平家物語 九十 築島(つきしま)
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本日は『平家物語』巻第六より「築島(つきしま)」。
平清盛は福原に貿易港・輪田泊(わだのとまり)を開き、その沖合に人工島を築いて、船の行き来をしやすくしました。この人工島を「経の島」といいます。その名前のゆらいについてのお話です。
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前回「入道死去(にゅうどうしきょ)」からのつづきです。
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あらすじ
清盛の葬儀の夜、西八条邸が火事になった。放火と噂された。
また、六波羅の南から大勢の声で「うれしや水 鳴るは滝の水」と はやす声が聞こえてきた。
先月は高倉上皇がお亡くなりになり、今また入道が帰らぬ人となったのに不謹慎なことだった。
平家の血気さかんな者たちが押し寄せてみると、院の御所法住寺殿で、留守居の役人たちが酒を飲んで騒いでいるのだった。
これを六波羅にひっぱって行くと、宗盛は「そんなに酔っ払っているなら斬るべきでなかろう 」と、釈放した。
貴人が亡くなった時は朝晩鐘を鳴らし念仏を唱え、高きも卑しきも喪に服すものだが、 この時は少しもそんな雰囲気はなかった。すでに戦が迫っており、それどころではな かった。
臨終の様が情けないものだったからといって、やはり清盛がただ人でないことに変わりはない。
清盛が比叡山日吉の社へ参詣した時は多くの人がその豪華さに感嘆した。
何よりの働きは福原の港に経島という人口島を築いて、船の行き来をしやすくしたことである。
阿波民部重能が奉行になって、港の安全のために人柱を立てようと提案したのを、 「それはあんまりだ」と、石にお経を書くことで人柱の代わりとした。このため「経島」と名づけられた。
原文
やがて葬送(さうそう)の夜(よ)、ふしぎの事あまたあり。玉をみがき金銀をちりばめて作られたりし西八条殿(にしはつでうどの)、其(その)夜にはかに焼けぬ。人の家の焼くるは常のならひなれども、あさましかりし事共なり。何者のしわざにやありけん。放火とぞ聞えし。又其夜六波(ろくは)羅(ら)の南にあたッて、人ならば二三十人がこゑして、「うれしや水、なるは滝の水」といふ拍子(ひやうし)を出(いだ)して舞ひをどり、どッとわらふ声しけり。去(さんぬ)る正月には、上皇かくれさせ給ひて、天下諒闇(りやうあん)になりぬ。わづかに中(なか)一両月をへだてて、入道相国薨(こう)ぜられぬ。あやしのしづのをしづのめにいたるまでも、いかンがうれへざるべき。是はいかさまにも天狗(てんぐ)の所為(しよゐ)といふ沙汰(さた)にて、平家の侍(さぶらひ)のなかに、はやりをの若者ども百余人、わらふ声についてたづねゆいてみれば、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に、この二三年院もわたらせ給はず、御所あづかり備前前司基宗(びぜんのせんじもとむね)といふ者あり、彼(かの)基宗があひ知ッたる者ども、二三十人夜(よ)にまぎれて来(きた)り集(あつま)り、酒をのみけるが、はじめはかかる折ふしにおとなせそとてのむ程に、次第にのみ酔(ゑ)ひて、か様(やう)に舞ひをどりけるなり。ばッとおし寄せて、酒に酔(ゑひ)ども一人ももらさず、卅人ばかりからめて、六波(ろくは)羅(ら)へゐて参り、前右大将宗盛卿のおはしける、坪(つぼ)の内にぞひッすゑたる。事の子細(しさい)をよくよくたづねきき給ひて、「げにもそれほどに酔ひたらん者をば、きるべきにもあらず」とて、みなゆるされけり。人のうせぬるあとには、あやしの者も、朝夕(てうせき)にかねうちならし、例時懺法(れいじざんぼふ)よむ事は常のならひなれども、此禅門薨(このぜんもんこう)ぜられぬる後は、供仏施僧(くぶつせそう)のいとなみといふ事もなし。朝夕(あさゆふ)はただいくさ合戦のはかり事(こと)より外は他事(たじ)なし。
凡(およ)そは最後(さいご)の所労(しよらう)の有様(ありさま)こそうたてけれども、まことにはただ人(びと)ともおぼえぬ事どもおほかりけり。日吉社(ひよしのやしろ)へ参り給ひしにも、当家他家(たうけたけ)の公卿おほく供奉(ぐぶ)して、「摂禄(せつろく)の臣の春日御参詣(かすがごさんけい)、宇治入(うぢいり)なンどいふとも、是(これ)には争(いか)でかまさるべき」とぞ人申しける。又何事よりも福原の経(きやう)の島(しま)ついて、今の世にいたるまで、上下往来(じやうげわうらい)の船のわづらひなきこそ目出(めで)たけれ。彼島(かのしま)は去(さんぬ)る応保(おうほう)元年二月上旬(じやうじゆん)に築(つ)きはじめられたりけるが、同年(おなじきとし)の八月ににはかに大風(おほかぜ)吹き大なみたッてみなゆりうしなひてき。又同(おなじき)三年三月下旬に、阿波民部重能(あはのみんぶしげよし)を奉行(ぶぎやう)にてつかせられけるが、人柱(ひとばしら)たてらるべしなンど公卿御僉議(せんぎ)ありしかども、それは罪業(ざいごふ)なりとて、石(いし)の面(おもて)に一切経(いつさいきやう)を書いてつかれたりけるゆゑにこそ経(きやう)の島(しま)とは名づけたれ。
