平家物語 九十ニ 祇園女御(ぎをんにようご)

本日は『平家物語』巻第六より「祇園女御(ぎおんにょうご)」です。

前半が清盛の出生にまつわる話、中盤が五条大納言藤原邦綱の逸話、後半が尾張川を隔てて源平が戦った「洲俣(すのまた)合戦」についてです。

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前回「慈心房(じしんぼう)」からのつづきです。
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あらすじ

平清盛は白河院のご落胤

ある人が語るところでは、清盛は忠盛の実子ではなく、白河院の子だというこということだ。

白河院は東山祇園の社の傍に住む「祇園の女御」という女房を寵愛していた。

ある五月雨の降る晩、白河院がお忍びで祇園の女御の元に出かけると、お堂の脇から鬼のような異形のものが現れる。

白河院は忠盛を呼んで討ち取るよう命じるが、忠盛は「鬼ではなく、狐狸のたぐいだろう」と、生け捕りにすることにする。

取り押さえて見ると、灯明をともす雑用の僧だった。お灯明をともすため、手瓶に油を入れて持ち、片手に土器に火を入れて持ち、雨にぬれないため藁をかぶっていた。土器の火に雨に濡れた藁が反射して、異様な姿に見えたのだ。

もしこれを斬っていたらたいそう心ないことであったと、白河院は忠盛の慎重さに感心し、褒美に祇園の女御をとらせた。

白河院は「女子が生まれれば朕の子に、男子が生まれれば忠盛の子として育てよ」と言いおいた。すぐに男子が生まれた。

白河院が熊野参詣の途上、休憩されたとき、忠盛は歌に託して男子が生まれたことを告げる。

「いもが子は 這ふほどにこそ なりにけれ」

白河院は下の句を継ぎ、忠盛の子とすべき意思を伝える。

「ただもり取りて やしなひにせよ」

その後、この若君の夜泣きがひどいことを伝え聞いた白河院は、「夜泣きすと ただもりたてよ 末の世に 清く盛ふる こともこそあれ」という歌を送り、この歌にちなんで「清盛」と名づけられた。

昔も天智天皇の女御がはらんだ時、「生まれた子が女子ならば朕の子にする。男子ならばお前の子にせよ」といって中臣鎌足におっしゃったところ、男子が生まれたので鎌足はこれをわが子とした。多武峰の開祖、定恵和尚がこれである。

昔もこのような例があったので、末代も清盛公は白河院の子であったのだろう。

このような尊い出生なればこそ、都移しのような天下の大事を思い立ったのかもしれない。

五條大納言藤原邦綱卿の逸話

同年(治承五年)閏二月二十日、五條大納言藤原邦綱卿が亡くなった。平大相国と友情の厚かった人である。

この大納言は堤中納言兼輔の八代の子孫で、前右馬助盛国の子である。

近衛院が御在位の時、内裏に火事があった。その時、天皇は紫宸殿にあったが近衛府の役人は一人も参上しない。

そこへこの大納言が腰輿をかついで参上して天皇をお乗せして脱出させた。

天皇は感心して、当時身分のない雑色にすぎなかったこの邦綱を、当時の関白殿下、法性寺殿(藤原忠通)に召しつかわせた。

同じ天皇の御代、石清水八幡宮へ行幸なさった時、舞人の長が酒に酔って衣を濡らし、御神楽を奏するのが遅れたことがあった。

この時、この邦綱が名乗り出て、舞人の長の装束を一揃い取り出して、着て、かわりに御神楽を奏した。見事な歌声であった。

三、邦綱の祖先、如無僧都の逸話
この邦綱の先祖に、山陰中納言という人がいた。その子に如無僧都といって智慧才覚にすぐれ、戒律を正しく守っている人がいた。

宇多法皇が大井川へ御幸された時、泉の大将定国という人が、烏帽子を風で吹き飛ばされてしまい、困っていた。

その時、如無僧都がとっさに袈裟箱の中から、烏帽子を一つ取り出して差し上げたということである。

この如無僧都は、父の山陰中納言が大宰第弐となって九州に下った時、継母に憎まれて海に沈められて殺されかけた。

しかし、僧都の実母が生前、鵜飼が鵜の餌にしようと思って亀を殺そうとした時、亀のかわりに小袖を差し出して亀を助けたことがあったので、亀がその恩返しに、この若君を甲羅にのせて助けたのだった。

さらに邦綱卿の逸話

この邦綱は法性寺殿が関白のとき中納言になり、法性寺殿が亡くなった後は清盛にますます接近した。

清盛は邦綱の子の一人を養子にして清邦と名乗らせ、四男の頭中将重衡を邦綱の婿にした。

中宮(建礼門院)の福原の御方で五節の節会が行われた時、ある殿上人が「竹湘浦に斑なり」という朗詠をした。、

このとき邦綱は「聞かなかったことにしよう」と立ち去った。

件の朗詠が、五節にはふさわしくない不吉な内容だったためである。

邦綱は詩歌にすぐれているわけではなかったが、賢明な人物で、そうしたことまで聞きとがめたのである。

邦綱は大納言にまでなれるとは思わなかったが、母上が賀茂大明神に参詣し、「一日でも結構ですから、わが子邦綱を蔵人頭にしてください」と祈った。

すると夢にお告げがあり、蔵人頭はもちろん、正二位大納言にまで昇進したのはめでたいことだった。

後白河法皇の法住寺殿御幸

同年(治承五年)二月二十ニ日、後白河法皇はニ、三年ぶりに院の御所法住寺殿に御幸になる。

前右大将宗盛が、御所の壊れたところを修理してからお迎え申し上げる旨を奏上すると、法皇は「なんの用意もいらないから早く」といって御幸され、亡き妻・建春門院の思い出にひたるのだった。

左少弁行隆、東大寺大仏殿の造営奉行となる

三月一日、奈良の僧綱(役職つきの僧)らが本官に復して、末寺や荘園ももとのとおり所有できる旨を仰せくだされた。

三日、大仏殿の再建がはじまる。その建造の事始めの奉行には左少弁行隆が命じられた。

この行隆は先年石清水八幡宮に参詣した時、夢にお告げを受けて「大仏殿の奉行をする時にこれを持て」といって笏を授けられた。

なんの必要があって大仏殿の奉行をすることがあろうと不思議に思っていたが、平家の悪行によって奈良が焼けたので、この行隆が大仏殿建造の奉行にえらばれたのは、宿縁のふかいことであった。

