平家物語 八十九 入道死去(にふだうしきよ)

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『平家物語』巻第六より「入道死去(にゅうどうしきょ)」。

日本各地で平家への反乱がつづく中、平清盛は熱病に冒され、亡くなります。

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前回「飛脚到来(ひきゃくとうらい)」からのつづきです。
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あらすじ

東国・北国で平家への反乱が続いているので、宗盛は自ら大将軍として出陣することを宣言する。

宗盛出陣の前夜、清盛が重病にかかったという噂が流れ、大騒ぎになる。

清盛は、身を焼くほどの異常な熱病に犯され、「熱い熱い」とうわごとを言うばかりだった。

水風呂に入って冷やそうとすれば水が沸騰して湯になり、水をかければその水は蒸発して飛び散る。

たまに当たる水は黒煙となって殿中に渦を巻いた。

また、二位殿(清盛の妻)が見た夢も恐ろしいものだった。

「無」という文字が書かれた燃える車を、異形の者たちがかついでおり、彼らは「東大寺の大仏を焼いた罪(「奈良炎上」)によって、閻魔大王から遣わされた迎えの車だ」と答えた。

夢から覚めた二位殿は、多くの寺社に宝物を納め祈るが何の効果もなかった。

清盛の死を悟った二位殿は、遺言があるかと訊ねる。

清盛は、「自分が死んだら頼朝の首をとり、我が墓の前にかけよ。それが一番の供養だ」と遺言する。

閏二月四日、清盛は熱さにもがき苦しみ、遂に帰らぬ人となった。

同七日、愛宕で火葬にし、遺骨は摂津国の経島に納められた。

原文

其後(そののち)四国の兵共(つはものども)、みな河野四郎にしたがひつく。熊野別当湛増(くまののべったうたんぞう)も、平家重恩(ぢゆうおん)の身なりしが、それもそむいて源氏に同心の由(よし)聞えけり。凡(およ)そ東国北国ことごとくそむきぬ。南海西海(さいかい)かくのごとし。夷狄(いてき)の蜂起(ほうき)耳を驚かし、逆乱(げきらん)の先表頻(せんぺうしき)りに奏(そう)す。四夷忽(しいたちま)ちに起(おこ)れり。世は只今うせなんずとて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の、なげきかなしまぬはなかりけり。

同(おなじき)廿三日公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)申されけるは、「坂東(ばんどう)へ打手(うつて)はむかうたりといへども、させるしいだしたる事も候(さうら)はず。今度宗盛大将軍(たいしやうぐん)を承ッて、向ふべき」よし申されければ、諸卿色代(しきだい)して、「ゆゆしう候ひなん」と申されけり。公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)も、武官(ぶくわん)に備はり弓箭(きゆうせん)に携(たずさは)らん人々は、宗盛卿を大将軍にて、東国北国の凶徒等(きやうとら)追討すべきよし仰せ下さる。

同(おなじき)廿七日前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、源氏追討の為に東国へ既(すで)に門出(かどいで)ときこえしが、入道相国違例(ゐれい)の御心地とてとどまり給ひぬ。明くる廿八日より、重病(ぢゆうびやう)をうけ給へりとて、京中(きやうぢゆう)、六波羅、「すはしつる事を」とぞささやきける。入道相国やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し。ふし給へる所四五間(けん)が内へ入る者は、あつさたへがたし。ただ宣(のたま)ふ事とては、あたあたとばかりなり。すこしもただ事(こと)とはみえざりけり。比叡山(ひえいざん)より千手井(せんじゆゐ)の水をくみくだし石の舟にたたへて、それにおりてひえ給へば、水おびただしくわきあがッて、程なく湯にぞなりにける。もしやたすかり給ふと筧(かけひ)の水をまかせたれば、石やくろがねなンどの焼けたるやうに、水ほどばしッて寄りつかず。おのづからあたる水は、ほむらとなッてもえければ、黒煙殿中(くろけぶりてんちゅう)にみちみちて、炎(ほのほ)うづまいてあがりけり。是(これ)や昔法蔵僧都(むかしほふざうそうづ)といッし人、閻王(えんわう)の請(しやう)におもむいて、母の生所(しやうじよ)を尋ねしに、閻王あはれみ給ひて、獄卒(ごくそつ)をあひそへて、焦熱地獄(せうねつじごく)へつかはさる。くろがねの門(もん)の内へさし入れば、流星(りうしやう)なンどの如くに、ほのほ空へたちあがり、多百由旬(たひゃくゆじゆん)に及びけんも、今こそ思ひ知られけれ。

