平家物語 八十六 小督(こがう)
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『平家物語』巻第六より「小督(こごう)」です。
高倉天皇が寵愛していた、小督(こごう)という少女がいました。
小督はある夜、平清盛の怒りをはばかって、姿をけしました。
それ以来、高倉天皇の落胆なさることは大変なものでした。ある秋の夜、高倉天皇は宿直中の武士、弾正少弼仲国(だんじょうのしょうひつ なかくに)に、小督は嵯峨のあたりにいるときくから、探してまいれと命じます。
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前回「葵前(あふひのまえ)」からのつづきです。
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あらすじ
高倉天皇は中宮徳子に仕える女房が召し仕える小督という少女をたいそう寵愛された。
小督は宮中一の美人で、琴の名人。父は桜町中納言成範卿(さくらまちのちゅうなごん しげなりのきょう)(「吾身栄花」)である。
小督は冷泉大納言隆房卿(れいぜいのだいなごん りゅうぼうのきょう)の恋人だったが、天皇のもとに召された後は隆房との関係を断ち切った。
隆房卿は小督を諦めきれず、小督のいる局の内へ歌を書いて投げ入れるが、小督からの返事はなく、隆房卿は泣く泣く立ち去った。
中宮徳子は清盛の娘であり、隆房卿の正妻も清盛の娘である。清盛は怒り、小督を召し出して殺せと命じる。
小督はわが身のことはともかく、天皇の御上にも災いが及ぶと心配し、ある夜内裏を抜け出し、姿を消した。
小督を失いいよいよ悲観にくれる高倉天皇に清盛は追い討ちをかける。お世話の女房たちを遠ざけるようにして、高倉天皇を孤立させた。
八月十日すぎの月の明るい夜、高倉天皇は弾正小弼仲国(だんじょうのしょうひつ なかくに)を呼び、小督は嵯峨野にいるらしいから探して来いと命じる。
仲国が嵯峨野の辺を探しまわると、琴の音がする。まさしく小督の弾く琴の音だった。
曲は「想夫恋」別れた恋人を想う曲である。
仲国の仲立ちで小督は宮中に戻ることになり、高倉天皇は再び小督の局に通いはじめる。
姫宮までもうけたものの、清盛にばれてしまい、小督は無理矢理出家させられ追放される。
高倉天皇はこういった心労が重なり、ついにお亡くなりになった。
後白河法皇はご不幸が絶えなかった。息子の二条天皇、孫の六条天皇を亡くし、女御の建春門院も亡くし、第二皇子の高倉宮が討たれた。加えて頼みにしていた高倉上皇をも失い、御涙にくれるばかりでだった。
原文
主上恋慕(れんぼ)の御思(おんおも)ひにしづませおはします。申しなぐさめ参らせんとて、中宮の御方より、小督殿(こがうのとの)と申す女房を参らせらる。この女房は桜町(さくらまち)の中納言成範卿(しげのりのきやう)の御娘(むすめ)、宮中一の美人(びじん)、琴(こと)の上手にておはしける。冷泉大納言隆房卿(れんぜいのだいなごんたかふさのきやう)、いまだ少将なりし時、みそめたりし女房なり。少将はじめは歌をよみ文をつくし、恋ひかなしみ給へども、なびく気色(けしき)もなかりしが、さすがなさけによわる心にや、遂(つひ)にはなびき給ひけり。されども今は君に召され参らせて、せんかたもなくかなしさに、あかぬ別(わかれ)の涙には、袖(そで)しほたれてほしあへず。少将よそながらも小督殿み奉る事もやと、常は参内せられけり。おはしける局(つぼね)の辺(へん)、御簾(みす)のあたりをあなたこなたへ行きとほり、たたずみありき給へども、小督殿、「われ君に召されんうへは、少将いかにいふとも、詞(ことば)をもかはし文をみるべきにもあらず」とて、つてのなさけをだにもかけられず。少将もしやと一首の歌をようで、小督殿のおはしける御簾(みす)の内へなげいれたる。 思ひかね心はそらにみちのくのちかのしほがまちかきかひなし
小督殿、やがて返事もせばやと思はれけめども、君の御(おん)ため御(おん)うしろめたうや思はれけん、手にだにとッてもみ給はず。上童(しやうとう)にとらせて坪(つぼ)のうちへぞ投げいだす。少将なさけなう恨めしけれども、人もこそみれとそらおそろしう思はれければ、いそご是(これ)をとッてふところに入れてぞ出(い)でられける。なほたちかへッて、
たまづさを今は手にだにとらじとやさこそ心に思ひすつとも
今は此世(このよ)にてあひみん事もかたければ、いきてものを思はんより、死なんとのみぞねがはれける。
