平家物語 八十七 廻文(めぐらしぶみ)

『平家物語』巻第六より「廻文(めぐらしぶみ)」。

木曽義仲の初登場です。

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前回「小督(こごう)」からのつづきです。
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あらすじ

清盛は、後白河法皇につらく当たったのを(「小督」)、さすがにまずいと思ったのか、安芸の厳島の内侍の娘を後白河法皇に送った。

内侍の娘が法皇のもとに入内するようすは、公卿、殿上人が多く供奉して、まるで女御が入内するような華やかさだった。

高倉上皇が亡くなってから日も経ていないのに、けしからんと人々はささやき合った。

その頃信濃国に木曽義仲という源氏があると聞こえた。

義仲の父、帯刀先生義賢者(たてわきせんじょう よしかた)は、甥の悪源太義平(あくげんた よしひら)に討たれた(久寿ニ年(1155)大蔵合戦)。

義仲の母は二歳の義仲を木曽中三兼遠(きそちゅうぞう かねとお)に託し、 義仲は兼遠の元で成長した。

ある時、義仲は育て親の兼遠を呼んで、源頼朝はすでに平家に対する謀反を起こしたときく。自分も兵を挙げ、日本国に二人の将軍といわれたいとのほめかす。

兼遠はよろこんで、それでこそ養育してきたかいがあったと、すぐさま謀反を企てた。

兼遠に連れられてしばしば都へ上り、平家の人々のようすをうかがった。

十三で元服して、石清水八幡宮の神前で、先祖八幡太郎義家にならって木曽次郎義仲と名乗った。

兼遠は「まず廻文(回覧板のように、順繰りに送る文書)を送るべし」といって、信濃、上野(こうずけ)の源氏らに送り、謀反へ加わるよう呼びかけた。

原文

入道相国、かやうにいたくなさけなうふるまひおかれし事を、さすがおそろしとや思はれけん、法皇なぐさみ参らせんとて、安芸(あき)の厳島(いつくしま)の内侍(ないし)が腹(はら)の御娘、生年(しやうねん)十八になり給ふが、優(いう)に花やかにおはしけるを、法皇へ参らせらる。上﨟(じやふらふ)女房達あまたえらばれて参られけり。公卿殿上人おほく供奉(ぐぶ)して、ひとへに女御参(にやうごまゐり)の如くにてぞありける。上皇(しやうくわう)かくれされ給ひて後、わづかに二七日(にしちにち)だにも過ぎざるに、しかるべからずとぞ、人々内々(ないない)はささやきあはれける。

さる程に其比信濃国(そのころしなののくに)に、木曽冠者義仲(きそのくわんじやよしなか)といふ源氏ありときこえけり。故六条判官為義(ころくでうのはうぐわんためよし)が次男、故帯刀(こたてはき)の先生義賢(せんじやうよしかた)が子なり。父(ちち)義賢は、久寿(きうじゆ)二年八月十六日、鎌倉(かまくら)の悪源太義平(あくげんだよしひら)が為に誅(ちゆう)せらる。其時義仲二歳なりしを、母泣く泣くかかへて、信濃へこえ、木曽中三兼遠(きそのちゆうざうかねとほ)がもとにゆき、「是(これ)いかにもしてそだてて人になしてみせ給へ」といひければ、兼遠(かねとほ)うけとッて、かひがひしう廿余年養育(やういく)す。やうやう長大するままに、力も世にすぐれて強く、心もならびなく剛(かう)なりけり。「ありがたき強弓勢兵(つよゆみせいびやう)、馬の上、かちだち、すべて上古(しやうこ)の田村(たむら)、利仁(としひと)、余五将軍(よごしやうぐん)、致頼(ちらい)、保昌(ほうしやう)、先祖頼光(せんぞらいくわう)、義家朝臣(ぎかのあッそん)といふとも、争(いか)でか是にはまさるべき」とぞ人申しける。

