平家物語 九十一 慈心房(じしんぼう)

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本日は『平家物語』巻第六より「慈心房(じしんぼう)」。

平清盛は比叡山中興の祖・慈恵大師良源(元三大師)の生まれ変わりであった、という話です。

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前回「築島(つきしま)」からのつづきです。
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あらすじ

また清盛公は慈恵僧正の生まれ変わりとも言う人もあった。

その次第はこうである。

慈心房尊恵という長年法華経を所持し書写していた僧がいた。

この慈心房がある晩仏前で法華経を読んでいると、夢のうちに閻魔王宮からの使者が現れ、近く法華経の転読供養をするので参勤せよと言い渡した。

後日また夢の中に使者が現れ、慈心房に参詣をうながす。

袈裟も鉢も無いと思う所にどこからか袈裟があらわれ慈心房の肩にかかり、空から金色の鉢が下りて来る。

慈心房は喜んで迎えの車に乗り、空を駆けて閻魔王宮へ向かう。

閻魔王宮は外壁も内側も広々しており、中には大極殿(メインの宮殿)が建っていた。

法会を終えた慈心房は「後世のことを尋ねよう」と、閻魔大王のおられる大極殿を訪ねた。

閻魔大王は汝は法華経転読の功徳によって弥勒菩薩の浄土に至るだろうと語り、宝蔵から文箱を持ってこさせる。

中の文には慈心房の善行や人々を教化したことがいちいち書かれていた。慈心房は感嘆し、解脱の方法をたずねると、閻魔大王は梵語の経文を唱える。

妻子王位財眷属   死去無一来相親
常隋業鬼繋縛我  受苦叫喚無邊際
(妻子も王位も財産も従者も、死んでしまえば何ひとつ従ってはこない。
ただ生前の罪の鬼だけがつきまとい、身を縛り、どこまでも苦しみ叫ばせる)

慈心房は喜び、平相国清盛の話題を出す。

閻魔大王は、「清盛は只人ではない。慈恵僧正の生まれ変わりだ」と言い、慈心房に文を授けた。

敬禮慈慧大僧正   天台仏法擁護者
示現最初将軍身   悪業衆生同利益

(慈慧大僧正を敬って申し上げます。貴方は天台の仏法の擁護者。
最初は将軍として世に現れ、悪行が恐ろしい結果を招くことを我が身を持って人々に示し、結果人々を良い方向に導いたのです)

その後慈心房は都へ上り、この夢のことを清盛に告げた。
清盛はおおいに喜び、慈心房に褒美を与え、律師にした。

原文

ふるい人の申されけるは、清盛公(きよもりこう)は悪人(あくにん)とこそ思へども、まことは慈恵僧正(じゑそうじやう)の再誕(さいたん)なり。其故(そのゆゑ)は津国清澄寺(つのくにせいちようじ)といふ山寺あり。彼寺(かのてら)の住僧(ぢゆうそう)、慈心房尊恵(じしんばうそんゑ)と申しけるは、本(もと)は叡山(えいざん)の学侶(がくりよ)、多年法花(たねんほつけ)の持(ぢ)者(しや)なり。しかるに道心(だうしん)をおこし離山(りさん )して、此寺に年月をおくりければ、みな人是を帰依(きえ)しけり。去(さんぬ)る承安(しようあん)二年十二月廿二日の夜(よ)、脇息(けふそく)によりかかり、法花経(ほけきやう)よみ奉りけるに、丑剋(うしのこく)ばかり夢ともなくうつつともなく、年五十ばかりなる男の、浄衣(じやうえ)に立烏帽子(たてえぼし)着て、わらンづはばきしたるが、立文(たてぶみ)をもッて来(きた)れり。尊恵(そんゑ)、「あれはいづくよりの人ぞ」と問ひければ、「閻魔王宮(えんまわうぐう)よりの御使(おんつかひ)なり。宣旨(せんじ)候」とて立文を尊恵にわたす。尊恵是(これ)をひらいてみれば、

屈請(くつしやう)、閻浮提大日本国(えんぶだいだいにつぽんこく)、摂津国清澄寺(せつつのくにせいちようじ)の滋心房尊恵(じしんぼうそんゑ)、来(らい)廿六日、閻魔羅城大極殿(えんまらじやうだいこくでん)にして、十万人の持経者(ぢきやうじや)をもって、十万部(ぶ)の法花経(ほけきやう)を転読(てんどく)せらるべきなり。仍(よつ)て参勤(さんぎん)せらるべし。閻王宣(えんわうせん)よッて、屈請如件(くつしやくだんのごとし)。
承安(しようあん)二年十二月廿二日            閻魔(えんま)の庁(ちやう)