入道相国これをきき、中宮と申すも御娘(おんむすめ)なり。冷泉少将聟(れんぜいのせうしやうむこ)なり。小督殿に二人の聟(むこ)をとられて、「いやいや小督があらんかぎりは世中よかるまじ。召しいだしてうしなはん」とぞ宣ひける。小督殿もれきひて、我身(わがみ)の事はいかでもありなん、君の御(おん)ため御心(おんこころ)苦(ぐる)しとて、ある暮(くれ)がたに内裏(だいり)を出でて、ゆくゑも知らず失せ給ひぬ。主上御歎(おんなげき)なのめならず。ひるはよるのおとどにいらせ給ひて、御涙にのみむせび、夜(よる)は南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)なッて、月の光を御覧じてぞなぐさませ給ひける。入道相国是をきき、「君は小督ゆゑにおぼしめししづませ給ひたんなり。さらむにとッては」とて、御介錯(かいしやく)の女房達をも参らせず、参内し給ふ臣下をもそねみ給へば、入道の権威にはばかッて、かよふ人もなし。禁中(きんちゆう)いまいましうぞみえける。
現代語訳
高倉天皇は恋慕の御思におしずみでいらっしゃる。なぐさめ参らせようということで、中宮(徳子)の御方から、小督殿(こごうのとの)と申す女房を参らせられた。
この女房は桜町の中納言成範卿(しげのりのきょう)の御娘、宮中一の美人、琴の名人でいらっしゃった。
冷泉大納言(れいぜいのだいなごん)隆房卿(たかふさのきょう)がいまだ少将であった時、みそめた女房である。
少将ははじめ歌をよみ文をつくして、恋い慕いなさったが、なびく様子もなかったが、そうはいってもやはり、情けに心が弱ったのだろうか、ついにはおなびきになった。
しかし今は天皇にお召しを受けて、どうにもならない悲しさに、飽きてもいないのに別れる悲しみの涙に袖がぐっしょり濡れて乾く間もない。
少将は、よそながらも小督殿を拝見することもできるのではないかと、いつも参内なさっていた。
小督殿がいらっしゃる局の辺、御簾のあたりをあちらこちらに行ったり、たたずんだりして、歩きまわりなさったが、小提殿は、
「私は天皇に召されたのだから、少将がどんなに言っても、言葉も交わすべきではないし、文をもみるべきではない」
といって、人づての情けをもおかけにならない。少将はもしかして返歌をいただけるかと、一首の歌をよんで、小督殿のいらっしゃる御簾の内へ投げ入れた。
思ひかね…
(あなたを恋い慕う思うをおさえかねて、心は空に広がっていくようです。みちのくの千賀の鹽竈ではないが、近くても、近くにいるかいがないのです)
小督殿はすぐに返事をしなくてはと思われたかもしれないが、君の御ため御うしろめたくでも思われたのだろうか、手にとってさえも御覧にならない。
お側に仕えていた少女にとらせて坪のうちに投げ出す。少将はなさけなく恨めしかったが、人がみていたら大変だとそらおそろしく思われたので、いそいでこれをとってふところに入れて退出された。
それでもやはりもう一度立ち返って、
たまづさを…
(手紙を今は手にさえ取ってくれないのですか。いくら心に思い捨てたといっても)
今はこの世で会うことは難しいので、生きて物思いにくれるより、死のうとばかり願われた。
入道相国はこれをきいて、中宮と申すも御娘である。冷泉少将も婿である。小督殿に二人の婿をとられて、「いやいや小督がいるかぎりは、世間はよくならないだろう。召し出して追放しよう」とおっしゃった。
小督殿はもれきいて、わが身のことはどうとでもなれ、君の御ため御心苦しいことといって、ある暮がたに内裏を出て、ゆくえも知らずいなくなってしまわれた。
天皇の御嘆きはなみなみでない。昼は御寝所に引きこもられ、御涙にくれてばかり、夜は紫宸殿に出御されて、月の光を御覧になってお心を慰めておられた。
入道相国はこれをきいて、
「君は小督のために思い沈みなさっているそうだな。それならば」
といって、身の回りの世話をする女房たちをも参らせず、参内なさる臣下をもお恨みになるので、入道の権威にはばかって、通う人もない。
宮中は不吉なようすに見えた。
語句
■小督殿 「高倉院小督局、名人也、隆茂卿恋尽主也」(尊卑分分脈)。 ■桜町の中納言成範 信西の子。「吾身栄花」にくわしい。 ■あかぬ別れの涙 飽きたわけでもないのに別れなければならない悲しみの涙。 ■思ひかね… 「空に満ち」と「みちのく」をかける。「千賀の塩竃」は陸奥国の歌枕。千賀の浦は宮城県塩竃市松島湾の南西の海辺。「近い」を導く序詞をなす。 ■小童 側に仕える少女。 ■たまづさを 『隆房集』に「わりなくして文もとらざりしかば」につづけてこの歌。 ■さらむにとッては そういうことなら。 ■御介錯 身の回りの世話をすること。 ■いまいましうぞ見えし 不吉なように見えた。
