 春日社は藤原氏の氏神。藤原氏の氏寺である興福寺の法相宗を守る。 ■三笠山 東大寺、興福寺の東にある山。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(阿倍仲麻呂)。 ■きりかけ さらし。 ■一院 後白河院。 ■獄門 牢獄の門。ここに首をかけた。京都には東西に東獄・西獄があった。 ■我寺興福… 「若我寺興複、天下興複、若我寺衰弊、天下衰弊」(古京遺文)。
ゆかりの地
般若寺
法性山般若寺(ほっしょうざんはんにゃじ)。真言律宗の寺院。奈良と京都をむすぶ旧京街道上の坂道の途中にある。
般若寺 楼門
般若寺
高句麗僧目慧灌(えかん)の創建と伝わるが、白雉5年(654)説、聖武天皇建立説、行基建立説も。
治承4年(1180)平重衡の焼き討ちで焼失したが、鎌倉時代の建長5年(1253)頃、東大寺僧観良房良恵らが石造十三重塔を建立したことから復興がはじまる。この十三重塔は境内に現存し、重要文化財に指定されている。
般若寺
般若寺 平重衡公供養塔
現在の本堂は寛文7年(1667)の再建。木造文殊菩薩騎獅像を本尊として安置する。毎年4月25の文殊会式は多くの人で賑わう。
四季折々の花の寺として知られ、春は山吹が、初夏はアジサイが、夏と秋はコスモスが境内を美しく彩る。
鎌倉時代末期、後醍醐天皇第三皇子、大塔宮護良親王は19歳で天台座主となったが、元弘元年(1331)父後醍醐天皇による倒幕運動「元弘の変」が勃発。
後醍醐天皇が笠置寺にこもって幕府軍に抵抗すると、護良親王は尊澄法親王とともに参戦。しかし笠置山の戦に敗れて撤退し、般若寺に潜伏した。幕府方の追っ手が捜索にきたが、護良親王は堂内にあった大般若経の唐櫃の中に隠れて難を逃れたという(般若寺の御危難)。
その後、護良親王は熊野へ逃げ延びるが、後醍醐天皇が隠岐の島に流された後も倒幕のリーダーとして、楠木正成や赤松円心に指示を出し、みずからも吉野山で挙兵して、幕府打倒をめざして戦った。
東大寺転害門
東大寺西側の三つの門のうちいちばん北側の門。切妻造八脚門・本瓦葺。
東大寺転害門
かつて平城京左京一条大路に面していた。治承4年(1180)平重衡の焼き討ち、戦国時代の三好・松永の戦火(1567)のいずれも焼け残り、東大寺で唯一、天平時代創建当時の姿を留める遺構。
毎年10月5日に東大寺鎮守・手向山八幡宮で行われる祭礼「手向山八幡宮転害会(たむけやまはちまんぐうてがいえ)では、神輿(みこし)の御旅所となる。
これは奈良時代に八幡神が入京した時、転害門で神輿をおろしたことに由来する。
鎌倉時代初期、平景清が東大寺大仏供養会にきた源頼朝を討とうとして、門の影に隠れていたという伝説があり、ここから景清門ともよばれる。
奈良と京都をむすぶ京街道に面していたため、転害門付近には民家が多く、東大寺郷が形成された。江戸時代には旅籠屋が立ち並び賑わった。
奈良市雑司町55-1。バス停手貝町前。
東大寺
華厳宗総本山。南都七大寺の一つ。
東大寺 大仏殿
東大寺 盧遮那仏
神亀5年(728)聖武天皇が早世した皇太子・基皇子(もといのみこ)の菩提を弔うために建立した金鐘山寺(こんしょうさんじ)を前身とする。
天平13年(741)、聖武天皇は当時都を置いていた恭仁京から、全国に国分寺・国分尼寺を設置する勅を出す。そこで金鐘山寺は大和国国分寺とされ金光明寺(こんこうみょうじ)と称された。
天平15年(743)、聖武天皇は近江の紫香楽宮(しがらきのみや)にて盧舎那仏造営の詔を発す。
背景には疫病や飢饉の流行、九州で勃発した藤原広嗣の乱などの社会不安があった。そこで聖武天皇は仏教の力で国を護る=鎮護国家という考えで、大仏造営の勅を発した。
大仏の造営は聖武天皇が離宮を置いていた紫香楽宮で始まったが、災害が相次いだため中止となり、平城京の金鐘寺で造営されることとなった。平城京の東にあることか東大寺と寺の名もあらためた。