或(ある)時(とき)めのとの兼遠を召して、宣(のたま)ひけるは、「兵衛佐頼朝(ひやうゑのすけよりとも)既に謀反(むほん)をおこし、東八ケ国(とうはつかこく)をうちしたがへて東海道よりのぼり、平家をおひおとさんとすなり。義仲も東山(とうせん)、北陸両道(ほくりくりやうだう)をしたがへて、今一日も先に平家をせめおとし、たとへば日本国二人(につぽんごくふたり)の将軍といはればや」とほのめかしければ、中三兼遠(ちゆうざうかねとほ)大きにかしこまり悦(よろこ)んで、「其(それ)にこそ君をばいままで養育し奉れ。かう仰せらるるこそ、誠に八幡殿(はちまんどの)の御末(おんすゑ)ともおぼえさせ給へ」とて、やがて謀反をくはたてけり。

兼遠にぐせられて、常は都へのぼり、平家の人々の振舞(ふるまひ)、有様(ありさま)をも見うかがひけり。十三で元服(げんぷく)しけるも、八幡(やはた)へ参り、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御まへにて、『我四代(わがしだい)の祖父(そぶ)、義家朝臣(ぎかのあつそん)は、此御神(このおんかみ)の御子(おんこ)となッて、名をば八幡太郎と号(かう)しき。かつゥは其跡をおふべし』とて、八幡大菩薩の御宝前(ごほうぜん)にてもとどりとりあげ、木曽次郎義仲(きそのじらうよしなか)とこそついたりけれ。兼遠、「まづ廻文(めぐらしぶみ)候べし」とて、信濃国には根井(ねのゐ)の小弥太(こやた)、海野(うんの)の行親(ゆきちか)をかたらふに、そむく事なし。是をはじめて信濃(しなの)一国の兵者(つはもの)ども、なびかぬ草木もなかりけり。上野国(かうづけのくに)に、故帯刀先生義賢(こたてはきせんじやうよしかた)がよしみにて、田子(たご)の郡(こほり)の兵(つはもの)ども皆したがひつきにけり。平家末になる折をえて、源氏の年来(ねんらい)の素懐(そくわい)をとげんとす。

現代語訳

入道相国は、このように大そう情けなくふるまいをなさったを、やはりおそろしいと思われたのか、法皇をお慰め申し上げようと、安芸の厳島の内侍の腹に生まれた御娘で、生年十八におなりで、優雅ではなやかでいらっしゃったのを、法皇へ差し上げなさった。

身分の高い女房たちが多くえらばれて参られた。

公卿殿上人が多くお供して、まったく女御の入内のようであった。高倉上皇がなくなって後、わずかに十四日さえも過ぎていないのに、やるべきではないと人々は内々にささやきあわれた。

そのうちに、その頃、信濃国に、木曾冠者義仲という源氏がいるときこえてきた。

故六条判官為義(ためよし)の次男、故帯刀(たてはき)の先生(せんじょう)義賢(よしかた)の子である。

父義賢は、久寿二年(1155)八月十六日、鎌倉の悪源太義平のために殺された。

その時義仲は二歳であったのを、母が泣く泣くかかえて、信濃へこえ、木曾中三(きそのちゅうぞう)兼遠(かねとお)のもとにゆき、

「この子をなんとしても育てて立派な大人になしてお見せください」

といったので、兼遠はうけとって、心細かに二十余年養育する。しだいに大人になってくるにつれて、力も世にすぐれて強く、心もならびなく豪胆である。

「めったにない強弓引き、すぐれた武人であり、馬の上でも、徒歩でも、すべて昔の田村麻呂、藤原利仁、余五将軍(平維茂)、平到頼(ともより)、藤原保昌(やすまさ)、先祖頼光(らいこう)、源義家(よしいえ)朝臣といっても、どうしてこの人にはまさるだろう」

と人は申した。

ある時、めのとの兼遠を召しておっしゃることに、

「兵衛佐頼朝はすでに謀叛をおこし、関東八カ国をしたがえて東海道からのぼり、平家を追い落とそうとしているという。義中も東山(とうせん)、北陸両道をしたがえて、今一日も先に平家をせめおとし、たとえば日本国二人の将軍といわれたいものだ」

とほのめかしたところ、中三兼遠は大いに畏まってよろこんで、

「そのためにこそ、あなたを今まで養育し申し上げてきたのです。こう仰せられることは、まことに八幡殿の御末裔ともご拝察いたします」

といって、すぐに謀叛を企てた。

兼遠に連れられて、(義仲は)しょっちゅう都へのぼり、平家の人々のふるまい、ありさまを見てうかがった。

十三で元服したのも、石清水八幡宮に参って、八幡大菩薩の御前で、「わが四代の祖父、源義家朝臣は、この八幡神の御子となって、名をば八幡太郎と号した。一つにはその跡を追おうと思う」