原文
かくて八月十日(はちぐわつとをか)あまりになりにけり。さしもくまなき空なれど、主上は御涙にくもりつつ、月の光もおぼろにぞ御覧ぜられける。やや深更(しんかう)に及ンで、「人やある人やある」と召されけれども、御いらへ申す者もなし。弾正少弼仲国(だんじやうのせうひつなかくに)、其(その)夜しも御宿直(おとのゐ)に参ッてはるかにとほう候が、「仲国」と御いらへ申したれば、「ちかう参れ。仰せ下さるべき事あり」。何事やらんとて御前ちかう参じたれば、「なんぢもし小督がゆくゑや知りたる」。仲国(なかくに)、「いかでか知り参らせ候(さうらふ)べき。ゆめゆめ知り参らせず候」。「まことやらん。小督は嵯峨(さが)のへんに、片折戸(かたをりど)とかやしたる内にありと申す者のあるぞとよ。主(あるじ)が名をば知らずとも、尋ねて参らせなんや」と仰せければ、「主が名を知り候はでは、争(いか)でかたづね参らせ候べき」と申せば、「まことにも」とて竜顔(りようがん)より御涙(おんなみだ)をながさせ給ふ。仲国つくづくと物を案ずるに、まことにや、小督殿は琴(こと)ひき給ひしぞかし。此(この)月のあかさに、君の御事思ひいで参らせて、琴ひき給はぬ事はよもあらじ。御所にてひき給ひしには、仲国笛(ふえ)の役(やく)に召されしかば、其琴(そのこと)の音(ね)は、いづくなりとも聞き知らんずるものを。又嵯峨の在家(ざいけ)いく程かあるべき。うちまはッてたづねんに、などか聞き出(いだ)ださざるべきと思ひければ、「さ候はば主が名は知らずとも、もしやとたづね参らせてみ候はん。ただし尋ねあひ参らせて候とも、御書(ごしよ)を給はらで申さんには、うはの空にやおぼしめされ候はんずらん。御書を給はッてむかひ候はん」と申しければ、「まことにも」とて御書をあそばいてたうだりけり。「竜(りよう)の御馬に乗ッてゆけ」とぞ仰せける。仲国竜の御馬給はッて、名月(めいげつ)に鞭(むち)をあげ、そことも知らずあこがれゆく。
をしか鳴く此山里と詠じけん、嵯峨のあたりの秋のころ、さこそはあはれにもおぼえけめ。片折戸したる屋をみつけては、此内にやおはすらんと、ひかへひかへ聞きけれども、琴ひく所もなかりけり。御堂(みだう)なンどへ参り給へる事もやと、釈迦堂(しやかだう)をはじめて、堂々みまはれども、小督殿に似たる女房だにみえ給はず。むなしう帰り参りたらんは、なかなか参らざらんよりあしかるべし。是(これ)よりもいづちへもまよひゆかばやと思へども、いづくか王地(わうぢ)ならぬ、身をかくすべき宿もなし。いかがせんと思ひわづらふ。まことや法輪(ほふりん)は程ちかければ、月の光にさそはれて、参り給へる事もやと、そなたにむかひてぞあゆませける。
亀山のあたりちかく、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞきこえける。峰の嵐(あらし)か松風か、たづぬる人の琴の音(ね)か、おぼつかなくは思へども、駒(こま)をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に琴をぞひきすまされたる。ひかへて是をききければ、すこしもまがふべうもなき、小督殿の爪音(つまおと)なり。楽(がく)はなんぞとききければ、夫(をつと)を想(おも)うて恋ふとよむ、想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)なり。
さればこそ、君の御事(おんこと)思ひ出で参らせて、楽(がく)こそおほけれ、此楽(このがく)をひき給ひけるやさしさよ。ありがたうおぼえて、腰(こし)より横笛(ようでう)ぬきいだし、ちッとならいて、門(かど)をほとほととたたけば、やがてひきやみ給ひぬ。高声(かうしやう)に、「是(これ)は内裏(だいり)より、仲国が御使(おんつかひ)に参ッて候。あけさせ給へ」とて、たたけどもたたけどもとがむる人もなかりけり。ややあッて内より人のいづる音のしければ、うれしう思ひて待つところに、鎖(じやう)をはづし門(かど)をほそめにあけ、いたいけしたる小女房、かほばかりさしいだいて、「門たがへてぞさぶらふらん。是には内裏より、御使(おつかひ)なンど給はるべき所にてもさぶらはず」と申せば、なかなか返事して門(かど)たてられ、鎖(じやう)さされてはあしかりなんと思ひて、おしあけてぞ入りにける。
現代語訳
こうして八月十日あまりになったのだ。たいそう曇りもない空であるが、天皇は御涙にくもりつつ、月の光もおぼろに御覧になられた。
