平家物語 七十七 文覚被流(もんがくながされ)

本日は平家物語巻第五より「文覚被流(もんがくながされ)」です。高雄の文覚上人は神護寺再興勧進のため、院の御所・法住寺殿に押しかけますが、そのあまりの無作法のため、伊豆国へ流罪になります。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

前回「勧進帳(かんじんちょう)」からのつづきです。
https://roudokus.com/Heike/HK076.html

あらすじ

文覚が神護寺再興勧進のため院の御所(法住寺殿)で勧進帳を読み上げたとき、法皇をはじめ貴族たちが琵琶をならし、今様を歌い、詩歌管弦の遊びをしていた。

そこへ文覚の大声が響いてきたので、場は滅茶苦茶になる。止めようとした資行判官の烏帽子を文覚はうち落とし、後ろに突き倒し、御前は大騒ぎとなる。

安藤武者右宗との組合いの末、文覚はとりおさえられ、門外に引き出され、禁獄される。

その後、美福門院(鳥羽天皇の皇后。ただし年代があわない)が亡くなり、文覚は大赦で赦されるが、 相変わらずぶっそうなことを叫び続けたため、ついに島流しとなる。

島へ付き添いの役人が「知人でもあれば土産や食料を貰ってきてください」と気をきかせると、文覚はすこぶる横柄に手紙を代筆させ、「清水の観音へ」と宛名を書かせた。

伊勢国阿濃津(あののつ)から舟に乗り、遠江国天竜灘で嵐に襲われる。

船員たちが大慌てする中、文覚は一人ふなばたに立ち、大声で竜神を怒鳴りつける。

そのせいか嵐は静まり、無事に伊豆国に着くことができた。

原文

をりふし御前(ごぜん)には太政大臣妙音院(だいじやうだいじんめうおんゐん)、琵琶(びは)かきならし朗詠(らうえい)めでたうさせ給ふ。按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)拍子(ひやうし)とツて、風俗(ふぞく)、催馬楽(さいばら)うたはれけり。右馬頭資時(うまのかみすけとき)、四位侍従盛定(しゐのじじゆうもりさだ)、和琴(わごん)かきならし、今様(いまやう)とりどりにうたひ、玉の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(ちやう)の中(うち)ざざめきあひ、まことに面白(おもしろ)かりければ、法皇(ほふわう)もつけ歌せさせおはします。それに文覚(もんがく)が大音声(だいおんじやう)いできて、調子(てうし)もたがひ、拍子(ひやうし)もみな乱れにけり。「何者ぞ。そくびつけ」と仰せ下さるる程こそありけれ、はやりをの若者共、われもわれもとすすみけるなかに、資行判官(すけゆきはうぐわん)といふ者、はしりいでて、「何条事(なんでうこと)申すぞ、まかりいでよ」といひければ、「高雄(たかを)の神護寺(じんごじ)に庄一所(しやういっしよ)寄せられざらん程は、まツたく文覚いづまじ」とてはたらかず。よツてそくびをつかうどしければ、勧進帳(くわんじんちやう)をとりなほし、資行判官が烏帽子(えぼし)をはたとうツてうちおとし、こぶしをにぎツてしやむねをついて、のけにつき倒(たふ)す。資行判官もとどりはなツておめおめと大床(おほゆか)のうへへにげのぼる。其後(そののち)文覚ふところより馬の尾で柄(つか)まいたる刀の、こほりのやうなるをぬきいだいて、よりこん者をつかうどこそまちかけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいてはしりまはるあひだ、思ひまうけぬにはか事ではあり、左右(さう)の手に刀もツたる様(やう)にぞ見えたりける。公卿殿上人も、「こはいかに、こはいかに」とさわがれければ、御遊(ぎよいう)もはや荒れにけり。院中(ゐんぢゆう)の騒動(さうどう)なのめならず。信濃国(しなののくに)の住人、安藤武者右宗(あんどうむしやみぎむね)、其比当職(そのころたうしよく)の武者所(むしやどころ)でありけるが、何事ぞとて太刀(たち)をぬいてはしりいでたり。文覚よろこンでかかる所を、きツてはあしかりなんとや思ひけん、太刀のみねをとりなほし、文覚が刀(かたな)もツたるかひなをしたたかにうつ。うたれてちツとひるむところに、太刀をすててえたりをうとてくんだりけり。くまれながら文覚、安藤武者が右のかひなをつく。つかれながらしめたりけり。互(たがひ)におとらぬ大力(だいぢから)なりければ、上になり下になり、ころびあふところに、かしこがほに上下(じやうげ)よツて、文覚がはたらくところのぢやうをがうしてンげり。されどもこれを事ともせず、いよいよ悪口放言(あくこうはうげん)す。門外へひきいだいて庁(ちやう)の下部(しもべ)にたぶ。給はツてひつぱる。ひツぱられて立ちながら御所の方(かた)をにらまへ、大音声(だいおんじやう)をあげて、「奉加(ほうが)をこそし給はざらめ、これ程文覚にからい目を見せ給ひつれば、思ひ知らせ申さんずる物を。三界(さんがい)は皆火宅(くわたく)なり。王宮(わうぐう)といふとも、其難(そのなん)をのがるべからず。十善(ぜん)の帝位にほこつたうとも、黄泉(くわうせん)の旅にいでなん後(のち)は、牛頭馬頭(ごずめず)の責(せめ)をばまぬかれ給はじ物を」と、躍(をど)りあがり躍りあがりぞ申しける。「此(この)法師、奇怪(きツくわい)なり」とて、やがて獄定(ごくぢやう)せられけり。資行判官(すけゆきはうぐわん)は烏帽子(えぼし)打ちおとされて恥(は)じがましさに、しばしは出仕(しゆつし)もせず。安藤武者(あんどうむしや)、文覚(もんがく)くんだる勧賞(けんじやう)に、当座に一﨟(いちらふ)をへずして、右馬允(うまのじよう)にぞなされける。さるほどに其比美福門院(そのころびふくもんゐん)かくれさせ給ひて、大赦(だいしや)ありしかば、文覚程なくゆるされけり。しばらくはどこにもおこなふべかりしが、さはなくして、又勧進帳(くわんじんちやう)をささげてすすめけるが、さらばただもなくして、「あつぱれこの世の中は、只今乱れ、君も臣もみなほろびうせんずる物を」なンど、おそろしき事をのみ申しありくあひだ、伊豆国(いづのくに)へぞながされける。