現代語訳
まさに葬送の夜、ふしぎな事がたくさんあった。玉をみがき金銀をちりばめて作られた西八条殿が、その夜とつぜん焼けた。
人の家の焼けるのは常によくあることだが、驚き呆れたことどもである。
何者のしわざであったのだろう。放火ということだった。またその夜、六波羅の南にあたる場所で、人ならばニ三十人の声がして、「うれしや水、なるは滝の水」という拍子を打ち出して舞いおどり、どっと笑う声がした。
去る正月には、高倉上皇がお亡くなりになって、天下が諒闇となった。わずかに中一両月をへだてて、入道相国がお亡くなりになった。
身分の低い男女までも、どうして嘆き悲しまないことがあろうか。これはどう考えても天狗のしわざという評判で、平家の侍のなかに、血気盛んな若者ども百余人、わらう声についてたずねていってみると、院の御所法住寺殿に、このニ三年も法皇はおわたりにならず、御所留守居役の備前前司基宗(もとむね)という者がある。
その基宗が知っている者たちが、ニ三十人夜にまぎれて集まり来て、酒を飲んだが、はじめはこのような時(清盛が亡くなって静粛にしているべき時)に音を立てるなといって飲んでいるうちに、次第によっぱらってきて、このように舞いおどったのだった。
ばッとおし寄せて、よっぱらいどもを一人ももらさず、三十人ほど逮捕して、六波羅へひっぱって参り、前右大将宗盛卿のいらっしゃる、坪の内へひっすえた。
事の次第をよくよくたずねききなさって、「まったく、それほどに酔っている者どもを、斬るべきではない」といって、皆ゆるされた。
人が亡くなった後は、身分の低い者も、朝夕に鉦を打ちならし、夕方と朝に阿弥陀経と法華懺法をよむ事は常に行うことであるが、この禅門(清盛)が亡くなられた後は、仏に供養したり僧に施しをしたりといった仏事のいとなみという事もない。
朝夕はただいくさ合戦の計略の外はやることがない。
いったい臨終の病気の有様は情けないものだったが、ほんとうには凡人と思われない事どもが多かった。
日吉社へ参詣なさった時も、当家他家の公卿が多くお供して、「摂政関白を出す家柄(摂関家)の臣の春日社ご参詣、宇治入りなどいうとも、これにはどうして勝るだろう」と人は申した。
また何事よりも福原の経の島を築いて、今の世にいたるまで、上下往来の船のわづらいのないのは素晴らしいことであった。
その島は去る応保元年二月上旬に築きはじめられたが、同年の八月、にわかに大風が吹き大波たって皆揺れ動いて失われてしまった。
また同三年三月下旬に、阿波民部(あわのみんぶ)重能(しげよし)を奉行(工事長)として工事をされたが、人柱を立てられるべしなどと公卿らが評定したのだが、それは罪業であるといって、石の面に一切経を書いてお築きになったために、経の島と名付けたのだ。
語句
■やがて まさに。ちょうど。 ■其夜にはかに焼けぬ 「今夜故入道大相国八条坊門第炎上」(百錬抄・養和元年閏二月六日条)。 ■其夜六波羅の南に… 「八日葬礼、車ヲ寄スル間、東方に今様乱舞ノ声(丗人許(ばかり)ノ声)有リ。人ヲ以テ之ヲ見セシムルニ、最勝光院ノ中ニ聞ユ」(百錬抄)。最勝光院は後白河の御所・法住寺の一角に建てられ、承安3年(1173)10月、完成。宇治の平等院を模した華麗な寺院だったが、鎌倉時代に火事で焼けた。現在の京都市立東山泉小・中学校あたり。 ■うれしや水 法会の後に披露した「延年舞」の歌詞。「滝は多かれど、うれしやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも、たうでとうたへ、やれことつとう」(梁塵秘抄・ニ)。 ■いかさまにも どう考えても。 ■はやりをの 血気さかんな。 ■御所あづかり 留守番役。 ■酒に酔ども 酒を飲んで酔っ払った者ども。よっぱらいども。 ■鉦 叩き鉦。 ■例時懺法 決まった時間(夕方と朝)に阿弥陀経と法華懺法を読誦すること。天台宗ではこうして罪障を懺悔する。 ■供仏施僧 仏を供養し、僧に施すこと。 ■最後の所労 臨終の病気。 ■摂禄の臣 摂政関白を出す家柄の臣。 ■宇治入 藤原氏が関白に就任後、はじめて宇治平等院に入る儀式。 ■ついて 「つきて」の音便。築いて。工事して。造営して。 ■上下往来 瀬戸内海を行き来する船の往来のこと。上りは難波方面。下りは西海方面。 ■応保元年 正しくは永暦ニ年(1161)。「今年入道大相国(清盛公)福原輪田ノ泊ニ始テ島ヲ挙ゲテ防ギ固ムル事ヲ得ズ。爰(ここ)ニ一人ヲ埋メテ海神ヲ祭リ、石面ニ一切経書写シテ即チ其石ヲ以テ修メ固ムル事ヲ得。号シテ経ノ島ト曰フ。爾リしよりして上下煩無ク舟既ニ全キ事ヲ得」(帝王編年記)。 ■阿波民部重能 田口重能(成能、成良)。武内宿禰の子孫。平氏に属し、阿波守となる。
……
福原に清盛が開いた貿易港・輪田泊(わだのとまり)…その沖合に人工島を作ったのです。しかし工事がうまくいかない。これは龍神がお怒りであるのだ。ならば人柱を埋めよう。それを聞いた清盛がなに人柱そんなバカな。野蛮なことだぞよくないと、石に経文を書いてしずめ、それを人柱のかわりにしたというエピソードでした。
次回「慈心房(じしんぼう)」に続きます。
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