しだいに真夜中になるにつれて、「人はあるか人はあるか」と召されたが、おこたえ申す者もない。
弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)仲国(なかくに)、その夜ちょうど御宿直にまいってはるか遠くに控えていたが、
「仲国」と御こたえ申したので、
「近くに寄れ。申し下すことがある」
何事だろうと御前ちかく参上したところ、
「おまえはもしかして、小督のゆくえを知っているか」
仲国、
「どうして知り申し上げましょう。けして知り申し上げません」
「ほんとうだろうか、小督は嵯峨のあたりに、片折戸とかいうものをした家の内にいると申す者のあるというぞ。主人の名を知らなくても、尋ね申してくれないか」
と仰せになると、
「主人の名を知りませんでは、どうやって尋ね申せましょう」
と申せば、
「それはそうだな」
といってお顔から御涙をお流しになる。
仲国がつくづく物を案ずるに、ほんとうにそういえば、小督殿は琴をお弾きになったぞ。この月の明るさに、君の御事思い出し申し上げて、琴をお弾きにならないことはまさかあるまい。
御所にてお弾きになった時は、仲国が笛の役に召されたので、その琴の音は、どこであっても聞けばわかるだろうに。また嵯峨の民家がどれほどあるだろう。たいしてあるまい。尋ねまわったら、どうして聞き出すことができないだろうと思ったので、
「それならば、主人の名は知らなくても、もしかして尋ね会えるかと、尋ね申してみましょう。ただし尋ねあい申したとしましても、御所をいただかずに申すなら、いい加減なことを申しているとお思いになられるでしょう。御所をいただいて尋ねむかいます」
と申したので、
「ほんとうにそうだ」
といって御所を書かれてお与えになった。
「馬寮の御馬に乗ってゆけ」
と仰せになった。仲国は馬寮の御馬をいただいて、名月に鞭をあげ、どことも知らずさまよって行った。
牡鹿鳴くこの山里と歌に詠まれた、嵯峨のあたりの秋のころは、さぞかし趣深く思われただろう。片折戸した家をみつけては、この内にいらっしゃるだろうかと、鞭をひかえひかえ聞くけれども、琴ひくところもなかった。
御堂などへ参られているのかもしれないと、(清凉寺の)釈迦堂をはじめて、あちこちの堂をみまわったが、小督殿に似た女房さえお見えにならない。
なんの成果もなく帰り参るのは、かえって最初から参らなかったのより悪いにちがいない。
これよりどこへでも迷い行こうかとも思ったが、国中、天子の地でないところはない。身をかくせるような宿もない。どうしようと思いわずらう。
ほんとうにそういえば法輪寺は程近いので、月の光にさそわれて、参られているかもしれないと、そちらに向かって馬を歩ませた。
亀山のあたりちかく、松が一むらある方面に、かすかに琴の音がきこえた。
峰の嵐か松風か、尋ねる人の琴の音か、はっきりしないとは思ったが、馬脚をはやめて行くうちに、片折戸した家の内に琴を心をすまして弾いておられた。
手綱をひかえてこれをきくと、少しも間違うはずもない、小督殿の爪音である。曲目はなんだろうときくと、夫を想うて恋ふとよむ、想夫恋という曲である。
はたして、君の御事を思い出し申して、楽曲も多いのに、この楽曲をお弾きになっていた優雅さよ。
ありがたく思って、腰から横笛を抜き出して、少しならして、門をほとほととたたけば、すぐに弾きやみなさった。
声高に、「これは内裏より、仲国が御使に参ってございます。お開けください」といって、たたいてもたたいても、何か言う人もなかった。
しばらくして中から人が出てくる音がしたので、うれしく思って待っていると、鎖をはずして門をほそめにあけ、かわいらしい小女房が、顔だけをさしださて、
「お門違いでございましょう。ここは内裏より御使などいただくような所でもございません」
と申せば、なまじっか返事をしては門をしめられ鎖をさされてはまずいだろうと思って、おしあけて中に入った。
語句