入道相国の北の方、二位殿の夢(ゆめ)にみ給ひける事こそおそろしけれ。猛火(みやうくわ)のおびたたしくもえたる車を、門(もん)の内へやり入れたり。前後(ぜんご)に立ちたるものは、或(あるひ)は馬の面(おもて)のやうなるものもあり。或は牛の面のやうなるものもあり。車のまへには、無(む)といふ文字(もじ)ばかりぞみえたる、鉄(くろがね)の札をぞ立てたりける。二位殿夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御たづねあれば、「閻魔(えんま)の庁(ちやう)より、平家太政入道殿(へいけだいじやうのにふだうどの)の御迎(おんむかひ)に参ッて候」と申す。「さて其札(そのふだ)は何といふ札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮堤金銅(なんえんぶだいこんどう)十六丈の廬舎那仏(るしやなぶつ)焼きほろぼし給へる罪によッて、無間(むけん)の底に堕(お)ち給ふべきよし閻魔(えんま)の庁(ちやう)に御さだめ候が、無間の無をば書かれて、間の字をばいまだ書かれぬなり」とぞ申しける。

二位殿うちおどろき、あせ水になり、是(これ)を人々にかたり給へば、きく人みな身の毛よだちけり。霊仏霊社(れいぶつれいしや)に金銀七宝(こんごんしつぽう)を投げ、馬鞍(むまくら)、鎧甲(よろひかぶと)、弓矢(ゆみや)、太刀(たち)、刀(かたな)にいたるまで、とりいではこび出しいのられけれども、其しるしもなかりけり。男女(なんによ)の君達(きんだち)あと枕(まくら)にさしつどひて、いかにせんとなげきかなしみ給へども、かなふべしともみえざりけり。

現代語訳

その後、四国の兵どもは、みな河野四郎にしたがいつく。熊野別当(くまののべっとう)湛増(たんぞう)も、平家に重く恩を受けている者であったが、それもそむいて源氏に同心したことが聞こえた。

およそ東国北国ことごとく平家にそむいた。南海道・九州もこのようであった。反逆者たちが各地で蜂起したことは耳をおどろかし、兵乱の前兆をしめすようなことをしきりに奏上する。

四方の敵がたちまちに起こった。世はたった今滅びてしまうだろうといって、必ずしも平家の一門でなくても、心ある人々で、なげきかなしまない者はなかった。

同月(二月)三日、公卿が評定した。前右大将宗盛卿(むねもりのきょう)が申されたのは、

「坂東へ討手がむかったといっても、たいした成果もございません。今度は宗盛が大将軍を承って、向かいましょう」

ということを申されたので、公卿らはお世辞を言って、

「ごりっぱでございます」

と申された。公卿殿上人も、武官に就任しており弓矢の道に携わるような人々は、宗盛卿を大将軍にして、東国北国の賊徒たちを追討せよということを仰せ下された。

同月(二月)二十七日、前右大将宗盛卿は、源氏追討のために東国へ今にも門出すると噂されたが、入道相国がたいへんな病ということで、留まられた。

翌二十八日から、重病にかかられたということで、京中、六波羅、

「さあて、やってしまいましたなあ」

とささやきあった。

入道相国は病にかかられた日から、水さえものどへもお入れにならない。体の中があついことは、火をたくようである。横になっていらっしゃる所四五間の内へ入る者は、あつさにがまんできない。