とぞ書かれたる。尊恵いなみ申すべき事ならねば、左右(さう)なう領状(りやうじやう)の請文(うけぶみ)を書いて奉るとおぼえてさめにけり。ひとへに死去(しきよ)の思(おもひ)をなして、院主(ゐんじゆ)の光影房(くわうやうぼう)に此事(このこと)をかたる。みな人奇特(きどく)の思(おもひ)をなす。尊恵口には弥陀(みだ)の名号(みやうがう)をとなへ、心には引接(いんぜふ)の悲願(ひぐわん)を念ず。やうやう廿五日の夜陰(やいん)に及ンで、常住(じやうぢゆう)の仏前(ぶつぜん)にいたり、例(れい)のごとく脇息(けふそく)によりかかッて、念仏読経(どくきやう)す。子剋(ねのこく)に及ンで眠切(ねぶりせつ)なるが故に、住房(ぢゆうばう)にかヘッて、うちふす。丑剋(うしのこく)ばかりに、又先のごとくに浄衣装束(じやうえしやうぞく)なる男 二人来(ににんきた)ッて、「はやはや参らるべし」とすすむるあひだ、閻王宣(えんわうせん)を辞(じ)せんとすれば、甚(はなは)だ其恐(そのおそれ)あり、参詣(さんけい)せんとすれば、更(さら)に衣鉢(えはつ)なし。此思(おもひ)をなす時、法衣自然(ほふえじねん)に身にまとッて肩(かた)にかかり、天より金(こがね)の鉢(はち)くだる。二人(ににん)の童子(どうじ)、二人(ににん)の従僧(じゆぞう)、十人の下僧(げそう)、七宝(しつぽう)の大車(だいしや)、寺坊(じぼう)の前に現(げん)ずる。尊恵なのめならず悦(よろこ)ンで、即時(そくじ)に車に乗る。従僧等西北(じゆぞうらさいほく)の方にむかッて、空をかけッて程なく閻魔王宮(えんまわうぐう)にいたりぬ。

現代語訳

古老の人が申されるのは、清盛公は乱暴者とは思うが、ほんとうは慈恵僧正の生まれ変わりであると。

そのわけは、摂津国清澄寺という山寺がある。その寺に住む僧、慈心房尊恵と申す僧は、もとは比叡山の学僧で、多年にわたって法華経を肌身はなさず読誦している者である。

しかし道心をおこして山を離れ、この寺に年月を送ったところ、みな人はこの僧に帰依した。

去る承安ニ年十ニ月二十ニ日の夜、脇息によりかかり、法華経を拝読していたところ、丑の刻ぐらいに夢ともなくうつつともなく、年五十ぐらいの男で、浄衣に立鳥帽子着て、藁沓、脚絆をした人が、立文をもって来た。

尊恵は、「あなたはどこから来た方か」と質問すると、「閻魔王宮からの御使である。宣旨でございます」といって立文を尊恵にわたす。

尊恵がこれをひらいてみれば、

お招きする。人間世界日本国、摂津国清澄寺の慈心房尊恵、きたる二十六日、閻魔城大極殿で、十万人の持経者をもって、十万部の法華経を転読されるはずである。よって参っておつとめされよ。閻魔大王の宣旨によって、このようにお招きする。

承安ニ年十ニ月二十一日 閻魔の庁

と書かれていた。尊恵ことわり申しあげる事もならないので、右も左もなく承知の書状を書いて差し上げると思って目がさめた。

まったく死んでしまったような思いがして、住職の光影房にこのことを語る。人はみな不思議に思った。尊恵は口に阿弥陀仏の名号をとなえ、心には阿弥陀仏が衆生をお救いくださる悲願を念じる。

ようやく二十五日の夜になって、いつも念仏を唱える仏前にいって、いつものように脇息によりかかって、念仏読誦する。

午前0時頃になって、眠気がきついので、住房にかえって、横になる。

午前2時頃に、また先日のように浄衣装束を着た男が二人来て、「はやくはやく参られるがよい」とすすめるので、閻魔王の宣旨を辞退しようとすれば、たいそうそれは恐ろしい。参詣しようとすれば、まったく衣も鉢もない。