■さしも あんなにも。 ■やや深更に及ンで しだいに深夜になってきて。 ■弾正少弼仲国 源仲国。源光遠の子。笛の名人。弾正台は警察事務をつかさどる役所だが当時名のみ。 ■片折戸 両方に開く戸を両折戸というのに対して片方にのみ開く戸をいう。粗末な家にあるものだから高倉天皇は実際にはみたことがないため「とかや」と伝聞になる。 ■まことにや ほんとうにそういえば。 ■うはの空 いい加減なこと。 ■たうだりけり 「賜(たび)たりけり」の音便。 ■竜の御馬 寮の御馬。宮中の馬寮で飼われている馬。 ■あこがれゆく どこへとも定めなまま、さまよい向かった。 ■をしか鳴く此山里 「嵯峨にまかりて鹿のなくを聞きてよめる/をしか啼くこの山ざとのさがなればかなしかりけり秋の夕ぐれ」(基俊集)。意味は、牡鹿鳴くこの山里嵯峨は、山里の常として悲しいなあ秋の夕暮れ時は。「性」と「嵯峨」をかける。 ■ひかへひかへ 手綱をひかえひかえ。 ■釈迦堂 京都市右京区釈迦堂藤ノ木町の清凉寺の本堂。 ■法輪 西京区嵐山虚空蔵山町の法輪寺。和銅6年(713)元明天皇の勅命で行基が創設。はじめ木上山葛井寺と号した。天長6年(829)空海の弟子道昌が虚空蔵を安置し、貞観16年(874)法輪寺とあらためた。渡月橋の南。十三まいりで有名。 ■亀山 右京区嵯峨亀ノ尾町。小倉山の当南端の山。嵐山公園のあたり。 ■峰の嵐か松風か… 「琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ」(拾遺・雑上 斎宮女御)などをふまえた名文。「を」は「尾(峰)」と琴の「緒」をかける。 ■想夫恋 雅楽の曲名。もと相府蓮で、晋の王倹が大臣として家に蓮を植えたことにちなむ(徒然草・二百十四段)。 ■さればこそ 案の定。 ■ちッと 少し。 ■いたいけしたる かわいらしいさまをした。 ■なかなか なまじっか。
原文
妻戸(つまど)のきはの縁(えん)に居(ゐ)て、「いかにかやうの所には御わたり候やらん。君は御(お)ゆゑにおぼしめししづませ給ひて、御命(おんいのち)もすでにあやふくこそみえさせおはしまし候へ。ただうはの空に申すとやおぼしめされ候はん。御書(ごしよ)を給はッて参ッて候」とて、とりいだして奉る。ありつる女房とりついで、小督殿に参らせたり。あけてみ給へば、まことに君の御書なりけり。やがて御返事(おんへんじ)書きひきむすび、女房の装束(しやうぞく)一かさねそへて出(いだ)されたり。仲国、女房の装束をば肩(かた)にうちかけ申しけるは、「余(よ)の御使(おつかひ)で候はば、御返事のうへはとかく申すにはおよび候はねども、日ごろ内裏にて御琴あそばしし時、仲国笛(ふえ)の役(やく)に召され候ひし奉公をば、いかでか恩忘れ候べき。ぢきの御返事を承らで、帰り参らん事こそ、よに口惜しう候へ」と申しければ、小督殿げにもとや思はれけん、身づから返事し給ひけり。
「それにもきかせ給ひつらん、入道相国のあまりにおそろしき事をのみ申すとききしかば、あさましきに内裏をばにげ出でて、此程(このほど)はかかる住ひなれば、琴なンどひく事もなかりつれども、さてもあるべきならねば、あすより大原のおくに思ひたつ事のさぶらへば、主(あるじ)の女房の、こよひばかりの名残(なごり)を惜しうで、『今は夜もふけぬ。たちきく人もあらじ』なンどすすむれば、さぞな、むかしの名残もさすがゆかしくて、手なれし琴をひくほどに、やすうも聞き出(いだ)されけりな」とて、涙もせきあへ給はねば、仲国も袖(そで)をぞぬらしける。ややあッて仲国涙をおさへて申しけるは、「あすより大原の奥におぼしめしたつ事と候は、御様(おんさま)なンどをかへさせ給ふべきにこそ。ゆめゆめあるべうも候はず。さて君の御歎(なげき)をば、何とかし参らせ給ふべき。是ばしいだし参らすな」とて、共に召し具したる馬部(めぶ)、吉上(きつじやう)なンどとどめおき、其(その)屋を守護(しゆご)せさせ、竜(りよう)の御馬にうち乗ッて、内裏へかへり参りたれば、ほのぼのとあけにけり。
今は入御(じゆぎよ)もなりぬらん、誰(だれ)して申し入るべきとて、竜の御馬つながせ、ありつる女房の装束(しやうぞく)をば、はね馬の障子(しやうじ)に投げかけ、南殿の方(かた)へ参れば、主上はいまだ夜部(よべ)の御座(ござ)にぞましましける。「南(みんなみ)に翔(かけ)り北に嚮(むか)ふ、寒温(かんうん)を龝(あき)の雁(かり)に付(つ)け難(がた)し。東(ひんがし)に出(い)で西に流る、只瞻望(ただせんぼう)を暁(あかつき)の月に寄す」とうちながめさせ給ふ所に、仲国つッと参りたり。小督殿の御返事をぞ参らせたる。君なのめならず御感(ぎよかん)なッて、「なんぢ、やがて夜(よ)さり具(ぐ)して参れ」と仰せければ、入道相国のかへりきき給はんところはおそろしけれども、これ又綸言(りんげん)なれば、雑色(ざふしき)、牛飼(うしかひ)、牛(うし)、車(くるま)きよげに沙汰(さた)して、嵯峨へ行きむかひ、参るまじきよしやうやうに宣へども、さまざまにこしらへて、車に取乗(とりの)せ奉り、内裏へ参りたりければ、幽(かす)かなる所にしのばせて、よなよな召されける程に、姫宮一所出(ひめみやいっしよい)で來させ給ひけり。此姫宮と申すは、坊門(ぼうもん)の女院(にようゐん)の御事(おんこと)なり。