現代語訳

ちょうどその時御前には、太政大臣妙音院(藤原師長)が、琵琶をかきならし、見事に朗詠なさっていた。

按察大納言(あぜちのだいなごん)資賢卿が拍子をとって、風俗(ふぞく)、催馬楽(さいばら)を歌われていた。

右馬頭(うまのかみ)資時、四位侍従(しいのじじゅう)盛定が、和琴かきならし、今様をさまざまに歌い、玉の簾、錦のとばりの中はにぎやかにざわめいて、まことに面白かったので、法皇もつづけて唱和なさった。

それに文覚の大声がして、調子も狂い、拍子もみな乱れてしまった。

「何者だ。そっ首を突け」

と仰せくだされるやいなや、血気にはやった若者たちが、われもわれもと進んだ中に、資行判官(すけゆきほうがん)という者が走り出して、

「なんという事を申すか。出ていけ」

と言ったところ、

「高雄の神護寺に庄園一所寄進されないうちは、絶対に文覚は出ていかない」

といって動かない。よって首を突こうとしたところ、勧進帳をとりなおし、資行判官の烏帽子をはたとうってうちおとし、こぶしをにぎって胸を突いて、あおのけにつき倒す。

資行判官はもととりが解けて、おめおめと大床の上に逃げのぼる。その後文覚はふところから馬の尾で柄を巻いた刀の、氷のようなのを抜き出して、寄ってくる者を突こうとして待ちかけた。

左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいて走り回るので、思ってもみない突然の事ではあり、左右の手に刀をもったように見えた。

公卿殿上人も、「これはどうしたことか。これはどうしたことか」とさわぎあったので、御遊も早くも荒れてしまった。

院中の騒動はなみたいていではない。信濃国の住人、安藤武者右宗(みぎむね)、その頃現役の武者所であったが、何事ぞといって太刀を抜いて走り出した。

文覚が喜んで飛びかかるところを、斬ってはまずいだろうとでも思ったのだろうか、太刀のみねをとりなおし、文覚が刀を持っている腕を、思いきり打つ。

打たれて少しひるむところに、太刀をすてて(資行は)「してやったり。おう」といって組みついた。

組みつかれながら文覚は、安藤武者の右の腕を突く。突かれながら安藤は締め上げた。

互いにおとらぬ大力であるので、上になり下になり、ころびあうところに、院中の上下はえらそうな顔で、文覚が動き回る限りどこでも、打ちすえた。

しかし文覚はこれを物ともせず、いよいよ悪口を言い放った。門外へ引き出して検非違使庁の下部にひきわたす。

下部は引き渡され申して、ひっぱる。

ひっぱられて文覚は立ちながら御所の方をにらまえ、大声を上げて、

「寄付まではなさらないとしても、これほど文覚につらい目をお見せになるならば、思い知らせて御覧に入れますぞ。三界は皆火宅である。王宮といえども、その難を逃れることはできない。十善の帝位に誇っておられるといっても、黄泉の旅に出てしまった後は、牛頭馬頭の責めを、まぬかれなさらぬものであるのに」

