平家物語 八十八 飛脚到来(ひきやくたうらい)

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本日は『平家物語』巻第六より「飛脚到来(ひきゃくとうらい)」。

信濃の木曽義仲に続き、日本各地で反平家の動きが起こります。

河内国では武蔵権守入道(むさしのごんのかみにゅうどう)父子が、九州では緒方三郎(おがた さぶろう)らが、四国では河野通信(こうの みちのぶ)らが、それぞれ平家に反旗をひるがえしていました。

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前回「廻文(めぐらしぶみ)」からのつづきです。
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あらすじ

伊豆の頼朝に続き、信濃で木曽義仲が蜂起した(「廻文」)。

平家の人々は義仲の動きを恐れるが、清盛は「越後には城太郎助長、助茂(じょうのたろう すけなが、すけもち) 兄弟がいる」と、動じない。

治承五年二月一日、城太郎助長が木曽義仲追討のため越後守に任ぜられた。

同九日、河内国で武蔵権守入道義基らによる反平家の動きが起こる。

十二日、鎮西(九州)にて緒方三郎維義らが平家に背き、源氏に同心したとの飛脚が到来する。

十六日、伊予国から飛脚が到来する。

平家同心の額入道西寂は源氏に通じた河野四郎通清を討つが、通清の息子、河野四郎通信の復讐にあい、のこぎりで切られたとかはりつけにされたとかいうことだった。

原文

木曽といふ所は、信濃(しなの)にとッても南のはし、美濃(みの)ざかひなりければ、都(みやこ)も無下(むげ)にほどちかし。平家の人々もれきいて、「東国のそむくだにあるに、きたぎに北国さへこはいかに」とぞさわがれける。入道相国仰せられけるは、「其者心にくからず。思へば信濃一国の兵(つはもの)共こそしたがひつくといふとも、越後国(ゑちごのこく)には余五(よご)将軍の末葉(ばつゑふ)、城太郎助長(じやうのたらうすけなが)、同四郎助茂(おなじきしらうすけもち)、これらは兄弟共に多勢(たぜい)の者共なり。仰せくだしたらんずるに、やすう討ッて参らせてんず」と宣(のたま)ひければ、いかがあらんずらむと内々はささやく者もおほかりけり。

二月一日(ひとひのひ)、越後国の住人(ぢゆうにん)城太郎助長、越後守に任(にん)ず。是(これ)は木曽追討(ついたう)せられんずるはかり事とぞきこえし。同七日(おなじきなのかのひ)、大臣以下(いげ)家々にて、尊勝陀羅尼(そんじようだらに)、不動明王(ふどうみやうわう)、書供養(かきくよう)ぜらる。

是は又兵乱(ひやうらん)つつしみのためなり。同九日(おなじきここのかのひ)、河内国石河郡(いしかわのこほり)に居住(きよぢゆう)したりける、武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにふだうよしもと)、子息石河判官代義兼(いしかはのはんぐわんだいよしかね)、平家をそむいて兵衛佐頼朝(ひやうゑのすけよりとも)に心をかよはし、已(すで)に東国へ落ち行くべきよしきこえしかば、入道相国やがて打手(うつて)をさしつかはす。打手の大将には源大夫判官季貞(げんだいふのはうぐわんすゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、都合(つがふ)其勢三千余騎で発向(はつかう)す。城(じやう)の内(うち)には武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにふだうよしもと)、子息判官代義兼を先として其勢百騎ばかりには過ぎざりけり。時つくり矢合(やあはせ)して、いれかへいれかへ数剋(すこく)たたかふ。城(じやう)の内(うち)の兵(つはもの)ども、手のきはたたかひ打死(うちじに)する者おほかりけり。武蔵権守入道義基打死(うちじに)にす。子息石河判官代義兼はいた手(で)負うていけどりにせらる。同(おなじき)十一日義基法師(よしもとほつし)が頸(くび)都へ入ッて大路(おほじ)をわたさる。諒闇(りやうあん)に賊首(ぞくしゆ)をわたさるる事は、堀河天皇崩御(ほりかはのてんわうほうぎよ)の時、前対馬守源義親(さきのつしまのかみみなもとのよしちか)が首(くび)をわたされし例とぞきこえし。