洲俣合戦

同年三月十日、美濃の代官が、「源氏がすでに尾張国まで攻め上ってきた」と知らせてきたので、すぐさま討手をつかわした。

大将軍には左兵衛督知盛・左中将清経・小松少将有盛がなり三万余騎で出発した。

源氏方は大将軍に十郎蔵人行家、頼朝の弟、卿公義円が六千余騎で、尾張川をはさんで源平両方が向かい合った。

十七日午前四時から矢合わせして、夜が明けてしまうまで戦ったが、平家方の圧勝であった。

大将軍行家はなんとか生き延び、尾張川の東へ逃げ延びたが、義円は戦死した。平家はすぐに川をわたって追撃した。

源氏方の大将軍行家は矢矧川の橋をはずし、掻楯を立てて平家方を待ち受けたが、すぐに平家方が押し寄せてきて、そこをも破られた。

そのまま平家方が追撃していたら三河・遠江の勢は従いついていたはずだが、大将軍左兵衛督知盛が病気のため、三河から帰京したため、たいした戦果を上げることができなかった。

平家は一昨年重盛がなくなり、今年は清盛が亡くなり、運命の末になったことは目に見えていた。そのため長年恩顧を受けた者以外は誰も平家に従わなかった。

原文

又ある人の申しけるは、清盛は忠盛が子にはあらず、まことには白河院(しらかはのゐん)の皇子(わうじ)なり。その故(ゆゑ)は、去(さんぬ)る永久(えいきう)の比(ころ)ほひ、祇園女御(ぎをんにようご)と聞えしさいはひ人(じん)おはしける。件(くだん)の女房の住ひ所は、東山の麓(ふもと)、祇園のほとりにてぞありける。

白河院常は御幸(ごかう)なりけり。ある時殿上人一両人、北面(ほくめん)少々召し具して、しのびの御幸ありしに、比(ころ)は五月(さつき)廿日あまりのまだよひの事なれば、目さすとも知らぬ闇(やみ)ではあり、五月雨(さみだれ)さへかきくらし、まことにいぶせかりけるに、件の女房の宿所ちかく御堂(みだう)あり、御堂のかたはらにひかりものいできたり。頭(かしら)はしろかねの針(はり)をみがきたてたるやうにきらめき、左右(さう)の手とおぼしきをさしあげたるが、片手には槌(つち)のやうなるものをもち、片手にはひかるものをぞもッたりける。君も臣も、「あなおそろし。是はまことの鬼とおぼゆる。手にもてる物はきこゆる打出(うちで)の小槌(こづち)なるべし。いかがせん」とさわがせおはしますところに、忠盛其比(そのころ)はいまだ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)で供奉(ぐぶ)したりけるを召して、「此中(このなか)にはなんぢぞあるらん。あのもの射(い)もころし、きりもとどめなんや」と仰せければ、忠盛かしこまり承って、ゆきむかふ。内々(ないない)思ひけるは、「此ものさしもたけき物とは見ず。狐狸(きつねたぬき)なンどにてぞあるらん。是を射もころし、きりもころしたらんは、無下(むげ)に念(ねん)なかるべし。いけどりにせん」と思ッて あゆみ寄る。とばかりあッてはさッとひかり、とばかりあッてはさッとひかり、二三度しけるを、忠盛はしり寄ッて、むずとくむ。くまれて、「こはいかに」とさわぐ。変化(へんげ)のものにてはなかりけり。はや人にてぞありける。其時上下手々(そのときじやうげてんで)に火をともいて是(これ)を御覧じ見給ふに、六十ばかりの法師なり。 たとへば御堂(みだう)の承仕法師(じようじほふし)でありけるが、御(み)あかし参らせんとて、手瓶(てがめ)という物に油(あぶら)を入れてもち、片手には土器(かはらけ)に火を入れてぞもッたりける。雨は沃(い)に沃(い)てふる。ぬれじとて、頭(かしら)には小麦(こむぎ)の藁(わら)を笠(かさ)のやうにひきむすうでかづいたり。土器の火に、小麦の薬かかやいて、銀(しろがね)の針(はり)のやうには見えけるなり。 事の 体(てい)一々にあらはれぬ。「これを射(い)もころし、きりもころしたらんは、いかに念なからん。忠盛がふるまひやうこそ思慮(しりよ)ふかけれ。弓矢とる身はやさしかりけり」とて、その勧賞(けんじやう)に、さしも御最愛(ごさいあい)ときこえし祇園女御(ぎをんにようご)を、忠盛にこそたうだりけれ。

「さてかの女房、院(ゐん)の御子をはらみ奉りしかば、「うめらん子、女子(によし)ならば朕(ちん)が子にせん。男子(なんし)ならば忠盛が子にして、弓矢とる身にしたてよ」と仰せけるに、すなはち男(なん)をうめり。 此事奏聞(このことそうもん)せんとうかがひけれども、しかるべき便宜(べんぎ)もなかりけるに、ある時白河院、熊野(くまの)へ御幸(ごかう)なりけるが、紀伊国(きのくに)いとが坂(ざか)といふ所に、御與(おんこし)かきすゑさせしばらく御休息(きうそく)ありけり。藪(やぶ)にぬか子(ご)のいくらもありけるを、忠盛袖(そで)にもりいれて御前(ごぜん)へ参り、

いもが子ははふ程にこそなりにけれ

と申したりければ、院やがて御心得あッて、

ただもりとりてやしなひにせよ

とぞつけさせましましける。それよりしてこそ我子(わがこ)とはもてなしけれ。此若君あまりに夜泣(よなき)をし給ひければ、院きこしめされて、一首の御詠(ごえい)をあそばしてくだされけり。