と、躍りあがり躍りあがり申した。

「この法師、けしからん」

といって、すぐに獄に入れられた。

資行判官は烏帽子打ちおとされて恥ずかしさに、しばらくは出仕もしない。安藤武者は、文覚と組んだ褒美として、ただちに武者所の長を経ないで、右馬允(うまのじょう)になされた。

そのうちに、その頃美福門院がお亡くなりになって、大赦があったので、文覚は程なくゆるされた。

しばらくはどこでも修行をしていればよいものを、そうではなくて、また勧進帳を捧げて寄付をすすめたが、ならば普通の勧進かというとそうではなく、

「ああこの世の中は、ただ今乱れ、君も臣もみな、ほろびうせるであろう物を」

など、おそろしい事ばかり申してまわるので、

「この法師を都においておくわけにいかない。遠流せよ」

といって、伊豆国に流された。

語句

■妙音院 藤原師長。 ■資賢卿 中納言源資賢。 ■風俗 ふぞく。風俗歌。平安時代の歌謡。雅楽の歌曲の一。 ■催馬楽 古代の歌謡。平安時代に宮廷音楽として取り入れられた。 ■右馬頭資時 源資賢の子。後白河近臣で音楽や鞠・馬に通じていた。 ■四位侍従盛定 藤原盛定。藤原季家の子。 ■つけ歌 ある人が歌った次に、合唱すること。 ■そくび 首の卑しめた言い方。 ■はやりお 血気にはやる者。 ■資行判官 平資行。鹿谷事件に連座している一人として「鹿谷」に名が挙がっている。 ■何条事 なんという事。 ■まかりいでよ 立ち去れ。 ■庄一所 庄園一箇所。 ■まったく 絶対に。 ■のけに あおのけに。 ■安藤武者右宗 「安藤右馬大夫右宗、高雄ノ文学ヲ生虜リタル者也」(吾妻鏡・正治ニ年ニ月条)。 ■当職 その当時その職にあったもの。 ■武者所 院中を警護する武士の詰め所。またそこに詰めている武士。 ■えたりをう してやったり。おう。資行のせりふ。 ■かしこがおに 偉そうな顔で。 ■ぢやう 定。範囲。限度。 ■がうして 拷。打ちすえること。 ■奉賀 仏に財物を寄進すること。 ■三界は皆火宅 三界は衆生が輪廻を繰り返す苦しみに満ちた世界。欲界・色界・無色界。それらは火に包まれた家のようだという意味。「三界無安、猶如火宅」(法華経・譬喩品)。 ■ほこつたうとも 「ほこりたまふとも」の転。 ■牛頭馬頭 地獄の獄卒。身体は人間のようで頭が牛・馬のそれ。 ■躍りあがり躍りあがり 激しく怒るときの慣用表現。 ■獄定 獄へ入れること。 ■恥ぢがましさに 恥ずかしさに。 ■一臈 ここでは武者所の長官。 ■右馬允 うまのじょう。右馬寮の三等官。 ■美福門院 美福門院得子。鳥羽天皇皇后。永暦元年(1160)崩御。文覚が流されたのは承安三年(1173)。時代があわない。 

原文

源三位入道(げんざんみにふだう)の嫡子仲綱(ちやくしなかつな)の、其比伊豆守(いづのかみ)にておはしければ、その沙汰(さた)として、東海道より舟にてくだすべしとて、伊勢国(いせのくに)へゐてまかりけるに、法便(はふべん)両三人ぞつけられたる。これらが申しけるは、「庁(ちやう)の下部(しもべ)のならひ、かやうの事についてこそ、おのづからの依怙(えこ)も候(さうら)へ。いかに聖(ひじり)の御(ご)房(ぼう)、これ程の事に逢(あ)うて、遠国(をんごく)へながされ給ふに、知人(しりうと)はもち給はぬか。土産粮料(とさんらうれう)ごときの物をもこひ給へかし」といひければ、「文覚はさ様(やう)の要事(えうじ)いふべき得意(とくい)ももたず。東山の辺(へん)にぞ得意はある。いでさらばふみをやらう」どいひければ、けしかる紙をたづねてえさせたり。