こう思った時、法会が自然に身にまとわりついて肩にかかり、天から金の鉢がくだる。

ニ人の童子、ニ人のお伴の僧、十人の下級の僧、七宝で飾り立てた車が、僧坊の前にあらわれる。

尊恵はなみなみならず喜んで、すぐに車に乗る。お伴の僧たちは西北の方へむかって、空を走って程なく閻魔王宮にいたった。

語句

■ふるい人 古老の人。 ■悪人 乱暴者。 ■慈恵僧正 元三大師良源。十八代天台座主。比叡山中興の祖。 ■摂津国清澄寺 清荒神清澄寺。兵庫県宝塚市米谷。 ■慈心房尊恵 「釈慈心、字尊慧、少くして叡山に上り台教を習カクし法華三昧を修す。後、摂の清澄寺に住す」(本朝高僧伝)。 ■法花の持者 法華経を肌見放たず持ち常に読誦する者。 ■承安ニ年 1172。 ■浄衣 白い狩衣。 わらンづ 藁沓(わらぐつ)の転。 ■はばき 脛巾。脚絆。 ■立文 包紙で縦に包んだ文。 ■屈請 まげて請う。貴人を招くこと。 ■閻浮提 南閻浮提。人間世界。 ■来廿六日 来る二十六日。 ■閻魔羅城 閻魔城。閻魔羅は閻魔羅闍(=閻魔王)の略。 ■持経者 法華経を常に持ち読誦する者。 ■転読 通読せず要所要所を読んで通読したことにすること。 ■参勤 参って法事をつとめる。 ■院主 住職。 ■尊恵口には… 以下『冥土蘇生記』とほぼ同文。 ■引接の悲願 仏が衆生を引き取って極楽往生させてやるという悲願。 ■夜陰 夜中。夜の暗い時。 ■衣鉢 えはつ。三種の袈裟と鉢。 ■従僧 身分の高い僧に従う下級の僧。

原文

王宮の体(てい)をみるに、外槨渺々(がいくわくべうべう)として、其内曠々(そのうちくわうくわう)たり。其内に七宝所成(しつぽうしよじやう)の大極殿(だいごくでん)あり。高広金色(かうくわうこんじき)にして、凡夫(ぼんぷ)のほむるところにあらず。其日の法会(ほふゑ)をはッて後(のち)、請僧(しやうぞう)みなかへる時、尊恵南方(そんゑなんばう)の中門(ちゆうもん)に立ッて、はるかに大極殿を見わたせば、冥官冥衆(みやうくわんみやうしゆ)みな、閻魔法王(えんまほふわう)の御前(おんまへ)にかしこまる。尊恵、「ありがたき参詣(さんけい)なり。此次(このついで)に後生(ごしやう)の事尋ね申さん」とて、大極殿へ 参る。其間(そのあひだ)に二人の童子(どうじ)、蓋(かい)をさし、二人の従僧(じゆぞう)、箱をもち、 十人の下僧(げそう)列をひいて、やうやうあゆみちかづく時、閻魔法王、冥官冥衆みなことごとくおりむかふ。多聞(たもん)、持国(ぢこく)二人 の童子(どうじ)に現(げん)じ、薬王菩薩(やくわうぼさつ)、勇施菩薩(ゆぜぼさつ)二人の従僧(じゆぞう)に変(へん)ず。十羅刹女(じふらせつによ)、十人の下僧に現(げん)じて、随逐給仕(ずいちくきふじ)し給へり。閻王(えんわう)問うて宣(のたま)はく、「余(よ)僧(そう)みな帰りさんぬ。御房来(ごぼうきた)る事いかん」。「後生(ごしやう)の在所(ざいしよ)承らん為なり」。「ただし往生不往生は人の信不信(しんぶしん)にあり」と云々(うんぬん)。閻王又冥官(みやうくわん)に勅(ちよく)して宣はく、「此御房の作善(さぜん)の文箱(ふばこ)、南方(なんばう)の宝蔵(ほうざう)にあり。とり出(いだ)して一生の行(ぎやう)、化他(けた)の碑文(ひのもん)みせ奉れ」。冥官承ッて、南方の宝蔵にゆいて、一つの文箱(ふばこ)をとッて参りたり。良蓋(やうやくふた)をひらいて是(これ)をことごとくよみきかす。尊恵悲歎啼泣(ひたんていきふ)して、「ただ願はくは我を哀愍(あいみん)して、出離生死(しゆつりしやうじ)の方法(ほうほふ)ををしへ、証大菩提(しようだいぼだい)の直道(ぢきだう)をしめし給へ」。其時閻王哀愍教化(あいみんけうけ)して、種々(しゆじゆ)の偈(げ)を誦(じゆ)す。冥官(みやうくわん)筆を染めて一々(いちいち)に是を書く 。