夜泣(よなき)すとただもりたてよ末の代にきよくさかふることもこそあれ

さてこそ清盛(きよもり)とはなのられけれ。十二の蔵兵衛佐(としひやうゑのすけ)になる。十八の歳四品(とししほん)して四位の兵衛佐と申ししを、子細存知(ぞんぢ)せね人は、「花族(くわしよく)の人こそかうは」と申せば、鳥羽院(とばのゐん)しろしめされて、「清盛が花族(くわしよく)は人におとらじな」とぞ仰せける。
昔も天智天皇(てんちてんわう)はらみ給へる女御(にようご)を、大織冠(だいしよくくわん)に給ふとて、「此女御のうめらん子、女子(によし)ならば朕(ちん)が子にせん。男子(なんし)ならば臣(しん)が子にせよ」と仰せけるに、すなはち男をうみ給へり。 多武峰(たふのみね)の本願(ほんぐわん)、定恵和尚是(ぢやうゑくわしやうこれ)なり。上代にもかかるためしありければ、末代にも平太相国(へいたいしやうこく)、まことに白河院の御子にておは しければにや、さばかりの天下の大事、都うつりなンどいふたやすからぬ事ども思ひたたれけるにこそ。

現代語訳

またある人が申したのは、清盛公は忠盛の子ではない、ほんとうは白河院の皇子であると。

なぜなら、去る永久年間(1113-18)、祇園女御とよばれ院の寵愛を受けていた人がいらした。

その女房の住んでいた所は、東山の麓、祇園のほとりであった。白河院は常に御幸された。ある時殿上人一両人、北面少々召し連れて、しのびの御幸があった時、ころは五月二十日あまりのまだ宵の事であったので、目を刺してもわからないほどの闇であり、その上五月雨までもあたりを暗くしており、ほんとうに鬱陶しかったのだが、例の女房の宿所ちかくに御堂があり、御堂のかたわらに光るものが出てきた。

頭は銀の針を磨き立てたようにきらめき、左右の手とおぼしきを上げているが、片手には槌のようなものを持ち、片手には光るものを持っていた。

君も臣も、「ああ恐ろしい。これは本当の鬼と思われる。手に持っている物は話にきく打出の小槌にちがいない。どうしよう」

と騒がれているところに、忠盛はその頃はいまだ下北面(六位の北面)でお共していたのを召して、

「この中ではお前がよいだろう。あの者を射殺すか、斬り留めるか、してくれまいか」

と仰せになったので、忠盛はかしこまり承って、行き向かう。

内々思ったのは、「このものは、それほど凶暴な物とは見えない。狐か狸などであろう。これを射殺したり、斬り殺したりするのは、ひどく考えの浅いことだ」と思って歩みよる。

しばらくたってはさッと光り、しばらくたってはさッと光り、ニ三度してから、忠盛はしり寄って、むずと組む。

組まれて、「これはどうしたことか」とさわぐ。

変化のものではなかった。実は人であった。その時上下に手に手に火をともしてこれを御覧になられると、六十ばかりの法師であった。

詳しくいえば、御堂の雑用にあたる法師であったが、お灯明を差し上げようといって、手瓶という物に油を入れてもち、片手には土器(かはらけ。素焼きの陶器)に火を入れて持っていた。

雨は降りに降る。ぬけまいと、頭には小麦の藁を笠のように結んでかぶっていた。土器の火に、小麦の藁がかがやいて、銀の針のように見えたのだった。

事の真相が一つ一つあらわれた。「これを射殺したり、斬り殺したりしたなら、どんなに情けなかったろう。忠盛のふるまいの考え深いことよ。弓矢とる者は思慮深いものだ」といって、その勧賞に、あれほどご最愛ときこえた祇園女御を、忠盛に与えられた。

さてその女房、院の御子をはらみ申し上げたので、「生まれてくる子が女子ならば朕の子にしよう。男子ならば忠盛の子にして弓矢とる身にそだてよ」と仰せになっていたところ、すぐに男子を生んだ。

この事を奏聞しようとうかがったが、これといったきっかけもないでいると、ある時白河院が熊野へ御幸されたが、紀伊国糸鹿坂(いとがざか)という所に、御輿を据えさせてしばらくご休息された。

藪にぬか子がいくらもあったのを、忠盛袖にもりいれて御前に参り、

いもが子は…

(芋の子は這うほどになりました=祇園女御から生まれた子は這うほどになりました)

と申したところ、院はすぐに御心得あって、

ただもりとりて…

(ただつみ取って養いの糧にせよ=忠盛が養子にせよ)゜

とおつけになられた。それ以来、わが子として扱ったのだ。この若君があまりに夜泣きをなさるので、院がお聞きになって、一首の御詠をお詠みになって下された。

夜泣すと…

(夜泣きをするといっても、ただ守り育てよ。後々清く盛えることがきっとあるあら)

それで清盛と名乗られたのだ。十ニの歳、兵衛佐になる。十八の歳四品になって四位の兵衛佐と申したのを、細かい事情を知らない人は、「名門出の人こそこのように出世もするだろうが…」と申せば、鳥羽院はお聞きになって、「清盛の家柄は、誰にも劣らないだろう」と仰せになった。