同(おなじき)十二日鎮西(ちんぜい)より飛脚到来(ひきやくたうらい)、宇佐大宮司公通(うさのだいぐうじきんみち)が申しけるは、「九州の者ども緒方三郎(をかたのさぶらう)をはじめとして、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)にいたるまで、一向(いつかう)平家をそむいて、源氏に同心」のよし申したりければ、「東国北国のそむくだにあるに、こはいかに」とて、手をうッてあさみあへり。

同(おなじき)十六日、伊予国(いよのこく)より飛脚到来(ひきやくたうらい)す。去年冬比(こぞのふゆのころ)より、河野四郎通清(かはののしらうみちきよ)をはじめとして、四国の者ども、みな平家をそむいて源氏に同心のあひだ、備後国(びンごのくにの)住人、額入道西寂(ぬかのにふだうさいじやく)、平家に心ざしふかかりければ、伊予国(いよのくに)へおしわたり、道前道後のさかひ、高縄城(たかなうのじやう)にて、河野四郎通清をうち候(さうら)ひぬ。子息河野四郎通信(みちのぶ)は、父がうたれける時、安芸国(あきのくにの)住人、奴田次郎(ぬたのじらう)は、母方の伯父(をぢ)なりければ、それをこえてありあはず。河野通信、ちちをうたせて、「やすからぬ者なり。いかにしても西寂を打ちとらむ」とぞうかがひける。額入道西寂、河野四郎通清をうッて後、四国の狼藉(らうぜき)をしづめ、今年(こんねん)正月十五日に、備後(びンご)の鞆(とも)へおしわたり、游君(いうくん)遊女共召しあつめて、あそびたはぶれさかもりけるが、先後(ぜんご)も知らず酔(ゑ)ひふしたる処(ところ)に、河野四郎(かはののしらう)、思ひきッたる者ども百余人あひ語らッて、ばッとおし寄す。西寂(さいじやく)が方にも、三百余人ありける者共、にはかの事なれば、思(おもひ)もまうけず、あわてふためきけるを、たてあふ者をば射ふせきりふせ、まづ西寂を生けどりにして、伊予国へおしわたり、父がうたれたる高縄城(たかなうのじやう)へさげもてゆき、鋸(のこぎり)で頸(くび)をきッたりともきこえけり。又磔(はりつけ)にしたりともきこえけり。

現代語訳

木曾という所は、信濃にとっても南のはし、美濃との国境付ふきんであるので、都もたいそう距離が近い。

平家の人々はもれきいて、

「東国がそむくのさえ大変なのに、北国さえそむくとはどうしたことか」

とさわがれた。

入道相国が仰せになることは、

「その者はたいした問題でない。思えば信濃一国の兵たちこそ従いつくといっても、越後国には余五将軍(平維茂)の末裔、城太郎助長(じょうのたろうすけなが)、同じく四郎助茂(すけもち)、これらは兄弟ともに多勢の者どもである。仰せ下したら、たやすく討ちとって参るだろう」

とおっしゃると、さあどうだろうかと、内々はささやく者も多かった。

二月一日、越後国の住人城太郎助長はを越後守に任ずる。これは木曾義仲追討されるための計画ということだった。

同七日、大臣以下、家々にて、尊くすぐれた陀羅尼、不動明王を書写して仏事供養される。

これはまた兵乱をしずめるためである。

同九日、河内国(かわちのくに)石河郡(いしかわのこおり)に住んでいる、武蔵権守入道義基(むさしのごんのかみにゅうどう よしもと)、子息石河判官代義兼(いしかわのはんがんだい よしかぬ)が、平家をそむいて兵衛佐頼朝に心を通わせ、すぐにも東国へ落ち行くらしいときこえたので、入道相国はすぐに討手をさしつかわす。

討手の大将軍には源大夫判官季貞(すえさだ)、摂津判官盛澄(もりずみ)、総勢三千余騎で出発する。

城の内には武蔵権守入道義基が、子息判官代義兼を先としてその勢百騎ほどには過ぎなかった。

鬨の声をつくり矢合わせして、入れかえ入れかえ数刻戦う。城の内の兵たちは、力のおよぶかぎり戦い、討ち死にする者が多かった。

武蔵権守入道義基は討ち死にした。子息石河判官代義兼は重傷を負って生捕りにされた。同十一日、義基法師の首が都へ入って大路をわたされた。

諒闇に賊徒の首をわたされる事は、堀河天皇崩御の時、前対馬守(さきのつしまのかみ)源義親の首をわたされた例ということだった。

同十ニ日、鎮西から飛脚が到来した。宇佐大宮司公通(きんみち)が申したのは、

「九州の者どもが緒方三郎をはじめとして、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらとう)にいたるまで、まったく平家をそむいて、源氏に同心」

