平家物語 八十三 新院崩御(しんゐんほうぎよ)

『平家物語』巻第六より「新院崩御」。高倉上皇のご崩御前後のごようす。

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前回「奈良炎上(ならえんしょう)」からのつづきです。
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あらすじ

治承五年(1181年)の正月が来たが、東国の争乱(「富士川」)、南都の焼失(「奈良炎上」)など凶事が重なり、節会は行われず、内裏は鎮まりかえっていた。

後白河法皇は、「私は前世の善行によってこの世で天皇となった。四代の天皇、二条・六条・高倉・安徳は私の子や孫だ。なぜ今政務を留められ、空しい月日を送るのだろう」とお嘆きになった。

同五日、昨年暮れの南都蜂起(「奈良炎上」)の責任を取る形で、南都の僧綱(僧を統べる僧官)が官職を留められ、所領を没収された。

「初音の僧正」と呼ばれた興福寺別当花林院僧正永円 (こうふくじのべっとう けりんいんのそうじょう ようえん)は、 仏像・経文が煙となったことに衝撃を受けて、程なく亡くなった。

この永円が「初音の僧正」と呼ばれるようになったいきさつは、ある時ほととぎすの鳴き声を聞いて、

きくたびに めづらしければ ほととぎす いつも初音の 心地こそすれ
(意味)ほととぎすの声は、聞くたびに新しい感動があるので、いつも初音を きくような心地がするよ

さて、凶事が続いたといっても形式的には御斉会(ごさいえ。鎮護国家の祈りの儀式)は行うべき ということになり、北京(比叡山)南都(興福寺)それぞれから僧を召しだして、御斉会が 行われた。

高倉上皇は、去年法皇が鳥羽殿に幽閉されたこと(「法皇被流」)、 高倉の宮(以仁王)が討たれたこと(「宮御最期」)、 都うつり(「都遷」、「都帰」)、それに加えて昨年暮れの奈良炎上(「奈良炎上」)… これらの心労が重なり、寝込んでしまい、同十四日、ついに崩御された。

比叡山の澄憲法院は御葬送に参列しようと急いで山を下りましたが、すでに火葬されたことを嘆いて、

つねに見し 君が御幸(みゆき)を けふとへば かへらぬたびと 聞くぞかなしき
(意味)いつも見慣れていた上皇様の御幸であるが、今日の行き先を尋ねると、 二度と帰ることのない死の旅路ということ。なんと悲しいことでしょう。