大仏造営は747年に始まり749年まで足掛け3年に渡った。民衆の間で支持を得ていた僧・行基も、大仏造営の勧進に加わった。
さらに大仏殿の完成までには3年かかった。
天平勝宝4年(752)4月9日、大仏・大仏殿ともに完成し、開眼供養会が行われた。
天平勝宝8年(756)聖武上皇が崩御すると、光明皇太后によってその遺品が東大寺に収められた。遺品の多くは今も東大寺北方の正倉院に安置されている。
東大寺は華厳宗をはじめとする奈良の仏教教学…「南都六衆」の研究所として栄え、平安時代に入ると、天台宗・真言宗も取り込んで、八宗兼学の学問寺となった。
治承4年(1180)12月、平重衡の南都焼き討ちによって大仏殿はじめ伽藍のほとんどが焼失した。しかし翌年には俊乗房重源による再建活動が始まった。後白河法皇や源頼朝も大仏再建のために援助し、文治元年(1185)大仏開眼供養が、建久6年(1195)大仏殿落慶供養が行われた。
戦国時代には永禄10年(1567)松永久秀と三好三人衆との戦いの際に大仏殿はじめ多くの伽藍が焼失した。その後、大仏殿は長く再建されず大仏は吹きさらしになっていたが、宝永6年(1709)徳川綱吉とその母桂昌院の援助のもと、大仏・大仏殿が復興し、現在に至る。
興福寺
興福寺は和銅3年(710)平城京遷都直後、藤原氏の氏寺として建立された。
興福寺 五重塔
興福寺の歴史は中臣鎌足にさかのぼる。中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒した中臣鎌足は、決起の成功を感謝して釈迦三尊像と四天王像を造立した。
天智天皇6年(667)、都が飛鳥から大津に遷り、翌668年中大兄皇子が天智天皇として即位した。翌669年、鎌足が病の床につくと、妻・鏡女王(かがみのおおきみ)は、病気平癒を願って山階の地に鎌足造立の釈迦三尊像を安置して寺を開いた。これが興福寺の前身たる山階寺(やましなでら)である。
山階寺跡
壬申の乱(672)を経て、都が大津から飛鳥に遷ると山階寺も飛鳥に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と称される(奈良県橿原市久米あたり)。
その後、鎌足の跡を継いだ次男の不比等は大宝律令、養老律令といった法典を制定し、日本を律令国家へとおしすすめていった。
和銅3年(710)平城京遷都に伴い、不比等は厩坂寺を奈良に遷し、場所を春日山のふもとに定め、興福寺と称した。
はじめ中金堂が立てられ、伽藍がじょじょに充実していった。
養老5年(721)元明上皇が藤原不比等の病平癒のため北円堂を建立。神亀3年(726)聖武天皇が元正上皇の病平癒のため東金堂を建立。天平2年(730)光明皇后の発願で五重塔を建立。
興福寺 東金堂
興福寺 西金堂跡
天平6年(734)光明皇后が母橘三千代の菩提を弔うため西金堂(さいこんどう)を建立。弘仁4年(813)藤原冬嗣の発願で南円堂が建立された。
延暦13年(794)平安京遷都の後も、興福寺は藤原氏の氏寺として大いに栄えた。何度も火災にあうも、堂宇はそのたびに再建された。また平安時代の神仏習合思想により、春日大社と一体化し「春日社興福寺」と称した。
また比叡山延暦寺とならび「南都・北嶺」と称された。
治承4年(1180)平重衡の焼き討ちによりすべての伽藍が焼失したが、その後少しずつ再建された。鎌倉時代には興福寺は勢いを取り戻す。鎌倉幕府は各国に守護を置いたが、大和国には守護が置かれず、興福寺が大和国守護を務めた。
続く室町時代にも興福寺は大和国守護を務めた。しかし戦国時代には戦国大名・筒井氏によって大和国の実権を奪われていった。
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