昔も天智天皇が、ご懐妊された女房を、大職冠(藤原鎌足)にお与えになるといって、

「この女御から生まれてくる子、女子ならば朕の子にしよう。男子ならば臣の子にせよ」

と仰せになったところ、すぐに男をお生みになった。多武峰の本願、定恵和尚(じょうえおしょう)がこれである。

ほんとうに白河院の御子でいらっしゃるからこそ、あれほどの天下の大事、都うつりなどいう容易ではない事どもを思い立たれたのだろう。

語句

■永久 鳥羽天皇の御代。1113-18年。 ■祇園女御 賀茂社神主賀茂重助の娘に、祇園女御、賀茂女御の姉妹があり白河院に仕えた。妹が院に召されて懐妊して、その子が忠盛に下された(これが清盛)。その後、母が亡くなったので祇園女御が猶子として養育したと(『賀茂神主補任史』)。 ■さいはひ人 院に寵愛されていた人。 ■北面 北面の武士。白河院のとき創設された院の親衛部隊。四位・五位を上北面、六位を下北面という。後鳥羽上皇のときさらに西面の武士が創設された。 ■目さすとも知らぬ 目を刺してもわからない。慣用表現。 ■かきくらし あたりを暗くする。 ■いぶせし 鬱陶しい。 ■打手の小槌 振るとなんでも出てくる小槌。昔話「一寸法師」で有名。『宝物集』には、「人の宝には打出の小槌と伝物こそ能宝にて侍けれ。広き野に出て居能らん家や、面白からん妻男や、遣い能からん従者、馬牛食物衣物なんど心に任て打出して能侍べけれ」。『宝物集』は鎌倉時代の仏教説話集。平康頼が嵯峨の釈迦堂(清凉寺)に参詣して、いろいろな人からきいた説話をまとめた、という体裁をとる。 ■北面の下臈。 下北面。六位の北面。 ■無下に まったく。 ■念なかるべし 考えがないだろう。 ■とばかりあッては しばらくたっては。 ■承仕法師 雑用をつとめる僧。 ■御あかし お灯明。 ■手瓶 取っ手のある瓶。 ■土器 かはらけ。素焼きの陶器。 ■沃に沃てふる 注ぎに注いで降る。 ■ひきむすうで 「ひきむすびて」の音便。 ■やさそかりけり 殊勝である。 ■生めらん子 生むであろう子。 ■便宜 ついで。 ■いとが坂 糸鹿。和歌山県有田市の南の山。 ■ぬかご むかご。零余子。山芋の珠芽。 ■もりとりて もぎとってと引き取っての意を掛ける。 ■夜泣きすと 夜泣きするといっても。 ■さてこそ それで。 ■十二の歳兵衛佐 大治四年(1129)佐兵衛佐、保延元年(1135)従四位下(公卿補任)。 ■花族 大臣大将を出す家柄。名門。 ■清盛が花族 清盛の家柄。花族を広義にとる。 ■昔も天智天皇… 『大鏡』『今昔物語集』などに見える逸話。 ■大織冠 中臣鎌足。 ■多武峰 奈良県多武峰の妙楽寺。鎌足の遺骨をおさめる。 ■本願 寺院建立を祈願する者。 ■定恵和尚 藤原不比等の兄。 

原文

同閏(おなじきうるう)二月廿日(はつかのひ)、五条大納言邦綱卿(ごでうのだいなごんくにつなのきやう)うせ給ひぬ。平太相国とさしも契(ちぎり)ふかう、心ざしあさからざりし人なり。せめてのちぎりのふかさにや、同日(どうにち)に病(やまひ)ついて、同月(おなじつき)にぞうせられける。

此大納言と申すは、兼輔(かねすけ)の中納言より八代の末葉(ばつえふ)、前右馬助盛国(さきのうますけもりくに)が子なり。蔵人にだにならず、進士雑色(しんじのざふしき)とて候(さうら)はれしが、近衛院(このゑのゐん)御在位の時、仁平(にんぺい)の比(ころ)ほひ、内裏(だいり)に俄(にはか)に焼亡(ぜうまう)出できたり。主上南殿(なんでん)に出(しゆつ)御(ぎよ)ありしかども、近衛司(こんゑづかさ)一人も参ぜられず。あきれてたたせおはしましたるところに、此邦綱、腰輿(えうよ)をかかせて参り、「か様(やう)の時はかかる御輿(こし)にこそ召され候へ」と奏(そう)しければ、主上是に召して出御あり。「何者ぞ」と 御尋ねありければ、「進士(しんじ)の雑色(ざふしき)、藤原邦綱(ふじはらのくにつな)」となのり申す。 「かかるさかざかしき者こそあれ。召しつかはるべし」と、 其(その)時(とき)の殿下(てんが)、法性寺殿(ほつしやうじどの)へ仰(おほ)せ合(あは)せられければ、御領(ごりやう)あまたたびなンどして、召しつかはれける程に、同じ御門(みかど)の御代に、八幡(やはた)へ行幸(ぎやうがう)ありしに、人長(にんぢやう)が酒に酔(ゑ)ひて、水に倒れ入り、装束(しやうぞく)をぬらし御神楽(みかぐら)遅々(ちち)したりけるに、此邦綱、「神妙(しんべう)にこそ候はねども、人長が装束はもたせて候」とて、一具(いちぐ)とりいだされたりければ、是を着て御神楽(みかぐら)ととのへ奏しけり。程こそすこしおしうつりたりけれども、歌のこゑもすみのぼり、舞(まひ)の袖(そで)、拍子(ひやうし)にあうておもしろかりけり。物の身にしみて面白(おもしろ)き事は、神(かみ)も人も同じ心なり。むかし天(あま)の岩戸(いわと)をおしひらかれけん、神代(かみよ)のことわざまでも、今こそおぼしめし知られけれ。

現代語訳

同年(治承五年)閏二月二十日、五条大納言邦綱卿が亡くなられた。平大相国とたいそう契ふかく、心ざしの深い人である。たいそう契が深いからだろうか、同じ日に病について、同じ月に亡くなられた。

この大納言と申すのは、兼輔の中納言(藤原兼輔)より八代の末裔、前右馬助盛国の子である。

蔵人にさえならず、文章生かつ蔵人所の雑色として仕えておられたが、近衛院御在位の時、仁平年間、内裏にとつぜん火事があった。

天皇は紫宸殿にご出御されていたが、近衛府の役人は一人も参上なさらない。呆然としてお立ちになっていらしたところに、この邦綱が、手輿をかつがせて参り、

「このような時はこうした御輿をお召になってください」と奏上したところ、天皇はこれにお召しになって出御された。

「何者ぞ」と御尋ねになると、「進士の雑色、藤原邦綱」となのり申しあげる。

「このような気のきく者があったのだな。召しつかうのがよい」

と、その時の関白、法性寺殿(藤原忠通)に仰せあわせられたので、御領(土地)をたくさん与えなどして、召しつかわれているうちに、同じ天皇(近衛天皇)の御代に、八幡(石清水八幡宮)に行幸あったとき、神楽の舞人の長が酒に酔って、水に倒れ入り、装束をぬらし御神楽が遅々としてはじまらなかった時、この邦綱が、