また、ある女房(建礼門院右京大夫)が、

雲の上に 行末とほく みし月の ひかり消えぬと 聞くぞかなしき

(意味)雲の上に輝く月のように、末永く栄えると思っていた上皇様でしたのに、その光を消して、亡くなられてしまった。悲しいことです。

御年二十一歳。賢王として聞こえた高倉上皇の崩御を悲しまぬ人はいなかった。

……

高倉上皇ご崩御前後の話でした。『平家物語』は高倉上皇に対してとても評価が高く、惜しみなく絶賛します。

高倉上皇が葬られた東山の清閑寺は、清水寺から徒歩15分ほど。清水寺子安の塔の近くの通路から、「歌の中道」とよばれる小道を通って、清閑寺に至ります。

境内の見晴らし台から、山間に京都の町が一望できます。すばらしい景色です。

次回「紅葉(こうえふ)」は、12/13(月)配信です。

原文

治承五年正月一日(ひとひのひ)、内裏には東国の兵革(ひやうがく)、南都の火災(くわさい)によッて、朝拝(てうはい)とどめられ、主上出御(しゆつぎよ)もなし。物の音(ね)もふきならず、舞楽(ぶがく)も奏せず、吉野の国栖(くず)も参らず、籐氏(とうじ)の公卿一人(いちにん)も参ぜられず。氏寺焼失(うぢでらぜうしつ)によッてなり。二日(ふつかのひ)、殿上の宴酔(えんすい)もなし。男女(なんによ)うちひそめて、禁中(きんちゆう)いまいましうぞみえける。仏法王法(ぶつぽふわうぼふ)共につきぬる事ぞあさましき。一院(いちゐん)仰せなりけるは、「われ十善の余薫(よくん)によッて万乗(ばんじよう)の宝位(ほうゐ)をたもつ。四代の帝王(ていわう)を思へば子なり孫なり。いかなれば万機(ばんき)の政務(せいむ)をとどめられて、年月(としつき)をおくるらむ」とぞ御歎(おんなげき)ありける。同五日(おなじきいつかのひ)、南都の僧綱等闕官(そうがうらけつくわん)ぜられ、公請(くじやう)を停止(ちやうじ)し、所職(しよしよく)を没収(もつしゆ)せらる。衆徒(しゆと)は老いたるもわかきも、或(あるい)は射ころされきりころされ、或は煙(けぶり)の内をいです、炎(ほのほ)にむせんでおほくほろびにしかば、わづかにのこる輩(ともがら)は山林にまじはり、跡をとどむる者一人(いちにん)もなし。興福寺別当花林院僧正永縁(こうぷくじべつたうけりんゐんそうじやうやうえん)は、仏像経巻(ぶつぞうきやうぐわん)のけぶりとのぼりけるをみて、あなあさましとむねうちさわぎ、心をくだかれけるより、病(やまひ)ついて、いくほどもなく、つひにうせ給ひぬ。此僧正は優(いう)になさけふかき人なり。或時郭公(ほととぎす)のなくを聞いて、

きくたびにめづらしければほととぎすいつもはつ音(ね)のここちこそすれ

といふ歌をようで、初音の僧正とぞいはれ給ひける。

ただしかたのやうにても、御斎会(ごさいゑ)はあるべきにて、僧名(そうみやう)の沙汰(さた)ありしに、「南都の僧綱(そうがう)は闕官(けつくわん)ぜられぬ。北京(ほくきやう)の僧綱をもッておこなはるべき歟(か)」と公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。さればとて南都をも捨てはてさせ給ふべきならねば、三論宗(さんろんじゆう)の学匠(がくしやう)、成宝已講(じやうほういこう)が勧修寺(くわんじゆじ)に忍びつつかくれゐたりけるを召しいだされて、御斎会(ごさいゑ)かたのごとくおこなはる。

上皇はをととし法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給ひし御事、去年(こぞ)高倉(たかくら)の宮(みや)のうたれさせ給ひし御有様(おんありさま)、都うつりとてあさましかりし天下の乱(みだれ)、かやうの事ども御心苦しうおぼしめされけるより、御悩(ごなう)つかせ給ひて、常はわづらはしうきこえさせ給ひしが、東大寺、興福寺ほろびぬるよしきこしめされて、御悩いよいよおもらせ給ふ。法皇なのめならず御歎(おんなげき)ありし程に、同(おなじき)正月十四日(じふしにち)、六波羅池殿(いけどの)にて上皇遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)なりぬ。御宇(ぎよう)十二年、徳政千万端(とくせいせんばんたん)、詩書仁義(ししよじんぎ)の廃(すた)れたる道をおこし、理世安楽(りせいあんらく)の絶えたる跡を継ぎ給ふ。三明(みやう)六通(つう)の羅漢(らかん)もまぬかれ給はず。幻術変化(げんじゆつへんげ)の権者(ごんじや)ものがれぬ道なれば、有為無常(ういむじやう)のならひなれども、理(ことわり)過ぎてぞおぼえける。やがてその夜、東山の麓(ふもと)、清閑寺(せいがんじ)へうつし奉り、ゆうふべのけぶりとたぐへ、春の霞(かすみ)とのぼらせ給ひぬ。澄憲法印(ちようけんほふいん)、御葬送(ごさうそう)に参りあはんといそぎ山よりくだられけるが、はやむなしきけぶりとならせ給ふをみ参らせて、

つねにみし君が御幸(みゆき)を今日(けふ)とへばかへらぬたびときくぞかなしき

又ある女房、君かくれさせ給ひぬと承ッて、かうぞ思ひつづけける。

雲の上に行末(ゆくすゑ)とほくみし月のひかり消えぬときくぞかなしき

御年(おんとし)廿一、内には十戒(かい)をたもち、外(ほか)には五常(じやう)を乱らず。礼儀(れいぎ)をただしうさせ給ひけり。末代(まつだい)の賢(けん)王(わう)にてましましければ、世の惜しみ奉る事、月日の光をうしなへるがごとし。かやうに人のねがひもかなはず、民の果報(くわほう)もつたなき、人間のさかひこそかなしけれ。