「かやうの紙で物書くやうなし」とて投げかへす。さらばとて厚紙(こうし)をたづねてえさせたり。文覚わらツて、「法師は物をえ書かぬぞ。さらばおれら書け」とて書かするやう、「『文覚こそ高雄(たかを)の神護寺造立供養(じんごじぞうりふくやう)のこころざしあツて、すすめ候(さうらふ)ひつる程に、かかる君の代(よ)にしも逢うて、所願(しよぐわん)をこそ成就(じやうじゆ)せざらめ、禁獄(きんごく)せられて、あまツさへ伊豆国(いづのくに)へ流罪(るざい)せられ候へ。遠路(ゑんろ)の間で候。土産粮料(とさんらうれう)ごときの物も大切(たいせつ)に候。此使(このつかひ)にたぶべし』と書け」といひければ、いふままに書いて、「さて誰(だれ)どのへと書き候はうぞ」。「清水(きよみず)の観音房(くわんおんぼう)へと書け」。「これは庁(ちやう)の下部(しもべ)をあざむくにこそ」と申せば、「さりとては文覚は、観音をこそふかうたのみたてまつたれ。さらでは誰にかは用事をばいふべき」とぞ申しける。

伊勢国阿野(いせのくにあの)の津より舟に乗ツてくだりけるが、遠江(とほたふみ)の天竜灘(てんりゆうなだ)にて、俄(にはか)に大風(おほかぜ)ふき大なみたツて、すでに此舟をうちかへさんとす。水手梶取(すいしゆかんどり)どもいかにもしてたすからんとしけれども、波風いよいよあれければ、或(あるい)は観音の名号(みやうごう)をとなへ、或は最後(さいご)の十念におよぶ。されども文覚これを事ともせず、たかいびきかいてふしたりけるが、なにとか思ひけん、いまはかうとおぼえる時、かツぱとおき舟の舳(へ)にたツて、沖(おき)の方(かた)をにらまへ、大音声(だいおんじやう)をあげて、「竜王(りゆうわう)やある、竜王やある」とぞようだりける。「いかにこれほどの大願(だいぐわん)おこいたる聖(ひじり)が乗ツたる舟をば、あやまたうどはするぞ。ただいま天の責(せめ)かうむらんずる竜神(りゆうじん)どもかな」とぞ申しける。そのゆゑにや浪風(なみかぜ)ほどなくしづまツて、伊豆国(いづのくに)へつきにけり。文覚京をいでける日より、祈誓(きせい)する事あり。「われ都にかへツて、高雄(たかを)の神護寺造立供養(じんごじざうりふくやう)すべくは、死ぬべからず。其願(そのぐわん)むなしかるべくは、道にて死ぬべし」とて、京より伊豆へつきけるまで、折節順風(をりふしじゆんぷう)なかりければ、浦づたひ島づたひして、卅一日があひだは、一向断食(いつかうだんじき)にてぞありける。されども気力(きりよく)すこしもおとらず、おこなひうちしてゐたり。まことにただ人(びと)ともおぼえぬ事どもおほかりけり。

現代語訳

源三位入道の嫡子仲綱の、その頃伊豆守でいらしたので、その命令として、東海道から舟にてくだすべしということで、伊勢国につれ下ったところ、放免(検非違使庁の下級役人)三人をつけられた。

これらが申したことは、

「庁の下部の常として、このような事(囚人の護送)については、自然とえきひいきということもございます。さて聖の御坊、これ程の事にあって、遠国に流されなさるのに、知人はお持ちではないか。みやげ・食糧のような物もお頼みになられませ」

と言ったところ、

「文覚はそのような大事をいうべき知人は持たない。東山の辺に知人がある。さあそれでは文を送ろう」

と言ったところ、粗末な紙を探してきて与えた。

「このような紙で物書くという事があるか」

といって投げ返す。

ならばといって厚紙(高級和紙)を探し出して与えた。

文覚わらって、

「俺は字を書けないのだ。なのでお前らが書け」

といって書かせることは、

「『文覚は高雄の神護寺造立供養のこころざしあって、すすめておりますうちに、このような君(後白河法皇)の代にあたり、所願を成就しないことはともかく、禁獄されて、おまけに伊豆国に流罪にされてございます。遠路の旅でございます。みやげ食糧のような物も大切にございます。この使いにください』と書け」