ただおっしゃることは、「あたあた」とばかりである。

すこしもただ事とはみえなかった。比叡山から千手井の水をくみくだし、石の浴槽にたたえて、それに浸って体をお冷やしになると、水がたいそう湧き上がって、ほどなく湯になってしまった。

もしやお助かりになられるかもと、筧の水を注いだところ、石や鉄などが焼けたように、水がほとばしって寄り付かない。

たまに当たる水は、炎となって燃えたので、黒煙が屋敷中にみちみちて、炎がうずをまいてあがった。

これは昔、法蔵僧都といった人が、閻魔大王に招かれて地獄へおもむいて、母の生まれ変わっている所を尋ねたところ、閻魔大王は憐れまれて、獄卒をそえて、焦熱地獄へつかわされた。

黒鉄の門の内にはいると、流れ星などのように炎が空へたちあがり、無限と思える距離に及んでいたのも、今こそ思い知られたことであった。

入道相国の北の方、二位殿の夢にごらんになった事こそおそろしかった。

猛火がたいそう燃えている車を、門の内へやり入れた。前後に立っている者は、あるいは馬の顔のようなものもあり、あるいは牛の顔のようなものもある。

車の前には「無」という文字だけがみえている、鉄の札を立てていた。

二位殿は夢の中で心で、

「あれはどこから来たのか」

と、お尋ねになると、

「閻魔の庁より、平家太上入道殿の御迎に参ったのでございます」

と申す。

「ではその札は何という札か」

とご質問になると、

「人間世界に比類なき、金堂十六丈の盧遮那仏を焼きほろぼされた罪によって、無間の底に落ちられるべしと閻魔の庁で御決定されたことでございますが、無間の無を書かれて、間の字をいまだ書かれぬのである」

と申した。

二位殿は目がさめて、あせ水になり、これを人々にお語りになると、きく人は皆、身の毛よだった。

霊験あらたかな寺や神社に金銀財宝を惜しげもなく送り、馬鞍、鎧甲、弓矢、太刀、刀にいたるまで、取り出して運び出して祈られたが、その効果もなかった。

男女の公達は足元や枕元に集まって、どうしようと嘆き悲しみなさったが、願いがかないそうにも見えなかった。

語句

■熊野別当湛増 「熊野別当湛増謀反、彼ノ山ノ常住等ニ仰セテ追討スベキ由宣下」(百錬抄・治承四年十月六日条)。 ■南海 南海は南海道(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)、西海は九州。 ■先表 前兆。 ■四夷 中国で四方にある国々。東夷・西戎・南蛮・北狄。ここでは四方で旗揚げした源氏。 ■させるしいだしたる事も候はず たいしてしでかしたこと(成果)もございません。 ■色代 お世辞を言うこと。 ■ゆゆしう 立派で。勇敢で。 ■違例 病気。 ■すはしつる事を さあ、やっだ事よ。「を」は詠嘆。 ■身の内のあつき事 「日来所悩有リ、身熱火ノ如シ。世以テ東大興福ヲ焼クノ現報トナス」(百錬抄・養和元年閏二月四日条)。 ■千手井 比叡山東塔西谷にある弁慶水。弁慶が修行したという霊水。千手観音に供える閼伽水。 ■石の舟 石でできた浴槽。 ■筧 竹や木でできた樋。 ■法蔵僧都 康保ニ年(965)東大寺別当。閻魔庁に母を尋ねたことが『元亨釈書』にある。 ■生所 生まれかわっている所。 ■焦熱地獄 八大地獄の一。罪人が炎の責めを受ける。 ■多百由旬 非常に長い距離。由旬はインドの距離単位。2キロメートル程とも20キロメートル程とも。 ■ニ位殿 平清盛の妻、時子。西八条にすみ二位だったため、八条の二位とも。 ■馬の面… 地獄の獄卒、牛頭馬頭(ごずめず)。 ■南閻浮提 人間世界。 ■金堂十六丈の盧遮那仏 東大寺の大仏。「奈良炎上」。 ■無間 無間地獄。八大地獄の一。無限に責め苦が続く地獄。 ■投げ 差し出し。 ■あと枕 足元と枕元。 