「立派ではございませんが、舞人の長の装束はもたせてございます」といって、一そろい取り出されたので、これを着て御神楽の用意を整え奏上した。

時間はすこし遅れてしまったが、歌の声も澄んで空にひびきわたり、舞の袖も、拍子にあっておもしろかった。

物の身にしみて面白い事は、神も人も同じ心である。むかし天の岩戸をおしひらかれた、神代の出来事までも、今こそ思い当られれたのだった。

語句

■同閏二月廿日 『玉葉』などには二月二十三日とある。 ■せめてのちぎりのふかさにや たいそう契が深かかったからだろうか。 ■兼輔中納言 藤原兼輔。鴨川近くに堤を築いたため堤中納言とよばれた。「みかのはら分きて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ」(小倉百人一首27番)。紫式部の曾祖父。 ■進士雑色 文章生で、蔵人所の雑色をつとめる者。 ■仁平 1151-1154年。 ■近衛司 近衛府の役人。 ■腰輿 手輿。腰のあたりで手で持つ。 ■さかざかしき 非常に賢い。 ■殿下 摂政・関白の敬称。 ■法性寺殿 藤原忠通。保元の乱の勝利者。 ■人長 神楽を奏する楽人の長。 ■神妙 立派。 ■天の岩戸 天照大神が天の岩戸に閉じこもった時、アメノウズメが舞って、天照大神を引き出すのに一役はたした、神話上の出来事。 ■ことわざ 故事。出来事。 

原文

やがて此邦綱の先祖(せんぞ)に、山陰中納言(やまかげのちゆうなごん)といふ人おはしき。其子に如無僧都(じよむそうず)とて、智恵才学(ちゑさいかく)身にあまり、浄行持律(じやうぎやうぢりつ)の僧(そう)おはしけり。昌泰(しやうたい)の比(ころ)ほひ、寛平法皇(くわんぺいほふわう)、大井河へ御幸ありしに、勧修寺(くわんじゆじ)の内大臣高藤公(たかふじこう)の御子、泉(いづみ)の大将定国(だいしょうさだくに)、小倉山(をぐらやま)の嵐(あらし)に烏帽子(えぼし)を河へ吹き入れられ、袖(そで)にてもとどりをおさへ、せんかたなくてたッたりけるに、此如無(このじょむ)僧都、三衣箱(さんえばこ)の中より、烏帽子一つとり出(いだ)されたりけるとかや。かの僧都は、父山陰中納言、太宰大弐(だざいのだいに)になって、鎮西(ちんぜい)へくだられける時、二歳なりしを、継母(けいぼ)にくんで、あからさまにいだくやうにして、海におとし入れころさんとしけるを、死ににけるまことの母存生(ぞんじやう)の時、桂(かつら)の鵜飼(うかひ)が鵜(う)の餌(ゑ)にせんとて、亀(かめ)をとッてころさんとしけるを、着給へる小袖(こそで)をぬぎ、亀にかへはなされたりしが、其(その)恩(おん)を報(ほう)ぜんと、此きみおとし入れける水のうへに、うかれ来(き)て、甲(かふ)に乗せてぞたすけたりける。それは上代の事なれば、いかがありけん、末代(まつだい)に邦綱卿の高名(かうみやう)、ありがたかりし事共なり。法性寺殿(ほつしやうじどの)の御世(みよ)に、中納言になる。法性寺殿かくれさせ給ひて後、入道相国、存ずる旨(むね)ありとて、此人にかたらひ寄り給へり。大福長者にておはしければ、何にてもかならず、毎日に一種を入道相国のもとへおくられけり。「現世(げんぜ)の得意(とくい)この人に過ぐべからず」とて、子息一人養子(やうじ)にして、清邦(きよくに)となのらせ、又入道相国の四男、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)はかの大納言の聟(むこ)になる。治承四年の五節(ごせつ)は、福原にておこなはれけるに、殿上人、中宮の御方へ推参(すいさん)あッしが、或雲客(あるうんかく)の、「竹湘浦(たけしやうほ)に斑(まだら)なり」といふ、朗詠(らうえい)をせられたりければ、此大納言立聞(たちぎき)して、「あなあさまし、是(これ)は禁忌(きんき)なりとこそ承れ。かかる事きくともきかじ」とて、ぬきあししてにげ出でられぬ。たとへば此朗詠(らうえい)の心は、むかし堯(げう)の御門(みかど)に二人の姫宮(ひめみや)ましましき。姉をば娥皇(がくわう)といひ、妹をば女英(ぢよえい)といふ。ともに舜(しゆん)の御門(みかど)の后(きさき)なり。舜の御門かくれ給ひて、彼蒼枯(かのさうご)の野辺(のべ)へおくり奉り、煙(けぶり)となし奉る時、二人の后、名残(なごり)を惜しみ奉り、湘浦(しやうほ)という所までしたひつつ泣きかなしみ給ひしに、その涙、岸(きし)の竹にかかってまだらにぞそみたりける。其後(そののち)も常は彼所(かのところ)におはして、瑟(しつ)をひいてなぐさみ給へり。今かの所をみるなれば、岸の竹は斑にてたてり。琴(こと)を調べし跡には、雲たなびいて物あはれなる心を、橘相公(きつしやうこう)の賦(ふ)に作れるなり。此大納言はさせる文才(ぶんさい)、詩歌(しいか)うるはしうはおはせざりしかども、かかるさかざかしき人にて、かやうの事までも聞きとがめられけるにこそ。此人(このひと)大納言までは思(おもひ)もよらざりしを、母うへ賀茂大明神(かものだいみょうじん)に歩(あゆみ)をはこび、「ねがはくは我子の邦綱(くにつな)、一日でもさぶらへ、蔵人頭経(くらんどのとうへ)させ給へ」と百日肝胆(かんたん)をくだいて祈り申されけるが、ある夜の夢に檳榔(びりやう)の車をゐて来て、我家(わがいえ)の車寄(くるまよせ)にたつといふ夢をみて、是(これ)人にかたり給へば、「それは公卿の北(きた)の方(かた)にならせ給ふべきにこそ」とあはせたりければ、「我年すでに蘭(た)けたり。今更さやうのふるまひあるべしともおぼえず」と宣(のたま)ひけるが、御子の邦綱、蔵人頭(くらんどのとう)は事もよろし、正二位(しょうにい)大納言にあがり給ふこそ目(め)出(で)たけれ。