妻(さい)子(し)王(わう)位(ゐ)財(ざい)眷(けん)属(ぞく) 死(し)去(こ)無(む)一(いち)来(らい)相(そう)親(しん)
常(じやう)随(ずい)業(ごふ)鬼(き)繋(け)縛(ばく)我(が) 受(じゆ)苦(く)叫(けう)喚(くわん)無(む)辺(へん)際(ざい)

閻王此偈(げ)を誦(じゆ)し終ッて、すなはち彼文(かのもん)を尊恵に付(ふ)属(ぞく)す。尊恵 なのめならず悦(よろこ)ンで、「日本の平大相国(へいだいしやうこく)と申す人、摂津国和多(つのくにわだ)の御崎(みさき)を点(てん)じて、四面十余町に屋をつくり、今日(けふ)の十万僧会(ぞうゑ)のごとく、持経者(ぢきやうじや)をおほく屈請(くつしやう)じて、坊(ぼう)ごとに一面(いちめん)に座(ざ)につき、説法読経丁寧(せつぽふどくきやうていねい)に勤行(ごんぎやう)をいたされ候(そうらふ)」と申しければ、閻王随喜感嘆(えんわうずいきかんたん)して、「件(くだん)の入道はただ人(ひと)にあらず。慈恵僧正(じゑそうじやう)の化身(けしん)なり。天台(てんだい)の仏法護持(ぶつぽふごじ)のために、日本に再誕(さいたん)す。かるがゆゑにわれ毎日に三度(ど)、彼人(かのひと)を礼(らい)する文(もん)あり。すなはち此文をもッて、彼人に奉るべし」とて、

敬礼(きやうらい)滋恵(じゑ)大僧正  天台仏法擁護者(おうごしゃ)
示現(じげん)最初(さいしよ)将軍身(しやうぐんじん)  惡業(あくごふ)衆生(しゆじやう)同(どう)利益(りやく)

尊恵是(そんゑこれ)を給はッて、大極殿の南方の中門をいづる時、官士等(くわんじら)十人門外に立ッて、車に乗せ前後にしたがふ。又空をかけッて帰り来(きた)る。夢の心地(ここち)していき出(い)でにけり。尊恵是をもッて、西八条(にしはちでう)へ参り、入道相国に参らせたりければ、なのめならず悦(よろこ)ンで、やうやうにもてなし、さまざまの引出物共たうで、その勧賞(けんじやう)に律師(りつし)になされけるとぞきこえし。さてこそ、 清盛公をば慈恵(じゑ)僧正の再誕(さいたん)なりと、人知りてンげれ。

現代語訳

王宮のさまをみると、外囲いがはるか遠くまでつづき、その内部は広々している。その中に七宝でできた大極殿がある。高く広く金色で、凡夫がほめようとてほめられるものではない。

その日の法会が終わった後、招かれた僧たちがみな帰る時、尊恵は南方の中門に立って、はるかに大極殿をみわたせば、冥界の役人やその他の者たちがみな、閻魔法王の御前にかしこまる。

尊恵、「めったにない参詣である。このついでに後生の事尋ね申そう」といって、大極殿へ参る。

その間に二人の童子が傘をさし、二人のお伴の僧が箱をもち、十人の下級の僧が列をひいて、しだいに歩み近づく時、閻魔法王は、冥界の役人やその他の者は皆ことごとく御殿から下りて迎えた。

多聞天、持国天が二人の童子の姿であらわれ、薬王菩薩、勇施菩薩が二人のお伴の僧の姿に変わっていた。十羅刹女は十人の下級の僧の姿であらわれて、従いついて世話をなさった。

閻王が質問しておっしゃることに、

「他の僧はみな帰り去った。御坊はなぜ来た」

「後生で私が行く所をうかがいたいからです」

「ただし往生不往生は人の信仰心のあるなしによる」

などと色々話をした。

閻王はまた冥界の役人に勅を下しておっしゃった。

「この御坊がどれだけ善行を積んだかを記した文箱が、南方の宝蔵にある。取り出して一生の行、他人をどれだけ教化したかを記した碑文を見せ申し上げよ」。

冥界の役人が承って、南方の宝蔵に行って、一つの文箱をとって参った。少しずつ蓋をひらいてこれをすべて読み聞かせる。

尊恵は悲しみ嘆き泣いて、「ただ願います。私を哀れんで、迷いに満ちた娑婆世界を逃れる方法を教え、悟りを得られる最短の道をお示しください」。

その時、閻王は哀れみを下して、さまざまな偈を口ずさんだ。冥界の役人は筆を染めて一々にこれを書いた。

妻子王位財眷属 死去無一来相親
常随業鬼繋縛我 受苦叫喚無辺際

(妻子・王位・財産・一族…

死んでしまえばそんなものは一切無に帰し、相親しむことはない。

常につきまとう罪業の鬼が、我を縛り付けて束縛する。

苦しみを受け、無限に叫びわめくのだ)