原文

同閏(おなじきうるふ)二月二日(ふつかのひ)、二位殿あつうたへがたけれども、御枕(おんまくら)の上によッて、泣く泣く宣(のたま)ひけるは、「御有様(おんありさま)み奉るに、日にそへてたのみずくなうこそみえさせ給へ。此世(このよ)におぼしめしおく事あらば、すこしもののおぼえさせ給ふ時、仰せおけ」とぞ宣ひける。入道相国、さしも日來(ひごろ)はゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、いきの下に宣ひけるは、「われ保元(ほうげん)、平治(へいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵をたひらげ、勧賞(けんじやう)身にあまり、かたじけなくも帝(てい)祖(そ)、太政大臣にいたり栄花子孫(えいぐわしそん)に及ぶ。今生(こんじやう)の望(のぞみ)一事ものこる処(ところ)なし。ただし思ひおく事とては、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前兵衛佐頼朝(さきのひやうゑのすけよりとも)が頸(くび)を見ざりつるこそやすからね。われいかにもなりなん後(のち)は、堂搭(だうたふ)をもたて孝養(けうやう)をもすべからず。やがて打手(うつて)をつかはし、頼朝が首(かうべ)をはねて、わが墓のまへにかくべし。それぞ孝養にてあらんずる」と宣ひけるこそ罪ふかけれ。

同四日病(おなじきよつかのひやまひ)にせめられ、せめてもの事に板に水を沃(い)て、それにふしまろび給へども、たすかる心地(ここち)もし給はず、悶絶躃地(もんぜつびやくぢ)して遂(つひ)にあつち死(じに)ぞし給ひける。馬車(むまくるま)のはせちがふ音、天もひびき大地(だいぢ)もゆるぐ程なり。一天の君万乗(ばんじやう)の主(あるじ)の、いかなる御事ましますとも、是(これ)には過ぎじとぞみえし。今年は六十四にぞなり給ふ。老死(おいじに)といふべきにはあらねども、宿運忽(しゆくうんたちま)ちにつき給へば、大法秘法(だいほふひほふ)の功験(かうげん)もなく、神明三宝(しんめいさんぽう)の威光(ゐくわう)も消え、諸天も擁護(おうご)し給はず。況(いはん)や凡慮(ぼんりよ)においてをや。命(いのち)にかはり身にかはらんと、忠を存ぜし数万(すまん)の軍旅(ぐんりよ)は、堂上堂下(たうしようたうか)に次居(なみゐ)たれども、是は目にもみえず力にもかかはらぬ無常(むじやう)の殺鬼(せつき)をば、暫時(ざんじ)もたたかひかへさず。又かへりこぬ四出(しで)の山、三瀬河(みつせがは)、黄泉中有(くわうせんちゆうう)の旅の空に、ただ一所(いつしよ)こそおもむき給ひけめ。日ごろつくりおかれし罪業(ざいごふ)ばかりや獄卒(ごくそつ)となッて、むかへに来(きた)りけん。あはれなりし事共なり。

さてもあるべきならねば、同七日(おなじきなぬかのひ)、愛宕(おたぎ)にて煙(けぶり)になし奉り、骨(こつ)をば円実法眼頸(ゑんじつほふげんくび)にかけ、摂津国(つのくに)へくだり、経(きやう)の島(しま)にぞをさめける。さしも日本一州(につぽんいつしう)に名をあげ、威をふるッし人なれども、身はひとときの煙になッて、都の空に立ちのぼり、かばねはしばしやすらひて、浜(はま)の砂(まさご)にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり給ふ。