現代語訳

実はこの邦綱の先祖に、山陰中納言という人がいらした。その子に如無僧都(じょむそうず)といって、智慧才学身にあまり、行いを清浄にして戒律を守る僧がいらした。

昌泰の頃(898-90)、宇多法皇が、大井川に御幸された時、勧修寺の内大臣高藤公の御子、泉の大将定国が、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹き入れられ、袖でもとどりをおさえ、どうしてもなくて立っていたところ、この如無僧都が、袈裟を入れる三衣箱(さんえばこ)の中から、烏帽子を一つ取りだれたとかいうことだ。

かの僧都は、父山陰中納言が大宰大弐になって鎮西へ下られる時、二歳であったのを、継母がこれを憎んで、ほんの少しの間抱くようにして、海におとし入れて殺そうとしたのを、死んだほんとうの母が生きていた時、桂川の鵜飼が鵜の餌にしようといって、亀をとって殺そうとしたのを、お召しになっていた小袖を脱ぎ、亀にかえて放たれなさったのだか、その恩を返そうと、この君を落とし入れた水の上に、浮かんできて、甲羅にのせて助けたのだった。

それは上代の事なので、どうだったかわからないが、末代に邦綱卿の高名は、めったにない事どもである。

法性寺殿(藤原忠通)の御代に、中納言になる。法性寺殿がお亡くなりになって後、入道相国、存ずるところがあるといって、この人に語らい寄りなさった。

大金持ちでいらしたので、何があってもかならず、毎日に一品を入道相国のもとに送られた。

「現世の友人はこの人に過ぎる人はない」といって、子息一人を養子にて、清邦となのらせ、また入道相国の四男、頭中将重衡はかの大納言の婿になる。

治承四年の五節は、福原で行われたが、殿上人が、中宮(建礼門院)の御方へうかがったが、ある殿上人が、「竹湘浦に斑なり」という朗詠をされたので、この大納言は立聞きして、

「なんとあきれたこと。これは禁忌とうかがっているのに。このような事は聞いても聞かないことにしておこう」

といって、抜き足で逃げ出された。

詳しくこの朗詠の意味を説明すると、むかし堯帝に二人の姫宮がいらした。姉を娥皇(がこう)といい、妹を女英(じょえい)という。

ともに舜帝の后である。舜帝がお亡くなりになって、あの蒼梧の野辺に送り申し上げ、煙となし申し上げる時、二人の后は、名残を惜しみ申し上げ、湘浦という所までしたいつつ泣きか悲しまれると、その涙が、岸の竹にかかってまだらに染まった。

その後もいつもその所にいらして、瑟をひいてお心を慰まれた。今その所をみると、岸の竹はまだらで立っている。

瑟をしらべた跡には、雲がたなびいて物あわれであるという気持ちを、橘広相公が賦に作ったのである。

この大納言はそれほど文才があったり詩歌を上手にお作りになるということではなかったが、このような賢い人であって、このような事までも聞きとがめられたのだ。

この人(邦綱)は大納言までなるとは思いもよらなかったのを、母上が賀茂大明神に足をはこび、「ねがはくはわが子の邦綱を、一日だけでも蔵人頭になさってください」と百日心をつくして祈り申されたところ、ある夜の夢に檳榔毛の車を引いてきて、わが家の車寄せに立てるという夢をみて、これを人に語られると、「それは貴女が公卿の北の方におなりになるということでしょう」と夢を判定したのだが、「私はもう年寄りだ。いまさらそのようなふるまいがあるとも思えない」とおっしゃったが、御子の邦綱が、蔵人頭はおろか、正二位大納言まで出世なさったのは素晴らしいことであった。

語句

■やがて 実は。 ■山陰中納言 藤原山蔭。藤原魚名の子孫。清和・陽成朝で仕えた。民部卿、中納言。仁和四年(888)没。四条流庖丁式(日本料理の流派)の創始者として知られる。ただし山蔭は邦綱の先祖ではない。京都市左京区吉田山の山蔭神社に祀られる。 ■如無僧都 以下の逸話は『今昔物語集』十九、『十訓抄』『宝物集』などに見える。 ■浄行持律 行いは清浄で、戒律を守ること。 ■昌泰 醍醐天皇の御代、898-901年。菅原道真が左遷されたことが有名。 ■寛平法皇 宇多法皇。寛平(889-98)は宇多天皇の御代の元号。 ■大井川 大堰川。京都の西を流れる。 ■勧修寺の内大臣高藤公 藤原冬嗣の孫。勧修寺家の祖。 ■定国 藤原貞国。右近大将、大納言。 ■小倉山 大堰川東岸の山。現在、二尊院と常寂光寺があるあたり。 ■三衣箱 袈裟を入れる箱。 ■あからさまに ついちょっと。ほんのしばらく。 ■桂 京都市西京区。桂川に沿った地域。桂離宮がある。 ■法性寺殿の御代に… 邦綱が実際に中納言になったのは、仁安三年(1168)忠通の子、基房が高倉天皇の摂政であった時。 ■一種 一品。 ■得意 親しい人。 ■清邦 清国。五条大納言邦綱の子。清盛の養子。 ■五節 十一月の下旬に四日間宮中で行われる節会。 ■竹湘浦に斑なり 『和漢朗詠集』下「雲」にある「愁賦」の一節。湘浦は湖南省の湘水沿岸。 ■堯の帝に… 舜は実父に憎まれて何度も殺されそうになったが、それでも父を敬った。その評判をきいて堯帝は舜の人柄をみるために二人の娘、娥皇と女英を降嫁させた。二人は舜の影響をうけて人柄がよくなった。それでも父親は舜を殺そうとし続けたが、堯は舜を登用し、ついに禅譲したとされる。 ■娥皇 『列女伝』のほか『続古事談』六にも出ている。 ■蒼梧 「舜、蒼梧ノ野ニ葬ル」(礼記・壇弓篇)。広西省梧州市という。■瑟 中国古代の弦楽器。 ■琴を調べし跡には… 正しくは瑟。 ■橘相公 参議橘広相。菅原道真と同時代の学者。 ■賦 漢韻文の形式のひとつ。 ■肝胆をくだいて 心をつくして。 ■檳榔の車 牛車の形式。檳榔毛で車箱をおおったもの。貴人の乗り物。 ■事もよろし 問題でもなく。