といって、八幡大菩薩の御神前でもとどりを結びあげて、木曾次郎義仲とつけたのだった。

兼遠、

「まず廻文(めぐらしぶみ)を出しますのがよろしいでしょう」

といって、信濃国には根井(ねのい)の小弥太(こやた)、海野(うんの)の行親(ゆきちか)をかたらうと、そむく事なく従った。

これをはじめて信濃一国の兵たちは、なびかぬ草木もないように、みな義仲に従った。

上野国に、故帯刀先生義賢(よしかた)のよしみで、田子(たご)の郡(こほり)の兵たちも、皆したがいついた。

平家が末になった折をえて、源氏の長年の宿望をとげようとした。

語句

■厳島の内侍 厳島神社に奉仕する巫女。冷泉局。 ■義賢 源義賢。為義の次男。母は六条大夫重俊娘。義朝の異母弟。久寿ニ年(1155)甥の悪源太義平(義朝の子)に大蔵合戦で滅ぼされる。 ■久寿ニ年 大蔵合戦。所領争いから甥の悪源太義平に滅ぼされたようすは『百練抄』『吾妻鏡』などにある。 ■木曾中三兼遠 中原兼遠。今井兼平・樋口兼光の父。 ■田村、… 田村は坂上田村麻呂、征夷大将軍。利仁は藤原利仁、平安時代前期の貴族・武将。鎮守府将軍。 ■余五将軍 与五将軍。平兼忠の子、維茂。鎮守府将軍。与五は十五番目の男子の意。 ■到頼 平良正の子、平到頼。武勇にすぐれた。 ■保昌 藤原保昌(やすまさ)。到忠の子。武勇にすぐれた。源頼光ともに酒天童子を退治した話、盗賊の袴垂(はかまだれ)を降した話が『今昔物語』にある。 ■頼光 源頼光。頼政の祖先。酒天童子退治で有名。 ■其にこそ そのためにこそ。 ■義家 源義家は父頼義が八幡社(石清水八幡宮)に参詣して霊夢を受けた。それでみごもったという。また七歳のとき八幡社の社前で元服したため八幡太郎と号する。義家→為義→義賢→義仲とつづく。 ■かつウは 一つには。 ■廻文 複数の人にまわして情報を伝える書状。 ■根井の小弥太 信濃国北佐久郡根々井の人。木曽四天王の一人。 ■海野の行親 海野幸親。信濃国の武将。海野広道(廣通)の次男。 ■田子 多胡。群馬県多野郡。 ■素懐 本望。

ゆかりの地

大蔵館跡・大蔵神社

源氏の棟梁六条判官為義の次男・帯刀先生(たてはきせんじょう)義賢(よしかた)の居城跡。都幾川と鎌倉街道が交差する交通の要衝にあった。

館跡の四隅にそれぞれ土塁と空堀の跡が残っており、そこから推定される広さは、東西170-200メートル、南北220メートル。

源義賢はここ大蔵館を拠点に勢力を伸ばたが、兄である源義朝と勢力争いが絶えず、久寿二年(1155)8月16日、源義朝の嫡男・義平が、叔父である源義賢を襲撃(大蔵合戦)。義賢は討ち取られた。

2歳になる次男駒王丸(後の木曾義仲)は母小枝御前とともに畠山重忠の、ついで斉藤実盛の手引で信濃国へのがれ、中原兼遠に養育される。

埼玉県比企郡嵐山町 武蔵國比企郡菅谷村大字大蔵字御所ヶ谷戸

源義賢の墓

源義賢(?-1155)。源氏の棟梁六条判官為義の次男。源義朝の弟。木曽義仲の父。近衛天皇が東宮時代に身辺警護にあたる帯刀(たてはき)の長官(先生)に任じられ、その後、帯刀を解任されたが、解任後も一種の称号のように「帯刀先生」と名乗り続けた。

また、上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を所領していたこともあるので、「多胡先生(たこせんじょう)」とも呼ばれた。

埼玉県比企郡嵐山町大蔵66

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朗読・解説:左大臣光永