閻王はこの偈を口ずさみ終わって、すぐにその文を尊恵に授与する。尊恵はなみなみならず喜んで、

「日本の平大相国と申す人が、摂津国和多の岬を選び定めて、四面十町に家屋をつくり、今日の盛大な法会のように、持経者を多く招いて、僧坊ごとに一面に座について、説法読経など、丁寧にお勤めをいたされてございます」

と申したところ、閻王は大いに喜び感心して、

「あの入道はただ人ではない。慈恵僧正の化身である。天台の仏法護持のために、日本に生まれ変わったのだ。だから私は毎日三度、その人を礼賛する文言がある。そこでこの文言をその人に差し上げるがよい」といって、

敬礼(きやうらい)滋恵(じゑ)大僧正  天台仏法擁護者(おうごしゃ)
示現(じげん)最初(さいしよ)将軍身(しやうぐんじん)  惡業(あくごふ)衆生(しゆじやう)同(どう)利益(りやく)

(慈恵大僧正に敬礼する。かの僧は天台の仏法を守護する者である。最初は将軍の姿でこの世にあらわれ、悪行を積み重ねることによって、かえって衆生に悪行の悪さを理解させ、救いに導く、結果として善行を説くと同じ利益を衆生にもたらすのである)

尊恵がこれを授けられて、大極殿の南方の中門を出る時、冥界の兵士十人が門外に立って、車に乗せ前後にしたがう。

また空を飛んで帰って来た。夢のような心地がして生き返った。尊恵はこれをもって西八条に参り、入道相国に差し上げたところ、なみなみならず喜んで、その勧賞に律師になされたときこえた。

こうして、清盛公を慈恵僧正の生まれ変わりであると、人は知ったのであった。

語句

■外槨渺々 外囲いがはるか遠くまで続いている。 ■七宝所成 七宝でできている。 ■凡夫のほむるところにあらず 凡夫にはほめようとしてもほめられないほど素晴らしい。 ■請僧 招待された僧。 ■冥官冥衆 冥途の役人とその他の者ども。 ■蓋 傘。 ■多聞(毘沙門天)、持国 多聞天と持国天。それぞれ四天王の一。 ■十羅刹女 十名の鬼女。 ■随逐給仕 付き従って世話をすること。 ■作善の文箱 生前どれだけの善行をつんだかを記した文箱。 ■化他の碑文 けたのひのもん。どれだけ他人を教化したかを記した碑文。 ■良 ようやく。少しずつ。 ■出離生死 迷いの多い娑婆世界を脱すること。 ■証大菩提 悟りを保証すること。 ■直道 まわり道しないまっすぐな道。最短距離の道。 ■偈 仏教の教理を韻文で記したもの。 ■誦す 口ずさむ。 ■付属す 授与する。与える。 ■和田の御崎 輪田の岬。神戸市兵庫区。 ■点じて 選び定めて。 ■十万僧会 多数の僧をあつめて法会を開くこと。 ■官士 閻魔庁の兵士。

……

慈心坊尊恵という僧が、閻魔大王の王宮にまねかれて、仏事に参加したと。その際に、平相国、平清盛の話が出て、閻魔大王がいうことに、あの方はいにしえの慈恵僧正の生まれ変わりであると。人間世界にもどった尊恵がこの話を西八条の平清盛に伝えると、清盛はたいへん喜び褒美を与え、尊恵を律師にしたという話でした。

慈恵僧正こと良源(919-985)は平安時代中期の比叡山の高僧で、比叡山中興の祖です。正月三日に亡くなったことから「元三大師(がんざんだいし)」ともいいます。また、おみくじの創始者としても有名です。

魔除けの御札「降魔札(ごうまふだ)」は、元三大師が疫病を退治したときの姿を描いたお札です。江戸時代以降、家々の入り口に貼られました。

朗読・解説:左大臣光永

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