原文

同(おなじき)廿二日、法皇(ほふわう)は院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ御幸なる。かの御所は去(さんぬ)る応保(おうほう)元年四月十三日につくり出(いだ)されて、新比叡(いまびゑ)、新熊野(いまくまの)なンどもまぢかう勧請(くわんじやう)し奉り、山水木立(せんずいこだち)にいたるまで、 おぼしめすままなりしが、此二三年は平家の悪行によって、 御幸もならず、御所の破壊(はゑ)したるを修理(しゆり)して、御幸なし奉るべきよし、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりきやう)、奏せられたりければ、「なんのやうもあるべからず。ただとうとう」とて御幸なる。まづ故(こ) 建春門院(けんしゆんもんいん)の御方(おんかた)を御覧ずれば、岸の松、汀(みぎわ)の柳(やなぎ)年へにけりとおぼえて、木だかくなれるにつけても、太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)、未央(びやう)の柳、これにむかふに、いかんが涙(なんだ)すすまざらん。彼南内西宮(かのなんだいせいきゆう)のむかしの跡、今こそおぼしめし知られけれ。

三月一日(ひとひのひ)、南都の僧綱等(そうがうら)、本官(ほんぐわん)に覆(ふく)して、末寺庄園(まつじしやうゑん)もとの如く知行(ちぎやう)すべきよし仰せ下さる。同三日(おなじきみつかのひ)、大仏殿作りはじめらる。事始(ことはじめ)の奉行(ぶぎやう)には蔵人左少弁行隆(くらンどのさせうべんゆきたか)とぞきこえし。此行隆、先年八幡(やはた)へ参り、通夜(つや)せられたりける夢に、御宝殿(ごほうでん)の内より、びんづら結(ゆ)うたる天童(てんどう)のいでて、「是(これ)は大菩薩の使(つかひ)なり。大仏殿奉行の時は、是をもつべし」とて、笏(しやく)を給はるといふ夢をみて、さめて後(のち)み給へば、うつつにありけり。
「あなふしぎ、当時何事あってか、大仏殿奉行に参るべき」とて、懐中(くわいちゆう)して宿所(しゆくしよ)へ帰り、ふかうをさめておかれたりけるが、平家の悪行によッて、南都炎上(えんしやう)の間、此行(ゆき)隆(たか)、弁(べん)のなかにえらばれて、事始(ことはじめ)の奉行に参られける、宿縁(しゆくえん)の程(ほど)こそ目(め)出(で)たけれ。

同(おなじき)三月十日(とをかのひ)、美濃目代(みののもくだい)都へ早馬をもッて申しけるは、「東国の源氏ども、すでに尾張国までせめのまり、道をふさぎ人をとほさぬ」よし申したりければ、やがて打手(うつて)をさしつかはす。大将軍(たいしやうぐん)には左兵衛督知盛(さひやうゑのかみとももり)、左中将清経(ひだんのちゆうじやうきよつね)、小松少将有盛(こまつのせうしやうありもり)、都合其勢(そのせい)三万余騎で発向(はつかう)す。入道相国うせ給ひて後、わづかに五旬(しゆん)をだにも過ぎざるに、さこそ乱れたる世といひながら、あさましかりし事どもなり。源氏の方には大将軍十郎蔵人行家(じふらうくらんどゆきいへ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)のおとと卿公義円(きやうのきみぎゑん)、都合其勢六千余騎、尾張川(をはりがは)をなかにへだてて源平両方(りやうばう)に陣をとる。

同(おなじき)十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千余騎、河をわたいて平家三万余騎が中へをめいてかけ入り、明くれば十七日寅(とら)の剋(こく)より矢合(やあはせ)して、夜の明くるまでたたかふに、平家のかたにはちッともさわがず、「敵(てき)は川をわたいたれば、馬、物具(もののぐ)もみなぬれたるぞ。それをしるしでうてや」とて、大勢(おほぜい)のなかにとりこめて、「あますな、もらすな」とてせめ給へば、源氏の勢のこりずくなに打ちなされ、大将軍行家からき命いきて川よりひンがしへひきしりぞく。卿公義円はふか入りしてうたれにけり。平家やがて川をわたいて源氏を追物射(おものい)に射てゆく。源氏あそこここでかへしあはせかへしあはせふせぎけれども、敵(てき)は大勢、みかたは無勢(ぶぜい)なり。かなふべしともみえざりけり。「水駅(すいえき)をうしろにする事なかれとこそいふに、今度の源氏のはかりことおろかなり」とぞ人申しける。

さる程に大将軍十郎蔵人行家、三河国(みかわのくに)にうちこえて、矢作河(やはぎがは)の橋をひき、かいだてかいて待ちかけたり。平家やがて押し寄せせめ給へば、こらへずしてそこをも又せめおとされぬ。平家やがてつづいてせめ給はば、三河、遠江(とほたふみ)の勢は随ひつくベかりしに、大将軍左兵衛督知盛、いたはりあッて三河国より帰りのぼらる。今度もわづかに一陣を破るといへども、残党(ざんたう)をせめねば、しいだしたる事なきが如し。平家は去々年(きよきよねん)、 小松のおとど薨(こう)ぜられぬ。今年(こんねん)又入道相国うせ給ひぬ。運(うん)命(めい)の末になる事あらはなりしかば、年来恩顧(ねんらいおんこ)の輩(ともがら)の外(ほか)は、随(したが)ひ
つく者なかりけり。東国には草も木もみな源氏にぞなびきける。

現代語訳

同月(治承五年閏二月)二十ニ日、法皇は院の御所法住寺殿へ御幸される。

この御所は去る応保元年(1161年)四月十三日につくり出されて、新比叡(いまびえ)、新熊野(いまぐまの)などもまぢかに勧請し申し上げて、築山、池、木立にいたるまで、思われるままであったが、このニ三年は平家の悪行によって御幸もならず、御所があ荒れすさんでいたのを修理して、御幸をお迎え申し上げることを、前右大将宗盛卿が奏上されたので、