現代語訳

治承五年正月一日、内裏では東国の兵乱、南都の火災によって朝拝の儀がとめられ、主上(安徳天皇)のお出ましもない。

楽器の音もふきならさず、舞楽も奏さず、(毎年正月の恒例である)吉野の国栖の楽人たちも参らず、藤原氏の公卿は一人も参られない。

氏寺(興福寺)が焼失したからである。

二日、清涼殿の殿上での宴会もない。男女ともにひっそりして、宮中は不吉なことのように見えた。

仏法王法ともに尽きてしまったのは酷いことだった。一院(後白河法皇)が仰せになったのは、

「われは前世で十善の戒律を守った余徳によって天子の位をたもっている。四代の天皇(二条、六条、高倉、安徳)を思えば、子である。孫である。どうして天下の政務をとどめられて、年月を送るのだろうか」

とお嘆きになった。

同月五日、南都の役職つきの僧らが官職を停止され、公の法会に召される資格を停止され、僧職を没収された。

衆徒は老いたるも若きも、あるいは射ころされきりころされ、あるいは煙の中を出ず、炎にむせんで多く死んでしまったので、わずかに残る者どもは、山林にすまい、寺に跡をとどめる者は一人もない。

興福寺の別当、花林院僧正(かりんいんのそうじょう)永縁(ようえん)は、仏像経文がけむりとなって空に立ち上ったのをみて、ああ酷いと胸がさわぎ、心をくだかれてからというもの、病にかかり、どれほどもなく、ついにお亡くなりになった。

この僧正は優雅で情けふかい人である。

ある時ほととぎすの鳴くのを聞いて、

きくたびに…

(きくたびに新鮮な響きがあるから、ほととぎすの声はいつでも初音という気持がする)

という歌をよんで、初音の僧正といわれなさった方である。

ただし形ばかりでも御斎会は行うべきであるので、講師をつとめる僧の名を太政官に報告するよう命令があったところ、

「南都の役職つきの僧は官職を停止されている。京都の役職つきの僧によって行うべきだろうか」と公卿評定があった。

だからといって南都をも完全にお捨てになるわけにはいかないので、三論宗の学識ゆたかな僧、成宝已講(じょうほういこう)が勧修寺(かんじゅじ)に忍んでかくれすんでいるのを召し出されて、御斎会を形式ばかり行われる。

(高倉)上皇はおととし(後白河)法皇が鳥羽殿におしこめられなさった御事、去年高倉宮がお討たれになった御有様、都うつりといって酷く天下が乱れたこと、このようなさまざまな事に御心苦しく思われたたことにより、ご病気になられて、いつもご不快のように噂されておられたが、東大寺、興福寺が焼け滅びたことをおききになり、ご病気はいよいよ重くなられた。

法皇はなみなみならず御嘆きになっているうちに、同年(治承五年)正月十四日、六波羅池殿にて(高倉)上皇はついに崩御された。

ご治世十ニ年、徳のある政をあらゆる局面で行い、『詩経』『書経』のとく仁義のすたれた道をおこし、世をおさめ民を安楽にすることの絶えた跡をお継ぎになった。

三明六通の羅漢もお免れにならず、不思議の術によって仏菩薩が仮にこの世にあらわれた権者であっても逃れられない道であるので、あらゆるものは無常であるのが世のならいとはいっても、これはあまりにも道理がまさりすぎていると思われた。

すぐにその夜、東山の麓、清閑寺にうつし申し上げ、夕煙となぞらえるように、春の霞となって空にたちのぼられた。

澄憲法印がご葬送に参りあおうと急いで比叡山から下られたが、はやくもむなしき煙とおなりになったのを拝見して、

つねにみし…

(いつも拝見していたわが君の御幸を、今回訪ねてみれば今度は帰らぬ死出の旅ときくことの悲しいことです)

またある女房が、君がお隠れになられたとうかがって、このように思いを歌につづった。

雲の上に…

(雲の上の月のように、宮中で長くお栄えになると思っていましたわが君。それが今や光が消えてしまったときくのは、悲しいことです)