現代語訳

同年(治承五年)閏二月ニ日、二位殿は、熱くてたえがたいけれど、御枕もとによって、泣く泣くおっしゃったことは、

「御有様を拝見しますに、日に日に頼み少なくなっていかれるようにお見えです。この世にお思いおく事があれば、少し意識のはっきりしていらっしゃる時に、仰せおいてください」

とおっしゃった。

入道相国は、あれほど日頃は勇ましい様子がいらしたが、ほんとうに苦しそうで、息の下におっしゃることは、

「われは保元、平治よりこのかた、何度も朝敵を平定し、勧賞は身にあまり、畏れ多くも帝の祖父、太政大臣にいたり、栄花は子孫におよぶ。今生の望みは一事ものこるところはない。ただし気がかりな事としては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見なかったことだけが心残りだ。われが死んだ後は、堂塔もたてず、孝養もしてはならぬ。すぐに討手をつかわし、頼朝の首をはねて、わが墓の前にかけよ。それこそ孝養であるぞ」

とおっしゃったのは罪ふかいことであった。

同月(閏二月)四日、病にせめられ、せめて助かるかと板に水を注いで、それに横になられたが、たすかる心地もなさらなかった。悶え苦しんで、地に倒れ、ついに身もだえして死んでしまわれた。

馬車のはせかう音は、天もひびき大地もゆるぐほどである。一天の君万乗の主=天皇がご崩御されたといっても、これには過ぎないだろうと見えた。

今年は六十四におなりであった。老死にということではないだろうが、前世からの運がたちまちお尽きになったので、大法秘法の効験もなく、神仏の威光も消え、天上の神々もお守りにならない。

まして人間に何ができよう。命にかわり身にかわろうと、忠心を持つ数万の軍隊は、殿上にも地下にも揃っていたが、これは目に見えず力にもかかわらない無常という人を殺す鬼を、少しの間も戦い返せない。

二度と帰れない死出の山をこえて、三途の川をわたり、冥土の中陰の旅に、ただお一人で赴かれたのだろう。

日ごろつくりおかれた罪業だけが獄卒となって、迎えに来たのだろう。感慨深いこと共である。

そうはいってもそのままにしてはおけないので、同月(閏二月)七日、愛宕(おたぎ)にて煙になし申し上げ、骨を円実法眼が首にかけ、摂津国に下り、経の島におさめた。

あれほど日本一国に名をあげ、権威をふるった人であるが、身はひとときの煙となって、都の空に立ちのぼり、死骸はしばらくそのまま残って、浜の砂にたわむれながら、むなしき土となられた。

語句

■もののおぼえさせ給ふ時 すこしものがおわかりになる時。少し意識がはっきりしておられる時。 ■ゆゆしげに 豪気に。勇ましく。 ■帝祖 安徳天皇の祖父。 ■いかにもなりなん後は 死んだ後は。 ■沃て 注いで。 ■悶絶躃地 もだえ、地に倒れること。『法華経』品解品にみえる語。 ■あつち死 身悶えして死ぬこと。 ■宿運 前世からの決まった運命。 ■諸天 天上で仏教を守護する神々。 ■擁護 神仏が衆生を守ること。 ■凡慮 ここでは神仏の広大な慮りに対して人間の浅い考えをさす。 ■軍旅 軍隊。 ■堂上堂下 殿上人と地下人。ここでは殿上人が統率する軍隊と地下人が統率する軍隊のことか? ■無常の殺鬼 無常という、人を殺す鬼。 ■三瀬川 三途の川。死者が渡る三つの瀬がある。 ■黄泉 冥土。 ■中有 中陰。死者が次に行くところが決まるまでの四十九日間。 ■罪業 罪となる悪行。 ■愛宕 京都府左京区。京都東部の火葬地。ここにあった愛宕寺は奥嵯峨に移され、愛宕念仏寺として現存している。 ■円実法眼 左大臣藤原実能の子。実定の叔父。法眼は法印につぐ僧の位。 ■経の島 神戸市兵庫区。

朗読・解説:左大臣光永

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