「なんの準備も必要ない。ただ早く早く」

といって御幸なさる。まず故建春門院のいらした御方を御覧になると、岸の松、汀の柳は年が経ったと実感させられ、木が高くなっているにつけても、(長恨歌にある)太液の蓮の葉、未央宮(びおうきゅう)の柳、これに向かっていると、(楊貴妃のことが思い出され)どうして涙がすすまないことがあろう。(長恨歌にある)あの南苑・西宮で玄宗皇帝が嘆いたというむかしの事が、今こそ思い当たられたのだった。

三月一日、南都の役職付きの僧たちをもとの役にもどして、末寺庄園をもとのように知行せよと仰せくだされた。同月三日、大仏殿の工事を始められた。

事始の奉行には蔵人左少弁行隆(ゆきたか)と噂された。この行隆は、先年、八幡(石清水八幡宮)へ参り、一晩中宮ごもりされた時の夢に、御宝殿の内から、角髪(みずら)を結った天童が出てきて、

「これは大菩薩の使いである。大仏殿奉行の時は、これをもつがよい」

といって笏をいただくという夢を見て、さめて後ごらんになると、ほんとうに笏があった。

「ああ不思議だ、今何の必要があって、大仏殿の奉行に参ることがあるのか」

といって、懐の中にしまって宿所に帰り、深くしまっておかれたが、平家の悪行によって、南都が炎上したので、この行隆が、弁官の中からえらばれて、事始の奉行に参られた。

前世からの定められた縁の深さはすばらしいものである。

同年(治承五年)三月十日、美濃国の目代が都へ早馬をもって申したのは、

「東国の源氏どもが、すでに尾張国までせめのぼり、道をふさぎ人を通さない」ことを申したので、すぐに討手をさしつかわす。

大将軍には左兵衛督知盛(とももり)、左中将(ひだんのちゅうじょう)清経(きよつね)、小松少将(こまつのしょうしょう)有盛(ありもり)、総勢三万余騎で出発する。

入道相国が亡くなって後、わずかに五旬(五十日)すら過ぎていないのに、いくら乱れた世といっても、あきれた事どもである。

源氏の方には大将軍十郎蔵人行家(ゆきいえ)、兵衛佐(頼朝)の弟、卿君(きょうのきみ)義円、総勢六千余騎、尾張川をなかにへだてて源平両方に陣をとる。

同月(三月)十六日の夜半ごろ、源氏の勢六千余騎、河をわたって平家三万余騎の中におめいてかけ入り、明ければ十七日寅の刻(午前4時)から矢合わせして、夜が明けるまで戦うに、平家の方は少しもさわがず、

「敵は川をわたったので、馬、鎧もみなぬれているぞ。それを目印に討てや」

といってお攻めになると、源氏の勢残り少なく打ち崩され、大将軍行家はなんとか生き延びて川から東へひきしりぞく。

卿公義円はふか入りして討たれた。平家はすぐに川をわたって源氏を騎射の競技のように射てゆく。

源氏はあちこちで返し合わせ返し合わせ防いだが、敵は大勢、みかたは無勢である。

かなうとも見えなかった。「水沢をうしろにしてはいけないというのに、今度の源氏の計略はおろかだ」と人は申した。

そのうちに大将軍十郎蔵人行家は、三河国にうちこえて、矢作川の橋をはずして、かいだてを組み立てて待ちかけた。

平家はすぐに押し寄せお攻めになると、もちこたえられずにそこをも又攻め落とされた。

平家がすぐにつづいてお攻めになったなら、三河、遠江の勢は従いついたであろうに、大将軍左兵衛督知盛が、病にかかって三河国より帰りのぼられた。

今度もわずかに源氏の第一陣を破ったといっても、残存勢力を攻めないので、たいした成果もないに等しい。

平家は一昨年、小松のおとど(重盛)が亡くなった。今年また入道相国が亡くなった。

運命の末になった事がはっきりしてきたので、長年恩を受け目をかけられてきた人々のほかは、平家に従いつく者はなかった。

東国では草も木もみな源氏になびいた。

語句

■同廿ニ日 正しくは二十五日(玉葉)。 ■応保元年 1161年。正しくは永暦ニ年。九月四日に応保と改元。 ■今比叡 新日吉社。新日吉神宮。京都市東山区妙法院前側町。永暦元年(1160)後白河法皇の勧請。 ■新熊野 京都市東山区今熊野椥ノ森町。永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請した神社。 ■山水 庭の築山と池。 ■太液の芙蓉 長安の王宮にあった池。『長恨歌』による。「帰リ来レバ池苑皆旧ニ依ル、太液ノ芙蓉、未央ノ柳、芙蓉は面ノ如ク柳ハ眉の如シ」。芙蓉は蓮、未央は宮殿の名。 ■南内西宮 正しくは南苑西宮。南苑も西宮も宮殿の名。 ■行隆 藤原行隆。「行隆之沙汰」にくわしい。 ■弁のなかに 弁官の中から。弁官は太政官(だいじようかん)に属する官名。左右にわかれ、それぞれ大・中・少がある。太政官内の庶務を行う。 ■目代 代官。国司にかわって直接任地で統治にあたる者。 ■有盛 維盛の弟。 ■五旬 五十日。旬は十日。 ■卿君義円 源義朝の子。母は常磐。義経の実兄。頼朝の義弟。 ■尾張川 木曾川の古名。 ■同十六日 『吾妻鏡』『玉葉』によると、三月十日。 ■追物射に 追物射は馬に乗って獣を射る競技。そのように敵を射た、ということ。馳せ弓。騎射。 ■水駅 =水沢?「兵法ニ山陵ヲ右ニシ倍(そむ)キ、水沢ヲ前ニシテ左ニスト。今将軍等ヲシテ返リテ水に背キテ陣セシム」(史記・淮陰侯伝)。 ■矢作河 愛知県岡崎市の西を流れ知多湾に注ぐ川。 ■かいて 組み立てて。 ■いたはりあって 病気になって。 ■一陣 敵の第一陣。 ■しいだしたる事 しでかした事。成果。 ■恩顧の輩 恩を受け、目をかけられている者ども。

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朗読・解説:左大臣光永