入道相国なんとしてかもれきき給ひけん、「小督がうせたりといふ事、あとかたなき空言(そらごと)なりけり」とて、小督殿をとらへつつ、尼(あま)になしてぞはなたる。小督殿出家はもとよりののぞみなりけれども、心ならず尼になされて、年廿三、こき墨染(すみぞめ)にやつれはてて、嵯峨のへんにぞ住まれける。うたてかりし事どもなり。かやうの事共に、御悩(ごなう)はつかせ給ひて、遂(つひ)に御(おん)かくれありけるとぞきこえし。
現代語訳
妻戸の端の縁のところに座って、
「どうしてこのような所に、お移りさなるのでしょうか。君はあなたのために思い沈まれて、御命もすでにあやうくお見えでございます。ただいい加減のことを申すと思われますか。御所を給わって参ってございます」
といって、取り出して差し上げた。
さっきの女房がとりついで、小督殿に差し上げた。あけて御覧になると、ほんとうに君の御書であった。
すぐに御返事を書いて手紙のはしを結び、女房の装束一かさねを添えて差し出された。
仲国は、女房の装束を肩にかけて申したのは、
「天皇の御使いでなければ、御返事をいただいた上はどうこう申すにはおよびませんが、日ごろ内裏にて御琴をお弾きになられた時、仲国は笛の役に召されました奉公を、どうしてお忘れになりますでしょうか。直接の御返事をいただかないで帰り参ることは、たいそう口惜しいことでございます」
と申したので、小督はいかにもそのとおりと思われたのだろう、自分で返事をされた。
「あなたもお聞きになられているでしょう。入道相国があまりにおそろしき事ばかり申すときいたので、情けなさに内裏を逃げ出して、今はこのような住まいなので、琴をひく事もありませんでしたが、いつまでもここにいられないので、明日から大原のおくに思い立つ用事がございますので、主人の女房が、こよい限りの名残を惜しんで、『今は夜もふけました。立ち聞く人もないでしょう』などすすめるので、まったくそうだ、むかしの名残もやはりなつかしくなって、手なれた琴を弾いているうちに、たやすくも聞き出だされたものですね」
といって、涙をせきとめることもおできにならないので、仲国も袖をぬらした。
しばらくして仲国涙をおさえて申したのは、
「あすから大原の奥に思い立たれる用事といいますのは、ご出家なさるのでしょう。けして、ご出家などなさってはなりません。いったい君の御嘆きを、なんとして差し上げるおつもりですか。…この方を外にお出しするな」
といって、共に連れてきた馬部・吉上(下級の役人)などをとどめおき、その家を守護させ、馬寮の御馬にうち乗って、内裏へ帰り参ったところ、夜がほのぼのと明けてしまった。
今は御寝所にお休みだろう、誰を介して申し入れるのがよいだろうと、馬寮の御馬をつながせ、さきほどの女房の装束を、はね馬の障子(清涼殿殿上の間の衝立障子)に投げかけ、紫宸殿のほうに参れば、帝はいまだ昨夜の御座にいらっしゃった。
「南(みんなみ)に翔(かけ)り北に嚮(むか)ふ、寒温(かんうん)を龝(あき)の雁(かり)に付(つ)け難(がた)し。東(ひんがし)に出(い)で西に流る、只瞻望(ただせんぼう)を暁(あかつき)の月に寄す」
と朗詠なさっているところに、仲国がつっと参った。
小督殿の御返事を差し上げた。帝はなみなみならず感激されて、
「お前、すぐに今夜、小督をつれてまいれ」
と仰せになるので、入道相国が廻り廻って耳になさることは恐ろしかったが、これもまた天子の御言葉であるので、雑色、牛飼、牛、車を立派にととのえて、嵯峨へ行き向かい、(小督殿は)参りたくないことをさまざまにおっしゃったが、さまざまに説得して、車にお乗せして、内裏へ参って、人目のない所にしのばせて、よなよなお召しになっているうちに、姫宮お一人をご出産なさった。
この姫宮と申すのは、坊門の女院の御事である。
入道相国はどうやってかもれききなさったのだろうか、
「小督がいなくなったというのは、あとかたもない嘘であった」
といって、小督殿をとらえて、尼にして追放された。
小督殿は出家ははじめから望みではあったが、心ならずも尼になされて、年二十三、こき墨染の衣にやつれはてて、嵯峨のあたりにお住まいになる。
情けない事どもである。帝はこのような事どものため、御病気になられて、ついにお亡くなりになったと噂された。
語句