ということを申してきたので、

「東国北国のそむくのさえ大変なのに、これはどうしたことか」

と、手をうって驚きあきれあわれた。

同十六日、伊予国から飛脚が到来する。

去年冬のころから、河野四郎通清(こうののしろう みちきよ)をはじめとして、四国の者どもが、みな平家をそむいて源氏に同心したので、備後国の住人、額入道西寂(ぬかのにゅうどう さいじゃく)は、平家に心ざし深かったので、伊予国へおしわたり、道前道後のさかい、高縄城(たかなわじょう)にて、河野四郎通清を討ちました。

子息河野四郎通信(みちのぶ)は、父がうたれた時、安芸国の住人、奴田次郎は、母方の叔父であるので、そちらへ行っており、居合わせなかった。

河野通信は、父を討たれて、

「けしからん者である。どうやっても西寂を討ち取ってやる」

とうかがっていた。

額入道西寂は、河野四郎通清をうって後、四国のさわぎをしずめ、今年(治承五年)正月十五日に、備後の鞆にわたり、遊君遊女どもを召しあつめて、あそびたわむれ酒盛りしていたが、前後もわからず酔いふしているところに、河野四郎、決死の覚悟を決めた者ども百余人を語らって、ばっとおし寄せる。

西寂の方にも、三百余人あった者ども、突然のことであるので、予期もせず、あわてふためいていたのを、抵抗する者を射ふせ切り伏せ、まず西寂をいけどりにして、伊予国にわたり、父がうたれた高縄城へひっさげてゆき、のこぎりで首をきったともきこえた。また磔にしたともきこえた。

語句

■無下に 非常に。 ■心にくからず たいした問題ではない。 ■余五将軍 ■余五将軍 与五将軍。平兼忠の子、維茂。鎮守府将軍。与五は十五番目の男子の意。 ■城太郎助長、同四郎助茂 平家方。『玉葉』には城太郎助永、弟助職(すけもと)と。 ■越後守 『玉葉』治承五年(1181)三月十七日条に、「城太郎助永病死」とあり不審。弟の助職が八月十四日、越後守となった(吾妻鏡)ことを混同したか? ■尊勝陀羅尼 尊くすぐれた陀羅尼。陀羅尼はサンスクリット語の原文を音読するもの。仏教における一種の呪文で、比較的長いものをいう。 ■書供養 かきくよう 経文を書いて供養すること。 ■石河郡 大阪府南河内郡の一部。 ■手のきは 手のおよぶかぎり。 ■諒闇に… 『玉葉』治承五年二月九日条に、高倉院が中陰のときであるのに源義基およびその弟二人を大路に渡したとある。 ■堀河天皇… 堀河天皇は嘉承ニ年(1107)七月十九日崩御。『小右記』に翌年正月、平正盛が源義親を討ち、入京したことをあきれた事として記している。 ■宇佐大宮司 豊前国(大分県)宇佐八幡宮の大宮司。 ■緒方三郎 緒方三郎惟栄(義)。豊後国大野郡緒方庄の人。現緒方神社が緒方三郎惟栄館跡とされる。 ■臼杵 臼杵次郎惟隆。緒方維栄の兄。豊後国海部郡臼杵庄(臼杵市)の人。 ■戸次 豊後国大分郡戸次庄(大分市戸次)の人。 ■松浦党 肥前国(佐賀・長崎)松浦を拠点とした人々。鎮西九党の一。 ■あさみあへり 驚きあきれあった。 ■河野四郎通清 伊予国風早郡河野郷(愛媛県北条市)の人。 ■額入道西寂 奴可郡(広島県比婆郡)の人。 ■道前道後 伊予を東予・中予・南予の三つに分け、東予を道前、中予を道後という。 ■高縄城 たかのうじょう。河野氏の居城。北条市の立岩と河野の境、高縄山にある。 ■奴田次郎 沼田郡沼田郷(三原市沼田町)の人。 ■ありあはず 居合わせなかった。 ■鞆 広島県福山市鞆町。瀬戸内海のほぼ中間に位置し、古くからの港。 ■思ひきッたる者ども 死を覚悟した者ども。 ■たてあふ 抵抗する。 ■さげもてゆき ひっさげてゆき。

次回「入道死去」に続きます。

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