御年二十一、仏道においては十戒をたもち、儒教においては五常を乱さず、礼儀をただしくなさっていた。末代の賢王でいらしたので、世の惜しみ申し上げることは、月日の光をうしなったようであった。

このように人のねがいもかなわず、民の運もわるい、人間世界の悲しいことよ。

語句

■朝拝 天皇が元日、大極殿で百官に拝賀される儀式。 ■吉野の国栖 吉野の奥、国栖にすむ者が元日に訪れ歌や笛を披露する。 ■宴酔 淵酔。正月二日か三日に清涼殿の殿上で行われる宴会。 ■いまいましうぞみえける 不吉なように見えた。 ■余薫 ~のおかげ。 ■四代の帝王 二条(子)・六条(孫)・高倉(子)・安徳(孫)。 ■万機の政務 天下の政務。 ■公請 くじょう。公の法会にめされること。 ■永縁 ようえん。藤原永相の子。興福寺花林院に住し、保安ニ年(1121)興福寺別当。『金葉集』入集の歌人。 ■きくたびに… 『金葉集』夏歌「ほととぎすを詠める 権僧正永縁」。 ■かたのやうにても 形式だけでも。 ■御斎会 正月八日から十四日まで、鎮護国家のため大極殿で『金光明最勝王経』の講義をさせた法会。 ■僧名 法会に先駆けて講義を行う僧の名をしるし太政官に申請すること。 ■成宝已講 じょうほういこう。藤原惟方の子。三論宗東大寺別当。東寺三長者。已講は宮中や大寺で講師をつとめたことがあるへの尊称。 ■常はわづらはしう いつもご不快のように。 ■池殿 池中納言頼盛の邸。 ■徳政千万端 徳の多い政治をあらゆる局面においてなされた。 ■詩書仁義 『詩経』『書経』の説く仁義の道。 ■理世安楽 世を理(おさ)め民を安楽にすること。 ■三明六通 さんみょうろくつう。三明は宿命明・天眼明、漏尽明の三つ。宿命明は現世の生死を知る智慧。明は智。天願明は未来の生死を知る智慧。漏尽明は一切の煩悩を断つ智慧。六通は天眼通・天耳通・知他心通・宿命通・身如意通・漏尽通の六。通は知ること。天眼通は一切の形色を知ること。天耳通は一切の聞こえることを知ること。知他心通は他者の心を知ること。宿命通は宿世の運命を知ること。身如意通は体を意のままにすること。漏尽通は一切の煩悩を断つこと。 ■羅漢 「阿羅漢(あらかん)」の略。立派な仏教者。 ■幻術変化の権者 不可思議の術によって仏菩薩が人間の姿に変化して仮にこの世にあらわれたもの。 ■有為無常 万物は無常であるということ。 ■清閑寺 京都市東山区の寺。清水寺の東南。六条天皇陵も近い。 ■ゆうべのけぶりとたぐへ 夕煙となぞらえるように煙となって上がったの意。夕煙は夕方、食事のしたくなどのために立つ煙。 ■澄憲法印 信西の子。静憲の弟。寿永ニ年(1183)法印。説教・唱導の名手。 ■つねにみし… 『千載集』哀傷「二条院隠れさせ給うて御業(おほんわざ)の夜、詠み侍りける 法印澄憲」。永万元年(1165)二条院崩御の時の歌。 ■思ひつづけける 思いを言葉(歌)につづった。「つづける」は文章として書きつづること。 ■雲の上に… 建礼門院右京大夫の歌。『建礼門院右京大夫集』『新続古今集』。建礼門院右京大夫は建礼門院の女房。平資盛の恋人。 ■人間のさかひ 人間世界。

……

高倉上皇ご崩御前後の話でした。『平家物語』は高倉上皇に対してとても評価が高く、惜しみなく絶賛します。

高倉上皇が葬られた東山の清閑寺は、清水寺から徒歩15分ほど。清水寺子安の塔の近くの通路から、「歌の中道」とよばれる小道を通って、清閑寺に至ります。

境内の見晴らし台から、山間に京都の町が一望できます。すばらしい景色です。

朗読・解説:左大臣光永

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