■御ゆえに あなたのために。 ■ひきむすび 手紙をおりただんで結んで。 ■余の御使で候はば 天皇のお使いでないなら。 ■さてもあるべきならねば ずっとこうしているわけにもいかないので。 ■さぞな 本当にそうだ。 ■けりな しまいましたよ。「な」は詠嘆の助詞。 ■御様なンどをかへさせ給ふ 出家すること。 ■あるべうも候はず あってはなりません。出家なさってはなりません。 ■是ばしいだし参らすな 小督殿をお出しするな。従者に言った言葉。「ばし」は強調の意の助詞。 ■馬部・吉上 馬部は左右馬寮の下級役人。吉上は吉祥とも。左右衛府・馬寮の下級役人。 ■入御 天皇が御寝所(夜のおとど)にお入りになること。 ■はね馬の障子 清涼殿の殿上の間の入り口に向かってある衝立障子。表に馬の絵、裏に打毬の絵が描かれている。 ■夜部の御座 昨夜おられた御座所。 ■南に翔り北に嚮(むか)ふ… 「南ニ翔(かけ)リ北に嚮(むか)フ、寒温(かんうん)ヲ龝(あき)ノ雁ニ付ケ難シ。東ニ出デ西ニ流ル、只瞻望(せんぼう)ヲ暁(あかつき)ノ月ニ寄ス」(和漢朗詠集下・恋 大江朝綱)。雁は秋になると南に飛び春になると北に向かう。そこで雁によって寒い温かいの消息をしろうとしても、あなたは遠く離れているので、それもかなわない。月は東から出て西に流れる。ただ私の思いを暁の月に寄せるばかりだ」。西の方角(嵯峨野)にいる小督への思いをたくす。 ■うちながめさせ給ふ 朗詠なさってる。 ■夜さり 夜。 ■かへりきき 廻り廻って耳に入る。 ■きよげに 立派に。 ■幽かなる所 人気のない所。 ■坊門の女院 治承元年(1177)11月4日誕生。範子内親王。土御門天皇准母。建永元年(1206)坊門院と号す。 ■うたてかりし 情けない。
原文
法皇はうちつづき御歎(おんなげき)のみぞしげかりける。去(さんぬ)る永万(えいまん)には、第一の御子二条院崩御(みこにでうのゐんほうぎよ)なりぬ。安元二年の七月には、御孫(おんまご)六条院(ろくでうのゐん)かくれさせ給ひぬ。天に住まば比翼(ひよく)の鳥、地に住まば連理(れんり)の枝とならんと、漢河(あまのがは)の星をさして、御契(おんちぎり)あさからざりし、建春門院(けんしゆんもんゐん)、秋の霧にをかされて、朝(あした)の露と消えさせ給ひぬ。
年月(としつき)はかさなれども、昨日今日(きのふけふ)の御別(わかれ)のやうにおぼしめして、御涙(おんなみだ)もいまだつきせぬに、治承(ぢしょう)四年五月(ごぐわつ)には、第二の皇子(わうじ)高倉宮うたれさせ給ひぬ。現世後生(げんぜごしやう)たのみおぼしめされつる新院さへさきだたせ給ひぬれば、とにかくにかこつ方なき御涙のみぞすすみける。「悲しみの至つて悲しきは、老いて後(のち)子におくれたるよりも悲しきはなし。恨(うらみ)の至ッて恨めしきは、若うして親に先立(さきだ)つよりもうらめしきはなし」と、彼朝綱(かのあさつな)の相公(しやうこう)の、子息澄明(すみあきら)におくれて、書きたりけん筆のあと、今こそおぼしめし知られけれ。さるままには、彼一条妙典(いちじようめうでん)の御読誦(ごどくじゆ)もおこたらせ給はず。三密行法(さんみつぎやうぼふ)の御薫修(ごくんじゆ)もつもらせ給ひけり。天下諒闇(てんかりやうあん)になりしかば、大宮人もおしなべて、花のたもとややつれけん。
現代語訳
法皇は続けて御嘆きばかりが多かった。去る永万には第一の御子・二条院が崩御された。
安元二年の七月には、御孫・六条院がお亡くなりになった。
天に住まば比翼の鳥、地に住まば連理の枝となろうと、天の川を指差して、御契を交わされた、その契も浅からぬ建春門院は、秋の露におかされて、朝の露とお消えになった。
年月はかさなっても、昨日今日の御別れのように思われて、御涙もいまだつきないのに、治承四年五月には、第ニの皇子高倉宮がお討たれになった。
現世後世たのみにしておられた新院(高倉上皇)さえ先立ちなさったので、あれやこれや不平を言う相手もいない御涙ばかりまさるのであった。
「悲しみの至って悲しいのは、老いて後子におくれるより悲しいことはない。恨の至って恨めしいのは、若くして親に先立つより恨めしいものはない」
と、かの朝綱の相公(大江朝綱)が、子息澄明(すみあきら)に死におくれて、書いた文章が、今こそ思い知られたことであった。
それにつけても、法皇はあの『法華経』を御読誦されることもおこたりなさらず、真言密教の行法もさらに積み上げ深めなさる。
天下が諒闇になったので、宮中に仕える人々も多くは、はなやかな服を喪服に着替えたことだろう。
語句