と言ったので、言うままに書いて、

「それで、どなた様へと書きますのか」

「清水の観音坊へと書け」

「これは検非違使庁の下部をあざむくのだな」

と申せば、

「そうは言っても文覚は、観音を深く頼み申し上げている。それ以外に誰に用事を言うだろう」

と申した。

伊勢国阿野の津から舟に乗って下ったが、遠江の天竜灘にて、急に大波が立って、今にもこの舟をひっくり返そうとする。

船頭梶取りらはどうにかして助かろうとしたが、波風はますます荒れたので、あるいは観音の名号を唱え、あるいは最後の十念を唱えるに及んだ。

しかし文覚はこれを事ともせず、たかいびきかいて横になっていたが、なにと思ったのだろうか、もはやこれまでと思った時、がばっと起きて舟の舳先に立って、沖の方をにらみつけ、大声をあげて、

「竜王はあるか、竜王はあるか」

と呼んだのだった。

「なんと、これほどの大願おこした聖が乗っている舟に、危害を加えようとするか。今すぐ天の責めを受けるだろう竜神どもであることよ」

と申した。

そのゆえだろうか、波風はほどなくしずまって、伊豆国についた。文覚は京を出た日から、祈誓することがある。

「私が都に帰って、高雄の神護寺を造立供養することができるなら死なないだろう。その願がかなわないなら、道にて死ぬだろう」

といって、京から伊豆につくまで、ちょうどその時は順風の日がなかったので、浦づたい島づたいして、三十一日の間は、ひたすら断食した。しかし気力は少しもおとろえず、平気でお勤めをしていた。まったくただ人とも思えない事が多かった。

語句

■沙汰 指図。命令。 ■法便 法免?検非違使庁の下級役人。釈放された元囚人をこれに当てる。 ■かやうの事 囚人の護送。 ■依怙 えこひいき。ここでは賄賂を受けて待遇をよくすること。 ■聖の御坊 修行をつんだ僧をうやまっていう。 ■土産粮料 みやげと食糧。 ■得意 とくに親しい人。知人。 ■けしかる 粗末な。 ■厚紙 厚い鳥の子紙(とりのこし)。鳥の子紙は雁皮(がんぴ)を原料とする、高価な手漉きの和紙。 ■おれら お前たち。相手を見下していう。 ■書き候はうぞ 「書き候はんぞ」の音便。 ■伊勢国阿野の津 阿濃津(あのつ)。津市安濃川の河口。『源平盛衰記』では渡辺から船出したとある。 ■天竜灘 三重県大大崎から静岡県御前崎にいたる。 ■水手梶取 船頭・梶取り。 ■最後の十念 死の直前に念仏
を十回唱えること。 ■おこなひうちして 修行・おこないをして。

ゆかりの地

神護寺


神護寺金堂(昭和10年新築)


神護寺毘沙門堂(もとの金堂。応仁の乱の後、再興)

平安京造営に功あった和気清麻呂が、愛宕五坊のひとつとして、平安京の北西、紅葉の名所の高雄に寺院を建立した。はじめ高尾山寺といい、天長元年(824)河内の神願寺を合併して「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改めた。

伝教大師最澄や弘法大師空海も和気一族に招かれて、住寺をつとめられた。ことに空海の住寺は大同四年(809)以来14年間におよび、高雄の納涼坊にすまわれた。その間、弘仁三年(812)空海は最澄らにここ神護寺で、真言密教の儀式「灌頂」をさずけられた。

平安時代に二度の火災により荒廃したが、高雄の文覚上人が神護寺再興の大願を立て、寿永三年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もうけて復興させた。

応仁の乱の兵火でふたたび焼失するも、元和元年(1623)龍厳上人のとき、京都所司代板倉勝重の奉行により再興。昭和10年(1935)山口玄洞居士の寄進で金堂、多宝塔などが新築されて今にいたる。

教科書で有名な国宝「源頼朝像」や「平重盛像」など多くの寺宝を所蔵し、毎年五月初旬の「宝物虫払い」行事で、そのうち主なものが公開される。毎年紅葉の季節は多くの訪問者でにぎわう。

朗読・解説:左大臣光永

【古典・歴史】メールマガジンはこちら