■永万 永万元年(1165)7月28日、二条院崩御。■安元 安元二年(1178)7月17日、六条院崩御。 ■天に住まば比翼の鳥… 『長恨歌』にある、玄宗皇帝と楊貴妃がひそかに長生殿で誓った言葉。 ■漢河の星 牽牛星と織女星。玄宗皇帝と楊貴妃が長生殿で誓いあったのが七月七日であるのにかける。 ■建春門院 後白河の后。滋子。高倉天皇の母。嘉応元年(1169)院号。安元二年七月八日、崩御。 ■とにかくに あれやこれや。 ■かこつ 不平をいう。 ■悲しみの至つて悲しきは… 「悲之又悲(悲しみても悲しきは)老イテ子ニ後レタルヨリ悲シキハナシ、恨ミテ更ニ恨メシキハ少(わか)ウシテ親ニ先ダツヨリ恨メシキハナシ」(本朝文粋・十四・為亡息澄明四十九日願文 後江相公)。 ■朝綱の相公 大江朝綱。音人の孫。相公は参議の唐名。祖父音人を江相公というのに対し、後江相公という。 ■澄明 大江澄明。天暦四年(950)七月没。 ■さるままには それにつけても。 ■一乗妙典の御読誦 一乗妙典は法華経』のこと。一乗は成仏するための唯一の教法。大江朝綱は息子澄明が没した後、『法華経』を書写して菩提を弔った。 ■三密行法 真言密教の行法。 ■御薫修 よく修すること。 ■諒闇 天子が父母の喪に服する期間。安徳天皇が、高倉上皇の喪に服すことをさす。 ■花のたもと はなやかな衣装。
……
高倉天皇の寵愛された女房「小督」のエピソードでした。
「峰の嵐(あらし)か松風か…」のあたりは、特に名文として名高いです。『平家物語』で暗唱するなら、「祇園精舎」、「那須与一」、「敦盛最期」、そして「小督」のこの部分に尽きると思います。
本編中で仲国が琴の音をたよりに小督をさがしまわった、清凉寺(釈迦堂)も、法輪寺も、今に残り、昔の風情をしのぶことができます。
『源氏物語』で光源氏が、六条御息所(伊勢の斎宮となった娘の付添で御息所も伊勢に下る)と野々宮で別れる場面とならび、嵯峨野を舞台とした名場面の双璧といえます。
次回「廻文(めぐらしぶみ)」は12/25(土)配信です。
ゆかりの地
清凉寺
嵯峨天皇皇子で臣籍降下した河原左大臣源融(みなもとの とおる)が9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘「棲霞観(せいかかん)」の跡地に、子孫が寺を築き「棲霞寺」とした。
その後、宋の五大山清凉寺にならって宋から請来した釈迦如来像を境内の釈迦堂に安置し、清凉寺と号した。
『平家物語』「小督」には源仲国が「釈迦堂をはじめて」、嵯峨の御堂御堂を、小督の琴の音をたよりに尋ねまわったとある。
『源氏物語』「松風」には、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」が大覚寺の南に所在したとある。これは河原左大臣源融の棲霞観跡が意識されていると思われる。
嵯峨野名物「あぶり餅」でも有名。
京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
小督塚
小督の仮住居跡とされる場所にたつ五輪石塔。
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
法輪寺【嵯峨虚空蔵】
和銅6年(713)元明天皇の勅命で行基が創設。はじめ木上山葛井寺と号した。天長6年(829)空海の弟子道昌が虚空蔵を安置し、貞観16年(874)法輪寺とあらためた。渡月橋の南。十三まいりで有名。
応仁の乱で焼失したが、後陽成天皇が復興。元治元年(1864)禁門の変にともなう火災(どんどん焼け)で焼失。明治17年(1884)から再興され、大正3年(1914)現在の姿となる。
朱塗りの多宝塔が見事。見晴台からの景色は絶景。十三歳になった子供たちが参詣する「十三まいり」でも知られる。
京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町16
京都府立嵐山公園(亀山あたり)
天龍寺の西裏にある公園。亀山地区・中之島地区・臨川寺地区からなる。このうち小倉山の山裾にあたる亀山地区が、源仲国が小督の爪音をきいた「亀山のあたり」。大堰川のながめが見事。
渡月橋
大堰川(桂川)にかかる橋。平安時代初期に法輪寺の道昌がかけたのがはじまりと伝わる。鎌倉時代、亀山上皇が「くまなき月の渡るに似たり」といったことから渡月橋と名付けられた。何度も洪水で流されたが江戸時代初期に角倉了以が大堰川の治水工事を行い、現在の位置にかけかえた。現在の渡月橋は昭和9年(1934)完成。
琴きき橋跡
源仲国が琴の音をたよりに小督を尋ね歩いたことにちなむ。
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